八代宮は、後醍醐天皇の皇子で征西大将軍として九州における南朝方の全盛期を築いた懐良親王を主祭神とし、後村上天皇皇子で征西将軍の職を譲った良成親王を併せ祀っています。懐良親王は薨去された後、八代神社(妙見宮)の中宮から北方200mの地の懐良親王御墓に鎮斎されています。
武家中心の社会から天皇中心の社会に戻した後醍醐天皇による「建武の中興」は、明治維新にも比せられ、南朝の功労者を祀る神社の創建運動が各地で起こります。その縁地として、八代の住民からの再度の請願により、建武中興十五社の一社として明治17年(1884)4月に鎮座の儀が行われました。明治19年(1886)11月には良成親王が配祀されました。
社地は、明治3年(1870)に廃城となった八代城で、現在、国指定史跡です。
御陵に近く懐良親王の居城ともされる由緒ある地です。
南北朝期に、名和氏が築いた山城の古麓城がはじめとされ、名和氏の後、相良氏も本拠地として使用しました。天正16年(1588)には小西行長が古麓城に代わって海岸沿いに麦島城を築城。元和5年(1619)の地震により麦島城が倒壊したため、城代の加藤正方が当地に城を移し、元和8年(1622)に八代城(松江城)を完成させました。石垣には八代産の石灰岩を用い、麦島城の石垣も再利用したが、その白さから別名「白鷺城」とも呼ばれました。
一の鳥居は、八代城の旧大手門付近に設置され、徳渕の津から参道が直進しています。二の鳥居の次に三間一戸、軒唐破風の四脚門。門に回廊と透き塀がつき、神殿を囲んでいます。拝殿は入母屋妻入向拝付。本殿は三間社流造。いずれの建物もかつては柿葺でしたが、現在は銅板葺です。官幣社にふさわしい気品ある佇まいを見せています。