九州の神社

福岡県・高見神社(北九州市)

由緒

御祭神ごさいじん主祭神しゅさいじん天之御中主神あめのみなかぬしのかみ高御産巣日神たかみむすびのかみ神産巣日神かみむすびのかみ可美葦芽彦遅神うましあしかびひこぢ天之常立神あめのとこたちのかみ国之常立神くにのとこたちのかみ豊雲野神とよくもぬのかみ天照大御神あまてらすおおみかみ天忍穂耳命あめのおしほみみのみこと皇孫瓊々杵命すめみまににぎのみこと彦穂々手見命ひこほほでみのみこと鵜萱葺不合命うがやふきあへずのみこと
相殿神あいどのがみ若宮社わかみやしゃ大雀命おほさざきのみこと仁徳天皇にんとくてんのう)、石之比売命いはのひめのみこと
惣御前社そうごぜんしゃ宗像三女神むなかたさんじょしん多紀理毘売命たきりびめのみこと市杵島比売命いちきしまひめのみこと多岐都比売命たぎつひめのみこと
歳守社としもりしゃ大己貴命おおなむちのみこと大黒様だいこくさま八千矛神やちほこのかみ大国主神おおくにぬしのかみ)、豊受姫命とようけひめのみこと

由緒

高見神社たかみじんじゃは、熊襲討伐くまそとうばつ三韓征伐さんかんせいばつの時代、神功皇后じんぐうこうごうによって奉祭ほうさいされたとされる神社です。古文書こもんじょ神功皇后じんぐうこうごうを祭る神社とあり、豊山八幡神社とよやまはちまんじんじゃと並ぶ旧社にして高見たかみ産神うぶがみであったと伝えられています。 明治29年(1896)官営製鐵所かんえいせいてつじょ建設にあたって豊山八幡神社とよやまはちまんじんじゃ宮前みやまえ遷座せんざ。その後、昭和8年(1933)の明仁親王殿下あきひとしんのうでんかの御生誕と日本製鐵株式会社にほんせいてつかぶしきがいしゃ創立を慶機として現在のやしろが建立されました。

神功皇后じんぐうこうごうは、仲哀天皇ちゅうあいてんのう8年(199)9月に仲哀天皇ちゅうあいてんのうと共に熊襲討伐くまそとうばつのため親征しんせいし、筑紫つくし(九州)に向かいます。その途上、岡県主おかのあがたぬしの祖である熊鰐くまわにが、天皇の車駕しゃがが来ることを聞きつけ、周芳すおう沙麼さばうら(山口県防府市ほうふし佐波さば)にて、500本のさかきを9艘の船の舳先へさきに立て、上枝に白銅鏡まそかがみ、中枝に十握剱とつかのつるぎ、下枝に八尺瓊やさかにを掛け、周芳すおう沙麼さばうらにて出迎えます。そして魚と塩が取れる土地を御領ごりょうとして献上し、筑紫つくし(九州)の航路を伝え、船を導きました。

『日本書紀』巻第八

仲哀天皇八年春正月己卯朔壬午、幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐、聞天皇之車駕、豫抜取五百枝賢木、以立九尋船之舳先、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握剱、下枝掛八尺瓊、参迎于周芳沙麼之浦。而獻魚鹽地。


仲哀天皇八年(199)の春正月の己卯朔壬午に、筑紫に幸す。時に、岡県主の祖熊鰐、天皇の車駕を聞りて、予め五百枝の賢木を抜じ取りて、九尋の船の舳先に立てて、上枝には白銅鏡を掛け、中枝には十握剱を掛け、下枝には八尺瓊を掛けて、周芳の沙麼の浦に参迎ふ。魚塩の地を献る。

熊襲討伐くまそとうばつの中、仲哀天皇ちゅうあいてんのう崩御ほうぎょしますが、その後の政事まつりごとを執り行なった神功皇后じんぐうこうごうは、熊襲討伐くまそとうばつを成し遂げ、続いて三韓征伐さんかんせいばつに向かいます。神功皇后じんぐうこうごうは、帆柱山ほばしらやまより帆柱材を切り出して船団を整え、戦勝祈願のため洞海湾どうかいわんの小山、尾倉おぐら字高見あざたかみ(現・東田ひがしだ)に天神皇祖神あまつかみこうそしん十二柱じゅうにはしらをお祀りしました。それが高見神社たかみじんじゃの創始とされ、熊鰐くまわにの子孫によって代々祀られてきました。

天正てんしょう14年(1586)小早川隆景こばやかわたかかげが、豊臣秀吉とよとみひでよしの西国統下に伴い、崇敬あつく武運を祈願されました。その天正期てんしょうき(1573-1592)に東尾倉ひがしおぐらより若宮社わかみやしゃ相殿あいどの遷座せんざ。『高見大神宮縁起たかみだいじんぐうえんぎ』や、文久ぶんきゅう2年(1862)建立の鳥居の額束がくづかには「高見大神宮たかみだいじんぐう」と称され、遠賀おんが鞍手くらて両郡の郡代ぐんだい・役所より奉幣ほうべいがなされました。社殿しゃでんの御造営には郡の御備米があてられ、近郷の高見神社たかみじんじゃ本宮ほんぐうとされました。

明治29年(1896)官営製鐵所かんえいせいてつじょ建設により髙見神社たかみじんじゃも同所用地となったため、明治31年(1898)尾倉おぐら豊山八幡神社とよやまはちまんじんじゃの隣接地に遷座せんざ。爾来、工場の拡張と共に地主神たる守護神として祀られました。製鐵所では高見神社たかみじんじゃの御神威をかしこみつつ、日本国家の近代化産業の守護神としてふさわしい神社を新たに建立する気運が高まります。昭和8年(1933)の明仁親王殿下あきひとしんのうでんかの御生誕と日本製鐵株式会社にほんせいてつかぶしきがいしゃ創立を慶機として四季を通じて美しく由緒深き大蔵字入地(現・高見地区)に現在の高見神社たかみじんじゃを御造営する運びとなりました。

昭和8年(1933)高見神社たかみじんじゃ御造営奉賛会ごぞうえいほうさんかいが設立され、「髙見神社御造営大事業たかみじんじゃごぞうえいだいじぎょう」は、官営製鐵所かんえいせいてつじょ内務省ないむしょう(現在の総務省)共同の国家事業として行われました。初代渡邊義介わたなべぎすけ所長をはじめとする当時の製鐵所せいてつじょ従業員・関係企業の社員・地域は勿論、崇敬あつき人々の御浄財ごじょうざいと御奉仕により、10年の歳月を要しました。当時、ひとりひとりが気持ちを込めて植えた樹木は、今や広大な大自然に恵まれた鎮守ちんじゅもり御神域ごしんいき)となっており、珍蝶アサギマダラが舞うなど、小鳥の楽園、渡り鳥や野鳥の宝庫です。特に古今伝授の三霊木さんれいぼくの一つとして有名な招霊木おがたまのきは、髙見神社たかみじんじゃ御神木ごしんぼくとなっています。

相殿あいどのには、天正てんしょう時代のはじめに東尾倉ひがしおぐらより遷された若宮社わかみやしゃのほか、官営製鐵所かんえいせいてつじょゆかりの地の神社も合祀ごうしされています。洞海湾どうかいわん小島こじま小丸山こまるやま惣御前社そうごぜんしゃは、風浪に洗われたため相殿あいどのとして祀られました。高見神社たかみじんじゃ御造営の大石垣に小丸山こまるやまの石が使用され、神楽殿かぐらでん入口の手水石ちょうずいしは当時の鳥居の台石です。 大蔵字河内の歳守社としもりしゃは、製鐵所せいてつじょ河内貯水池かわちちょすいちとなったため、髙見神社たかみじんじゃ御遷座ごせんざの際に相殿あいどのとして祀られました。

昭和24年(1949)5月18日には、昭和天皇しょうわてんのう九州御巡幸きゅうしゅうごじゅんこうにあたり、福岡県下の旧官幣大社きゅうかんぺいたいしゃとともに、特に御幣帛ごへいはくを賜りました。昭和を代表する総檜木流造そうひのきながれづくり御社殿ごしゃでんとともに、高見神社たかみじんじゃに由緒ある人々と心と歴史を伝えています。

相殿あいどの

若宮社わかみやしゃ

  • 東尾倉ひがしおぐらより天正てんしょう期(1573-1592)のはじめに遷座せんざ
  • 御祭神ごさいじん大雀命おほさざきのみこと仁徳天皇にんとくてんのう)。学問、知恵、交易の神。経営の神。
  • 御祭神ごさいじん石之比売命いはのひめのみこと。子育て、家内安全、家庭円満の神。良妻賢母の神。

惣御前社そうごぜんしゃ

  • 洞海湾どうかいわん小島こじま小丸山こまるやま鎮座ちんざするも、風浪に洗われたため遷座せんざ
  • 御祭神ごさいじん宗像三女神むなかたさんじょしん多紀理毘売命たきりびめのみこと市杵島比売命いちきしまひめのみこと多岐都比売命たぎつひめのみこと
  • 洞海湾どうかいわんの守護神。筑前ちくぜん豊前国ぶぜんのくに境の神。長崎街道の神。交通安全・防衛の神(必勝の神)
  • 宗像三女神むなかたさんじょしんは、宗像大社むなかたたいしゃ御祭神ごさいじんで、交通安全・防衛の神です。小丸山こまるやま(現在の洞海湾どうかいわん)が交通の要所であった事、現在の高見神社たかみじんじゃ筑前ちくぜん豊前国ぶぜんのくに境にあたり、長崎街道の要であった事から、相殿あいどのに奉られました。
  • 高見神社たかみじんじゃ御造営の大石垣に小丸山こまるやまの石が使用されています。
  • 神楽殿かぐらでん入口の手水石ちょうずいし高見神社たかみじんじゃ御造営時の鳥居の台石です。

歳守社としもりしゃ

  • 大蔵字河内に鎮座ちんざするも、製鐵所せいてつじょ河内貯水池かわちちょすいちとなり、昭和8年(1933)の高見神社たかみじんじゃ遷座せんざにあたり合祀ごうしの上、相殿あいどのに奉られました。
  • 御祭神ごさいじん大己貴命おおなむちのみこと大黒様だいこくさま八千矛神やちほこのかみ大国主神おおくにぬしのかみ)。厄除けの神。商売繁盛、経営の神。縁結び、家内安全の神。医療、健康の神。
  • 御祭神ごさいじん豊受姫命とようけひめのみこと。食物、商売繁盛の神。

社殿しゃでん

昭和8年(1933)高見神社たかみじんじゃ御造営奉賛会ごぞうえいほうさんかい設立から始まった現在の高見神社たかみじんじゃ社殿しゃでんは、内務省ないむしょう神社局じんじゃきょく勅任技師ちょくにんぎし角南隆すなみたかしの設計によるものです。角南技師すなみぎしは、東京大学工学部建築学科で近代建築を学び、明治神宮めいじじんぐう再建をはじめ近江神宮おうみじんぐう吉野神宮よしのじんぐう祐徳稲荷神社ゆうとくいなりじんじゃなど多くの神社を手掛けた昭和期を代表する神社建築家で、独特の神学論と思想を背景に「神や神社とは何か」を命題にかかげて古来の神社建築に新風を吹き込んだモダニストと評価されています。

内務省ないむしょうと旧官営製鐵所かんえいせいてつじょによる国家的プロジェクト「高見神社御造営たかみじんじゃごぞうえい」は、日本近代化産業の守護神としてふさわしい神社を造るために、角南技師すなみぎしが自分の思い通りに設計することで引き受け、10年もの歳月をかけたものとなりました。

参拝者が一体感を高める空間を基本に置いて、本殿ほんでん拝殿はいでん・その両側にある祭舎まつりしゃの配置を含め、高見神社たかみじんじゃの多くの箇所にモダンな設計が施されています。造営建築材は樹齢1000年以上の無節むせつ柾目まさめの台湾ヒノキ。社殿しゃでん柱間はしらま建坪は約200坪、屋根面積は約1000坪に及び、いたるところに「角南建築すなみけんちく」の特徴とされる「輪奐りんかんの美」(広大な建築物が自然や環境と調和し優美な様子)が表現されています。また、殿内の舗設設計には神社局じんじゃきょく考証課長こうしょうかちょう宮地直一みやじなおかず博士や造神宮使庁ぞうじんぐうしちょう嘱託技師しょくたくぎし等も加わるなど、当時を代表する神社造営の権威者達が手掛けた昭和の代表的木造神社建築でもあります。

  • 第一期工事:昭和10年(1935)10月~12年(1937)4月
    本殿ほんでん・祝詞舎・拝殿はいでん渡廊わたりろう祭舎まつりしゃ・第一石鳥居・第二檜鳥居
  • 第二期工事:昭和12年(1937)10月~13年(1938)3月
    神饌殿しんせんでん神楽殿かぐらでん手水舎てみずや社務所しゃむしょ一階
  • 第三期工事:昭和13年(1938)3月~17年(1942)1月
    神門しんもん袖舎そでしゃ廻廊かいろう社務所しゃむしょ二階・表参道・境内整備
  • 境内整備:昭和18年(1943)
    髙見苑たかみえん造成
  • 御社殿ごしゃでん、及び付帯設備
    ・建坪200坪、台湾檜たいわんひのき柾無節流造まさむせつながれづくり
  • 神楽殿かぐらでん神饌所しんせんしょ
    ・建坪60坪、台湾檜たいわんひのき柾無節流造まさむせつながれづくり
  • 神門しんもん
    ・建坪60坪、台湾檜たいわんひのき柾無節流造まさむせつながれづくり

境内社けいだいしゃなど】

高見大神宮たかみだいじんぐう

神門しんもん前左の丘上おかうえ鎮座ちんざ旧社きゅうしゃ遥拝ようはいしています。

あま眞名井まない御神水ごしんすい)」

社殿しゃでん向かって左前にあります。地下55mより汲み上げた天然水です。


神事しんじ祭事さいじ

秋季大祭

実りの秋に五穀豊穣を感謝するお祭りです。高見神社たかみじんじゃでは、産業及び人々の安全を感謝することも兼ねています。また、文明ぶんめい8年(1477)の記録が伝えられ、筑前国遠賀郡ちくぜんのくにおんがぐんに伝わる社家神楽しゃけかぐらで、日本で最も古い里神楽さとかぐらのひとつであろうと言われる筑前国御殿神楽ちくぜんのくにごてんかぐらも奉納されます。

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 一之鳥居
  • 一之鳥居
  • 一之鳥居
  • 二之鳥居
  • 神門
  • 神門
  • 神門から社殿
  • 高見大神宮
  • 天の眞名井(御神水)
  • 社殿
  • 社殿

情報

住所〒805-0016
北九州市きたきゅうしゅうし八幡東区高見やはたひがしくたかみ1丁目1-1
創始そうし昭和8年(1933)
御造営奉賛会ごぞうえいほうさんかい設立
昭和10~12年(1935-37)
・第一期工事[社殿しゃでん鳥居とりいなど]
社格しゃかく無格社むかくしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい4月28日(春季大祭)
10月16日・17日(秋季大祭・神輿御幸みこしぎょこう
HP 公式HP / Wikipedia

地図・マップ