元々、木原山と称されていた雁回山の本宮は、後白河天皇の御代(1155-1158)、保元の乱での強弓で名高い平安時代末期の武将・鎮西八郎為朝(源為朝)が木原城に居城の折、阿蘇宮を崇敬し、西国安鎮祈願の遙拝殿を立てたのが始まりと伝えられてます。
その後、治承2年(1178)高倉天皇の勅願にて鎮西地方の鎮護の宮として本宮創建の御綸旨を賜り、時の内大臣の平重盛が、緑川沿いの菰江の地に着船。阿蘇大明神、天照皇大神、埴安姫神、諏訪大明神、氷川大明神、稲荷大明神を総称して六殿大明神と号し、木原明熊に仮宮を建てたのが六殿神社の創建です。
寿永元年(1182)肥後守菊池隆直を社殿造宮の任にあたらせ給い、直ちに木原山麓の現在地に御社殿を造営し、神領750町を寄進。更に神護寺として円福寺(不動明王ほか5体安置)を建立し、社僧20人をつかわしてその任に当たらせました。
建武元年(1334)肥後守菊池武重は社殿を改築。八幡大菩薩、若宮大神、甲佐大神を合祀し、延元4年(1339)には征西大将軍の懐良親王が勅使として参向され、参拝を仰いだと記録されています。
天文18年(1549)宇土城主の名和伯蓍守顕忠は、宝殿の建立をはじめ、飛騨国より名番匠の甚五左衛門を招いて「釘無しの門」とも称される楼門を奉建しました。
天正16年(1589)には、キリシタン大名の小西行長が宇土城城主となり、領内の社寺を焼討します。本宮は、勅願社の故を以ってその神域を懼れ火難はまぬかれたものの、神領や宝物は掠奪され、社内は乱妨狼藉を極め、本地堂等を焼失し、円福寺本尊は山中に隠され、木原不動奥の院として奉安されます。慶長5年(1600)加藤清正は、本宮に於て宇土城攻略の戦捷祈願をなし、その制札を立て、乱妨を禁じ、神領を寄進し社殿を改修しました。
細川歴代藩主の尊崇も厚く、今も尚、奉納の絵馬や安泰祈願大灯籠が現存し、一般庶民の信仰は肥後国内はもとより、鎭西(九州)一円に亘り、除災招福、心願成就を祈念する人々の、心のよりどころとして、神威益々広大に崇敬を集め今日に至っております。
楼門は、三間一戸の入母屋造りの二階建で、屋根は一重で萱葺。棟高は7.8m。腰に縁を廻らせています。その手法は巧妙を極め、複雑な軒廻り、支輪の曲線、組入天井、二重の繁欄、逆蓮の勾欄、膜股の精美さ等、足利末期建築の特徴を具備した最も優美精妙なる建物です。中世の社寺建築の主流は禅宗様式ですが、古代の和様を基調としている点に特徴があるとされますが、しかし、古代の社寺建築と比べ、木割が小さく、繊細で華麗さを感じさせているのが特徴です。明治40年(1907)に特別保護建造物として、熊本県で最初に国指定を受け、昭和4年(1929)国費を以って修理され、現在に至っています。
現在の神殿は、文政6年(1822)の改築。境内の摂末社として、社殿向かって右手に三社。左手に二社。鳥居前に一社鎮座しています。
社殿の向かって右に、子授け安産、母性の守り神として安徳天皇の生母である建札門院徳子を祀る宿大神社。雁回山側に進んで、手前から菅原道真を祀る菅原神社。奥に医療の神、疫病退散・病気平癒の御神徳のある八千矛神と少彦名大神を祀る鉾神社が鎮座しています。
社殿向かって左の奥は中王宮。高倉天皇の御綸旨を奉じての創建以来、初代から第3代までの大宮司の平江三郎為歳、平江判官為宗、平江左衛門尉為示を祀っています。御祭神は、紀州宇田森から当社の神職となり、平氏の一族にして平江姓の始祖とされています。
その手前、代官宮の御祭神の伊津野帯刀競 佐藤少監信明は、創建時に社領を附せられた地区の初代代官で、伊津野、佐藤姓の祖神です。
鳥居前に平重盛命とその父の平清盛を祀る大王宮が鎮座しています。