串間神社の創建は不承ですが、往古より彦火々出見尊の行宮址と伝えられ、主祭神として彦火々出見尊を祀っています。配祀神として12柱の神々を祀ることから、古くは十三所大明神と称されました。
主祭神の彦火々出見尊は、神話「海幸彦と山幸彦」での山幸彦として知られています。
古伝によると山幸彦(彦火々出見尊)は、四方に山が連なり、狩猟の場としての条件に優れる当地に、笠峡宮から狩り場として通ったとされています。その地に建てた仮宮所を穂槵宮と称したとされ、後に宮跡を斎き祀ったのが当社とされています。「櫛(串・槵)」は、瓊々杵尊が降臨した境を限るという意で、山幸彦の狩り場である広い村里を櫛間と称し、櫛間の中央に穂槵宮があったとされています。又、穂槵の北西に「狩集」という字名が残っており、狩りの行幸があるとの勅が出た際、身分に関係なく弓、箭、鉾、鎗等の得物を手にして集まる行幸出馬奉侍の跡とされ、狩場の名残を示しているとされています。
貞享4年(1687)の『高鍋藩寺社帳』に依れば、詳細は消失しているものの、元は桓武天皇(781-806)の時に平安京の朱雀院に鎮座し、順徳天皇(1210-1221)の時に当地に安置したとも伝えられています。
往古は、社田72町余、畑66ケ所等の社領を有していたとされ、正平14年(1359)野辺盛房が社殿を再興。福島の総社として厚く尊崇されます。応仁元年(1467)島津氏第10代当主・島津立久の造営修理に始まり、延徳4年(1492)、永正12年(1515)、天文13年(1544)と相次いで島津氏により再興されたことが記録にあり当時からの興隆が伺えます。又、当社と別にあった近隣の12社が、乱世により廃絶・衰微したため、当社の配祀神として祀るようになります。永禄6年(1563)に領主の豊州家第5代当主・島津忠親の奏請により、吉田家により正一位の宣下を受け、神階宣下勅額「十三所大明神」を賜っていることから、それ以前に祀られるようになったと考えられています。
天正15年(1587)転封された秋月種長が高鍋藩に入り、秋月氏が藩主となってからは五穀豊穣の祈願所、福島の総社となります。元和7年(1621)の秋月種春による造営修理に始まり、慶応2年(1866)に至るまで7回の造営修理があり、寛文2年(1662)藩主秋月氏より神領15石、延宝2年(1674)神饌料田1反1畝15歩が寄進されました。
明治維新後は専ら福島、北方、大束、本城、都井、市木の六ヶ町村の氏神として、護持運営されます。明治5年(1872)都城県の神社改革の際、十三所大明神から串間神社に改称し、郷社に列格。併せて近隣の8社、女躰大明神[屋治]、十一大明神[池ノ上]、稲荷大明神[摂社より]、泊柱大明神[今町]、八幡[金谷]、天神[下弓田]、福島大明神[金谷]、鵜土大権現[上町]を合祀しました。尚、本祭神に祀られている神号と同じ社は、後年、再興されていたものを合祀したものになります。現在、女躰大明神と十一大明神は、復社しています。
明治40年(1907)福島、北方、大束、本城、都井、市木の六ヶ町村の出資により社殿が改築。同年2月9日に神饌幣帛料供進神社に指定されました。平成元年(1989)10月に改築。本殿は流造の10坪。拝殿は入母屋造の29坪。境内は3506坪。狩猟の神、農業の神、安産の神、学問の神、商工の神として、多くの崇敬を受けています。
【境内社など】
「末社」
社殿後方に鎮座。配祀神の13柱のうち11柱の石祠が並んでいます。彦火々出見尊と后神の豊玉姫命を祀る石祠は、同じく仮宮跡の伝承地とされる伝えられる勿体森に祀られています。当社と別にあった近隣の12社が、乱世により廃絶・衰微したため、当社の配祀神として祀るようになったと考えられています。永禄6年(1563)に吉田家により神階宣下勅額「十三所大明神」を賜っていることから、それ以前に祀られるようになったと考えられています。安産の神、学問の神、商工の神などの御神徳があるとされています。
- 女躰大明神[御祭神:豊玉姫命]
- 神花大明神[御祭神:不承]
- 初熊大明神[御祭神:不承]
- 泊柱大明神[御祭神:猿田彦命・速秋津姫命]
- 勿体大明神[御祭神:不承]
- 聖大明神[御祭神:天香語山命]
- 児之御前[御祭神:不承]
- 歳大明神[御祭神:倉稲魂命]
- 篠大明神[御祭神:不承]
- 上津杖大明神[御祭神:不承]
- 下津杖大明神[御祭神:不承]
- 杖立大明神[御祭神:不承]
「十一所神社」
境内北西の線路を渡ってすぐに鎮座。明治5年(1872)都城県の神社改革の際、串間神社に合祀されましたが、現在は複社し祭儀が斎行されています。串間神社の御祭神である彦火々出見尊(山幸彦)に供奉した神々の神霊を祀っているとされています。尚、『日向地誌』では素戔嗚命が御祭神としています。
「門守社(矢大臣社)」
御祭神として豊磐間戸命と櫛磐間戸命を祀っています。境内の守護の神とされています。
「大将軍社」
境内の東南隅に鎮座。磐長姫命、倉稲魂命、罔象女神を祀っています。
【神事・祭事】
ねたろう祭
毎年2月20日に斎行される春の大祭は、その年の五穀豊穣を祈るお祭りで祈年祭といいます。本社で祈年祭を行った後、猿田彦神や獅子を先導に先導された神輿が北方内を巡幸します。最初に、豊玉姫命を祀る屋治地区の女躰神社に向かいます。女躰神社に着くと、境内の一隅に祀られている太郎若宮大明神という享保8年(1723)、及び安永5年(1776)作の2つの石祠前で神事が行われます。石祠に立てかけた木鉾に白紙を着せ重ねたものを豊玉姫命の依代として祀り、それを神職が持って御幸行列に加わります。巡幸からして帰ると、串間神社では社殿から宮司が彦火々出見尊の木鉾に白紙を着せた依代を持って出迎え、女躰神社からお連れした豊玉姫命の依代を持つ神職とが互いに振り合って出会う儀式があり、共に拝殿に納めて一夜を過ごされることになります。
神事は五穀豊穣を祈願する「ねたろう祭」と称され、串間神社の御祭神の山幸彦(彦火々出見尊)が年に1度、この神事の時だけ豊玉姫命に会いに行き、神話での豊玉姫命の出産の物語(子宝)にあやかる神事とされています。「ねたろう」との名称の由来は、諸説あります。
- 豊玉姫命が一年間休養するため。
- 覗かれた豊玉姫命が寝たきりになったため。
- 一緒に「寝たろう」との俗語が元で、太郎若宮大明神の「太郎」に結びつけられた。
その後、境内では黒い木製の牛と馬鍬を出して、田を作り、土をならし、神職が三宝から籾種を蒔きます。そして宮司と神職が牛を誉める歌を
- 右の角の外にきゅっとそったるは如何に
- 悪魔災難を除く角にて候
といった風に問答して、春祭りの種蒔きの神事が斎行されます。
御狩神事
現在は行われていませんが、近世まで御祭神の山幸彦(彦火々出見尊)に因む御狩神事が斎行されていました。鳥獣の豊富な串間を御狩場とした山幸彦(彦火々出見尊)が、土地の人たちを招集し、数日を楽しく過ごされたという故事に則り行われる神事でした。各村には受け持ちの山々に加久良(狩倉)の定めがあり、「御酒迎」(境迎え)の酒と称し、狩りから無事帰ってくるのを祝って集まるものでした。神官は武具を持って勿体森に行き規定の祭典をあげ、直来には松尾部落からは餅を、天神部落からは豆腐の田楽に酒を添えて持参することになっていました。毎年12月13日から翌年正月の初の酉、丑、辰、申の日、5日に行われていましたが、その後、初の丑、卯の2日のみに行うことに変更されたと伝えられています。