神功皇后摂政2年(202)創建とされる美奈宜神社は、中央殿に大国主命、東殿に素盞鳴命、西殿に事代主神の出雲三神を祀る神功皇后ゆかりの神社です。
社記によれば、神功皇后の三韓出征にその由緒は遡るとされています。仲哀天皇8年(199)9月、仲哀天皇は神功皇后と熊襲平定の準備を進めます。その時、神懸りした神功皇后から「新羅を攻めよ」との託宣を受けますが、それを信じず熊襲征伐を行い、翌9年(200)2月崩御されます。後を継いだ神功皇后は、改めて神託を受け、熊襲を討伐し、新羅へ兵を向けることにします。
吉備臣の祖神である吉備鴨別を派遣して撃たせると、熊襲は自ずと服従しますが、羽を生やし、駆けるように登る能力を持ち、日々人々を苦しめていた荷持田村の羽白熊鷲はその命に従いませんでした。神功皇后は、それを討つため橿日宮から松峡宮に遷り、層増岐野にて羽白熊鷲を討ちます。そして、心安らかになったと申されました。
『日本書紀』巻九 氣長足姫尊 神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九)
三月壬申朔。…(略)…。然後、遣吉備臣祖吉備鴨別、令擊熊襲國、未經浹辰而自服焉。且荷持田村、有羽白熊鷲者、其爲人强健、亦身有翼、能飛以高翔、是以、不從皇命。毎略盜人民。戊子、神功皇后、欲擊熊鷲而自橿日宮遷于松峡宮。時、飄風忽起、御笠墮風、故時人號其處曰御笠也。辛卯、至層増岐野、卽舉兵擊羽白熊鷲而滅之。謂左右曰、取得熊鷲、我心則安。故號其處曰安也。
三月の壬申の朔。…(略)…。然して後に、吉備臣の祖吉備鴨別を遣して、熊襲国を撃たしむ。未だ浹辰も経ずして、自ずからに服ひぬ。且荷持田村に、羽白熊鷲という有者り。其の為人、強く健し。亦身に翼有りて、能く飛びて高く翔る。是を以て、皇命に従はず。毎に人民を略盗む。戊子に、神功皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峡宮に遷りたまふ。時に、飄風忽に起りて、御笠堕風されぬ。故、時人、其の処を号けて御笠と曰ふ。辛卯に、層増岐野に至りて、即ち兵を挙りて羽白熊鷲を撃ちて滅しつ。左右に謂りて曰わく、「熊鷲を取りて得つ。我が心則ち安し」とのたまふ。故、其の処を号けて安と曰ふ。
社記によると、神功皇后はこの戦いの際、神様にお祈りされて「この潮干玉を使って川の水をからにし、川蜷に頼んで、一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って、一度に水を入れ、水攻めにして滅ぼしなさい」とお告げになったとされています。
その後、神功皇后は三韓征伐に赴き、その航海中に船中で御祭神とされている大国主命・素盞鳴命・事代主神の三柱神に戦勝を祈願され、三神の冥助があったと伝えています。そのことから神功皇后は三韓征伐を遂げた後、
肥前国の高橋の津に上陸後、三神を祀る社を建てるため1羽の白鷺を放ち神意を求めます。【参考:海面水位+5m時の地図】
舞い上がった白鷺は、こんこんと清水の湧きでる大沼の竹生した所に降り立ちます。神功皇后は、その地を白鷺塚と命名され、近くに神様を祭るお社を建てます。川蜷が守ってくれた村里を蜷城と呼び、三神を蜷城大明神と称して祀ったとされています。
その後、村里は蜷城は蜷城と呼ばれるようになりますが、神社名に
蜷城の読みは引き継がれ、時を経て美奈宜になったとされています。その神功皇后が御創立された社殿は、天平3年(731)再建されたと伝えられています。尚、鎌倉末期頃に記され、筑前国の『風土記』の内容を伝えるとされる『宗像大菩薩御縁起』では、当地の名称について筑前国蜷城とカタカナで振り仮名が当てられています。
『續日本紀』天平2年10月29日の条で「遣使奉渤海信物於諸国名神社」と記された名神社の一社と考えられ、『日本三代實録』貞観元年(859)1月27日では従五位上の神階が授けられたのを見ることができます。延長5年(927)の『延喜式神名帳』では、名神大社に列せられています。
『續日本紀』卷第十・天平二年(730)
十月庚戌。遣使奉渤海信物於諸国名神社。
十月の庚戌(廿九日)。使ひを遣わして渤海の信物を諸国の名神の社に奉わる。
『日本三代實録』卷二』卷二
貞觀元年(859)正月廿七日甲申。京畿七道諸神進階及新叙。惣二百六十七社。…(略)…。筑前国正三位勳八等田心姫神。湍津姫神。市杵嶋姫神並從二位。正五位下竈門神。従五位下筑紫神並從四位下。従五位下織幡神。志賀海神。美奈宜神並従五位上。无位住吉神従五位下。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
筑前国十九座[大十六座・小三座]。宗像郡四座[並大]。宗像神社三座[並名神大]、織幡神社一座[名神大]。那珂郡四座[並大]。八幡大菩薩筥崎宮一座[名神大]、住吉神社三座[並名神大]。糟屋郡三座[並大]。志加海神社三座[並名神大]。怡土郡一座[小]。志登神社。御笠郡二座[並大。筑紫神社[名神大]、竈門神社[名神大]。上座群一座[小]。麻氐良布神社。下座郡三座[並三座]。美奈宜神社三座[並名神大]。夜須郡一座[小]。於保奈牟智神社。
延元元年(1336)九州へ西下した足利尊氏と少弐頼尚は、官軍の菊池武敏と筑後川の水城渡(蜷城渡)で戦います。その時の戦禍に依り、社殿宝物文書の一切を消失し衰退しますが、神慮を恐れた足利尊氏により再興されました。
永正6年(1509)秋月種時が後板に蜷城大明神と銘の有る神像、社殿、「天下経営」の四字を記した清道旗を奉納し、神幸行列の先駆として現在まで継続されています。戦国時代末期、小早川秀秋は社領130町一切を没収し、社人の多数が神社を離れますが、慶長6年(1601)黒田長政の信仰は篤く、社殿の造営があり、下座郡総社と定められました。元禄15年(1702)には現在の神門が建築。元禄17年(1704)2月21日氏子等により現在の石鳥居が建納され、貝原益軒の妻の貝原江島の筆にて柱の銘が刻まれています。宝暦元年(1751)筑前国主黒田継高より下座郡の総社とされます。文政11年(1823)黒田播磨により、現在の社殿に改修。明治5年11月3日郷社。明治30年4月26日県社に昇格しました。
また、美奈宜神社[林田]の北東約7kmの三奈木にも美奈宜神社[荷原](喰那尾神社・栗尾大明神)が鎮座しており、『延喜式神名帳』に記された論社とされています。現在も確定されていませんが、[林田]に残る元禄7年(1694)3月7日の裁許状では、その当時すでに[荷原]が、[林田]の摂社であることが記されています。また、[荷原]の御祭神が、神功皇后、住吉大神、武内大臣または春日大明神、天照大神とされ、伝承との関連が薄いこと、元々は美奈宜神社[林田]の社地であったとも考えられること等が、論拠として挙げられています。尚、明治の初期、三奈木村喰那尾神社の社号は、美奈宜神社と変更されました。
【境内社など】
「筑前国十九式内社」
本殿後方に並んで鎮座。『延喜式神名帳』に記された筑前国十九式内社をそれぞれ祀っています。十九社は、宗像大社(沖津宮・中津宮・辺津宮)、織幡神社、筥崎宮、住吉神社、志賀海神社、志登神社、筑紫神社、竈門神社、麻氐良布神社、美奈宜神社、大己貴神社。
「白峯神社」
本殿後方、筑前国十九式内社の並び、向かって左端に鎮座。御祭神として崇徳天皇を祀っています。縁切りの御神徳。
「淡島神社」
本殿後方、御神木の下に鎮座。御祭神として少彦名命を祀っています。夫人病の御神徳があるとされています。
【神事・祭事】
蜷城の獅子舞
毎年10月21日に斎行される例大祭での御神幸行列。その御神幸行列に奉仕する獅子舞です。獅子は長田地区と鵜木地区から一対づつ出され、それぞれ神幸神輿の警護、神輿台を祓う役を担っています。雌雄二対の獅子があり、胴体と脚絆を棕櫚で編み、獅子役の脚絆にも棕櫚を使用した写実的な獅子です。各獅子には紋付羽織姿の「郷者」と言われる責任者と「世話役」が付き、暴れまわる獅子を抑える役目を果たします。舞楽を伴わず、芸能的な要素が少ない「祓い獅子」の姿をよく残しています。筑後川中流の両岸各地に伝えられていた祓いの獅子の姿がよく伝えており、現在まで本来的な形で残っているのは蜷城のものだけになっています。昭和51年(1976)4月2日、長田・鵜木の獅子舞を一括して保存し、両者を合わせて県指定無形民俗文化財に指定されました。