上色見熊野座神社は、創建は不詳ですが、創祀は相当古くと考えられ、御祭神として伊弉諾命と伊弉冉命を祀っています。
上色見の大村地区には、4~5世紀頃の古墳が多く発見されており、古くから穿戸岩(穿戸社)を尊い磐・稀有な岩穴として信仰し、崇めていたと推測されています。熊野大神を祀る前史としては、阿蘇大神である健磐龍命と、家来として仕えていた鬼八との伝承が残されています。鎌倉時代末~室町時代初期に熊野信仰の広がりとともに修験者が、山嶽信仰と岩石信仰とを結び付け、紀伊熊野三山の伊弉諾命・伊弉冉命の二柱の大神を祀り、上色見熊野座神社(熊野権現)としたと考えられています。
弓の達人であった阿蘇大神の健磐龍命は、弓を楽しみ、阿蘇山頂より矢を放ちます。従者であった鬼八は、主人の矢を拾うに飽き飽きして、99本目までは拾いに行ったものの、100本目の弓矢を足の指に挟んで健磐龍命に向けて投げ返します。
これに「家来の分際で大切な弓矢を蹴り返すとは、なんと不届きな奴」と激怒した健磐龍命は、鬼八を殺さんとします。鬼八は逃げ回るものの、阿蘇は山に囲まれているため、山にぶつかって逃げ切れません。上色見の外輪山を越えて逃げようとしますが、岩壁に逃げ道を失った鬼八は、岩壁を蹴破って逃げ去ります。その時の穿った穴の跡が、穿戸岩(穿戸社)とされています。
鬼八は、上色見の穿戸だけでなく、冬野にも穿戸を残して逃げ続けますが、とうとう健磐龍命に追いつかれます。絶体絶命に陥った鬼八は、健磐龍命に向かって8回屁を放ち逃げおおせます。その屁を放った地は矢部(旧矢部町)とされています。
しかし鬼八は、とうとう高千穂で健磐龍命に捕まり、首を刎ねられてしまいます。その首は天に昇って怨霊となり、毎年暑いころになるまで霜を降らせ、作物に害をなすようになりました。健磐龍命は怨霊に霜を降らさないように頼むと「寒いと切れた首が痛くてかなわない。温めてくれるなら悪さはしない。」と答えます。健磐龍命は、阿蘇宮のすぐ近くに霜宮を建て、鬼八の霊を祀って毎年火を焚いて温めるようになり、霜の被害は出なくなったと伝えられています。
その鬼八伝説と共に伝えられているのが、石君大将軍と熊野大神の伝承です。阿蘇大神である健磐龍命の荒魂とされる石君大将軍の兜の中に、二柱の神が顕れます。その出現した二柱の神は、熊野大神であるとされ、紀州国熊野より御祭神の伊弉諾命と伊弉冉命を移し、奉斎したのが当神社の創祀とされています。その建立に際しては、2羽の大きな鳥が神献すべき榊の枝を咥え持ち、阿蘇山の東麓の当洞窟に止まったことから、社殿が建立されたと伝えられています。以降、熊野穿戸岩社(熊野穿戸社)、穿戸岩権現(穿戸社権現)、熊野宮と称し崇められ、南郷谷の総鎮守として祭祀されてきました。
従前の建物は天正年間(1573-1593)に兵火により頽廃。月形山の8合目に鎮座する現在の神殿は、享保7年(1722)に建立されたものです。昭和54年(1979)年社殿改修。鳥居は明治30年(1864)の建立。参道に続く灯籠は、元治元年(1864)と慶応3年(1867)に1対と1基が献納。その後、昭和30年(1955)以降、地元にあった後藤漬物が年々奉納してきたもので、現在は100基近くの石灯籠が参道に並んでいます。
神殿は総欅造り。神殿上方に穿戸岩(穿戸社)があります。