豊玉姫神社は、山幸彦と海幸彦の神話で知られる彦火々出見命(山幸彦)を綿津見神宮で歓待して結婚した後、鵜草葺不合命を御産みになられた豊玉姫命を祀っています。
綿津見神には、娘として姉の豊玉姫命と妹の玉依姫命がいました。姉の豊玉姫命は川辺に、妹の玉依姫命は知覧に封ぜられることになり、二人は衣の都(今の頴娃・開聞の辺)を御出発お立ちになります。その経路は、髪を整えられた鬢水峠、化粧された御化粧水、昼飯をとられた飯野、正式に行列を正し休憩された宮入松を経て、姉妹の神様が行く手を違えられた取違にお泊りになったとされています。
ここで玉依姫命は川辺はが水田に富むことをお知りになり、急いで玄米のまま朝食を炊かれ川辺へ先発されました。一方、平常のように白米を炊かれた豊玉姫命は遅れてしまったので、やむなく妹姫の宰領されることになっていた知覧に向かい、上郡上の城山の下に宮居をお定めになって、知覧を宰領されたとされています。
この知覧で、豊玉姫命は民生を撫育された後、崩御遊ばされたので郷民は御遺徳を慕い、城山の麓に社殿を建立し、鎮守の神として崇敬したのが当社の始まりと伝えられています。後に、父神・夫神・妹神の三柱の神々も合祀します。当社から東北東約2kmの城山は、知覧城の出城である「亀甲城」の地で、知覧武家屋敷庭園の東端過ぎの小山です。
天正年間(1573-1592)には火災にあい、慶長15年(1610)に知覧領主の島津忠充が現在の地を寄進して、遷宮します。古来より社格は高く、一郷鎮守の神としてのみならず、近郷の人々の信仰も厚く、郡司の知覧忠世の和与状に見えるように、地方民の精神的支えでもあったとされています。藩主の島津家の信仰も厚く、改築等に度々御加工を戴き、また年々御饌米が奉納されていました。特に出陣の時などは、祈願祭が行われ、多数の祈願文が秘蔵されています。又、境内の夫婦銀杏は第15代島津家当主の島津貴久の御手植と伝えられています。
古文書によると、応永年間(1394-1428)、元亀元年(1570)、慶長15年(1610)、寛文11年(1671)等の造営再興の記載が残っています。旧名は「中宮大明神」、「中宮三所大明神」と称され、慶応4年(1867)に「中宮神社」に、明治3年(1870)に現在の豊玉姫神社に改称しました。
祭神に対する特殊信仰も多く、豊玉姫命は御顔形が玉の如く御立派な方で、御子をお産のときも、産殿の屋根もまだ葺き終えないうち、軽々と御安産遊ばされたのことから、妊婦は当社を信仰し、崇拝すれば、必ず安産で美形の子を産むと信ぜられ厚く信仰されています。また、御祭神の豊玉姫命、豊玉彦命、玉依姫命は共に海を司る綿津見神の御子神でもあることから、航海や船出の折は、当社を崇敬し護符を受けて身につけると絶対安全と幸福が得られるものと、漁業をはじめ航海安全の神として信仰されています。
祭典としては、7月9日・10日の両日に奉納される「知覧の水車カラクリ」が国選択無形民俗文化財の指定を受けています。
「知覧の水車カラクリ」鹿児島の夏祭りの呼び名である「六月灯」で社地前の用水路の水車を動力源にした人形を動かし、一場の芝居を演じさせるカラクリ人形劇です。ゼンマイ仕掛けや糸操り、花火仕掛け等のカラクリ人形は全国各地に伝え残されていますが、水力を利用したものは極めて稀とされています。同様に「薩摩の水からくり」で指定を受けている竹田神社(南さつま市加世田)のカラクリと比べ、首をうなずかせたり、手足を動かす等複雑な動きが特徴となっています。江戸時代から始まったとされ、昭和15~16年(1940-1941)頃に一時途絶えましたが、昭和54年(1979)に復活されたものです。毎年変わる演目は、有名な神話、昔話、説話が題材となっています。
神社に伝わる宝物も多数現存し、歴代の知覧領主直筆の書額を始め、木彫りの狛犬、セレベス島特有の武器である火焔型剣。また、神楽面は慶長、安永、貞享、元禄のそれぞれの年間によるものなどが34面伝えられています。