春日神社の創建は古く、天平年中(729-749)豊後国分寺の開基ともされる石川某が、奈良の三笠山より勧請し奉ったとも、貞観2年(860)3月、国司の藤原朝臣が勅を奉じて奈良の春日大社の四所大神を勧請したとも伝えられる古社です。
建久7年(1196)豊後国の地頭となった大友能直が当国に封ぜられて再興。以来、代々の領主によりの府内(豊後国)の総廟とされます。南蛮貿易基地を境内地に続く春日浦で展開した大友氏は、しばしば社領を奉献し、特に2代当主の大友親秀は社領80貫を奉献しました。歴代の守護職、藩主等の崇敬厚く、年々の祭祀料は申すまでもなく、しばしば社領の奉献、社殿の修復、祭祀を厳修して殷盛を極めました。
天正11年(1584)島津軍の府内入場に際し、兵火に罹り、諸社殿の破壊・喪失したのみならず、社宝・記録もことごとく亡失。慶長8年(1603)に至り、藩主の竹中重利が社殿を再営。慶長12年(1607)には、江戸より帰途に赴いていた竹中重利が、播磨灘に於いて暴風雨に遭遇するも、春日宮に祈念することで無事を得たことから、境内に松を10万本植えて奉賽します。そのことからも、当時の広大な神域をしのぶことができます。以来、歴代藩主は産土神として祭祀料を奉るなど尊崇を怠らず、特に日根野吉明は寛永12年(1625)入府以来、神宝の寄進、伝記の蒐集、祭祀の復興を行いました。
大正6年(1917)には県社に昇格。しかし、昭和20年(1945)7月17日の未明、米空軍の焼夷爆撃により社殿はことごとく焼失。戦災復興事業として氏子崇敬者の浄財寄付金などを以って社殿が再建され、昭和42年10月18日に遷座祭が斎行されました。昭和43年(1968)7月1日には、別表神社に昇格。続いて、神門や大鳥居の新設等の事業があり、厚く崇敬されています。
春日神社の御祭神は、武甕槌命、経津主命、天津児屋根命、姫大神の四柱です。
武甕槌命は、経津主命と対で扱われることが多い神で、国譲りで大国主命の息子の健御名方神に勝ち、国譲りをなし遂げた神で勝運・産業繁栄・交通安全などの御神徳があるとされています 。
経津主命は、武甕槌命と同様に国譲りで活躍した神で、経津は剣の切る勢いを示し、勇武をあらわしているとされています。災難除けの神として、そして勝運・交通安全・国家鎮護・諸産業の繁栄の御神徳があるとされています。
天津児屋根命は、春日権現、春日大明神とも称され、祭祀を司る神です。国土安泰・産業繁栄・家内安全・交通安全、智育守護などの御神徳があるとされています。姫大神は、天津児屋根命の妃神です。
社殿向かって左の神池には、市杵嶋姫神を祀る厳島神社と倉稲魂神を祀る稲荷社が鎮座しています。
社殿向かって右手には、絵馬堂があり、絵馬堂の鳥居は、宇佐鳥居形式で寛政9年(1797)の建立です。その奥に摂末社が並びます。社殿側から青龍権現を祀る石祠。天ノ御中主ノ神を祀る天津社。大物主神を祀る金刀比羅社。いぼ神さまと称され、豊玉彦・豊玉姫を祀る江海社は、大友親秀が祀ったと伝えられています。そしてその隣に稚児塔が奉斎されています。
境内東の御神木と絵馬堂との間に菅原道真命を祀る天満社。そして後藤神社が並びます。後藤神社の御祭神は、増焼大明神と通称される後藤増焼太夫で、貞観2年(860)の春日大社から勧請された時、藤原山蔭に随員した後、当地に移り住んだとされる先祖神です。
神門の東西に聳える楠は、大分市指定名木で推定樹齢約1000年とされています。
尚、本殿の「春日神社」の社号額は東郷平八郎による筆です。