九州の神社

高良大社(久留米市)

御祭神

御祭神ごさいじん 高良大社こうらたいしゃ
相殿神あいどのがみ 左殿さでん八幡大神やはたのおおかみ / 右殿うでん住吉大神すみよしのおおかみ

由緒

古くは高良玉垂命神社こうらたまたれのみことじんじゃ高良玉垂宮こうらたまたれぐうなどと呼ばれた高良大社こうらたいしゃは、『延喜式えんぎしき神名帳じんみょうちょう』にて名神大社みょうじんたいしゃれっせられ、筑後国ちくごのくに一宮いちのみや・九州総社そうじゃ鎮西ちんぜい11ヶ国の宗廟そうびょうたたえられてきました。中門ちゅうもんの奥に本殿ほんでんがあり、左殿さでん八幡大神やはたのおおかみ。中央に高良玉垂命こうらたまたれのみこと右殿うでん住吉大神すみよしのおおかみまつっています。本殿ほんでん内には御客座おきゃくざがあり、『延喜式えんぎしき神名帳じんみょうちょう』で同様に名神大社みょうじんたいしゃれっせられた豊比咩大神とよひめのおおかみ合祀ごうしされ、豊比咩大神とよひめのおおかみ高良玉垂命こうらたまたれのみこととは夫婦神めおとがみとの説もあります。御客座おきゃくざには他にも境内けいだいにあった坂本神社さかもとじんじゃ御祭神ごさいじんなどが合祀ごうしされています。

高良大社こうらたいしゃ所蔵しょぞうの『高良玉垂宮こうらたまたれぐう神秘書しんぴしょ高良記こうらき)』によると主祭神しゅさいじん高良玉垂命こうらたまたれのみことは、異国いこくの兵が九州を攻めた際、西に下った神功皇后じんぐうこうごう筑紫国ちくしのくに四王子嶺しおうじみねにて神に助けを祈られると東方とうほうから白雲はくうんあらわれ、四方に開き、月の光と共に御出現された大神おおかみと伝えられています。右殿うでんまつられる相殿神あいどのがみ住吉大神すみよしのおおかみ金星きんせいの光と共にご出現なされ二柱ふたはしらの神が戦勝せんしょうを導かれました。その二柱ふたはしらの神に、神功皇后じんぐうこうごう御子みこである応神天皇おうじんてんのう御神霊ごしんれいである八幡大神やはたのおおかみ左殿さでん相殿神あいどのがみとしてまつり、この三座さんざ高良三所大神こうらさんしょおおかみとして古くより筑紫国ちくしのくにを始め、人々の生活のあらゆる守護神しゅごしんとして奉斎ほうさいしています。その由緒ゆいしょから、高良玉垂命こうらたまたれのみこと神紋しんもんは四方に開いた雲の中から、高良神こうらのかみが出現なさるその瞬間を表す「横木瓜よこもっこう」で神使しんしは「からす」です。八幡大神やはたのおおかみ神紋しんもんは「右三巴みぎみつどもえ」で神使しんしは「はと」。住吉大神すみよしのおおかみ神紋しんもんは「五七桐ごしちきり」で神使しんしは「つる」です。

社伝しゃでんによると仁徳天皇にんとくてんのう55年(367)、または同78年(390)に高良神こうらのかみ玉垂命たまたれのみこと)が高良山こうらさん御鎮座ごちんざといわれ、履中りちゅう元年(400)御社殿ごしゃでん創建そうけんし、玉垂宮たまたれぐうと称しまつったとあります。

神護景雲じんごけいうん元年(767)勅命ちょくめいにより大祭礼だいさいれい神幸祭しんこうさい)が開始され、正史せいし上の初見しょけんは『日本紀略にほんきりゃく』にて延暦えんりゃく14年(795)5月6日高良神こうらのかみ従五位下じゅごいのげ神階しんかいさずけられた記録です。弘仁こうにん9年(818)名神みょうじんれっし、以後神階しんかいを進めて貞観じょうがん11年(869)3月には従一位じゅいちいを、寛平かんぴょう9年(897)12月正一位しょういちい神階しんかいさずかります。さらに社宝しゃほうの『国内神名帳こくないじんみょうちょう』(県文化財)によれば、寛平かんぴょう9年(897)極位きょくいを超えて正一位しょういちいさずけられたとあります。寛仁かんにん元年(1017)には、宗像むなかた阿蘇あそ宇佐うさの各社とともに、一代一度いちだいいちど奉幣ほうへいあずかります。

『日本後紀』卷三逸文

延暦十四年(795)五月壬申。筑後國高良神奉授従五位下。

※『日本紀略』により逸文を復元。

八幡宮はちまんぐうと同様、早くから仏教と習合しゅうごうしていたことも特徴で、御祭神ごさいじんを「護国神通ごこくじんつう高良大菩薩こうらだいぼさつ」と呼び、神孫しんそんを称する大祝おおほうり大宮司だいぐうじに加えて、座主ざしゅ丹波氏たんばし一山いちざん宗徒しゅうとを率いて神前しんぜん奉仕ほうししました。鎌倉時代以前は御造営ごぞうえいはすべて勅裁ちょくさいを以て行われました。12世紀の末、源平げんぺい争乱そうらん荒廃こうはいしますが、文永ぶんえい11年(1274)、及び弘安こうあん4年(1281)の蒙古もうこ襲来しゅうらいには、勅使ちょくし参向さんこう蒙古もうこ調伏ちょうぶくの折には「天下てんか天下てんかたるは、高良こうら高良こうらたるが故なり」との綸旨りんじたまわったと伝えられています。

また10月の大祭たいさいには太宰府だざいふから勅使ちょくし参向さんこうし、九州9ヶ国の国司こくし郡司ぐんじ参集さんしゅうして奉仕ほうしするをためしとしました。「武運長久ぶうんちょうきゅうの神」として、神験れいげんいちじるしく、鎌倉幕府の崇敬すうけい、他に異なるものがありました。南北朝なんぼくちょう争乱そうらんの時代にも少弐しょうに菊池きくち大友おおとも島津しまづの九州四大豪族ごうぞくが「四頭よんがしら」に任じられ輪番りんばん祭事さいじり行い、御神幸祭ごしんこうさいは、高良大社こうらたいしゃに属する侍120名、国侍くにざむらい36名、その他筑後ちくご一円いちえん神職しんしょく社人しゃじんはもとより、商工業者・村役人・武士団・芸能者など供奉ぐぶの者は1000余人という盛儀せいぎになりました。

戦国の争乱そうらん荒廃こうはいしましたが、江戸期に入ると、豊臣秀吉とよとみひでよしによって改めて寄進きしんされた神領しんりょう1000石を基盤に、戦乱などで荒廃こうはいした霊峰れいほう高良山こうらさんの復興が進むと同時に、歴代の久留米藩主くるめはんしゅ崇敬すうけいを集めます。第2代有馬忠頼ありまただより山麓さんろく石造いしづくり大鳥居おおとりい、第2代有馬頼利ありまよりとしは現在の御社殿ごしゃでん、第7代有馬頼徸ありまよりゆき中門ちゅうもん透塀すきべいをそれぞれ造営ぞうえい寄進きしんしました。社殿しゃでん祭事さいじの復活で、高良山こうらさん信仰しんこうと文化が深く光を放つようになり、寛政かんせい4年(1792)からは50年に一度の例祭れいさいとして「御神期祭ごじんきさい」が盛大にり行われ、今日に続いています。平成4年(1992)に御神期大祭ごじんきたいさい斎行さいこう。その後、伝統神事を継承のため5年に1度、神幸祭じんこうさい斎行さいこうすることとなり、平成24年(2012)に再興されました。平成29年(2017)は、御社殿ごしゃでん竣成しゅんせいに伴う本殿ほんでん遷座祭せんざさいがあったため、平成30年(2018)に斎行さいこうされました。

江戸末期までは、神仏習合しんぶつしゅうごうの下、天台てんだい僧徒そうとが多数奉仕ほうしし、山内さんないに26ヶ寺360坊もあったと伝えられますが、明治2年(1869)久留米藩くるめはん山内さんない廃仏毀釈はいぶつきしゃく断行だんこうし、1200年に及ぶ神仏習合しんぶつしゅうごうの歴史に終止符を打ちます。明治4年(1871)高良神社こうらじんじゃと改称。国幣中社こくへいちゅうしゃれっし、大正4年(1915)11月10日国幣大社こくへいたいしゃ昇格しょうかくし、特に金500円を御下賜ごかしされました。現在は、高良大社こうらたいしゃと称しています。

広大な社地しゃちは、高良山こうらさんのほぼ全域で、高牟礼山たかむれやま不濡山ぬれせぬやまとも呼ばれ、その中腹に高良大社こうらたいしゃ社殿しゃでん鎮座ちんざしています。標高312mの高良山こうらさん起点きてんとして背後に耳納山地みのうさんちが広がり、筑紫平野ちくしへいや筑後川ちくごがわの流れを見る地勢的に絶好の位置を占め、古代より宗教・政治・文化の中心、軍事・交通の要衝ようしょうとして歴史上極めて大きな役割を果たしてきました。その高良山こうらさん西麓せいろくから山を囲むようにあるのが神籠石こうごういしで、高良大社こうらたいしゃはその最高部・最東部近くに位置しており、社背しゃぜの尾根上には古代の祭祀さいし遺跡があります。

主祭神しゅさいじんである高良玉垂命こうらたまたれのみことは、「高良こうら」は鎮座ちんざの地名、「玉垂たまたれ」は御神徳ごしんとくを表すと解されますが、『古事記こじき』・『日本書紀にほんしょき』など古典に見えぬ神名しんめいであり、古くよりまつり神をめぐる論議が絶えません。一般に九州北部の古社こしゃは、八幡神はちまんしんを中心に西方に対する国防を意識しているとされ、高良神こうらのかみも、中世以降八幡宮はちまんぐう第一の伴神ともがみと位置づけられてきました。その活動は、神功皇后じんぐうこうごう異国いこく征伐せいばつ縁起えんぎに見ることができ、これを史上実在の人物に求め、武内宿禰たけしうちのすくねに宛てる説が根強く行われてきました。それとあわせて規模雄大な神籠石こうごういし、古代の祭祀さいし遺跡、古墳などの残る九州屈指の古社こしゃであることから、その創始そうし由来ゆらい、及び御祭神ごさいじんについては様々な説があります。

神籠石

神籠石こうごういし

御本殿ごほんでんの背後から山裾やますそまで約1500mにわたって、1300個の巨石が神域しんいきを取り囲むように列石れっせきとなっています。このような列石れっせきは、福岡・佐賀・山口県で八ヶ所確認されており、古代の山城跡とも、神域しんいきの標示とも言われ、わが国古代遺跡中最も壮大なものです。本殿ほんでんの後方でその列石れっせきが途切れていますが、天武天皇てんむてんのう7年(678)の筑紫国ちくしのくに大地震の際に崩れたのではと推察されています。築造ちくぞうについては、国家的な関与か、豪族ごうぞくか不明で謎めいた古代遺跡で、『日本書紀にほんしょき』にしるされる継体天皇けいたいてんのう22年(528)物部麁鹿火もののべのあらかびが「磐井いわいらん」にて筑紫国造磐井つくしのくにのみやつこのいわい筑紫国御井郡ちくしのくにのみいぐんに討ったことに関連すると指摘する説もあります。


【建造物など】

本殿ほんでん幣殿へいでん拝殿はいでん

権現造ごんげんづくりの社殿しゃでんは、第3代久留米藩主くるめはんしゅ有馬頼利ありまよりとし造営ぞうえいしたもので、明暦めいれき元年(1655)に工事を計画、万治3年(1660)に本殿ほんでん寛文かんぶん元年(1661)7月に拝殿はいでん竣工しゅんこうしました。九州最大級の神社建築といわれ、昭和47年(1972)に国重要文化財に指定されました。平成27年(2015)より2年をかけて保存した修理が行われました。屋根は木曽きそ地方のサワラを小割にした板によるこけらきです。なお、拝殿はいでん幣殿へいでん格天井絵ごうてんじょうえ狩野白信かのうしらのぶ宝暦ほうれき5年(1755)に描いたものです。

石造大鳥居(一の鳥居)

石造いしづくり大鳥居おおとりい(一の鳥居とりい)」

高良大社こうらたいしゃの入口は、高良山こうらさんふもとにある、一の鳥居とりい石造いしづくり大鳥居おおとりい」です。国重要文化財。明暦めいれき元年(1655)第2代藩主はんしゅ有馬忠頼ありまただより寄進きしんされました。石材せきざいは領内の15歳から60歳までの男子延べ10万人が運んだと伝えられています。


境内社けいだいしゃ

標高312Mの高良山こうらさんは、ふもと第二鳥居だいにとりいから石階段いしかいだんを登って約20分ほどで高良大社こうらたいしゃに着きます。そしてそこから約20分ほど登ると山頂近くの奥宮おくみやです。摂末社せつまっしゃは、高良山こうらさんの各所に鎮座ちんざしていますが、主に次の5つの区域に分けられます。

  1. 奥宮おくみや高良大社こうらたいしゃ社殿しゃでんから南東方向)
  2. 高良大社こうらたいしゃ社殿しゃでん周辺
  3. 石階段いしかいだん登山参道とざんさんどう高良大社こうらたいしゃ社殿しゃでんから西方向)
  4. 自動車参道じどうしゃさんどう高良大社こうらたいしゃ社殿しゃでんから南西方向)
  5. 吉見嶽よしみだけ高良大社こうらたいしゃ社殿しゃでんから北西方向)

奥宮(奥の院)

奥宮おくみや高良大社こうらたいしゃ社殿しゃでんから南東方向)】

奥宮おくみやおくいん)」

高良大社こうらたいしゃ本殿ほんでん後方から歩いて約20分。霊泉れいせんが湧く聖地せいちで、高良大社こうらたいしゃ奥宮おくみやです。古くは「高良こうら」「御神廟ごしんびょう」と称し、高良神こうらのかみである武内宿禰たけしうちのすくね葬所そうしょと伝えられていました。高良山こうらさん信仰しんこうの原点ともいうべき聖地せいちです。付近の地名を「別墅べっしょ」といい、天武天皇てんむてんのう7年(678)高良山こうらさん開山かいざんしたともされる隆慶上人りゅうけいしょうにんが、毘沙門天びしゃもんてん高良神こうらのかみ本地仏ほんじぶつ)を感見かんみして毘沙門堂びしゃもんどうを建て、天竺国無熱池てんじくのくにのむねっちの水を法力ほうりきで招き寄せたのが、奥宮おくみや清水しみずであると伝えられています。鎌倉時代の貞永じょうえい元年(1232)には、惣地頭代そうじとうだい刑部丞ぎょうぶしょう中原為則なかはらためのりなる者が、五重の石塔せきとうをここに造立ぞうりゅう供養くようしたとされますが現存していません。次いで南北朝なんぼくちょう時代には征西将軍せいせいしょうぐん懐良親王かねよししんのう御在所ございしょとなったとの説もあります。中世末の記録によれば、ここには戒壇かいだんが設けられていたとあり、恐らく現存したの石積のだんを指すと考えられています。壇上だんじょうには室町時代の石造いしづくり宝塔ほうとうが立っています。江戸時代の中頃、山中の極楽寺ごくらくじ再興さいこうした僧の即心そくしんは、晩年ここにこもって念仏ねんぶつ修行しゅぎょうしたとされています。明治初年の神仏分離令しんぶつぶんりれいにより、毘沙門堂びしゃもんどうは「水分神社みくまりじんじゃ」と改められましたが、「あらゆる願い事を叶えてくださる神様」として現在も「とら」の日をじめ多くの皆様の参拝さんぱいがあり、高良大社こうらたいしゃの数ある末社まっしゃの中でも、今日特に厚い信仰しんこうを集めています。


高良大社こうらたいしゃ社殿しゃでん周辺】

豊比咩神社とよひめじんじゃ

本殿ほんでん内の御客座おきゃくざ摂社せっしゃとして合祀ごうしされています。『延喜式えんぎしき神名帳じんみょうちょう』で同様に名神大社みょうじんたいしゃれっせられた式内社しきないしゃで、旧県社けんしゃです。御祭神ごさいじん豊比咩大神とよひめのおおかみ豊玉姫命とよたまひめのみこと)。天安てんあん元年(857)5月に豊比咩神社とよひめじんじゃ社殿しゃでんを焼失した際、高良玉垂宮こうらたまたれぐうにも被害があった記録があることから、相殿あいどのあるいは至近距離にあったとする説もあります。貞観じょうがん11年(869)3月22日、正四位上しょうよんいじょう列格れっかく。『筑後国神名帳ちくごのくにじんみょうちょう』にも記載きさいはありますが、その後は退転たいてん不詳ふしょうとなります。貞享じょうきょう2年(1685)に末社まっしゃとして再興さいこうされ、その時の社殿しゃでんは現在は真根子神社まねこじんじゃのものとして使われています。明治維新の頃、御手洗池みたらしいけ西岸の清水山しみずやま山頂に新清水観音堂しんしみずかんのんどう小祠しょうしが作られ再興さいこう。さらに明治の神仏分離令しんぶつぶんりれいにより新清水観音堂しんしみずかんのんどうはいされたことから新清水観音堂しんしみずかんのんどうは、豊比咩神社とよひめじんじゃとされます。明治6年(1873)県社けんしゃ列格れっかくして「豊比咩社とよひめしゃ」「豊比咋咩神社とよひさめじんじや」とも称しました。昭和11年(1936)に隣接地であるブリヂストン石橋家いしばしけの別荘「水明荘すいめいそう」の用地の一部となったことから本殿ほんでん合祀ごうしされました。

高良御子神こうらみこじんじゃ

高良御子神

社殿しゃでんの向かって右手奥に鎮座ちんざ。本社の御祭神ごさいじん高良玉垂命こうらたまたれのみこと御子神みこがみ九躰皇子くたいおうじ斯礼賀志命しれがしのみこと朝日豊盛命あさひとよさかりのみこと暮日豊盛命くれひとよさかりのみこと渕志命ふちしのみこと谿上命たにがみのみこと那男美命なおみのみこと坂本命さかもとのみこと安志奇命あしきのみこと安楽應寳秘命あらおほびのみこと)をまつっています。高良山こうらさんふもとの山川町に鎮座ちんざする高良御子神こうらみこじんじゃを明治6年(1873)境内けいだい勧請かんじょうしたものになります。無敵の勝利、農産牛馬ぎゅうば守護、厄除やくよけ、安産、病気平癒びょうきへいゆ御神徳ごしんとくがあります。11月13日が例祭日れいさいび摂末社せつまっしゃ例祭れいさい)です。

真根子神社まねこじんじゃ

真根子神社

社殿しゃでんの向かって右手前に鎮座ちんざ御祭神ごさいじん壹岐眞根子命いきのまねこみことは、武内大臣たけうちのおおおみの身代わりとなり大臣おおおみをお助けになった神です。『日本書紀にほんしょき』の応神天皇おうじんてんのう9年4月のくだりによれば、天皇のめい武内宿禰たけしうちのすくね筑紫ちくし派遣はけんされた際、弟の甘美内宿禰うましうちのすくねが兄をはいそうと「武内宿禰たけしうちのすくね三韓さんかんを引き入れて天下を取ろうとしている」と天皇に讒言ざんげんし、それを聞いた天皇は武内宿禰たけしうちのすくねを殺すため使者を出します。それを知ってなげ武内宿禰たけしうちのすくねに対し、武内宿禰たけしうちのすくねと容姿がよく似ていた壱伎直祖真根子いきのあたいがおやまねこ武内宿禰たけしうちのすくねの身代わりとなって自刃じじんしました。その後、武内宿禰たけしうちのすくね朝廷ちょうていに至って天皇に弁明し、甘美内宿禰うましうちのすくねとの盟神探湯くかたちの対決を経て疑いを晴らしたと伝えられています。至誠しせい忠義ちゅうぎ、身体守護の御神徳ごしんとくがあります。現在の社殿しゃでんは、貞享じょうきょう2年(1685)再興さいこう豊比咩神社とよひめじんじゃの旧社殿しゃでんとされています。昭和10年(1935)同じく境内けいだいにあった五所八幡宮ごしょはちまんぐう日吉神社ひよしじんじゃ風浪宮ふうろうぐう合祀ごうししています。11月13日が例祭日れいさいび摂末社せつまっしゃ例祭れいさい)です。

『日本書紀』卷第十 譽田天皇 應神天皇

九年夏四月、遣武内宿禰於筑紫、以監察百姓。時武内宿禰弟、甘美內宿禰、欲廢兄、卽讒言于天皇「武内宿禰、常有望天下之情。今聞、在筑紫而密謀之曰『獨裂筑紫、招三韓令朝於己、遂將有天下。』」於是天皇則遣使、以令殺武内宿禰、時武内宿禰歎之曰「吾元無貳心、以忠事君。今何禍矣、無罪而死耶。」於是、有壹伎直祖眞根子者、其爲人能似武内宿禰之形、獨惜武内宿禰無罪而空死、便語武内宿禰曰「今大臣以忠事君、既無黑心、天下共知。願密避之、參赴于朝、親辨無罪、而後死不晩也。且時人毎云、僕形似大臣。故今我代大臣而死之、以明大臣之丹心。」則伏劒自死焉。時武内宿禰、獨大悲之、竊避筑紫浮海以從南海𢌞之、泊於紀水門、僅得逮朝、乃辨無罪。天皇則推問武内宿禰與甘美內宿禰、於是二人各堅執而爭之、是非難決。天皇勅之令請神祇盟神探湯、是以、武内宿禰與甘美內宿禰、共出于磯城川湄、爲盟神探湯。武内宿禰勝之、便執横刀、以毆仆甘美內宿禰、遂欲殺矣。天皇勅之令釋、仍賜紀直等之祖也。


九年の夏四月に、武内宿禰を筑紫に遣して、百姓を監察しむ。時に武内宿禰の弟、甘美內宿禰、兄を廃てむとして、即ち天皇に讒し言さく、「武内宿禰、常に天下を望ふ情有り。今聞く、筑紫に在りて、密に謀りて曰ふならく、『独筑紫を裂きて、三韓を招きて己に朝はしめて、遂に天下を有たむ』といふなり」とまうす。是に、天皇、則ち使を遣して、武内宿禰を殺さしむ。時に武内宿禰、歎きて曰はく、「吾、元より弐心無くして、忠を以て君に事めつ。今何の禍そも、罪無くして死らむや」といふ。是に、壱伎直の祖、真根子といふ者有り。其れ為人、能く武内宿禰の形に似れり。独惜武内宿禰の、罪無くして空しく死らむことを惜ぴて、便ち武内宿禰に語りて曰はく、「今大臣、忠を以て君に事ふ。既に黒心無きことは、天下共に知れり。願はくは、密に避りて、朝に参赴でまして、親ら罪無きことを弁めて、後に死らむこと晩からじ。且、時人の毎に云はく、『僕が形、大臣に似れり』といふ。故、今我、大臣に代りて死りて、大臣の丹心を明さむ」といひて、則ち剣に伏りて自ら死りぬ。時に武内宿禰、独大きに悲びて、窃に筑紫を避りて、浮海よりして南海より廻りて、紀水門に泊る。僅に朝に逮ること得て、乃ち罪無きことを弁む。天皇、則ち武内宿禰と甘美內宿禰とを推へ問ひたまふ。是に、二人、各堅く執へて争ふ。是非決め難し。天皇、勅して、神祇に請して盟神探湯せしむ。是を以て、武内宿禰と甘美內宿禰、共に磯城川の湄に出でて、盟神探湯す。武内宿禰勝ちぬ。便ち横刀を執りて、甘美內宿禰を殴ち仆して、遂に殺さむとす。天皇、勅して釈さしたまふ。仍りて紀直等の祖に賜ふ。

印鑰神社いんにゃくじんじゃ

印鑰神社

社殿しゃでんの向かって左手奥に鎮座ちんざ高良大社こうらたいしゃ大宮司だいぐうじ家の祖神おやがみである武内宿禰命たけしうちのすくねのみことまつっています。高良山こうらさんふもと御井町みいまち鎮座ちんざする印鑰神社いんにゃくじんじゃを明治6年(1873)境内けいだい勧請かんじょうしたものになります。印鑰いんにゃくとは高良大社こうらたいしゃの印とかぎかぎ)のことで、高良大社こうらたいしゃの宝を守るかぎ、あるいは高良大社こうらたいしゃそのものを守る神社であるといわれています。延命長寿えんめいちょうじゅ病気平癒びょうきへいゆ、盗難除けの御神徳ごしんとくがあります。11月13日が例祭日れいさいび摂末社せつまっしゃ例祭れいさい)です。

市恵比須社いちえびすしゃ

御祭神ごさいじんは、夫婦恵比須神めおとえびすがみ。元はふもと御井町みいまち府中ふちゅうまつられていた「府中ふちゅうの市」の神社。筑後国ちくごのくに付近で市を開くときは高良山大祝こうらさんおおほうりの許可を得て恵比寿神えびすがみ勧請かんじょうするのが通例つうれいであったとされています。神像しんぞうは市指定文化財。9月25日が例祭日れいさいびです。

御神木ごしんぼく大楠おおくす

県指定記念物。高良大社こうらたいしゃ縁起書えんぎしょ高良記こうらき」によれば、クスの木は御神木ごしんぼくとして、御社殿ごしゃでん用材ようざいとしても一切使用しないという秘伝ひでんがあり、御神木ごしんぼくとして大切に育ててられています。年代ははっきりしませんが、樹齢約400年位です。


石階段いしかいだん登山参道とざんさんどう

御手洗池・厳島神社

御手洗池みたらしいけ厳島神社いつくしまじんじゃ

二の鳥居とりい前の御手洗池みたらしいけ鎮座ちんざ市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと御祭神ごさいじんとしてまつっています。11月13日が例祭日れいさいび摂末社せつまっしゃ例祭れいさい)です。御手洗池みたらしいけは、元は谷で土橋つちはしがあったところに安永あんえい年間(1772-1780)に久留米藩くるめはん放生池ほうじょういけとして整備し、享和きょうわ3年(1803)9月に御手洗橋みたらしばし(県指定有形文化財)ができました。池の南岸の玉垣たまがきは、高良神こうらのかみがここで御手おてを洗って山に登られたとのいわれのある井戸の名残りです。

高樹神社たかぎじんじや

高樹神社

御手洗池みたらしいけの道を挟んだ向かいに鎮座ちんざ高皇産霊神たかみむすびのかみ御祭神ごさいじんとしてまつっています。12月13日が例祭日れいさいびです。「高牟礼権現たかむれごんげん」「高牟礼神社たかむれじんじゃ」と称される高良山こうらさん地主神じぬしがみです。『日本三代實録にほんさんだいじつろく元慶がんぎょう2年(878)11月13日のくだりに「筑後國ちくごのくに高樹神たかぎのかみ」に従五位上じゅごいのじょう神階しんかいさずけられたことがしるされ、やがて正五位下せいごいげに進んだことが天慶てんぎょう7年(944)の『筑後国神名帳ちくごのくにじんみょうちょう』に見ることができます。元は地主神じぬしがみとして山上さんじょう鎮座ちんざしていましたが、高良神こうらのかみ一夜いちやの宿を貸したところ、高良神こうらのかみ神籠石こうごういしを築いて結界けっかいの地としたため山上さんじょうに戻れず現在地に鎮座ちんざするに至ったとの伝説が高良大社こうらたいしゃ古縁起こえんぎしるされています。高良山こうらさんの別名を「高牟礼山たかむれやま」と称するのも高樹神たかぎのかみの名に近むとされています。明治6年(1873)3月14日郷者ごうしゃに、大正11年(1922)11月24日神饌しんせん幣帛料へいはくりょう供進社きょうしんしゃれっしました。明治中年頃の『国幣中社こくへいちゅうしゃ高良神社絵図こうらじんじゃえず』には「境外けいがい郷社ごうしゃ」とある。境内社けいだいしゃ社日神社しゃにちじんじゃ猿田彦大神さるたひこのおおかみ狛犬こまいぬ筑後地方ちくごちほうで最も古いものであり、久留米市くるめし指定民俗文化財。

『日本三代實録』卷十八

元慶二年(878)十一月十三日甲辰。…(略)…。筑後國高樹神並從五位下。

背比くらいし

二の鳥居とりいから進んで馬蹄石ばていせきの手前に鎮座ちんざ神功皇后じんぐうこうごうが朝鮮半島への出兵しゅっぺいを前に、この石と背丈せたけを比べて吉兆きっちょうを占われたとの伝説が残されています。古代の習俗しゅうぞくを伝えるものとされ、享和きょうわ2年(1802)の菱屋平七ひしやへいしちによる『筑紫紀行ちくしきこう』では「勢比石せくらべいし」としるされています。

馬蹄石ばていせき

馬蹄石

二の鳥居とりいを過ぎ、50mほどに鎮座ちんざ高良神こうらのかみさまが御鎮座ごちんざの際に神馬しんめひずみの跡を残されたと伝えられる巨石で、「うま足形あしがた」とも呼ばれています。中世の縁起書えんぎしょ高良記こうらき』では、この石こそが神籠石こうごういしであり「八葉はちよう石畳いしだたみ(現在の神籠石こうごういし列石れっせき)」の起点きてん終点しゅうてんであるとしるされています。古代の盤座いわくらの一種とも考えられています。

伊勢天照御祖神社いせあまてらすおみやじんじゃ

伊勢天照御祖神社

皇大神宮こうたいじんぐう内宮ないくう)から天照大神あまてらすおおかみ分祀ぶんしした『延喜式えんぎしき神名帳じんみょうちょう』にしるされる筑後国ちくごのくに式内小社しきないしょうしゃです。天慶てんぎょう7年(944)の『筑後国神名帳ちくごのくにじんみょうちょう』には「正五位下せいごいげ伊勢天照名神いせあまてらすみょうじん」とも見え、筑後国ちくごのくににおける最も由緒ゆいしょ正しい皇大神宮こうたいじんぐう内宮ないくう)の分祀ぶんしとされています。伝えるところによれば、延暦えんりゃく3年(784)9月、国司こくし藤原易興ふじわらのやすおき受奏じゅそうによって、伊勢国いせのくにより遷座せんざ神貢しんこう57そくたてまつられたと伝えられています。建仁けんにん元年(1201)の文書もんじょには、単に「伊勢社いせしゃ」とあり、室町時代末の『高良社画縁起こうらしゃええんぎ』では、山麓さんろく大鳥居おおとりいの北、現・御井みい小学校「伊勢いせ」付近に「伊勢いせ」の小祠しょうしが描かれていましたが、明和めいわ4年(1767)の府中ふちゅう大火たいかを機として、現在地に遷座せんざされました。同年以降、毎年7月23・4の両日には『灯篭賑とうろうしん』が行われ、参詣さんけい者が群集したという。左右の境内社けいだいしゃは、応神天皇おうじんてんのうまつ八幡宮はちまんぐう菅原道真すがわらのみちざねまつ天満宮てんまんぐうで、古くから山内さんないまつられていたものを遷座せんざしたものです。11月13日が例祭日れいさいび摂末社せつまっしゃ例祭れいさい)です。

『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂

西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。

…(略)…。筑後國四座[大二座・小二座]。三井郡三座[大二座・小一座]。高良玉垂命神社[名神大]、伊勢天照御祖神社、豐比咩神社[名神大]。御原郡一座[小]、御勢大靈石神社。

鏡山神社かがみやまじんじゃ

鏡山神社

社殿しゃでん前の三の鳥居とりいから登山道手前200mほどに鎮座ちんざする末社まっしゃです。御祭神ごさいじんは、高良玉垂命こうらたまたれのみこと分祖ぶんそとされています。11月13日が例祭日れいさいび摂末社せつまっしゃ例祭れいさい)です。元はふもと御井町みいまち字賀輪あざがわまつられていましたが、九州自動車道の建設のため現在地に遷座せんざ高良大社こうらたいしゃ宝物館ほうもつかんに収められている2枚の鏡のうちの1枚「四雲文しうんもん重圏じゅうけん規距鏡きくきょう」がまつられていました。

孟宗金明竹もうそうきんめいちく

鏡山神社かがみやまじんじゃの周辺を取り囲むように群生ぐんせいしている国指定天然記念物。緑と淡い黄色が竹の節間に交互に現れる金明竹きんめいちくは、全国にありますが孟宗竹もうそうたけは、当地を含めて4ヶ所だけです。高良山こうらさんで、孟宗金明竹もうそうきんめいちくが発生したのは、昭和9年(1934)です。 その後、数も増え、約300本になっています。 高良山こうらさん孟宗金明竹もうそうきんめいちくは、地下茎ちかけいから、小枝に至るまで一節ごとに交互に緑の縦縞があらわれています。


自動車参道じどうしゃさんどう

愛宕神社あたごじんじゃ

愛宕神社

二の鳥居とりいを過ぎ高良大社こうらたいしゃへの自動車道を500mほど登って右手に鎮座ちんざ。京都の愛宕山あたごやまの神で万治3年(1660)に隈山くまやま(現・久留米大学くるめだいがく御井学舎みいがくしゃ付近)に勧請かんじょうされ、寛文かんぶん11年(1671)に現社地げしゃち礫山つぶてやま遷座せんざしたのが創始そうしです。御社殿ごしゃでん延宝えんぽう8年(1680)の再興さいこうで、本社御社殿ごしゃでんに次ぐ規模と風格を持つ建造物です。火伏ひぶせせ、火難除かなんよけの神として広く信仰しんこうされていますが、牛馬ぎゅうば守護神しゅごしんとしてもあつ信仰しんこうを集めています。なお、この山に古くから鎮座ちんざし「愛宕山稲荷あたごやまいなり」と呼ばれた稲荷社いなりしゃは、明治8年(1875)御井町みいまち字宗崎あざむねさき稲荷山いなりやま遷座せんざされ、これが現在の大学稲荷神社だいがくいなりじんじゃだと伝えられています。

岩不動いわふどう三尊磨崖種子さんぞんまがいしゅじ)」

愛宕神社あたごじんじゃ鳥居とりいから階段を下って左手に一枚岩いちまいいわに仏を表す梵字ぼんじ種子しゅじ)が刻まれています。中央に地蔵菩薩じぞうぼさつ、左に不動明王ふどうみょうおう、右に毘沙門天びしゃもんてん三尊さんぞんで、作者・建立こんりゅう年代は不明です。正式には「三尊磨崖種子さんぞんまがいしゅじ」という市指定文化財です。

宮地嶽神社みやじだけじんじゃ

愛宕神社あたごじんじゃから自動車道を挟んだ虚空蔵山こくぞうさん山頂に鎮座ちんざする末社まっしゃ福津市ふくつし宮地嶽神社みやじだけじんじゃからの勧請かんじょうで、神功皇后じんぐうこうごう主祭神しゅさいじんで、勝村大神かつむらのおおかみ勝頼大神かつよりのおおかみ配祀はいししています。11月13日が例祭日れいさいび摂末社せつまっしゃ例祭れいさい)です。

桃青霊神社とうせいれいじんじゃ

宮地嶽神社みやじだけじんじゃの向かって右に鎮座ちんざする末社まっしゃ御祭神ごさいじんは、松尾芭蕉まつおばしょう寛政かんせい8年(1796)2月建立こんりゅう桃青とうせいは、俳聖はいせい松尾芭蕉まつおばしょう雅号がごうです。全国で初めて松尾芭蕉まつおばしょうまつった神社とされ、元は御手洗池みたらしいけ西岸の清水山しみずやま新清水観音堂しんしみずかんのんどう、後の豊比咩神社とよひめじんじゃ境内けいだい鎮座ちんざしていました。豊比咩神社とよひめじんじゃ社地しゃちが「水明荘すいめいそう」の用地の一部となったため昭和35年~40年(1960-1965)頃に虚空蔵山こくぞうさん宮地嶽神社みやじだけじんじゃ境内けいだい遷座せんざしました。

自得祠じとくし

宮地嶽神社みやじだけじんじゃの向かって左手に鎮座ちんざ高良山こうらさん55代座主ざしゅ伝雄僧正でんゆうそうじょうは、殺人を犯した自得じとく新清水観音堂しんしみずかんのんどうの堂守のえきを与えます。懺悔ざんげした自得じとくは、その新清水観音堂しんしみずかんのんどう再興さいこうささげ、昭和8年(1933)頃に自得じとく建立こんりゅうした石祠いしほこらに、末永すえなが護持ごじせんと自らをまつったものです。昭和30年代に桃青霊神社とうせいれいじんじゃと合わせて現在地へ遷座せんざまつられています。

大学稲荷神社だいがくいなりじんじゃ

大学稲荷神社

愛宕神社あたごじんじゃを過ぎ高良大社こうらたいしゃへの自動車道を500mほど登って右手に鎮座ちんざ。「筑前ちくぜん筑後ちくご稲荷十社いなりじゅっしゃ第一のやしろ」といわれ、境内けいだい地に上社かみしゃ下社しもしゃ鎮座ちんざしています。明和めいわ8年(1771)2月、京都伏見稲荷きょうとふしみいなり伏見稲荷大社ふしみいなりたいしゃ)から「大学だいがく」の称号しょうごうを持つ稲荷神いなりのかみ勧請かんじょうしたものです。上社かみしゃ下社しもしゃの共に倉稲魂命うかのみたまのみこと御祭神ごさいじんとしてまつっており、下社しもしゃ小学稲荷しょうがくいなりとも称され「稲荷山いなりやま」の名の起源きげんとなった古い稲荷社いなりしゃで、上社かみしゃが本来の大学稲荷神社だいがくいなりじんじゃです。始めは愛宕山あたごやま鎮祭ちんさいされ「愛宕山稲荷あたごやまいなり」と称しましたが、慶応けいおう2年(1866)現在の社壇しゃだんひらき、明治8年(1875)3月拝殿はいでん建立こんりゅう。同年8月1日現在地に遷座せんざされました。「大学だいがく」の名にちなみ、学業成就・各種試験合格を祈願きがんする人がはなはだ多く、商売繁昌しょうばいはんじょうの神様としても「御利益著ごりえきいちじるし」と、庶民に親しまれています。なお神紋しんもんとされる轡紋くつわもんは、明治の始め、高良山こうらさんを住居とした久留米藩主くるめはんしゅ有馬頼咸ありまよりしげが、特に当社にさずけられたものです。春季大祭しゅんきたいさい(4月6日)、秋季大祭しゅうきたいさい(10月16日)が例祭日れいさいびです。


吉見嶽よしみだけ

琴平神社ことひらじんじゃ

琴平神社

高城神社前から吉見嶽よしみだけへ徒歩800m。吉見嶽よしみだけの山頂に鎮座ちんざしています。大物主命おおものぬしのみこと崇徳天皇すとくてんのう御祭神ごさいじんとしてまつっています。春季大祭しゅんきたいさい(4月10日)と秋季大祭しゅうきたいさい(9月10日)が例祭日れいさいびです。安永あんえい3年(1774)3月10日、讃岐国さぬきのくに金刀比羅宮ことひらぐうからの勧請かんじょうで、明治4年(1871)、讃岐国さぬきのくにの本社と同様に崇徳天皇すとくてんのう合祀ごうしし「白峰社しらみねしゃ」さらに「琴平神社ことひらじんじゃ」と改称しました。吉見嶽よしみだけは、桜の名所としても知られる中世の山城やまじろで、大友宗麟おおともそうりん豊臣秀吉とよとみひでよしも陣を張った吉見嶽城よしみだけじょう跡があります。

Photo・写真

  • 石造大鳥居(一之鳥居)
  • 御手洗池・厳島神社
  • 高樹神社
  • 高樹神社
  • 登山参道口鳥居
  • 登山参道口鳥居
  • 登山参道
  • 登山参道
  • 背比べ石
  • 背比べ石
  • 馬蹄石
  • 馬蹄石
  • 馬蹄石
  • 馬蹄石
  • 伊勢天照御祖神社、及び八幡宮・天満宮
  • 伊勢天照御祖神社、及び八幡宮・天満宮
  • 伊勢天照御祖神社、及び八幡宮・天満宮
  • 伊勢天照御祖神社
  • 伊勢天照御祖神社
  • 八幡宮
  • 天満宮
  • 鏡山神社
  • 大鳥居
  • 大鳥居
  • 大鳥居
  • 手水舎
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 高良御子神・真根子神社
  • 高良御子神
  • 真根子神社
  • 印鑰神社・市恵比須社
  • 印鑰神社
  • 市恵比須社
  • 御神木大楠
  • 神籠石
  • 神籠石
  • 神籠石
  • 奥宮(奥の院)一之鳥居
  • 奥宮(奥の院)二之鳥居
  • 奥宮(奥の院)
  • 奥宮(奥の院)
  • 御神水
  • 愛宕神社
  • 愛宕神社
  • 岩不動(三尊磨崖種子)
  • 宮地嶽神社
  • 自得祠
  • 大学稲荷神社・上社
  • 大学稲荷神社・上社
  • 大学稲荷神社・下社
  • 大学稲荷神社・下社
  • 吉見嶽の琴平神社
  • 吉見嶽の琴平神社

情報

住所〒839-0851
久留米市くるめし御井町みいまち1番地
創始そうし履中天皇りちゅうてんのう元年 (400)
社格しゃかく名神大社みょうじんたいしゃ筑後国ちくごのくに一宮いちのみや国幣大社こくへいたいしゃ別表神社べっぴょうじんじゃ
例祭10月9日(高良山こうらさんくんち)
神事しんじ川渡祭かわたりさい・へこかき祭り(6月1日~3日)
HP公式HP / Wikipedia

地図・マップ