櫻井神社は、岩戸神窟に顕現した与止妃大明神を祀る櫻井神社(与止妃宮)と、天照大御神と豊受大御神を祀る櫻井大神宮からなる神社です。
櫻井神社(与止妃宮)に奉祀されている与止妃大明神は、神直日神、大直日神、八十枉津日神の三柱の総称です。また、寛永9年(1632)に当宮を創建した福岡藩2代藩主・黒田忠之公の神霊を島岡大明神として、櫻井村内にあった8社(久保宮・西宮神社・熊野宮・伊牟田八幡宮、・谷熊野神社・木浦神社・梅宮・末松神社)の御祭神を八所産土大神として合祀しています。創始となった櫻井神社の社殿後方にある神窟に奉祀せらる御祭神は大綿積神で、岩戸宮とも尊称されています。
【創建譚:浦姫様と黒田忠之公】
慶長15年(1610)6月1日の朝から、櫻井の里を中心に大豪雨の中、終日雷鳴が轟きます。翌2日の早朝に至り、ようやく晴れ間が差して風雨・雷は静まりました。村人たちが、雷が落ちたと思われる三郎畑という小高い丘を見に来ると、人が入れるだけの大きさの穴が開いているのを見つけます。竹を挿し入れて探ると、さほど深くはないことが分かり、掘り進めると横に岩穴があり、南面した入口には大石が扉のようになっていました。これを開くと岩屋の口の上の壌土が墜ち、岩戸の中が顕れました。
畏れ怪しんで村人たちは遠巻きに見るばかりでしたが、松明をかかげた里の越後という剛の山伏に従い岩窟に入ります。すると三面の巌は、左右上下は平らかにして遮蔽するものなく、清浄にして荒磯の波風にさらせるが如く、自ずと自ら荒潔くなる心持ちとなる程のものでした。話を聞いた村人たちが、覗き込む中、1人の老女が忽ちの内に気色ばみ「神あり!神あり!」と叫び出したことから、人払いがなされ、敷地へ入るのが禁じられました。その後、噂を聞いた遠近からの参拝者が岩戸を拝もうと次々に訪れるようになりました。岩戸の開いた翌日からは、黄昏の後に岩屋の内より大きく光る物が出て、しばらくその上に徘徊した後、北西の海上に飛び去ることが続きました。
岩戸が開いて数日後、村人の中に岩松城屋敷址に居住していた浦刑部次永の子孫である浦新左衛門毎治の妻・乗蔵が神懸かりします。
後に神女の浦姫として祀られる乗蔵は、幼き頃より正直にして慈愛深く、祭祀を奉ることを好みました。16歳の時には臥せっていた母親を3年にも渡り、甲斐甲斐しく看病する孝徳も積んでいました。母親は、その今際の時に感謝の言葉と共に、いつか人から拝されるようになるだろうと言い残して亡くなったと伝えられています。
乗蔵が神懸かりしたその日、乗蔵は陽も昇らぬうちに起き「前日の夜、神様からの御告あり岩戸を詣でん」と告げ、導かれるように磯辺に下り、塩水を汲んで岩戸に入ります。すると四方は白雪が満ちる銀世界となり、奥より飛んできた大きめの砂粒が眉間に当たり、我に返ると忽ちの内にボンヤリと左右の石壁に諸々の神々の姿が浮かび上がりました。そして参詣する人々に向って「貴方たちはなぜこの神々を見て奉らないのか!ここに神々が御座します!畏れ敬うことなく入ってはいけない!」と戒ると人々は驚いて退出しました。
その後、乗蔵は帰宅すると自らの汚れを恥じ、急いで汐ゆ(海の塩水)を取らせ、中に交じった砂を米を食べるが如く噛みしめると、口の脇から血が流れ出し、その口を汐ゆで漱ぎました。暫くすると、岩戸が開いた由縁を語り始め、諸々の神々の御託宣を聞き及んだ人々は、畏れ慄いたのでした。この時、乗蔵は42歳。乗蔵の神憑りの後、岩戸から出ていた大きく光る物は出なくなりました。
同年(1610)8月12日の月の明るい夜更け。乗蔵の枕頭に童男・童女が忽然として現れ、海宮を見ておいた方が良いであろうと宣り、乗蔵は荒磯に誘われました。童女は手鉾を左右の手に携えて先に立ち、童男は右手に紙垂の附いた榊、左手に紅の絹の附いた笹(篠)を持って海の中に入ると潮水が左右に分れ、乗蔵がその後を従い行くと程なく海宮に至りました。
壮麗荘厳な海宮には諸々の神々が数知れず並んで座り、乗蔵を迎える宴が行われました。しばらくして乗蔵が戻るときも童男・童女が導き「今回開いた岩戸はこの海宮との通路である」と告げます。そして、やがて国主より御社が建立され、乗蔵の子孫が神職を継ぐこととなると宣ります。続けて童男が「龍宮の都を見する有様を人に語るなつつしめよ」と歌い、童女が「つつしみて萬を祷れ叶ふべし龍の都の有らん限りは」と歌います。この2首を授け、童男が手に持った紅の絹を岩戸の懸け置くよう告げます。童男・童女が帰ると辺りは、白々と夜が明けてきていました。
家に帰った乗蔵は、急いで身を浄めて岩戸に詣でて岩戸の入口に紅の絹を懸けます。それを見た人々は奇異なることと訝しがるも、それ以降、乗蔵は海宮へ通うと言い残して、姿を見失うことが度々あり、彦火々出見尊(山幸彦)の御時より海と人との通路が絶えていた海宮へ、海神の教えにより、行き通ったと伝えられています。
乗蔵が初めて海宮に通ったとされるその翌13日の夜。乗蔵の家に金色の光が輝き渡り、乗蔵は口から幾度も血を吐きます。その後、清水を汲ませて大量に飲み干して吐くこと5~6度。突然に、「我は海の神なり。国家安穏ならしめんために爰に現す、我を信ずる輩は萬意の如くなるべし。血を吐かせしは、臓腑を清浄ならしめんためなり」と御神託が降り、先に天照大御神の御託宣、次に春日大神、その次に八幡大神の御託宣、そしてその次に日本国中の神祇の御託宣がありました。しばらくしての後、改めて海神の御託宣がありました。その御神託を聞いた人々は、畏れ敬うばかりでした。同年10月21日には、乗蔵に「今より後五ヶ年の間五穀を断ち、唯茶酒を呑み、家内に穢食を忌むべし。又此一邑の中生を殺す事を忌むべし」と御告げがあり、その後、乗蔵は茶と酒のみを飲みて、五穀を始め一切の食物を断ちます。その5年の後の正月13日に御告によりに食事は常に戻りました。
乗蔵は浦姫として祀られるようになり、岩戸神窟の側に一間ばかりの参談所を構えました。日々詣でる人たちの既往を語り、未然をはかり、吉凶・禍福を告示すること違えるありませんでした。その霊験は遠近に知れ渡るところとなり、福岡藩主の黒田忠之公の耳に届くところとなりました。
黒田忠之公はその真偽を確かめるため近臣を下男の体に仕立て遣わしました。その次第を全て事前に見通していた浦姫は、国主からの御遣いが来るのため饗応の準備をして待っていました。使者が門前に着いた頃に「今参られた年頃は何歳程で、某色の色の衣服を着た方は国主からの使者なので、こちらへ迎え入れてください」と言い、使者を招き入れました。
使者は、自分は下男に過ぎず、私事を尋ね参ったのに過ぎないと申すものの、浦姫は笑って「国主が仰ったのは斯々然々、今いらっしゃるあなたの御心は斯々然々でございましょう。なぜに嘘を仰るのですか?」と言うと、使者は陳謝するばかりで、尋ねるよう申し付けられていた質問を聞いて帰ります。
黒田忠之公は、その後に改めて、妄りに怪異を信じることのない権臣の村山氏を遣わして真偽を確かめさせます。櫻井に向かって、七寺川(長垂海浜公園付近)を渡っていた時、村山氏は知人に会い、公命にて櫻井に参ることを述べ、浦姫の御神託なぞ戯言だと言って足を進めます。前回と同様、事前に見通していた浦姫は、疑心のみで村山氏が訪れることを予見しながらも、国主からの遣いであるからとして対面を待っていました。
そして村山氏が訪れると、遠方からの労苦を労るも、本心を違えての遣いであり、七寺川を渡っていた時に起きたこと、その時の心根を事細かに言い当てたのでした。続けて、「神慮の妙なることは凡夫には計ることができないもので、その曇った心根に映るはずもない。その様な者に何を述べることがありましょうか」と言い残し、座を背にしたのでした。
村山氏が計り難き神慮を畏れて黙り込んでいると、浦姫は「誤りは誤りとして改めるのが良い。疑うことを辞めずに国主に報告するのは良くない。もし問われることがあれば申せ」と云います。村山氏は主君が仰ったことを始め、様々なことを質問しますが、ひとつとして違えることがなかったことから、ついに信心を起こしてその由縁を黒田忠之公へ報告したのでした。その後、黒田忠之公は自ら櫻井に参詣し、様々に質問すると全てに御神託があったことから大いに感じ入る所となりました。黒田忠之公は度々参詣するようになり、吉凶禍福を問うと必ず御神託があり、神威が示されることも数知れず起こったのでした。大いに稜威を感じ、尊崇の念を深めた黒田忠之公は、御社殿と造営を発願されます。
そして天照大神宮を建立するよう御神託があったことから、櫻井神社に先立って神明造りと茅葺の三殿を造営します。伊勢神宮の祠官・橋本氏をして内宮・外宮の御分霊を奉祀させ、寛永2年(1625)9月11日に櫻井神社の南西130mほどの光寿山の麓に櫻井大神宮が創建されました。櫻井大神宮は内宮・外宮を1宇に合祀されたので、両大神宮とも称えられました。本殿の千木は向って右が内削で、内宮(天照大御神)を現し、向かって左が外削で外宮(豊受大御神)を現わした独特の建築様式です。
また、櫻井大神宮は創建以来、伊勢神宮の古式に習い宮地を2ヶ所に定めて、20年毎に交互に遷宮せられてきましたが、慶応2年(1866)式年遷宮13回目にして止まり、現社殿はその当時のものです。因みに伊勢神宮式年遷宮に際して第60回(平成5年・1993)の折には風日祈宮、第61回(平成25年・2013)の折には佐美長神社の御鳥居が頒賜移築されています。
櫻井大神宮に続いて寛永6年(1629)に櫻井神社が着工。この造営に際し、御神託も数多くなされ、寛永6年(1629)11月3日の御託宣では、次の御神託がありました。
我地神の末より海と人との通路を止めて二千余年を経たり。今故あつて爰に現す。国栄え民安からしむへし。岩戸は海宮の通路なり。正直を心として謀計をたち、清浄にして我に事へば禍を除き安穏ならしめんとなり。
岩戸の前の山を引ならし、池を堀り谷を埋め門前の町割まで整えられ、神殿・拝殿・楼門・廻廊・石鳥居・神池・御苑石・燈籠等に至るまで全て造営せられました。金欄・蜀江・錦を各1巻。宝玉、その他種々の宝物・神馬に至るまで奉納され、寛永9年(1632)に創建されました。
創建に際しては、京都の吉田家より鈴鹿兵部少輔治忠を招請して神事が行われ、社号を與世姫大明神(与止妃大明神)と崇め奉られました。社域33,000平方坪。神殿、拝殿をはじめ楼門、廻廊、石鳥居、神池、神橋など備わり、稀にみる壮麗を極めたものでした。岩戸近くの本殿に神直日神、大直日神、八十枉津日神の三柱を祀り、それまで京都の吉田神社から分祀されることのなかった斎場所大元宮(神祇殿)、別称、八角社も勧請し、その御祭神の天神地祇八百萬神を祀りました。
宝剣、几帳、御幣、金銀幣などの神物・神具は、吉田神社にて造られたものが奉納され、大刀、錦・金襴などの神宝、黒田長政公が朝鮮より持ち帰った宝珠も奉納されました。また、高さ2寸5分(約7.5cm)、廻り8寸(約24cm)の大きさの紫色の玉が、岩屋の内に神宝として奉安され、乗蔵(浦姫)が海宮を訪れた際、海神より託されたものと伝えられています。
それに続けて、黒田忠之公が38歳になった時、天下に佳名を掲げるであろうと御告があり、果して38歳となった寛永18年(1641)黒田忠之公は肥前国長崎の藩鎮となりました。
浦姫は寛永13年(1636)12月2日に68歳で亡くなります。その亡くなる際にも様々な不可思議が起こったとされています。尚、浦姫は、居住していた岩松城の屋敷址の浦姫宮に浦比咩大神として祀られており、命日の12月2日に例祭が奉斎されています。
また、黒田忠之公が逝去された後、宰臣の黒田一任と浦姫の子孫の浦毎成は相計って黒田忠之公を御祭神として祀ることとし、吉田家より神号を申し受け、島岡大明神と崇め参らせ、毎月12日を祭日として伝えています。
歴代の国主・黒田氏からのと尊崇厚く、社殿の修繕、神器・神具・祭祀料等一切の寄進があり、年中の大祭には国主自ら参拝、又は重臣の代参がありました。能楽及び大神楽・流鏑馬などの奉納があり、筑前国中からの崇敬を集めました。正徳5年(1715)4月7日には与止姫大明神に正一位勅許。
明治2年(1869)櫻井神社と改称され、櫻井村の氏神に許可されます。明治14年(1881)1月27日村社に定められ、同年2月に櫻井村内にあった久保宮・西宮神社・熊野宮・伊牟田八幡宮、・谷熊野神社・木浦神社・梅宮・末松神社の8社の御祭神も八所産土大神として合祀。大正12年(1923)7月31日に県社へ昇格しました。
昭和52年(1977)4月9日に本殿・拝殿・楼門が、平成15年(2003)には太鼓橋は県指定有形文化財として指定されました。
【黒田騒動】
神窟が開いた慶長15年(1610)。その後、寛永2年(1625)に櫻井大神宮、寛永9年(1632)に櫻井神社が創建されます。黒田忠之公がその造営を発願するに至ったこの期間、福岡藩(黒田藩)はお家騒動で大きく揺れていました。
黒田騒動は、元和9年(1623年)黒田長政公の没後、黒田忠之公が2代藩主になってから始まります。藩主に着いたばかりの黒田忠之公は、自らの側近を重用し先代からの重臣らと対立します。そして櫻井神社が創建された寛永9年(1632年)の6月、一番家老で麻底良城の城主であった栗山大膳が江戸幕府に「藩主に反逆の企てあり」との訴状を差し出したのでした。
幕府から呼び出されることになった福岡藩は、急ぎ家老を江戸へ上らせます。藩の取り潰しも予想される中、最終的に3代将軍・徳川家光が直々に裁いた結果、黒田忠之公側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年に及ぶ抗争に幕を閉じました。
この黒田騒動の中、黒田忠之公は浦姫のもとへお忍びで訪れ、江戸の成り行きを尋ねたと伝えられています。浦姫は庭にある榎の大木に登り、江戸の方を見つめ一心に思いを凝らします。しばらくすると、浦姫の心に江戸城の裁きの様子が映り、家老の明快な返答ぶりを教えました。黒田忠之公は、その信じられないような能力に驚かれ、後に浦姫の話が事実と少しも違わないことを知るとその信頼は益々深まり、難しい事が起こる度に相談されたとされています。尚、このとき浦姫が登ったとされる榎は、浦姫宮の榎とされています。後に枯れてしまうも古株から芽を出した若木があり、浦姫の生まれ変わりだと言い伝えられて今も残されています。
【浦姫の系譜】
【境内】
「岩戸宮」
社殿後方、慶長15年(1610)6月2日の早朝に開いた御神霊顕現の神窟です。海宮への通路とされ、御祭神として大綿津見神を祀っています。例大祭の斎行される7月2日には午前4時から神事が執り行われ、一般の方も岩戸宮内に入り参拝することができます。
「櫻井神社・社殿」
寛永9年(1632)の棟札が残る本殿は、豪華絢爛たる龍宮城を想わせる桧皮葺き三間社流造。切妻造、平入りの屋根に向拝を付け一流れにしており、流れと前流れが不均等になるのを、曲線を用いて均衡を巧みに保っているところに特色があります。正面は、三間、側面は一間、脇障子は板張りで、猪目懸魚の左右の巻き込みが大きいのは、後年の修理によるものとされています。極彩色豊かな安土桃山様式の彫刻があり、鮮やかな色彩が施され、当時の姿をよく残したものとなっています。長年の風雨によりかなり退色していたものを、平成3年(1991)から平成7年(1995)にかけての「平成御大典記念事業」により復元され、創建当時の姿に復旧されました。
拝殿は、本殿とほぼ同時期に建てられたとされ、正面三間、側面三間の切妻造。現存する古絵図では、東側に入母屋造の張り出しがみられますが、現在は礎石しか残っていません。屋根には銅板が葺かれていますが、古絵図によると瓦が葺かれていたようで、昭和六年の屋根修理で葺き変えられたものと考えられています。古絵図との相違点はいくつかあるものの、ほぼ創建当時の姿を残しているとされています。
楼門は、三間一戸の構造で、本殿完成後間もなく拝殿とともに建造されたものと考えられています。屋根は銅板で覆われていますが、創建当時は瓦葺きであったとされています。正面に掲げられる扁額には「正一位與止姫大明神」とあり、享保元年(1716)に掲げられたものです。
昭和52年(1977)4月9日に本殿。平成9年(1997)7月25日に拝殿と楼門。平成15年(2003)に太鼓橋と御池周囲の石垣が県指定文化財に指定されています。
「夫婦岩」
櫻井神社から北北東1km。玄界灘の海岸、櫻井二見ヶ浦に祀られる夫婦岩は、櫻井神社の宇良宮として櫻井神社 の社領になっており、代々黒田藩主の崇敬を受けてきました。伊弉諾命と伊弉冉命をお祀りし、大注連縄でしっかりと結ばれたその姿は、縁結・夫婦円満・子授けの神として信仰されています。男岩の高さ11.8m、女岩の高さ11.2m。夫婦岩に掛る大注連縄は、長さ約30m、太さ約90cm、重さ1tにもなり、4月下旬~5月上旬の大潮の日曜に、氏子たちの手により大しめ縄掛祭が斎行されています。夏至の日には夫婦岩の間に夕日が沈むことから、三重県伊勢市の二見浦が「朝日の二見浦」と呼ばれるのに対し、糸島の二見ヶ浦は「夕日の二見ヶ浦」と称されています。県の名勝に指定されているほか、「日本の渚百選」と「日本の夕陽百選」にも選出されています。
「大神宮と鳥居」
櫻井神社創建に際し黒田忠之公は、天照大神宮を建立するよう御神託があったことから、櫻井神社に先立って神明造りと茅葺の三殿を造営します。伊勢神宮の祠官・橋本氏をして内宮・外宮の御分霊を奉祀させ、寛永2年(1625)9月11日に櫻井神社の南西130mほどの光寿山の麓に櫻井大神宮が創建されました。櫻井大神宮は内宮・外宮を1宇に合祀されたので、両大神宮とも称えられました。本殿の千木は、向って右が内削で内宮(天照大御神)を現し、向かって左が外削で外宮(豊受大御神)を現わした独特の建築様式です。また、櫻井大神宮は創建以来、伊勢神宮の古式に習い宮地を2ヶ所に定めて、20年毎に交互に遷宮せられてきましたが、慶応2年(1866)式年遷宮13回目にして止まり、現在の社殿はその当時のものです。因みに伊勢神宮式年遷宮に際して第60回(平成5年・1993)の折には風日祈宮、第61回(平成25年・2013)の折には佐美長神社の御鳥居が頒賜移築されています。参道を進んで手前から拝殿・中殿・本殿の三殿になります。
【摂末社】
「櫻井猿田彦神社」
楼門を向かって左奥に鎮座。導き・災い除けの神として猿田彦神を祀っています。
「塞の神」
楼門を向かって左、櫻井猿田彦神社の前に鎮座。病や怪我を治す病気平癒の神を祀っています。
「八神殿・須賀神社」
社殿向かって左手前に鎮座。吉田神社に所縁を持ち、国家守護・天皇守護の神として8神(神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神)を祀る八神殿。悪疫を退ける神として須佐之男命(牛頭天王?)を祀る須賀神社が合祀されています。
「日子神社・楠神社・春日神社」
社殿向かって左手奥に合わせて鎮座。農業・山の神として日子神社と楠神社。藤原氏守護・厄除の神として春日大神を祀っています。春日神社は、慶長10年(1610)8月13日に春日大神より浦姫に御神託が降りたことに由来しています。
「八幡宮」
社殿向かって右手奥に鎮座。武運・必勝の神として八幡大神を祀っています。慶長10年(1610)8月13日に八幡大神より浦姫に御神託が降りたことに由来しています。
「金比羅神社」
社殿向かって右手に鎮座。航海・金運の神として大物主神を祀っています。
「二見ヶ浦遥拝所」
社殿向かって右手前に鎮座。櫻井神社から北北東1km。宇良宮と称される櫻井二見ヶ浦に祀られる夫婦岩を遥拝しています。