霧島東神社は、霧島山を信仰の対象とする山岳信仰の神社としての第10代崇神天皇(前97-前30)の御代に創建されたと伝えられています。
天暦年間(947-957)には、天台宗の僧の性空上人が4年間霧島山に入峰修行し、高千穂峰の周囲6ヶ所に鎮座する其々の神社の傍らに寺院(別当寺)を建立。霧島山を中心とした霧島六社権現(霧島東神社・霧島神宮・狭野神社・東霧島神社・霧島岑神社・夷守神社)の一社として神仏習合の霧島修験の霊場として開山され、霧島修験道の根本道場として信仰されました。
・霧島東神社(東御在所之宮・錫杖院)
・霧島神宮(西御在所之宮・華林寺)
・狭野神社(狭野権現社・神徳院)
・東霧島神社(東霧島権現社・勅詔院)
・霧島岑神社(中央権現社・瀬多尾寺)
・夷守神社(夷守権現社・宝光院) ※現在は夷守神社として霧島岑神社に合祀。
以来、西御在所之宮と称された霧島神宮に対し、東御在所之宮と称され、崇敬を集めます。別当寺として千手観世音菩薩を本尊とする東光坊花林寺錫杖院を有し、最盛期には360名を越す山伏行者が、山内に宿坊を営みつつ、社寺の護持に勤めたとされています。
度重なる霧島山の噴火に社寺造営を重ねますが、文明18年(1486)の造営の際、島津忠昌が霧島東神社(東御在所之宮)・霧島神宮(西御在所之宮)の東西両社を再興。圓政法院を中興として天台宗より真言宗へと改められました。以来、24世の別当職が続き、南九州最大の修験道根本道場として尊崇を極めました。
明治元年(1868)の神佛判然令、及び明治5年(1872)の修験道廃止令により錫杖院は廃され、寺領は没収されます。神社名も霧島東神社と改称されますが、昭和9年(1934)、県社に昇格しました。神意佛心を崇める修行の霊場として、御祭神の祭祀は本より、龍神信仰、天狗信仰、権現信仰を守り継いでいます。
高千穂峰の山頂を飛び地境内としており、高千穂峰の山頂に從える天之逆鉾は、伊弉諾尊と伊弉冉尊が国生みし給う時の鉾を、逆さに立てられた故事に由来するもので、社宝として祀られています。
権現造の社殿は享保12年(1722)の造営より、幾度かの改修を経て現在に至るものです。殿内奥に雄雌一対の龍柱が祀られ、向拝には寛文6年(1666)、薩摩藩・島津光久寄進の「東霧島坐」の扁額が懸かっています。改修を重ね現在に至っており、昭和52年(1982)、平成9年に改修されてています。
例大祭の秋季大祭は、11月8日に宵宮祭,翌9日の例大祭の2日に渡って斎行されます。20時から斎行される宵宮祭では、神楽奉仕員が左右から白刃を翳す中、拝殿前の石段を参進して昇殿します。拝殿においては二本の祓い串と二振りの白刃が交差する下を潜り、禊を受ける霧島東神社天来の修祓の儀として知られています。
平成22年3月11日に「高原の神舞」として国重要無形文化財に指定された祓川神楽は、毎年、12月第2土曜日の19時頃から、翌朝7時頃まで祓川神楽殿で、33番を夜を徹して舞い納められています。霧島東神社の社家の年中行事の一つとして、祓川の集落に伝えられ400年ほど前にはすでに行われていたと考えられています。正徳5年(1715)奥書の神哥本の一部が残存しており、真剣、、錫杖、鉾、長刀を執り、神哥本にも修験道にも由来する語句がみられ、その古さがうかがえます。
大鳥居を通り、すぐ右手は天狗堂と神龍泉です。天狗堂は霧島山大津坊を祀っています。神龍泉と称される忍穂井は、霧島九頭龍王を祀っています。龍神の安息池にして 太古より霊泉として効験あらたかとされていますが、東方よりこの池に女人の影が映ると忽ち異変があると伝へられています。
参道を進み、手水舎を過ぎると祓戸大神を祀る祓所。そしてその向かいに性空上人の開山碑が並びます。2本の御神木を前にした神門を過ぎると左手に、霧島六社権現の中で唯一、猿田彦尊を祀る社です。向かって右に櫛石窓尊、左に豊石窓尊を祀る門守社が参道両脇に鎮座し、社殿へと至ります。社殿の両脇には、向かって右手に火闌降尊と左側に火明尊を祀る脇社が鎮座。社殿向かって左手は登拝修行道の入口です。また、鳥居前の駐車場北側には不動明王を祀るのと共に霧島山大権現東光坊錫杖院の別当先賢の祖霊社でもある法栄殿があり、4月29日には春季大祭として別当先賢慰霊祭が執り行れています。