與賀神社は、欽明天皇の御代(540-571)の創始といわれる古社で、御祭神は竜宮のお姫様で神武天皇の御祖母である豊玉姫命です。鎌倉時代から江戸時代までは、現在の佐賀市西与賀町・東与賀町を含めた與賀荘一円、佐賀城の南部・西部・北西部の地域の総鎮守宮でした。
欽明天皇25年(564)9月28日、佐賀市本庄町末次の住民の丹次郎が本庄神社の地に芦を刈りに来たところ、一夜にして松と楠の2本の大樹が出生し、梢に金色の光を発しているのを見つけます。それを探題であった小寺佐衛門に報告し、小寺佐衛門が訪れると再び金色の光があり、神霊の降下と随喜し、まず塚原大明神を祀る大塚社が建立されました。翌年の欽明天皇26年(565)9月29日、盧荻の繁茂する芦原に芦原大明神を祀る芦渕社が建立され、御遷座されました。御遷宮の時には、大きな道が自然と開けたとされています。その遷座した先の芦渕社が現在の 與賀神社で、本庄神社が姉、 與賀神社が妹の姉妹の関係とされています。
その後、上洛した小寺佐衛門がその由来と状況を闕下に奏聞したところ、叡感有りて嘉賞し、與止日女大明神(海神の娘、豊玉姫命)の神号を与えられ、朝廷の勅願所とすべき旨を宣下せられました。下向した小寺佐衛門が家に戻ると、與止日女神の供として空から女性が現れ、その女性は與止日女神の姉であるとされました。
以来、朝廷の御崇敬はもとより、武家の代に至ってもますます厚く、建暦2年(1212)北条義時が造営奉行となり、大造営が行われました。寛元3年(1245)9月29日には、北条経時が勅命を奉じて祭祀の礼式を定めます。次いで、建長3年(1251)には與賀郷の地頭であった少弐資能から洪鐘一口を寄進。太宰府政庁と、貿易のため博多の港を欲した山口の大内氏と150年余も続く争いの中で、文明14年(1482)太宰府長官であった少弐政資公は、大内氏に追われ佐嘉に落ち延び、現在の赤松町の龍泰寺一帯にあった父の少弐教頼の旧館を開き與賀城を築きます。その鬼門にあたる当神社を鎮守として篤く崇敬し、社殿を再興します。国重要文化財指定の楼門は、この時の造立と考えられ、神事も修飾されました。永正10年(1513)8月12日には神階一位に昇叙。少弐資元に至り、天文13年(1544)正月には敷地免田等を寄進され、次いで高木鑑房により造営費として、多布施郷内30町を奉りました。
少弐氏時代から高木氏、竜造寺氏、鍋島氏にかけては、與賀郷の宗廟として領主・藩主を始め一般庶民の崇敬を集めます。特に、鍋島氏は佐賀城の鎮守、各代の産土神社として深く尊崇され、数々の寄進がなされました。現在の神殿、拝殿、楼門前の石橋、石鳥居、御神輿二基は、佐賀藩祖の鍋島直茂が寄進されました。初代藩主の鍋島勝茂は、毎年掃除人夫120人を給付し、神社領知行として、社家14人、社役16人、65石5斗を与えました。現在残る本殿・拝殿は、その後宝暦8年(1758)に第6代藩主・鍋島宗教と第7代藩主・鍋島重茂の父子が造営したものです。各代々を通じて変わることなく、鍋島藩の産土神社として、尊崇の的となり、事あるごと祈願奉斎絶えることなく、当社の蔵する宝物、貴重品等は、概ね藩主各代の寄進奉納に関わるものです。鍋島藩政時代に於ける神事には、旧與賀郷の 注連元行列をじめ、流鏑馬、連歌、管弦など特殊なものがあり、その名残りとして佐賀神楽、獅子舞が伝承されています。
明治4年(1871)11月には郷社に列せられ、大正14年(1925)10月8日付を以て県社に昇格せられ、同年10月27日奉告祭を執行されました。
また、與止日女大明神を御祭神として祀る嘉瀬川の流域の 與賀神社(與賀與止日女)、本庄神社(本庄與止日女)、與止日女神社(川上與止日女)の三社は、「與賀淀姫大明神、本庄の神と一体分身なり」、「本庄・淀姫・與賀三身一体なり」と言い伝えがあり、古くから関係の深い社です。しかし、 與賀神社と本庄神社との関係を示す文献・口碑は多数あるもの、與止日女神社と 與賀神社・本庄神社とのものは皆無です。鎌倉時代以前は、芦原の地に鎮座した由緒が示すように、現在の208号線付近まで海であったとされていることから、有明海で漁を行う人たちを守る海の神を祀るように朝廷から宣下を受けました。御祭神は、與止日女神(豊玉姫命)で、海神の娘、龍宮城の乙姫さまです。
【境内社など】
「楼門」
大正2年(1913)国宝に、改めて昭和25年(1950)国重要文化財に指定された、佐賀県内で最も古い木造建築物です。龍造寺家の『藤龍家譜』によれば、文明14年(1482)少弐政資公が與賀城を築き 與賀神社を鬼門の鎮守として祀った頃、楼門を建立したと伝えられています。総丹塗で正面三間、側面二間、屋根は入母屋造で当初杮葺でしが、後世銅板葺屋根に改められました。構造形式は室町時代の地方的風調があります。
「三の鳥居および石橋」
三の鳥居は慶長3年(1603)、萬歳橋とも称される石橋は、慶長6年(1606)。共に佐嘉藩祖の鍋島直茂夫妻による建立で、国重要文化財です。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)、関ヶ原の戦いからの無事の帰還を祝い、寄進されたもので、桃山時代の地方的特色のある優れたものです。石造明神鳥居の三の鳥居は、その形式、殊に笠木鼻の形に特有の様式が認められ、「肥前鳥居」の初期のものとして知られています。石橋は、石造反橋で橋脚6基18本、擬宝珠(10個)、高蘭付。
「社殿(本殿・弊殿・拝殿)」
御鎮座当初より社殿が構えられ、建暦2年(1212)北条義時が造営奉行となり大造営が行われ、文明14年(1482)少弐政資公が再興。さらに佐嘉藩祖の鍋島直茂により再建されました。現在の社殿は、宝暦8年(1758)に第6代藩主・鍋島宗教と第7代藩主・鍋島重茂の父子が造営したもので総素木造。本殿は、五間社流造。幣殿・拝殿は、入母屋造。大正2年(1913)本殿・弊殿の屋根を銅瓦葺から銅板平葺に、昭和38年(1963)拝殿の屋根を瓦葺から銅瓦葺に葺替え、拝殿正面扉は上下蔀戸を開閉扉に改造されました。平成24年(2012)末に国登録有形文化財に指定され、平成25年(2014)6月に認定されました。
「御神木の大楠」
境内の大楠4本のうち、神殿南側の楠が最も大きく、昭和40年(1965)県天然記念物に指定されました。樹齢1450年超と伝えられ、御神木と崇められています。県の指定書には、「根回り25m50cm、枝張り東西37m・南北25m、幹の中に地上5mのところから枝分かれ枝葉が繁茂しており、6畳敷余りの空洞があるが、樹勢は旺盛で樹相は優美であり、県内における代表的な楠の巨木として価値が高い」とされています。傍にはクスの堂々たる風格に感じ入った青木月斗による「我に迫る三千年の楠若葉」の句碑があります。
「少弐神社」
御祭神は、 與賀神社の再興をなした少弐政資公で、郷土開発の守護神として祀っています。文明14年(1482)太宰府長官であった少弐政資公は、貿易のため博多の港を欲した山口の大内氏と150年余も続く争いの中で、大内氏に追われ佐嘉に落ち延び、現在の赤松町の龍泰寺一帯にあった父の少弐教頼の旧館を開き與賀城を築きます。その鬼門にあたる当神社を鎮守として篤く崇敬し、社殿を再興します。国重要文化財指定の楼門は、この時の造立と考えられ、神事も修飾されました。昭和27年(1952)国重要文化財の楼門解体修理落成を記念し、少弐政資公を祀り現在に至っています。例祭日は、5月30日に少弐祭が斎行されます。
「佐賀恵比須神社」
明治37年(1904)に地元の有志が、えびす宮総本社とされる兵庫県の西宮神社に詣でて、えびす大神(蛭児大神)と大国主大神の御分霊を戴き祀ったのが創始です。1月9、10日の初えびす大祭は「十日恵比須大祭」と称され、百福開運・商売繁昌・家内安全を願う参拝者で大いに賑わいます。佐賀市は、市内の恵比寿像数が日本一として、恵比寿様を用いた街づくりを行っており、その中心的な存在となっています。
「粟島・佐太神社」
御祭神は、少彦名命。婦人の疾病守護の神として少彦名命を祀る粟島神社と熱病平癒の神として佐太大神を祀る佐太神社を併せ祀っています。例祭日は、4月3日で、御婦人の疾病守護・熱病平癒の神として多くの御婦人たちが参列されます。
「宝壽森稲荷神社」
稲の御霊の神、食料を司る神として宇迦之御魂神を祀っています。安永9年(1780)6月26日に伏見稲荷神社から分社されました。旧暦の初午の日に初午祭、旧暦の6月8日に夏祭が斎行されています。
「天満神社」
学問の神様として菅原道真公を祀っています。石造の祠で天神像が納められ、祠には執行天神と刻印があります。