旧長崎街道に面する小高い丘(壇の上)に鎮座する曩祖八幡宮は、神功皇后摂政元年(201)三韓征伐から帰還した神功皇后が当地「曩祖の杜」に祭壇を設け、天神地祇の神霊を祀り給い、戦捷報告の祭典を執り行ったことを始まりとしています。曩祖とは皆が遠祖・祖先に通ずるとの字義で、郷民は壇の上の祭壇の跡を神霊あらたかな地として天神地祇、及び祖先の霊を氏神として奉ってきたとされています。
臨月を迎える中で三韓征伐に出征した神功皇后は、その帰還の折、産所を粕屋郡蚊田村に定めて誉田別命(応神天皇)を御産みになります。その生誕の地は「宇彌」と称されるようになり、神功皇后は誉田別命(応神天皇)を抱いて東への還御の途に就かれ、穂波郡に到ります。その途上の山を越える時には、赤子が楽に入るくらいの竹で編んだ笊笥に入れて御運びになったことから、その峠はショウケ越と今でも称されています。
峠を越された神功皇后は、三韓征伐に従軍した将士のみならず県主・村主等にも軍功行賞を行い、それぞれ物資を大いに分かち与えられ、労をねぎらいました。そして東へ還行する詔勅を宣りました。そのことからその地は「おおわけのさと・おおわかれのさと」と称されるようになり、今の「大分」となったとされています。
しかし従軍した将士・郷民等の多くは尽きせぬ別離を名残惜しみ、神功皇后の後を慕って「曩祖の杜」まで付き従います。神功皇后は、清き大きなる流れ、老楠大杉が鬱蒼と空に向かって聳える「曩祖の杜」を前にし、良き処と占い定めて祭壇を設けました。天神地祇(曩祖神)及び皇祖神の神霊を祀り給い、神酒や食物を奉納して戦捷報告の祭典を執り行ったのでした。そして神功皇后は、将士・郷民等との別れに臨んで「何日可逢」と宣ったのでした。将士・郷民等も口々に「またいつか尊顔を拝し奉らん」と再会を誓い、別れを惜しんだのでした。その由縁からその村のことを「いつか→飯塚」と称するようになったとの説も伝えられています。
また、神功皇后はこの滞在の折、川の上に到着した船が流れに逆らって風を受けて舟を進めているのを見て、まるで帆と波が競い合っているようだと感じ入ったとされています。その由縁からその地は帆波、転じて穂波となったとされています。
下って欽明天皇32年(571)宇佐の地にて応神天皇の御神霊が童子の御姿で御出現になり、八幡信仰の起源となります。その後、時代は不祥ではあるもの「曩祖の杜」にも御託宣があったことから八幡神も合わせ祀り、曩祖八幡宮と号しました。
天明7年(1787)福岡藩の命により封内が検じられ、筑前三十五社のひとつに選ばれて嘉麻・穂波2郡の惣社とされます。後に藩を上げて年ごとの祭祀を奉り、郡の司宰・朝野が盛大に祝うこととなりました。黒田家の崇敬を受けて本殿・拝殿などが整備され、『筑前国続風土記附録』や『筑前名所図会』などの地誌・絵図にも境内の様子が描かれています。
明治5年(1872)11月3日村社に被定。大正10年(1921)9月24日郷社に昇格。同年10月13日に神饌幣帛料供進神社。大正13年(1924)7月8日県社に加列 。昭和46年(1971)7月1日別表神社に加列されました。
「曩祖」の語源には異説もあり、昔、近隣にできた役所に郷民は年貢を納めたことから「曩祖」の言葉に「納租」の意をかけ、「納」の字が使用されるようになったとも、「曩」の字が難しく書き難いためであるとも考えられています。「曩」とは「さき・ありし日」という意味で「曩祖」とは「先祖」という字義であること。「曩祖」と記した古文書、印鑑、石鳥居の扁額が多数残っておりことから、現在の社号は「曩祖八幡宮」となっています。
【境内社など】
曩祖八幡宮の参道は、中央の曩祖八幡宮口、西側の天満宮口。東側の祇園宮口の3ヶ所に分かれています。飯塚山笠は祇園宮の祭りのため祇園宮口の階段下からスタートします。
「祇園宮(須佐宮)」
御祭神は素戔嗚尊と櫛稲田姫命で、京都の八坂神社(祇園神社)を勧請したものです。享保17年(1732)の飢饉を機に始まったとされる飯塚山笠は、当社への奉納のお祭りで、夏の市民祭として親しまれています。
「飯塚天満神社」
太宰府天満宮から勧請された菅原道真公の分霊を祀っています。社前の飛梅は昭和20年代に太宰府天満宮の西高辻家と飯塚の嶋田家と縁ができた時に株分けしたものです。飛梅は他の梅より約1ヶ月早く開花し、毎年1月初旬から2月初旬まで白梅を咲かせています。
「三日恵比須神社・十日恵比須神社」
明治39年(1906)向町・本町にあった恵比寿神社を移設したものです。商売繁盛の御利益があり、事代主神と大国主命を祀っています。
「曩祖の杜」
神功皇后が戦捷報告の神事を斎行した祭壇の跡地、曩祖宮発祥の地です。石碑は、貴族院副議長を務めた黒田家13代当主・黒田長成の直筆によるものです。
「産之宮」
御祭神として木花咲耶姫命を祀っています。木花咲耶姫命は御出産の際、自身の潔白を証明するため「妾が所娠める、若し天孫の胤に非ざれば必當ず𤓪け滅びてむ。もし實に天孫の胤ならば、火も害うこと能はじ。」と戸のない産屋にこもり火を放ちました。その中でも無事に三柱の神々をお生みになられたとの伝承から安産の神、縁結びの神、子安の神として崇敬されています。
また、塩土老翁尊、胞衣之神、祓戸之神も合祀されています。塩土老翁尊は、神武天皇を導かれ大和(日本)の建国に大いに役立たれた神です。潮を司り、海の流れを動かす神様で万物の方位を導き人生の指針をもたらす神として崇敬されています。胞衣とは胎盤のことを指し、無事に出産を終えた後、胎盤を大事に清め洗い子安を祈願し地中に埋めたという伝承があり、童の安泰を司る神として崇敬されています。祓戸之神は祓えと清めを司る神で、心身の清浄を保ち、清らかなる心身を授ける神として崇敬されています。
良縁、安産、縁結び、美女祈願、人生の道しるべ、心身清浄の御利益があるとされ、ここの鳥居だけが神明鳥居です。
「志賀神社」
志賀島にある志賀海神社を勧請したもので、海上守護・交通安全の神様です。御祭神は、綿津見三神(底津綿津見神・仲津綿津見神・表津綿津見神)です。
「大神宮」
向町にあった大神宮が明治42年(1909)に境内に合祀されたもので、向町で「神の栄」の銘柄だった麻生酒造跡地に旧祠が残っています。
「住吉神社」
寛政12年(1800)に現在の郵便局辺りに住吉宮が建てられましたが、明治39年(1906)に境内に移されました。交通安全の御利益があります。
「水守神社」
火を鎮める水の神・農耕神、食物の神・五穀を司る神、風の神・航空安全として罔象女神、保食神、級津彦神、級津姫神を祀っています。
「若光稲荷神社」
御祭神は宇賀御魂神。江戸時代には「宮の後稲荷社」と呼ばれていましたが、大正10年(1921)に若光稲荷神社と改称されました。毎月1日の11時から若光稲荷神社の神殿で月次祭の祭典が行われています。
「生目神社」
宮﨑にある生目神社を境内に勧請したもので、御祭神は藤原景清公です。藤原景清公は、源頼朝を討とうとして失敗し、遂には捕われの身となります。しかし、頼朝に赦免された景清公は、報復の念を断つべく、自らの手で己れの両眼を抉りとったのでした。それを聞いた頼朝は、その節義を賞して景清公に日向国宮崎庄を与えたと伝えられています。本社の生目神社では景清公の霊眼を齋き祀っており、眼疾患者を治癒するのに霊験著しいとされています。
【神事・祭事】
飯塚山笠
多くの死者を出した享保17年(1732)の飢饉を機に、京都の八坂神社(祇園神社)から疫神の御神徳厚い牛頭天王(素戔嗚尊)が勧請されます。その際に京都の祇園祭の山鉾が、山車や地車、台額、山、鉾と姿を変えて伝わったとされています。江戸時代後期に広がった大津絵節の「飯塚神の名寄せ」の一節に「御神幸は夜の中、お山は朝の中、お獅子が昼の中…」との条があることから、江戸時代末期には盛大に斎行されていたと考えられています。古くから御神幸は7月15日未明に行われ、追い山は昭和37年(1962)までは朝5時から行われていました。
しかし、炭坑閉山のあおりを受け一時途絶えます。復活を願う市民からの寄付と協力で昭和46年(1971)「市民祭飯塚山笠」として復活。その復活の翌年の昭和47年(1972)甚大な被害をもたらした集中豪雨が発生し、11日の流れ舁きを急遽中止し、山笠本部を災害対策本部に切り替えます。用意していた炊き出しのおにぎり1000個を配って回り、対策本部に舁き手を常時待機させ、万が一の出動に備えました。このことが後に飯塚山笠の評価を高め、今日の飯塚を語る際に欠かせない市民祭へと成長しました。
子安台
初宮参りでは独特の神事「子安台」が古くから斎行されており、神功皇后が当地で戦捷報告の祭典を行った際、御子である応神天皇を「台(岩)の上」に寝かせた古事に習ったものとされています。
筑前人形感謝祭
5月第2日曜。長年愛用した人形やぬいぐるみに感謝の気持ちをこめてお祓いし、別れを告げて焼納するお祭りです。寄せられたひな人形や五月人形、ぬいぐるみなどを祭壇に飾り付け、和太鼓や大正琴の演奏後に神事を行い、ご神火でお焚き上げします。