九州の神社

福岡県・髙祖神社(糸島市)

御祭神

御祭神ごさいじん中座ちゅうざ彦火々出見命ひこほほでみのみこと髙祖大明神たかすだいみょうじん
左座さざ玉依比売命たまよりひめのみこと
右座うざ息長足姫命おきながたらしひめのみこと
相殿神あいどのがみ 天照皇大御神あまてらすおおみかみ豊受大神とようけのおおかみ

由緒

高祖山たかすやまの西麓に鎮座ちんざする髙祖神社たかすじんじゃは、中座ちゅうざ彦火々出見命ひこほほでみのみこと左座さざ玉依比売命たまよりひめのみこと右座うざ息長足姫命おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)の三柱みはしらをおまつりする神社です。『日本三代実録にほんさんだいじつろく』の元慶がんぎょう元年(877)のこうにて「筑前国ちくぜんのくに正六位しょうろくい高磯比売神たかすひめのかみ従五位下じゅごいげさずく」と神階しんかい授与じゅよが記された国史見在社こくしけんざいしゃです。高磯比売神たかすひめのかみとは髙祖神たかすのかみのことで、相殿あいどの玉依比売命たまよりひめのみこと息長足姫命おきながたらしひめのみことをおまつりしてあるので、このように呼ばれたと語り伝えられています。

『日本三代実録』卷三十二

元慶元年(877)九月廿五日癸亥。授筑前國…(略)…。正六位上高磯比咩神從五位下。

創建そうけん不詳ふしょうですが、社伝しゃでんでは、歴世れきせいの天皇は皇祖神こうそしんとされる彦火々出見命ひこほほでみのみこと裔孫えいそんであることから髙祖神たかすのかみと称されるようになったと伝えています。また、神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつに向かう時、香椎宮かしいぐうより当地まで御幸ごこうがあり、髙祖神たかすのかみ三韓征伐さんかんせいばつがなるようにいのりをささげます。無事に帰還きかんできた神功皇后じんぐうこうごうは、神恩しんおんに感謝し、報賽ほうさい御祭おまつりとして新たに御宮おみやを造り、異国降伏いこくこうふくために西面した御社おやしろを建てたとされています。そして後世至り神功皇后じんぐうこうごうまつるようになったと伝えています。孝謙天皇こうけんてんのう御代みよ(749-758)に吉備真備きびのまきびちょくして怡土城いとじょうが築かれ、怡土城いとじょう鎮護ちんごの神とされました。

建久けんきゅう8年(1197)原田種直はらだたねなお怡土城いとじょうの旧跡を再興して高祖城たかすじょうを築き、城中の鎮護ちんごの神として崇敬すうけいされます。当時は、現在より約800mの大霜おおしも大下おおした)に鎮座ちんざしていたとされています。高祖城主たかすじょうしゅ原田氏はらだしからの崇敬すうけい厚く、毎年正月元日、15日、2月初卯はつう、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日、11月初卯はつうには原田氏はらだし祭主さいしゅとなり祭典さいてんが行われ、ことに9月26日の大祭たいさいでは原田氏はらだし当主とうしゅ御輿みこし供奉ぐぶして御幸ごこうしたと伝えられています。

永正えいしょう4年(1507)7月10日に当時の原田興種はらだおきたねが現在地へ遷宮せんぐう天文てんもん10年(1541)12月19日に原田隆種はらだたかたねが再興します。この造営時の棟札むねふだで当社は、怡土郡一宮いとぐんいちのみやと記されています。元亀げんき3年(1572)にも原田親種はらだちかたねにより修造が行われます。天正てんしょう14年(1586)豊臣秀吉とよとみひでよしによる九州平定きゅうしゅうへいていの際、島津氏しまづしに服属していた高祖城主たかすじょうしゅ原田信種はらだのぶたねは、高祖城たかすじょうに立て籠もり豊臣軍とよとみぐんに対抗するものの、戦わずに投降して高祖城たかすじょうを退去します。高祖城たかすじょう破却はきゃくされることになりますが、髙祖神社たかすじんじゃ怡土郡いとぐん総社そうじゃとして尊崇そんすうを受け続けます。

寛文かんぶん2年(1662)福岡藩主ふくおかはんしゅ黒田光之くろだみつゆきが材木を全て寄附し、修補を加えて再建。現在の本殿ほんでんは、この時の造営ぞうえいによるもので、三間社流造さんげんしゃながれづくり檜皮葺ひわだぶきです。造営時の姿をそのまま留めていることから、福岡県下でも極めて貴重な建造物として高い評価を得ています。元禄げんろく6年(1693)には福岡藩主ふくおかはんしゅ黒田綱政くだろつなまさから境内けいだい入口の石造明神鳥居いしづくりみょうじんとりい寄進きしん享保きょうほう16年(1731)には正面三間さんけん、側面三間さんけん入母屋造いりもやづくり拝殿はいでん建立こんりゅうされました。

明治5年(1872)11月に怡土郡いとぐん郷社ごうしゃの指定。大正4年(1915)1月12日に許可を得て、同月22日に伊勢大神宮いせだいじんぐう合祀ごうし伊勢大神宮いせだいじんぐうは、永正えいしょう期(1504-1521)原田氏はらだし大内氏おおうちし幕下ばっかであった時代、乱世により伊勢神宮いせじんぐう参宮さんぐうできなかったことから周防国すおうのくに山口大神宮やまぐちだいじんぐう勧請かんじょうしたと伝えられています。原田氏はらだし滅亡の後、旧臣きゅうしんの当地に残る氏子うじこにより大神宮宮座だいじんぐうみやざが組織されています。同年(1915)11月10日に神饌しんせん幣帛料へいはくりょう供進社きょうしんしゃの指定。大正15年(1926)6月29日に県社けんしゃへ昇格。平成24年(2012)3月26日に本殿ほんでん拝殿はいでんおよび石鳥居とりいなどが福岡県の有形文化財建造物に指定されました。


境内社けいだいしゃなど】

徳満神社とくまんじんじゃ

参道さんどうを進んで左脇に鎮座ちんざ。明治10年(1877)3月に宗像郡むなかたぐん徳満神社とくまんじんじゃ分霊ぶんれいまつったのが創始そうしです。牛馬を始め、動物の守護神しゅごしんとしてあがめられています。昔から牛馬の神様として、近年はペットの守り神としてあがめられています。御祭神ごさいじん大名持神おおなむちのかみ少彦名神すくなひこなのかみ保食神うけもちのかみです。例祭日れいさいび9月13日。毎年祭日さいじつには宗像本社むなかたほんしゃ祭典さいてんに準じ、神酒みき御供ごくう参拝さんぱい者に供し、初穂はつほけんじた者には中飯ちゅうはんを出されています。

伊弉諾神社いざなぎじんじゃ

社殿しゃでん後方向かって右手に鎮座ちんざ由緒ゆいしょ不詳ふしょう御祭神ごさいじんは、伊弉諾大神いざなぎのおおかみ伊弉冊大神いざなみのおおかみ

思兼神社おもいかねじんじゃ

社殿しゃでん後方向かって左手に鎮座ちんざ由緒ゆいしょ不詳ふしょう御祭神ごさいじんは、思兼命おもいかねのみこと菅原大神すがわらのおおかみ


神事しんじ祭事さいじ

髙祖神楽たかすかぐら

髙祖神楽髙祖神楽たかすかぐら・は、応仁おうにん元年(1467)高祖城主たかすじょうしゅ原田種親はらだたねちか盟主めいしゅである周防国すおうのくに山口城主やまぐちじょうしゅ大内政弘おおうちまさひろの要請を受けて京都守護しゅごの大任に当った時、戦陣のつれづれに習得した「きょう能神楽のうかぐら」を郷土に伝えたものとされています。この外にも異説があり、その始めは定かではありません。永い歴史と伝統に受け継がれて来た髙祖神楽たかすかぐらは、江戸時代までは旧怡土郡いとぐん神職しんしょく奉仕ほうしで舞われていました。明治になってからは髙祖神社たかすじんじゃ氏子うじこの人たちによって受け継がれ、現在は十数人の氏子うじこ神楽師かぐらし奉仕ほうしで、春と秋の年2回、社殿しゃでん前の神楽殿かぐらでん奉納ほうのうされています。春の祈年祭きねんさいでは午後2時頃から夕方まで、秋大祭あきのたいさい前夜祭では午後6時頃より10時頃まで、篝火かがりびの薄明りの中で斎行さいこうされています。現在奉納ほうのうされているのは、面を着けずに採り物(降神こうしん宿やどる所になるすずけんたまのこと)をささげてがくの音にあわせ神楽歌かぐらうたとなえながら静かに舞う舞神楽まいかぐらと、面を着けた数人の神楽師かぐらしが登場して神話物語りを展開させてゆく面神楽めんかぐらの2種類11番(神供じんく高処たかどころ笹舞ささまい国平くにうけ蟇目ひきめ磯羅いそら敷蒔しきまき神相撲かみずもう両剣りょうけん御弓おゆみ御剣ごけん問答もんどう岩戸開いわとひらき)、地元の子どもたちにより「両剣神楽りょうけんかぐら」や「稚児舞ちごまい」なども奉納ほうのうされています。昭和46年(1971)5月19日には前原町まえばるまち指定民俗文化財、昭和56年(1981)3月5日には福岡県無形民俗文化財の指定を受け、格調高い郷土芸能として評価されています。

Photo・写真

  • 参道:注連石
  • 参道の鳥居
  • 参道の鳥居
  • 参道:注連石
  • 参道の鳥居
  • 社殿前の境内
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 伊弉諾神社
  • 思兼神社
  • 神楽殿
  • 徳満神社
  • 髙祖神楽
  • 髙祖神楽
  • 髙祖神楽
  • 髙祖神楽
  • 髙祖神楽

情報

住所〒819-1571
糸島市いとしまし高祖たかす1578
創始そうし不詳ふしょう
社格しゃかく国史見在社こくしけんざいしゃ県社けんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい4月第4日曜(春大祭はるのたいさい)、6月第4日曜(夏大祭なつのたいさい)、10月第4土曜(秋大祭あきのたいさい
神事しんじ高祖神楽たかすかぐら夜神楽奉納よかぐらほうのう(10月25日)
HP 公式HP / Wikipedia

地図・マップ