九州の神社

宮崎県・串間神社(串間市)

由緒

主祭神しゅさいじん 彦火々出見尊ひこほほでみのみこと山幸彦やまさちひこ
配祀神はいしがみ十二末社じゅうにまっしゃ女躰大明神にょたいだいみょうじん御祭神ごさいじん豊玉姫命とよたまひめのみこと]、神花大明神かんばなだいみょうじん初熊大明神はつくまだいみょうじん泊柱大明神とまりはしらだいみょうじん御祭神ごさいじん猿田彦命さるたひこのみこと速秋津姫命はやあきつひめのみこと]、勿体大明神もったいだいみょうじん聖大明神ひじりだいみょうじん御祭神ごさいじん天香語山命あめのかごやまのみこと]、児之御前ごのごぜん歳大明神としだいみょうじん御祭神ごさいじん倉稲魂命うかのみたまのみこと]、篠大明神しのだいみょうじん上津杖大明神かみつつえだいみょうじん下津杖大明神しもつつえだいみょうじん杖立大明神つえたてだいみょうじん

由緒

串間神社くしまじんじゃの創建は不承ですが、往古より彦火々出見尊ひこほほでみのみこと行宮址かりみやあとと伝えられ、主祭神しゅさいじんとして彦火々出見尊ひこほほでみのみことを祀っています。配祀神はいしがみとして12柱の神々を祀ることから、古くは十三所大明神じゅうさんしょだいみょうじんと称されました。

主祭神しゅさいじん彦火々出見尊ひこほほでみのみことは、神話「海幸彦うみさちひこ山幸彦やまさちひこ」での山幸彦やまさちひことして知られています。

古伝こでんによると山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)は、四方に山が連なり、狩猟の場としての条件に優れる当地に、笠峡宮かささのみやから狩り場として通ったとされています。その地に建てた仮宮所かりみやどころ穂槵宮ほぐしのみやと称したとされ、後に宮跡みやあといつき祀ったのが当社とされています。「くし(串・くし)」は、瓊々杵尊ににぎのみことが降臨したさかいを限るという意で、山幸彦やまさちひこの狩り場である広い村里を櫛間くしまと称し、櫛間くしまの中央に穂槵宮ほぐしのみやがあったとされています。又、穂槵ほぐしの北西に「狩集かりあつめ」という字名あざなめいが残っており、狩りの行幸ぎょうこうがあるとのちょくが出た際、身分に関係なく弓、、鉾、鎗等の得物えものを手にして集まる行幸出馬奉侍ぎょうこうしゅつばほうじの跡とされ、狩場の名残を示しているとされています。

貞享じょうきょう4年(1687)の『高鍋藩たかなべはん寺社帳じしゃちょう』に依れば、詳細は消失しているものの、元は桓武天皇かんむてんのう(781-806)の時に平安京へいあんきょう朱雀院すざくいん鎮座ちんざし、順徳天皇じゅんとくてんのう(1210-1221)の時に当地に安置したとも伝えられています。

往古は、社田しゃでん72町余、畑66ケ所等の社領しゃりょうを有していたとされ、正平しょうへい14年(1359)野辺盛房のべもりふさ社殿しゃでんを再興。福島の総社そうじゃとして厚く尊崇されます。応仁おうにん元年(1467)島津氏しまづし第10代当主・島津立久しまづたつひさの造営修理に始まり、延徳えんとく4年(1492)、永正えいしょう12年(1515)、天文てんぶん13年(1544)と相次いで島津氏しまづしにより再興されたことが記録にあり当時からの興隆が伺えます。又、当社と別にあった近隣の12社が、乱世により廃絶・衰微したため、当社の配祀神はいしがみとして祀るようになります。永禄えいろく6年(1563)に領主の豊州家ほうしゅうけ第5代当主・島津忠親しまづただちか奏請そうせいにより、吉田家により正一位しょういちい宣下せんげを受け、神階しんかい宣下せんげ勅額ちょくがく十三所大明神じゅうさんしょだいみょうじん」を賜っていることから、それ以前に祀られるようになったと考えられています。

天正てんしょう15年(1587)転封てんぽうされた秋月種長あきづきたねなが高鍋藩たかなべはんに入り、秋月氏あきづきしが藩主となってからは五穀豊穣の祈願所きがんしょ、福島の総社そうじゃとなります。元和げんな7年(1621)の秋月種春あきづきたねはるによる造営修理に始まり、慶応けいおう2年(1866)に至るまで7回の造営修理があり、寛文かんぶん2年(1662)藩主秋月氏あきづきしより神領しんりょう15石、延宝えんぽう2年(1674)神饌料田しんせんりょうでん1反1畝15歩が寄進されました。

明治維新後は専ら福島、北方きたかた大束おおつか本城ほんじょう都井とい市木いちきの六ヶ町村の氏神うじがみとして、護持ごじ運営されます。明治5年(1872)都城県みやこのじょうけんの神社改革の際、十三所大明神じゅうさんしょだいみょうじんから串間神社くしまじんじゃに改称し、郷社ごうしゃに列格。併せて近隣の8社、女躰大明神にょたいだいみょうじん屋治やじ]、十一大明神じゅういちだいみょうじん池ノ上いけのうえ]、稲荷大明神[摂社せっしゃより]、泊柱大明神とまりはしらだいみょうじん今町いままち]、八幡はちまん金谷かなや]、天神てんじん下弓田しもゆみた]、福島大明神ふくしまだいみょうじん金谷かなや]、鵜土大権現うどだいごんげん上町かみまち]を合祀ごうししました。尚、本祭神に祀られている神号しんごうと同じやしろは、後年、再興されていたものを合祀ごうししたものになります。現在、女躰大明神にょたいだいみょうじん十一大明神じゅういちだいみょうじんは、復社ふくしゃしています。

明治40年(1907)福島、北方きたかた大束おおつか本城ほんじょう都井とい市木いちきの六ヶ町村の出資により社殿しゃでんが改築。同年2月9日に神饌しんせん幣帛料へいはくりょう供進神社きょうしんじんじゃに指定されました。平成元年(1989)10月に改築。本殿ほんでん流造ながれづくりの10坪。拝殿はいでん入母屋造いりもやづくりの29坪。境内は3506坪。狩猟の神、農業の神、安産の神、学問の神、商工の神として、多くの崇敬を受けています。


境内社けいだいしゃなど】

末社まっしゃ

社殿しゃでん後方に鎮座ちんざ配祀神はいしがみの13柱のうち11柱の石祠いしほこらが並んでいます。彦火々出見尊ひこほほでみのみこと后神きさきがみ豊玉姫命とよたまひめのみことを祀る石祠いしほこらは、同じく仮宮跡かりみやあとの伝承地とされる伝えられる勿体森もったいもりに祀られています。当社と別にあった近隣の12社が、乱世により廃絶・衰微したため、当社の配祀神はいしがみとして祀るようになったと考えられています。永禄えいろく6年(1563)に吉田家により神階しんかい宣下せんげ勅額ちょくがく十三所大明神じゅうさんしょだいみょうじん」を賜っていることから、それ以前に祀られるようになったと考えられています。安産の神、学問の神、商工の神などの御神徳ごしんとくがあるとされています。

  • 女躰大明神にょたいだいみょうじん御祭神ごさいじん豊玉姫命とよたまひめのみこと
  • 神花大明神かんばなだいみょうじん御祭神ごさいじん:不承]
  • 初熊大明神はつくまだいみょうじん御祭神ごさいじん:不承]
  • 泊柱大明神とまりはしらだいみょうじん御祭神ごさいじん猿田彦命さるたひこのみこと速秋津姫命はやあきつひめのみこと
  • 勿体大明神もったいだいみょうじん御祭神ごさいじん:不承]
  • 聖大明神ひじりだいみょうじん御祭神ごさいじん天香語山命あめのかごやまのみこと
  • 児之御前ごのごぜん御祭神ごさいじん:不承]
  • 歳大明神としだいみょうじん御祭神ごさいじん倉稲魂命うかのみたまのみこと
  • 篠大明神しのだいみょうじん御祭神ごさいじん:不承]
  • 上津杖大明神かみつつえだいみょうじん御祭神ごさいじん:不承]
  • 下津杖大明神しもつつえだいみょうじん御祭神ごさいじん:不承]
  • 杖立大明神つえたてだいみょうじん御祭神ごさいじん:不承]

十一所神社じゅういっしょじんじゃ

境内北西の線路を渡ってすぐに鎮座ちんざ。明治5年(1872)都城県みやこのじょうけんの神社改革の際、串間神社くしまじんじゃ合祀ごうしされましたが、現在は複社し祭儀さいぎ斎行さいこうされています。串間神社くしまじんじゃ御祭神ごさいじんである彦火々出見尊ひこほほでみのみこと山幸彦やまさちひこ)に供奉ぐぶした神々の神霊を祀っているとされています。尚、『日向地誌ひゅうがちし』では素戔嗚命すさのおのみこと御祭神ごさいじんとしています。

門守社かどもりしゃ矢大臣社やだいじんしゃ)」

御祭神ごさいじんとして豊磐間戸命とよいわまどのかみ櫛磐間戸命くしいわまどのかみを祀っています。境内の守護の神とされています。

大将軍社だいしょうぐんしゃ

境内の東南隅に鎮座ちんざ磐長姫命いわながひめのみこと倉稲魂命うかのみたまのみこと罔象女神みつはのめのかみを祀っています。


神事しんじ祭事さいじ

ねたろう祭

毎年2月20日に斎行さいこうされる春の大祭は、その年の五穀豊穣を祈るお祭りで祈年祭きねんさいといいます。本社で祈年祭きねんさいを行った後、猿田彦神さるたひこのかみや獅子を先導に先導された神輿みこし北方きたかた内を巡幸じゅんこうします。最初に、豊玉姫命とよたまひめのみことを祀る屋治やじ地区の女躰神社にょたいじんじゃに向かいます。女躰神社にょたいじんじゃに着くと、境内の一隅に祀られている太郎若宮大明神たろうわかみやだいみょうじんという享保きょうほう8年(1723)、及び安永あんえい5年(1776)作の2つの石祠いしほこら前で神事が行われます。石祠いしほこらに立てかけた木鉾に白紙を着せ重ねたものを豊玉姫命とよたまひめのみこと依代よりしろとして祀り、それを神職が持って御幸行列みゆきぎょうれつに加わります。巡幸じゅんこうからして帰ると、串間神社くしまじんじゃでは社殿しゃでんから宮司が彦火々出見尊ひこほほでみのみことの木鉾に白紙を着せた依代よりしろを持って出迎え、女躰神社にょたいじんじゃからお連れした豊玉姫命とよたまひめのみこと依代よりしろを持つ神職とが互いに振り合って出会う儀式があり、共に拝殿はいでんに納めて一夜を過ごされることになります。

神事は五穀豊穣を祈願する「ねたろう祭」と称され、串間神社くしまじんじゃ御祭神ごさいじん山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)が年に1度、この神事の時だけ豊玉姫命とよたまひめのみことに会いに行き、神話での豊玉姫命とよたまひめのみことの出産の物語(子宝)にあやかる神事とされています。「ねたろう」との名称の由来は、諸説あります。

  • 豊玉姫命とよたまひめのみことが一年間休養するため。
  • 覗かれた豊玉姫命とよたまひめのみことが寝たきりになったため。
  • 一緒に「寝たろう」との俗語が元で、太郎若宮大明神たろうわかみやだいみょうじんの「太郎たろう」に結びつけられた。

その後、境内では黒い木製の牛と馬鍬まぐわを出して、田を作り、土をならし、神職が三宝さんぽうから籾種もみだねを蒔きます。そして宮司と神職が牛を誉める歌を

  • 右の角の外にきゅっとそったるは如何に
  • 悪魔災難を除く角にて候

といった風に問答して、春祭りの種蒔きの神事が斎行さいこうされます。

御狩神事おかりしんじ

現在は行われていませんが、近世まで御祭神ごさいじん山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)に因む御狩神事おかりしんじ斎行さいこうされていました。鳥獣の豊富な串間くしま御狩場おかりばとした山幸彦やまさちひこ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと)が、土地の人たちを招集し、数日を楽しく過ごされたという故事に則り行われる神事でした。各村には受け持ちの山々に加久良かくら狩倉かくら)の定めがあり、「御酒迎おさけむかえ」(境迎さかえむかえ)の酒と称し、狩りから無事帰ってくるのを祝って集まるものでした。神官は武具を持って勿体森もったいもりに行き規定の祭典をあげ、直来には松尾部落まつおぶらくからは餅を、天神部落てんじんぶらくからは豆腐の田楽でんがくに酒を添えて持参することになっていました。毎年12月13日から翌年正月の初の酉、丑、辰、申の日、5日に行われていましたが、その後、初の丑、卯の2日のみに行うことに変更されたと伝えられています。

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 二之鳥居
  • 参道から社殿
  • 参道から社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 本殿後方の末社

情報

住所〒888-0004
串間市くしまし串間くしま1410
創始そうし不詳ふしょう
社格しゃかく郷社ごうしゃ旧社格きゅうしゃかく
例祭れいさい11月13・14日
神事しんじ祈年祭きねんさい・ねたろう祭(2月19・20日)
HP 公式HP / Wikipedia

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