志賀神社は、貞観元年(859)有明海沿岸地方の総守護神として、筑前国志賀島の志賀海神社より分霊されたのが創祀です。当時は無人の洲のこの地に石の祠が建立されたと伝えられ「潮の満に海中に没し、干に現われたり」と『志賀社旧記』に誌されています。その後、陸地化が進むとともに、人家集落ができて海と陸の交通交易の拠点となり、神社も荘厳を極め崇敬を集めました。
主祭神は、上筒男之命・中筒男之命・底筒男之命の三柱の神。その三柱の神々を志賀大神と総称しています。志賀大神は、住吉大神と共に黄泉国から戻った伊弉諾尊が、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊祓をした時、住吉三神と共に生まれた神で、海神・綿津見として崇敬されています。金印が出土したことでも知られる志賀島の志賀海神社は「海神の総本社」と「龍の都」と称えられ、阿曇氏(安曇氏)が代々祭祀を司っています。
- 上筒男之命:伊弉諾尊が水面で禊祓をされたとき現れた神。
- 中筒男之命:水の中程で禊祓をされた時現われた神。
- 底筒男之命:水の底で禊祓をされたとき現われた神。
『古事記』上巻
是以伊邪那伎大神詔、吾者到於伊那志許米志許米岐穢國而在邪理。故、吾者爲御身之禊而、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而、禊祓也。-(略)-。於是詔之、上瀨者瀨速、下瀨者瀨弱而、初於中瀨墮迦豆伎而滌時、所成神名、八十禍津日神。次大禍津日神。此二神者、所到其穢繁國之時、因汚垢而所成神者也。次爲直其禍而所成神名、神直毘神。次大直毘神。次伊豆能賣神。次於水底滌時、所成神名、底津綿津見神。次底筒之男命。於中滌時、所成神名、中津綿津見神。次中筒之男命。於水上滌時、所成神名、上津綿津見神。次上筒之男命。此三柱綿津見神者、阿曇連等之祖神以伊都久神也。故、阿曇連等者、其綿津見神之子、宇都志日金拆命之子孫也。其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也。
是を以ちて伊耶那岐大神詔りたまひしく「吾は伊那志許米志許米岐穢き国に到りて在り邪理。故、吾は御身の禊為む」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到り坐して、禊ぎ祓ひたまひき。-(略)-。是に詔りたまひしく「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は弱し」とのりたまひて、初めて中つ瀬に堕り迦豆伎て滌ぎたまへる時、成り坐せる神の名は、八十禍津日神。次に大禍津日神。此の二神は、其の穢繁国に到りし時の汚垢に因りて成れる神なり。次に其の禍を直さむと為て、成れる神の名は、神直毘の神。次に大直毘の神。次に伊豆能売。次に水の底に滌ぎたまへる時に、成れる神の名は、底津綿津見神。次に底筒男命。中に滌ぎたまへる時に、成れる神の名は、中津綿津見神。次に中筒男命。水の上に滌ぎたまへる時に成りませる神の名は、上津綿津見神。次に上筒男命。此の三柱の綿津見神は、阿曇連等が祖神と以ち伊都久神なり。故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫なり。其の底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前の大神なり。
『日本書紀』第五段一書第六
伊弉諾尊既還、乃追悔之曰、吾前到於不須也凶目汚穢之處。故當滌去吾身之濁穢、則往至筑紫日向小戸橘之檍原、而秡除焉。遂將盪滌身之所汚、乃興言曰、上瀬是太疾、下瀬是太弱、便濯之於中瀬也。因以生神、號曰八十枉津日神。次將矯其枉而生神、號曰神直日神。次大直日神。又沈濯於海底。因以生神、號曰底津少童命。次底筒男命。又潛濯於潮中。因以生神、號曰表中津少童命。次中筒男命。又浮濯於潮上。因以生神、號曰表津少童命。次表筒男命。凡有九神矣。其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣。底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等所祭神矣。
伊弉諾尊、既に還りて、乃ち追ひて悔いて曰はく「吾前に不須也凶目き汚穢き処に到る。故、吾が身の濁穢を滌ひて去てむ」とのたまひて、則ち往きて筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至りまして、秡ぎ除へたまふ。遂に身の所汚を盪滌ぎたまはむとして、乃ち興言して曰はく「上瀬は是太だ疾し。下瀬は是太弱し」とのたまひて、便ち中瀬に濯ぎたまふ。因りて生める神を、号けて八十枉津日神と曰す。次に其の枉れるを矯さむとして生める神を、号けて神直日神と曰す。次に大直日神。又海の底に沈き濯ぐ。因りて生める神を、号けて底津少童命と曰す。次に底筒男命。又潮の中に潜き濯ぐ。因りて生める神を、号けて表中津少童命と曰す。次に中筒男命。又潮の上に浮き濯ぐ。因りて生める神を、号けて表津少童命と曰す。次に表筒男命。凡て九の神有す。其の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、是即ち住吉大神なり。底津少童命・中津少童命・表津少童命は、是阿曇連等が所祭る神なり。
主祭神の側に祀る配祀神として七柱の神々を祀っています。
- 天御中主命:高天原に最初に現われた造化の神。
- 大国主命:縁結び福の神として親しまれる出雲大社の御祭神です。尚、現在の志賀神社の宮司は出雲大社の祭祀を司る国造北島家の分家にあたります北島氏です。
- 少名昆古那神:大国主命の出雲国造りに協力した神様です。また医薬の神様、温泉の神様、酒の神様として信仰されています。
- 事代主神:大国主命の御子神で出雲の国譲りを承諾されたことから国家安穏泰平の守護神とされています。
- 応神天皇:開拓開墾の神様です。和銅年間(708-715)の開津とされる早津江、及び有明海の干潟陸地化干拓の御神徳とされています。
- 菅原道真:太宰府天満宮より分霊された学問の神様で有名な菅原道真公の御神像を祀っています。一刀彫りの御神像では最も古く、室町期の作といわれています。
- 源為頼公:剛弓の使い手と知られる平安時代末期の武将。佐賀県では黒髪山の大蛇退治で広く知られています。大蛇退治に赴く際、肥後より海路早津江に上陸し、当社に鰐口を奉納祈願したと伝えられています。
鎮座以来、神領地及び神船の寄進があり、源為頼公の寄進による鰐口、龍造寺隆信からの信仰の証としての軍旗などが今も残されています。歴代藩主から尊崇され、明暦4年(1658)鍋島光茂によって本殿が全面改修されました。江戸末期には肥前佐賀藩10代藩主・鍋島直正が、大願成就を当社に祈願して我が国初の国産蒸気船建造に取り掛かり、慶応元年(1865)早津江三重津海軍所で凌風丸が進水しました。
明治5年2月23日(1872年3月31日)十三番大区(今の中川副・大詫間・南川副・西川副の内、西古賀・小々森)の郷社に列格。明治41年(1908)8月12日無格社16社を合祀。それに併せて社殿を修繕し、神饌所及び絵馬堂を建築、境内拡張等がなされました。大正元年(1912)10月15日に神饌幣帛料供進神社の指定を受けます。皇紀2600年を記念した昭和15年(1940)凌風丸に因んで日本海軍発祥の地として海軍の祈誓社となり、大規模な改築が行われました。昭和19年(1944)県社に昇格。昭和20年(1946)宗教法人志賀神社として発足しました。
【境内社など】
「恵比須神社」
本殿後方の石祠。漁業と商売の神様として恵比須さま(事代主命)を祀っています。海に囲まれた我が国に福をもたらす庶民の神さまとして人気者です。
早津江津の由来は「早くに栄えた港(津)」と言う意味があり港町として栄えた背景がありました。その当時多くの商売のお店があり各々角に、商売繁盛を祈願する恵比須神がお祭りされていました。角恵比須ともいわれますが、商売が廃れて土地を手放す折、神社に預けられたもので、基本的には恵比須像をはじめ同様の理由から神社がお預かりした祠です。早津江津は佐賀市中心部に次いで角恵比須の多い街です。
「御神木:クスノキ」
本殿後方に植わっています。昭和55年(1980)「佐賀県の名木100選」に選ばれ、平成22年(2010)1月15日に佐賀市保存樹指定を受けています。樹高:12.1m、幹周:5.8m、樹齢800年。GHQによる刀剣接収の際には、中の空洞部に宝剣が隠されたとも伝えられています。
「稲荷神社」
社殿向かって右手の二社。人間の衣食住を司る神様として稲倉魂命を祀っています。
「祖霊社」
社殿向かって左に鎮座。国家や公共に尽くした氏子を祀っています。昭和21年(1946)の創建。
「佐野常民生誕地」
一の鳥居前には、佐賀の七賢人の1人とされる佐野常民の生誕地を顕彰した石碑が建っています。文政5年(1923)に生まれた佐野常民は、蒸気船・洋式燈台・電信機等の開発、政界でも農商務大臣や大蔵卿を務めた人物です。殊に知られるのは、日本赤十字社の創設です。明治10年(1872)の西南戦争に際し、佐野常民の尽力により負傷者を看護する博愛社が設立され、日本赤十字社の前身となりました。その博愛の真心は氏神様のお導きと述べたと伝えられています。
【神事・祭事】
「秋季例大祭」
9月23日・24日の2日間催行される秋の例大祭は、23日の御神幸祭から始まります。御神体を載せた神輿が若衆の「ソイヤーソイヤー」と威勢のいい掛け声と共に氏子区域を駆け巡り、回り当番の下乃宮まで往復します。この御神幸祭には、子供神輿や漁民が担ぐ船神輿もお供して盛り上がります。23日の宮入りでは、凡そ100mの参道を神輿に代わる代わる子供達を乗せて担ぎ上げ、祝い唄を交えながら競り合います。
「佐野祭」
佐野常民の遺徳を顕彰する佐野祭を生誕地記念碑前で、佐野常民の命日である12月7日に斎行しています。