地元では親しみを込めて「青井さん」と称される青井阿蘇神社は、大同元年(806)の9月9日の重陽の日の創建です。阿蘇の広大な原野を開拓し、その守り神として阿蘇山の麓に鎮まる阿蘇神社の御祭神十二神のうち、初代の天皇である神武天皇の孫にあたられる健磐龍命、その妃神の阿蘇津媛命、お二人の御子神の國造速甕玉命の三柱の神々の御分霊を祀ったのがはじまりです。この開拓の守護神である阿蘇神社の神々を祀り、御加護を受けながら人吉球磨地方の開拓が営まれ、安住の地を整えていったと考えられています。鎮座地は、東に球磨川と山田川、南に蓮池、西に大路、北に村山と配される四神相応の地で、延暦13年(794)に四神相応の都として造営された平安京から12年後に同様の造営がなされていたことになります。
創建の翌年、大同2年(807)に尾方権之助大神惟基が初代大宮司となり青井姓に改称します。建久9年(1198)には、相良氏の初代である相良長頼が遠江国(静岡県)から下向し、氏神として祀りました。
しかし、相良氏と阿蘇氏は南北朝内乱期や戦国時代には対立関係にあることが多く、そのためか阿蘇神社や阿蘇大宮司家との間で宗教上の密接な交流を示す資料は残されていません。阿蘇三神を祀るものの青井阿蘇神社自体は中世、近世を通して人吉球磨地方で独自の宗教的展開を図っていたとされています。慶長15年(1610)には相良長毎が、現在国宝に指定されている本殿、幣殿、廊を造営。慶長16年(1611)に拝殿。慶長18年(1613)に楼門が造営されました。
明治元年(1868)青井大明神から青井神社に、明治5年(1872)青井阿蘇神社に改称。昭和8年(1933年)1月23日に国宝保存法に基づき当時の国宝(旧国宝)に指定されます。昭和25年(1950年)には文化財保護法に基づき国指定重要文化財に、平成20年(2008年)6月9日に国宝に指定されました。
明治5年(1872)8月に郷社に列し、昭和10年(1935)11月県社に昇格しました。
摂末社
社殿向かって右手、御神木の神楠の隣に鎮座するのが青井大神宮です。御祭神は、右殿が天照皇太神、左殿が豊宇氣皇太神。例大祭は9月16日。月次祭は毎月16日(お伊勢講会)です。明暦2年(1656)50代大宮司に就任した青井惟治は、京都の吉田神社において唯一神道の奥義を伝授されたのを機に、それまでの神仏習合の風習をあらためます。寛文3年(1663)に、この青井大神宮を創建するなど根本的な神社改革を行いました。現在の両殿からなる社殿は、寛保2年(1742)に楼門東側の霊地に造営されたものですが、昭和34年(1959)に現在地に遷されました。
神楠の後ろに祀られている祠は、由緒など詳細は不明ですが、御神木の神、または水神・地神を祀っていると考えられています。
御神木の神楠は、球磨郡・人吉市の中で最大のクスノキで、人吉市指定天然記念物です。
社殿の向かって左手には、手前から稲荷神社、興護神社、宮地嶽神社が並びます。
五穀を司る神として祀られる稲荷神社は、御祭神として宇迦之御魂神、大田神、大宮神を祀っています。例大祭は旧暦2月の初午の日。月次祭は毎月25日です。御祭神の宇迦之御魂神は稲の霊で、大田神、大宮神とともに食物を司る神として信仰されています。鎮座は宝暦9年(1759)で、当時人吉は度重なる災害や藩主の交代で経済的にも精神的にも疲弊しており、豊饒と藩内の安泰を願い祈り創建されました。現在の御社殿は、天保5年(1834)に家内安全・産業繁栄・如意安楽を願い、現在の相撲場南側に造営されたものですが、昭和30年(1955)頃に現地に遷されました。
興護神社は、球磨川の氾濫を鎮め、灌漑の神として水神の闇靇神を祀っています。
家内安全・勝負の神として祀られる宮地嶽神社は、御祭神として息長足比賣命、勝村大神、勝頼大神を祀っています。例大祭は9月5日。月次祭は毎月5日です。御祭神の息長足比賣命は神功皇后のことです。神功皇后は摂政として政治の任にあたられますが、その折、勝村大神・勝頼大神は、藤之高麿・藤之助麿の名で神功皇后を補佐され、大任にあたられた忠臣です。始めは、村山台地の高台に勧請し、創建されたもので、開運の神として球磨郡一円より厚い信仰を寄せられていました。諸般の事情から昭和38年(1963)当神社境内に遷され、昭和45年(1970)より現在地に遷座され奉斎されています。
例大祭「おくんち祭」
陰陽思想で「陽」とされる奇数の重なる慶日は、節句と称されています。特にその奇数の最大数である「9」の重なる旧暦9月9日は「重陽の日(菊の節句)」とされています。その慶日に御祭神が鎮座された青井阿蘇神社では、この日に例大祭「おくんち祭」を斎行しています。明治の改暦により、10月3日から11日にかけての一連の祭儀が斎行されています。10月3日に大祭期間中に火災の禍がないように祈願する鎮火祭、8日に例大祭を行い、9日に神幸式が斎行されています。8日の例大祭では夕刻に神楽殿(拝殿)で国指定の民俗無形文化財である球磨神楽が4時間に亘って現存する17数番が奉納されます。
神幸式はチリン、チリンと澄んだ音色をさせるチリン旗を先頭に、獅子面、御神宝、神輿などの行列が市内を練り歩きます。昔は祭りの日に一般民衆の境内立ち入りが許されず蓮池の周りだけを巡幸する静かな神事だったといいます。今のようなスタイルになったのは大正から昭和にかけてで、市街地の繁栄を重要視した人吉の人々の要望が背景にありました。神社総代や、お世話役たちの目論見通り、行列の道中は動きもとれないほどの参拝者が押し寄せ、御旅所ではサーカス、見せ物小屋が立ち並びたいへんな賑わいであったといわれています。
寛永18年(1641)に奉納された獅子面は一人で被るのが特徴で、雷雲の上衣に波浪の袴を身に纏い、足袋にわらじで足元を固めます。青赤一対の獅子頭の青獅子の裏面に、相良氏累代の家臣の築地主水左衛門尉秀治が彫刻し造ったと、奉納に至る経緯が記されています。
「おくんち」に供される「赤飯、煮しめ、つぼん汁」という家庭で作られる定番の料理と、無病息災を願い、子供の頭を獅子に噛んでもらうという風習は古来と変わらず今も受け継がれています。
国宝の社殿群
青井阿蘇神社の社殿群の、本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門の建造物五棟が国宝の指定を受けており、造営時の棟札一枚と改築の年代・内容が明記された銘札五枚が附として指定されています。
社殿群は、相良長毎により、慶長15年(1609年)から4ケ年にわたり造営されたものです。慶長15年(1610)に本殿・幣殿・廊。慶長16年(1611)に拝殿。慶長18年(1613)に楼門が造営され、一連の御社殿はすべて同時期の造営で、全国的に見ても大変貴重なものです。昭和8年(1933年)1月23日に国宝保存法に基づき当時の国宝(旧国宝)に指定されます。昭和25年(1950年)には文化財保護法に基づき国指定重要文化財に、平成20年(2008年)6月9日に国宝に指定されました。
御社殿のすべてが黒を基調にした漆塗りで、細部の木組みに赤漆を塗り、彫刻や模様は極彩色を用いるとともに各所に装飾が施され、一般に桃山様式と呼ばれる技法で建てられています。屋根の棟が高く勾配が急な萱葺き屋根が一番の特徴で、青井阿蘇神社をはじめ、人吉球磨地方にはこのような歴史的建築物が数多く残されています。また、南九州地方にみられる雲龍の彫刻が施されているのが特徴で、拝殿横に神供所を配置するL字状の配置は、球磨地方の社寺建築の規範となっています。