「大神様(おんがさま)」と地元では呼び親しまれる大己貴神社は、神功皇后の熊襲平定と三韓征伐の伝承地で、仲哀天皇9年(200)の創建と伝えられ、我が国で最も古い神社とされています。延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に記された筑前国十九式内社の一社で、「於保奈牟智神社」と記載せられた式内小社です。南面する正殿に大己貴命、東の左殿に天照皇大神22:18 2018/10/06ruby>、西の右殿に春日大明神を御祭神として祀っています。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
筑前国十九座[大十六座・小三座]。宗像郡四座[並大]。宗像神社三座[並名神大]、織幡神社一座[名神大]。那珂郡四座[並大]。八幡大菩薩筥崎宮一座[名神大]、住吉神社三座[並名神大]。糟屋郡三座[並大]。志加海神社三座[並名神大]。怡土郡一座[小]。志登神社。御笠郡二座[並大。筑紫神社[名神大]、竈門神社[名神大]。上座群一座[小]。麻氐良布神社。下座郡三座[並三座]。美奈宜神社三座[並名神大]。夜須郡一座[小]。於保奈牟智神社。
仲哀天皇8年(199)仲哀天皇は熊襲平定の準備を進めますが、神懸りした神功皇后から「熊襲よりも宝のある新羅を攻めよ」との託宣を受けます。しかしその託宣を信じず熊襲征伐を行ますが、敗北して仲哀天皇9年(200)2月6日崩御されます。
後を継いだ神功皇后は、同年3月齋宮に入って自ら神主となり、まずは朝倉市秋月野鳥の古処山に居城していた熊襲の羽白熊鷲を討伐します。同年9月10日新羅征討を起こすにあたり、船舶を集め練兵しますがなかなか集まらないため、大三輪社を建て刀と矛を祀ります。すると直ぐに軍勢が整い船出したと伝えられています。その大三輪神(大己貴命)を奉ったのが当地で、創始とされています。
『日本書紀』神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年秋九月庚午朔己卯
令諸国、集船舶練兵甲、時軍卒難集、神功皇后曰「必神心焉。」則立大三輪社以奉刀矛矣、軍衆自聚。
諸国に令して、船舶を集め、兵甲を練らる。時に軍卒つとひかたし。皇后の曰、必神の心ならんとて、大三輪社を立て、以て刀矛を奉り玉ひしかは、軍衆自聚る。
社記によれば、大同元年(806)大和朝廷より封戸(62戸)。弘仁2年(811)嵯峨天皇の勅願により再建。文明3年(1471)土御門天皇、先規に復され御造営したと伝えられています。しかし、天正15年(1587)豊臣秀吉の島津征伐の折、兵火に遭い、社殿・宝物・勅書・社記・古文書など尽く焼失。そのため烏有に帰して仮殿を営みます。
江戸期徐々に復興し、正保2年(1645)に再建。寛文12年(1672)石鳥居(二ノ鳥居)が建立され、翌年の寛文13年(1673)祭礼、神幸の儀式が再興されました。貞享4年(1687)再建され、現在の本殿になります。元禄5年(1692)拝殿を建立。明治29年(1897)県社に列格しました。旧夜須郡の惣社として崇敬を集め、毎年10月23日の大祭では御神幸が行われています。
本殿にかけての社殿は、江戸時代末期から明治初期頃の建造物で、八幡造を元にした作りになっています。二棟の切妻造の間、平入りの建物が前後に接続し、建物の中間に石間を置き、前面の拝殿は唐破風向拝付。後ろの建物が神座です。社域の構造物は筑前町の指定重要文化財に指定されています。
本殿左には、御神体山を拝する遙拝所があります。
社殿向かって後方の左手には菅原道真を祀る天満宮が鎮座しています。その反対の右手に2社並び、向かって左が素戔嗚命を祀る須賀神社。右が八幡大神を祀る八幡宮です。
また、当社と同様の由緒から奈良県の大神神社も日本最古の神社とされていますが、大神神社の近隣の地理や地名の配置と名称の多くが一致することから、その関連も指摘されています。