九州の神社

北岡神社(熊本市)

御祭神

主祭神しゅさいじん 健速須盞嗚尊たけはやすさのをのみこと奇稲田姫命くしいなだひめのみこと
配祀神はいしがみ 八柱御子神やはしらのみこがみ天忍穂耳命あめのおしほみみのみこと天穂日命あめのほひのみこと天津日子根命あまつひこねのみこと活津日子根命いくつひこねのみこと熊野久須毘命くまのくすびのみこと多紀理毘売命たきりびめのみこと市杵島比売命いちきしまひめのみこと多岐都比売命たきつひめのみこと

由緒

北岡神社きたおかじんじゃ承平しょうへい4年(934)朱雀天皇すざくてんのう御代みよに、武勇名高い藤原保昌ふじわらのやすまさ肥後国司ひごこくしとして下向げこうされた際、凶徒きょうとの叛乱と疫病の流行を鎮めるために山城国やましろのくに祇園社ぎおんしゃ八坂神社やさかじんじゃ)の御分霊ごぶんれい勧請かんじょうし、飽託郡ほうたぐん湯原ゆはら(熊本市西区二本木にほんぎ5丁目)に府中ふちゅう鎮護ちんごする「宝祚無窮ほうそむきゅう天下泰平てんかたいへい、国家安全、悪魔降伏、西九守護」の勅願所ちょくがんしょとして創建そうけんされたのが始まりとされています。

健速須盞嗚尊たけはやすさのをのみこと奇稲田姫命くしいなだひめのみことの夫婦神を主祭神しゅさいじんとし、健速須盞嗚尊たけはやすさのをのみこと天照大神あまてらすおおかみに会うため高天原たかまがはらに上がられた時、異心いしんがないことのあかしとして誓約を行ってお生まれになった五男三女神の八柱御子神やはしらのみこがみ天忍穂耳命あめのおしほみみのみこと天穂日命あめのほひのみこと天津日子根命あまつひこねのみこと熊野久須毘命くまのくすびのみこと多紀理毘売命たきりびめのみこと市杵島比売命いちきしまひめのみこと多岐都比売命たきつひめのみこと)を配祀神はいしがみとしてまつっています。

承平しょうへい7年(937)には、湯原ゆはらから程近い車屋敷くるまやしき(熊本市西区二本木にほんぎ2丁目)に遷座せんざされ、京よりお供して来た神官しんかん・僧侶・伶人れいじん等もこの神域に居住していました。天慶てんぎょう9年(939)の神事しんじの日に京都より勅使ちょくし下向げこうがあり、爾来じらい、年毎の祭祀さいしの際の下向げこうは恒例となり、冷泉天皇れいぜいてんのう御代みよ(967-969)の頃まで下向げこうは続き、代々天皇よりあつ尊崇そんすうされておりました。天暦てんりゃく2年(948)に村上天皇むらかみてんのうより「拝三山はいさんざん」の勅額ちょくがくたまわります。「肥後国誌ひごこくし」によると安和あんな2年(969)からは国司こくしとなった菅原光家すがわらみついえ勅使ちょくし兼勤けんきんするようになってこの地に留まり、その末裔まつえいである光永家みつながけが代々にわた勅使ちょくし代としてその任に就くようになりました。

天元てんげん2年(979)には朝日山あさひやま岡見山おかみやま)に遷座せんざされ、これにちな祇園山ぎおんやまと呼ばれるようになります。この山は明治になり招魂社しょうこんしゃ建立に伴い花岡山はなおかやまと改められましたが、今日でもその山頂一帯を祇園平ぎおんだいらと呼ぶ名残があります。

火災等で社殿しゃでん及び綸旨りんじや古文書等が焼失する災難が幾度かありましたが、長承ちょうしょう元年(1132)に菊池氏きくちし社殿しゃでん造営ぞうえいし、神領しんりょう寄進きしんされ神威しんいを取り戻します。久寿きゅうじゅ二年(1155)には、近衛天皇このえてんのうより「顕神院けんしんいん」の勅額ちょくがくとともに、「日本第弐にほんだいに 西九壹社にしきゅういちしゃ」の尊称そんしょう御紋章ごもんしょう下賜かし頂きます。それは「日本では(京都の御本社に次いで)第二の祇園社ぎおんしゃであり、西の九州では第一の祇園社ぎおんしゃである」との意味で、現在もこの尊称そんしょう御朱印ごしゅいんに用いられています。また、御紋章ごもんしょう祇園木瓜ぎおんもっこうを上下にわかち、その上半分をたまわった当神社特有のものです。

戦国の世、天正15年(1587)佐々成政さっさなりまさの支配下の際には、古例を廃し神領しんりょうも断絶されましたが、江戸時代に入り慶長けいちょう10年(1605)加藤清正かとうきよまさ肥後ひご入国により再び復興されました。細川藩ほそかわはん下に於いては尚一層尊崇そんすうされ、島原しまばら出陣の際には戦勝祈願せんしょうきがんを厳修し、寛永かんえい9年(1632)には社殿しゃでんが新たに造営ぞうえいされました。正保しょうほう4年(1647)、第2代藩主の細川光尚ほそかわみつとしにより「北岡きたおかの森(現在地)」に遷座せんざ。この地は、旧社地しゃちとなった古府中ふちゅう(熊本市西区二本木にほんぎ)から北に位置する丘陵地であったことから北岡きたおかと呼ばれ、方位的にも尊ばれていた場所でした。遷座せんざの際、古府中ふちゅうやしろ等も境内けいだいに移され、摂末社せつまっしゃとしてまつられました。

維新後の明治元年(1868)には神仏分離しんぶつぶんりの流れを受けて「北岡宮きたおかぐう」、同4年(1871)に「北岡神社きたおかじんじゃ」と改称し、翌5年(1872)に県社けんしゃに列せられました。同10年(1877)の西南せいなんえきでは、一時薩摩軍の本営が境内けいだいに置かれました。同17年(1884)御鎮座ごちんざ950年祭記念事業として丘上を拓き、社殿しゃでんを丘中腹から移し、摂末社せつまっしゃと共に丘上に御遷座ごせんざされました。昭和8年 (1933) 4月には御鎮座ごちんざ1000年を向かえるにあたって、久邇宮殿下くにのみやでんかより直筆の御神額ごしんがくたまわり、御参列ごさんれつあお式年大祭しきねんたいさい斎行さいこうされ、翌9年 (1934)11 月に御社殿ごしゃでんが新造され御遷座ごせんざ記念大祭が執行しっこうされました。同33年 (1958) 御鎮座ごちんざ1025年記念に神楽殿かぐらでんを新造し、同58年 (1983) に御鎮座ごちんざ1050年記念事業として拝殿はいでん楼門ろうもんを改修し、社務所しゃむしょや会館等が新築されました。


久末神社

[楼門ろうもん向かって左手]


久末神社ひさすえじんじゃ
五穀豊穣ごこくほうじょう学業成就がくぎょうじょうじゅ商売繁昌しょうばいはんじょう御神徳ごしんとくがあるとされる健磐龍命たけいわたつのみこと菅原道眞公すがわらみちざねこう宇迦之御魂大神うかのみたまのおおかみまつっています。

疫神社・京国司神社

[社殿しゃでん向かって左手、手前から]


疫神社やくじんじゃ
災難消除さいなんしょうじょ厄除開運やくよけかいうん御神徳ごしんとくがあるとされる蘇民御霊そみんのれいまつっています。

京国司神社きょうこくしじんじゃ
天下泰平てんかたいへい勝運守護しょううんしゅご御神徳ごしんとく御神徳ごしんとくがあるとされる藤原保昌御霊ふじわらのやすまさのみたま比売神ひめかみまつっています。

国造神社・阿蘇神社・久末荒神社

[社殿しゃでん向かって左手、三柱みはしら並んだ石祠せきし・手前から]


国造神社こくぞうじんじゃ
農耕繁栄のうこうはんえい殖産興業しょくさんこうぎょう御神徳ごしんとくがあるとされる遅男江神そおえのかみ比売神ひめかみまつっています。

阿蘇神社あそじんじゃ
五穀豊穣ごこくほうじょう生活守護せいかつしゅご御神徳ごしんとくがあるとされる健磐龍命たけいわたつのみこと比売神ひめかみまつっています。

久末荒神社ひさすえこうじんじゃ
屋敷守護やしきしゅご火難防災かなんぼうさい御神徳ごしんとくがあるとされる荒神大神こうしんおおかみまつっています。

宮地嶽神社

[社殿しゃでん向かって右のやしろ]


宮地嶽神社みやじだけじんじゃ
福徳円満ふうふえんまん・交通安全の御神徳ごしんとくがあるとされる息長足比売命おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)、勝村大神かつむらのおおかみ (藤之高麿ふじのたかまろ)、勝頼大神かつよりのおほかみ藤之助麿ふじのすけまろ)の三柱みはしらまつっています。

菅原神社・新宮神社・護町神社・稲荷神社

[境内けいだいの東側、社殿しゃでん寄りから]


菅原神社すがわらじんじゃ
学業成就がくぎょうじょうじゅ・受験合格の御神徳ごしんとくがあるとされる菅原道眞公すがわらみちざねこうまつっています。

新宮神社しんぐうじんじゃ
無病息災むびょうそくさい延命長寿えんめいちょうじゅ御神徳ごしんとくがあるとされる伊弉冉尊いざなぎのみことまつっています。

護町神社ごちょうじんじゃ
国家安泰こっかあんたい開運招福かいうんしょうとく御神徳ごしんとくがあるとされる事代主神ことしろぬしのかみ比売神ひめかみまつっています。

稲荷神社いなりじんじゃ
五穀豊穣ごこくほうじょう商売繁昌しょうばいはんじょう御神徳ごしんとくがあるとされる宇迦之御魂大神うかのみたまのおおかみまつっています。

[御神木ごしんぼく]

境内けいだい入り口の階段の両脇に聳えているのが雄楠おくす雌楠めくすの一対の「厄除やくよけ夫婦楠めおとくす」です。 正保しょうほう4年(1647)に当地に御遷座ごせんざされてより、「北岡きたおかもり」に自生していた一対の楠の大木に御神霊ごしんれいが宿ったとされ、以来御神木ごしんぼくとしてあがめられています。

  • 雄楠おくす(階段の下より向って右側)
    樹高 21.0m / 幹周 12.0m / 枝張 10.0m
  • 雌楠めくす(階段の下より向って左側)
    樹高 25.0m / 幹周 10.3m / 枝張 16.0m

また定められた作法、男性は「雌楠めくす雄楠おくす雌楠めくす」、女性は「雄楠おくす雌楠めくす雄楠おくす」の順番で8字を描くように廻って参拝すれば、厄除開運やくよけかいうん、夫婦円満、縁結びの御利益、特に「良縁」に恵まれ、願い事が成就すると伝えられています。


祇園祭ぎおんまつり

祇園祭ぎおんまつりは京都の八坂神社やさかじんじゃを起源とし、貞観じょうがん11年(869)にみやこで疫病が流行った為、災厄退散やくさいたいさん疫病消除えきびょうしょうじょ御神徳ごしんとく高き須盞嗚尊すさのをのみこと祈願きがんし、ほこを立て神輿みこしを迎え御霊会ごりょうえを行ったのが祇園御霊会ぎおんごりょうえ発祥はっしょうとされています。やがてそれが庶民に親しんだ賑やかな祭となり、町々で風流を凝らした特色のある山鉾やまほこをつくり巡行じゅんこうするようになり、夏祭の形式の源流といわれる活気旺盛な祇園祭ぎおんまつりとなっていきました。

北岡神社きたおかじんじゃ祇園祭ぎおんまつりもこれにならったとみられ、京都より勧請かんじょうされた当初から旧暦の6月8日と14日に神幸行列しんこうぎょうれつが執り行なわれ、この間氏子うじこはもとより周辺近郷の大勢の人々が参集さんしゅうし賑わいを見せていました。

時代と共に内容も徐々に変遷を辿りましたが、昭和29年を最後に神幸行列しんこうぎょうれつは途絶えます。最近になり、祭日は8月1日~3日までに凝縮されましたが、かつての賑わいを見せています。

塩湯取神事しおゆとりししんじ

祇園祭ぎおんまつりに際して7月29日に熊本市西区小島上町おしまかみまち河原かわらにて行われる神事しんじ。8月1日~3日の例大祭れいたいさい祇園祭ぎおんまつり)にあたり、神職しんしょく及び総代そうだい一同が潔斎けっさいし心身を清めるのとともに、竹筒で潮水を汲み持ち帰り、期間中の神事しんじ修祓しゅばつに用いられます。

松囃子神事まつばやししんじ

1月5日に斎行さいこうされる芸事。1月5日午前11時からの神事しんじの後に、拝殿はいでん内にて能楽のうがく仕舞しまい奉納ほうのうされます。最初に本座ほんざとして喜多流きたりゅうが「高砂たかさご」を舞い、次に金春流こんぱるりゅうにより「羽衣はごろも」。最後に喜多流きたりゅうが「惺々しょうじょう」を演じます。

Photo・写真

  • 一の鳥居前
  • 一の鳥居前
  • 一の鳥居前から御神木と楼門
  • 久末神社
  • 楼門
  • 楼門
  • 境内
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 社殿向かって左手の摂末社
  • 疫神社
  • 京国司神社
  • 国造神社・阿蘇神社・久末荒神社
  • 宮地嶽神社
  • 境内の東側(菅原神社・新宮神社・護町神社・稲荷神社)
  • 稲荷神社

情報

住所〒860-0047
熊本市西区春日かすが1-8-16
創始そうし承平しょうへい4年(934)
社格しゃかく県社けんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭8月1日~3日(祇園祭ぎおんまつり
神事しんじ松囃子神事まつばやししんじ(1月5日)、塩湯取神事しおゆとりししんじ
HP公式HP / Wikipedia

地図・マップ