谷山神社は、後醍醐天皇の皇子で、九州における南朝方の全盛期を築いた征西大将軍・懐良親王を御祭神としています。武家中心の社会から天皇中心の社会に戻した後醍醐天皇による「建武の中興」は、明治維新にも比せられ、明治維新以降、南朝の功労者を祀る神社の創建運動が各地で起こります。その縁の地に建武中興十五社が建てられるのを受けて、懐良親王の鎮西統一の出発の地となった谷山に、昭和3年(1928)懐良親王の英霊を慰め奉り、また神徳を宣揚して国民の道徳の涵養につとめようと創立されたのが創始です。
建武元年(1334)建武の中興が成った後、後醍醐天皇は、足利尊氏が政権を獲得したため、延元元年(1336)大和国の笠置山に行宮を遷させ、自らの皇子らを各地に派遣し豪族の結束を呼びかけます。足利尊氏は京都に於て豊仁親王を以て光明天皇とし、京都朝廷をつくります。これが南北朝時代で、吉野朝廷を南朝と称し、京都朝廷を北朝と称するようになりました。
御祭神である懐良親王は、南朝の後醍醐天皇の第九皇子で、延元元年(1336)後醍醐天皇の鎮西統一の命に依り、征西将軍宮に任ぜらます。
肥後国一宮の阿蘇神社に伝わる阿蘇家伝来の古文書「阿蘇文書」によると、興国3年(1342)5月に懐良親王は、南北朝の対立の余波が及んでいた薩摩国の谷山に下向します。谷山郡司であった谷山五郎隆信をはじめ、肝付・川辺・鮫島氏らは、懐良親王を千々輪本城(谷山本城・愛宕城)[地図] に迎え、本城より約20町の高台に懐良親王の御所ヶ原(見寄ヶ原)を構え本陣を置きました。
これに力を得た南朝軍は、北朝方の島津貞久を苦しめますが、波之平城の戦いや紫原の戦いに破れるなどして南北両軍の一進一退が続きました。懐良親王は、決定的な勝利をおさめることができないまま、正平2年(1347)まで谷山に留まりますが、肥後国の菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、正平2年(1347)の11月下旬に海路を渡って菊池氏の本城である隈府城(菊池城)に入り、征西府を開き、太宰府の攻略を開始するところとなりました。
尚、谷山神社の昭和3年(1928)の創建に合わせて、千々輪本城(谷山本城・愛宕城)[地図] に「本城(千々輪城)跡」の石碑が建てられ、御所ヶ原(見寄ヶ原)のあったとされる推定地には、「征西将軍懐良親王御所記念碑」[地図] が大正11(1922)年に建てられています。
社殿向かって右手に鎮座している摂社の千々輪神社は、懐良親王を迎え入れた時の谷山城主であった谷山五郎隆信を御祭神として祀っています。