九州の神社

熊本県・郡浦神社(宇城市)

御祭神

御祭神ごさいじん 蒲智比咩命かまちひめのみこと健磐龍命たけいはたつのみこと速瓶玉命はやみかたまのみこと神武天皇じんむてんのう

由緒

郡浦神社こうのうらじんじゃは、阿蘇神社あそじんじゃ甲佐神社こうさじんじゃ健軍神社けんぐんじんじゃと共に阿蘇四社あそよんしゃ一社いっしゃです。蒲智比咩命かまちひめのみこと主祭神しゅさいじんとしてまつり、健磐龍命たけいはたつのみこと速瓶玉命はやみかたまのみこと神武天皇じんむてんのうを合わせまつっています。

創建そうけんは不承ですが、御祭神ごさいじん蒲智比咩命かまちひめのみことは、正平しょうへい16年(1361)甲佐神社こうさじんじゃより郡浦神社こうのうらじんじゃに贈ったちょう宇土うとの領主となった名和顕興なわあきおきの不法に対して阿蘇あそ健軍けんぐん藤崎ふじさき、及び三社に対して合力ごうりきを求めたちょうに、甲佐神社こうさじんじゃまつ八井耳玉命やいみみのみことは、阿蘇神社あそじんじゃ主祭神しゅさいじんである健磐龍命たけいはたつのみこと御子神みこがみで、健磐龍命たけいはたつのみこと母神ははがみである蒲智比咩命かまちひめのみことは、八井耳玉命やいみみのみこと祖母神そぼがみに当たるとあります。

『阿蘓文書之二』

「阿蘓文書寫・第二十九[甲佐]」
甲佐宮牒 郡浦社衙
(略)我神者阿蘓大明神御嫡子、南部管領之鎮守也。(略)殊尊神者、阿蘓御母甲佐宮祖母神御坐之間。因緣尤不淺之上、往古一躰之神明也。

明和めいわ9年(1772)森本一端もりもといちずいが著した『肥後国志ひごのこくし』によれば、欽明天皇きんめいてんのう御代みよ(540-571)神武天皇じんむてんのう神霊しんれいまつって阿蘇神社あそじんじゃ祖父神そふがみとされたとも、天養てんよう元年(1144)近衛天皇このえてんのう勅宣ちょくせんこうむり、阿蘇大宮司あそだいぐうじ阿蘇友孝あそともたか健磐龍命たけいはたつのみこと速瓶玉命はやみかたまのみこと神武天皇じんむてんのう勧請かんじょうしたとも伝えています。そのことから三宮大明神さんのみやだいみょうじんとも称せられました。

御祭神ごさいじんについては諸説あり、文明ぶんめい17年(1485)に見る記録では、健磐龍命たけいはたつのみこと外祖がいそ(母方の祖父)ともあります。また、異説として神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつの時に持ちたまわった満珠玉まんじゅたま、その力をたてまつった雨宮媛命あまみやひめのみことが当地にまつられ、夷狄いてきを防いでいるともされています。加えて、海龍神わだつみのかみである雨宮媛命あまみやひめのみことめとった国造神社こくぞうじんじゃ御祭神ごさいじんである速瓶玉命はやみかたまのみことは、龍宮りゅうぐう皇子おうじであるともされています。また、『宇土郡誌うとぐんし』(大正10年・1921)では、『阿蘇文書あそもんじょ』にて肥前国ひぜんのくに高来郡たかきぐん温泉山うんぜんさん四面名神しめんみょうじんとも記されています。少なくとも、御祭神ごさいじん比咩神ひめがみであることは有力視されています。

その創始そうしは、『日本三代実録にほんさんだいじつろく』に記された蒲智比咩神社かまちひめじんじゃが前身と考えられ、鎌倉時代に阿蘇神社あそじんじゃ摂社せっしゃとなったと考えられています。

日本三代実録にほんさんだいじつろく』の元慶がんぎょう2年(878)9月7日記録では、大きな鳥が肥後国ひごのくに八代郡やつしろぐんにあった倉の上に集まり、宇土郡うとぐん蒲智比咩神社かまちひめじんじゃでは、前の河川の水が血の如く赤くなって流れ出し、周囲の山野草木は枯れ果てて、厳冬のようになったと伝えています。この事が朝廷に報告され、神祇官じんぎかん卜筮ぼくぜいしたところ、肥後国ひごのくにの風・水・火害・疾疫しつえきは、これから厄災やくさいが起きることを神が示したとされました。

『日本三代實錄・卷卅四』元慶二年(878)

九月七日己亥。有鳥、集肥後國八代郡倉上。又宇土郡正六位上蒲智比咩神社前河水変赤如血。縁邊山野草木彫枯。宛如厳冬。神祇官陰陽寮卜筮云。彼國風水火疾疫可成災。故神明示恠。

同年12月11日には、橿日宮かしいのみや香椎宮かしいぐう)にて大宰少弐だざいのしょうに嶋田忠臣しまだのただおみ等が神託しんたくをはかったところ、橿日神かしいのかみ香椎神かしいのかみ)が神懸かみがかりし「新羅しらぎが日本に入寇にゅうこうせんとしており、厳重に備えよ」と告げます。それを受けて弘道王ひろみちおう伊勢神宮いせじんぐうに向かわせて神の加護かご祈請きせい。20日には藤原房雄ふじわらのふさお大宰権少弐だざいのごんのしょうに左近衛少将さこんえのしょうしょうを兼ねさせて夷狄いてきの侵入に備えます。

24日には、平季長たいらのすえなが太宰府だざいふに向かわせ、橿日宮かしいのみや香椎宮かしいぐう)、蒲智比咩神社かまちひめじんじゃ住吉神社すみよしじんじゃ、そして宗像大社むなかたたいしゃなどに奉幣ほうへいたてまつります。加えて、事前に大きな鳥を集合させ、河川の水を赤く染め、神懸かみがかりで危機を知ろしめたことから橿日宮かしいのみや香椎宮かしいぐう)と蒲智比咩神社かまちひめじんじゃには綾羅りょうらと金銀の装飾のなされた宝剣ほうけん奉納ほうのうがありました。

『日本三代實錄・卷卅四』元慶二年(878)

十二月十一日壬申。(中略)。是日、大宰少弐從五位下嶋田朝臣忠臣等奏言。橿日宮有託宣云。新羅虜船欲向我國。宜爲之備。因茲、遣從五位上守刑部大輔弘道王向伊勢大神宮、祈請冥助。(後略)


十二月廿日辛巳。以從五位上守民部大輔藤原朝臣房雄、爲太宰權少貳兼左近衞少將。赴太宰府。警戒戎事。


十二月廿四日乙酉。遣兵部少輔從五位下兼行伊勢權介平朝臣季長。向太宰府。奉幣橿日。八幡及姫神。住吉。宗形等大神。其橿日。八幡。姫神別奉綾羅御衣各一襲。金銀装寶劔各一。以彼府奏有託宣云。新羅凶賊、欲窺我隙。肥後國有大鳥集。河水變赤等之恠也。

蒲智比咩神社かまちひめじんじゃは現在も確定していませんが、蒲智比咩神社かまちひめじんじゃと同様、比咩神ひめがみ御祭神ごさいじんとしてまつっていること。久安きゅうあん9年(1150)には郡浦神社こうのうらじんじゃ宇土半島うとはんとう西部全域を管轄していたこと。郡浦こうのうら有明海ありあけかいの交易の中心地であったこと。それに加えて、廃仏毀釈はいぶつきしゃくにより廃寺はいじとなった神宮寺じんぐうじ常福寺じょうふくじ境内けいだいにあった石造りの五重塔ごじゅうのとうが、現在、郡浦神社こうのうらじんじゃ境内けいだい遷座せんざしています。この五重塔ごじゅうのとうは最頂部の宝珠ほうじゅ逸失いっしつしているものの、朝鮮の技法の影響を受けた平安時代初期のものとされています。それらの背景から郡浦神社こうのうらじんじゃ蒲智比咩神社かまちひめじんじゃだと最有力視されています。

郡浦神社こうのうらじんじゃ」の名称が史料として記されているのは、久安きゅうあん6年(1150)正月23日の「肥後国司庁宣写ひごのこくしちょうせん」が最も古いものになります。この「肥後国司庁宣写ひごのこくしちょうせん」は、郡浦社こうのうらしゃ神官しんかんからの訴えで年貢を安定的に確保できるよう社領しゃりょう不輸領ふゆりょうとした記録であることから、神社の起源は少なくとも12世紀前期までにはさかのぼるると考えられています。

郡浦神社こうのうらじんじゃ阿蘇三摂社あそさんせっしゃ健軍けんぐん甲佐こうさ郡浦こうのうら)の一社いっしゃとされ、往古おうこ神領しんりょう350町、神田しんでん80町を有し、阿蘇神社あそじんじゃ祭礼さいれいでは、御神供ごしんくの魚をたてまつることとなっていました。阿蘇神社あそじんじゃ摂社せっしゃとなったことを記した最古の資料は、嘉元かげん4年(1306)6月12日の「昭慶門院しょうけいもんいん昭慶門院きしないしんのう御陵目録ごりょうもくろく」にて阿蘇社あそしゃ摂社せっしゃとの記載で、鎌倉時代に摂社せっしゃとなったと考えられています。天文てんぶん19年(1550)には阿蘇氏あそしの領域支配が後退により、郡浦こうのうら網田おうだ阿蘇惟忠あそこれただから名和行興なわゆきおきに譲渡されます。しかしながら、実質的には阿蘇氏あそしの支配権が残存していたと考えられています。

しかし、天正てんしょう16年(1588)に領主となった小西行長こにしゆきながにより社領しゃりょう灰燼かいじんし、神領しんりょうは没収されました。

江戸期に入ると延宝えんぽう5年(1677)の棟札むねふだによれば、神宮寺じんぐうじに当たる常福寺じょうふくじが管理し、十一面観音じゅういちめんかんのん本地ほんじとしたと記しています。文化5年(1808)常福寺じょうふくじが再興を願い出た「奉願口上ノ覚ほうがんのこうじょうのおぼえ」では、天正てんしょう期以降の歴史が詳しく記されています。

奉願口上ノ覚ほうがんのこうじょうのおぼえ」によれば、往古おうこより祭祀さいし式日しきじつのときには、惣之婦そうのふ若婦わかふという2人の神女みこによって神楽かぐら奉納ほうのうされていたものの、ことごとく焼亡しょうぼうして神領しんりょう奪掠だつりゃくされたこと。その後、神女みこの子孫も絶え、神楽かぐらも途絶えたこと。寛永かんえい16年(1639)惣庄屋そうじょうや郡浦三郎右衛門こうのうらさぶろうえもんが再建し、神事しんじも始まり、神楽かぐら氏子うじこの中から選ばれた神女みこが三年ごとに奉納ほうのうするようになったこと。しかし、明和めいわ7年(1769)に神楽かぐらの諸道具が盗まれ、中断するに至ったこと。そして寛政かんせい8年(1796)に社人しゃにん神楽かぐらそうしようとしたものの諸事届きかね中断したと記されています。また、安永あんえい6年(1777)の台風で石鳥居いしとりいが吹き倒され、屋根が大破して茅葺かやぶきになっていること。修覆費は見世物や芝居興行の収益によってまかなわれていたと記しています。

明治めいじ8年(1875)郷社ごうしゃ列格れっかく阿蘇神社あそじんじゃとの結びつきは薄れることとなっていましたが、明治めいじ10年(1877)3月21日に内務省ないむしょうめいにて改めて摂社せっしゃのひとつに定められました。

境内地けいだいちは、2182坪(官有地かんゆうち第一種)。社殿しゃでんは、嘉永かえい2年(1849年)に再建されたものです。社殿しゃでん神殿しんでん(縦4間横3間)、渡殿わたどの(縦2間3尺横1間3尺)、拝殿はいでん(縦2間横4間)。

例祭日は旧暦9月9日でしたが、明治めいじ43年(1910)より10月9日に改められ、近年は10月9日・10日で斎行さいこうされています。


神風連しんぷうれんの変】

殉国の碑、「神風連烈士ゆかりの地」碑

明治めいじ9年(1876)10月24日、明治めいじ政府に対する士族反乱しぞくはんらん神風連しんぷうれんへん」が起こります。新開大神宮しんかいだいじんぐう神官しんかんとなっていた元士族の太田黒伴雄おおたぐろともおをはじめとする敬神党けいしんとうの約170名が、廃刀令はいとうれいへの反対運動として起こした反乱でした。

敗れた敬神党員けいしんとういん6人(加々見重郎、古田十郎、田代儀太郎、田代儀五郎、坂本重孝、森下照義)が同志の郡浦神社こうのうらじんじゃ宮司ぐうじ甲斐武雄かいたけおを頼り、八代やつしろに滞在していた三淵永次郎みつぶちえいじろうへの手紙を託します。甲斐武雄かいたけおは、八代やつしろに向かう途上で捕えられて禁獄百日の判決を受けます。郡浦神社こうのうらじんじゃには、敬神党けいしんとうである林桜園はやしおうえん菊池神社きくちじんじゃ新開大神宮しんかいだいじんぐうと共に贈った3本の鉄箭てっせんの内の1本が奉納ほうのうされています。

一方、残った6人は29日の早朝に宇城市うきし三角町みすみまち大岳おおたけ山頂に登り自刃じじんしました。現在、大岳おおたけ山頂東端には三角町みすみまちの有志によって建てられた「神風連しんぷうれん六烈士ろくれつし自刃之跡じじんのあと」のが建てられています。


境内社けいだいしゃなど】

御神木ごしんぼく(イチョウ)」

めすのイチョウの木は乳をもっており、この乳汁を煎じて飲めば、産後の乳の出が良いと知られ、訪れる妊婦さんが多く訪れています。平成2年(1990)2月14日に「ふるさと熊本の樹木」に指定されました。

五重塔

常福寺じょうふくじ廃寺はいじ)」

常福寺じょうふくじは、明治めいじ元年(1868)神仏混交しんぶつこんこうが禁止されて廃寺はいじされましたが、中世から近世にかけて郡浦神社こうのうらじんじゃ神宮寺じんぐうじとして、所務を行ってきた寺院です。この寺院の成立についての史料は少なく、平安朝初期の建造物らしい石造の五重塔ごじゅうのとうが現在残る唯一の遺物です。この五重塔ごじゅうのとうは最頂部の宝珠ほうじゅ逸失いっしつしているものの、奈良国立博物館の前田技師による大正2年(1913)の調査報告によれば、朝鮮の技法の影響を受けた平安時代初期のものとされています。

Photo・写真

  • 鳥居
  • 境内
  • 社殿
  • 境内
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 本殿
  • 五重塔
  • 石塔
  • 御神木(イチョウ)

情報

住所〒869-3202
宇城市うきし三角町みすみまち郡浦こうのうら2666
創始そうし天養てんよう元年(1144)
社格しゃかく肥後国三宮ひごのくにさんのみや郷社ごうしゃ旧社格きゅうしゃかく
例祭れいさい10月9日、10日
HP Wikipedia

地図・マップ