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明治15~17年(1882-1884)にかけて編成された『
『鹿児島県地誌』 川上村
古時花棚村ト両村タリ後合シテ一村ト為ス[年号干支詳ナラズ]
-(略)-
「疆域」
東ハ吉野村両ハ岡ノ原ト吉田往還上伊敷村ト畔道ヲ以テ界シ南ハ山路ヲ以テ下田村ニ隣リ北ハ棈木川ノ中央ヲ以テ宮ノ浦村ニ界ス
「管轄沿革」
文治以降嶋津氏之ヲ統轄ス後嶋津頼久ノ子川上親久本村ヲ領シ子孫相承ク[天文中川上昌久寃ヲ以テ死ス其族川上城ニ據ル島津勝久之ヲ攻ム河田某村田某川上氏ヲ援ク勝久囲ヲ解テ退ク後島津忠良親久ノ子久隅ヲシテ本村ヲ領セシム]慶長ノ頃ヨリ鹿児島近在ト称シ嶋津氏ノ直隷タリ王政革新以後本懸ノ所管ト為ル
-(略)-
「里程」
鹿児島縣廳ヨリ北ニ距ル凡弐里[元標ハ村ノ中央字宮ノ迫ニ在リ]
東 重富駅エ凡三里
西 岡ノ原村元標エ凡弐拾五町
南 下田村元標エ凡凡拾八町
北 宮ノ浦村元標エ凡弐里半
東 吉野村元標エ凡壱里
-(略)-
「神社」
-(略)- 菅原神社[無格社社地壱反壱畝弐拾壱歩菅原道真ヲ祭ル例祭二月廿五日創建年月詳ナラス]
位置的に鹿児島市中心部と姶良・国分地方とを結ぶ主要な陸路であることから、その歴史は古く、県内でも出土例が少ない
考古学においても、「
『旧記雑録:前編二 巻三二「720 嫡子川上氏文書」』
薩摩國鹿兒嶋郡河上村事、親父上野入道存生之間者不可有子細候、於于後々者、嫡子三郞左衞門尉爲給恩所宛行也、仍雖爲親類兄弟、不可有違亂之儀、可領知之状如件、
應永十一年三月五日 元久(花押)
河上三郎左衛門尉殿[家久]
古文書に「
山本正誼『島津国史』巻之十六 大中公上
大翁公不君。黜退舊勳。擢用新進。末弘伯耆守小倉武藏守等尤被親幸。相與飮博。不恤政亊。上下解躰體。國家將亡。川上大和守昌久與朝臣十六人。共因島津實久以諫。弗納。冬十月二十五日。昌久等殺末弘伯耆守於谷山皇德寺。大翁公畏逼。乃奔禰寢。-(略)-。四年。乙未。夏四月三日。大翁公歸鹿兒嶋。召川上昌久於川上城。昌久至。待命於大興寺。遣鳥取某賜昌久死。以首進逆耳之言也。昌久自殺。又遣兵圍昌久妻於川上城。不克。
家督を継いでいた
2月25日、もしくは直前の日曜日の
近年は学問の神を
【HP管理者覚書】
鹿児島市北部の
当時の戦乱の政情から鑑みて、既に築城されていたと推測されるが、「
そういった背景を持つのが「
高速道路造成、それより何よりも
なぜならば、地元に在住する立場からすると、どう考えても現状で指摘されている「
兎にも角にも現状の「
現行の「
南北に細く舌状に伸びた
これでは「常時」背水の陣の城である。つまり、易い城だ。
加えて、
つまり、戦乱の世の
ここにおいて、
参照:国土地理院 / 地図詳細(PDF・17.3M)
シラス台地の急峻な崖を四方に巡らし、南西・北東の二ヶ所に門を構えるだけで顕現する
ここで指摘しなければならないのは、標高図を見れば容易に推定できるこの
その事を踏まえての結論としては、
但し、北東の【城門A】は、【攻勢4】だけでなく東から攻め上がる【攻勢3】が合流できる。しかし、【城門A】の東は崖のため、【攻勢3】が【攻勢4】に合流するには、【城門A】のすぐ前で折り返さなければならない。そのため結局は【城門A】の前で渋滞することとなる。
結果、攻め手としては【攻勢1・3・4】が本隊として攻撃。【攻勢2】は【攻勢5】の攻撃を実現するための部隊となる。しかし、【攻勢5】に抜ける道は【
緑ヶ丘台地 みどりがおかだいち 、殊に最標高となる台地の南端部は東~南~西への眺望が開けている地である。- 東は、吉野台地までしか眺望は無いが、眼下にある
姶良 あいら ・国分 こくぶ と鹿児島市内を結ぶ街道の総てを一眼にできる。つまり、行き来の取り締まりが容易。 - 南西の桜島を一望でき、鹿児島市内中心部への視野は確保できている。
狼煙 のろし などの視野は容易。 - 南部の
開聞岳 かいもんだけ 、金峰山 きんぽうざん 、そして清水城 しみずじょう ・谷山城 たにやまじょう への視野が確保できている。北部は薩摩川内市に抜ける花尾岳 はなおだけ も望める。 - つまり、薩摩藩の東西南北の要衝を掌握できる眺望を持ち合わせている。
- しかし、現状の「
川上城 かわかみじょう 」はその眺望の全てが無い。高低差により視野を確保できない。
城門A
- 北東の
岡之原 おかのはら からの【攻勢4】、及び東の吉田街道からの北上する【攻勢3】を止める。 - 北は急峻な崖。南は崖からの折り返し。吉田と
岡之原 おかのはら からの攻勢は最終的に非常に狭い城門に収斂する。 - 城門を構えるだけで、北西~北東からの攻勢を抑えられる。
- 但し城門が破られた場合、高低差はなだらか。
- 一気に攻められる可能性があるため「
本丸 ほんまる 」からは距離を確保した方が良い。 - 【北ノ城】からの視野は北方のみで、南方への視野はないため、
本丸 ほんまる があったとは考えにくい。
城門B
- 南西部の
伊敷 いしき から攻め上がりに対しての城門。 - 南北は急峻な崖。城門は、将に一点。
- 両脇の崖を懸け登っての攻撃は実質不可能。
攻勢1~4
- 東は南北に平地が広がっており陣を構えやすい。
- 【攻勢1~4】を同時に攻めるのが常道か。
- 【攻勢2】には、急な坂道で狭路の【
空堀 からぼり 】で防衛。 - 【攻略1】が攻めやすそうに見えるのは罠だから。
- 【南ノ城】は、【
空堀 からぼり 】の防衛と共に、実は敵の背後を取って攻撃するための遊撃部隊。 - 【南ノ城】を攻略し、【
空堀 からぼり 】を無効化していないと、【南ノ城】から遊撃で出陣した軍勢が背後から挟み撃ちすることになる。 - 敵の攻勢としては、最初に【南ノ城】を攻め落とすことが最適解。
- 続いて、
空堀 からぼり 手前の高台の攻略になる。しかし【攻略1】の攻めが薄ければ、逆にそこから背後を衝かれることとなる。
- 南部の開けた平野部は水源が無いため、現在は畑地となっている。
- 地図の薄茶(160m)を三の丸、茶(190m)を二の丸、焦茶(200m)を
本丸 ほんまる と想定すれば、南部の平野部は麓 ふもと (武家屋敷)だったと考えられる。
以上である。つまり、
そして、当頁に則して
【参考文献】
- 川上天満宮を護り、心の拠り所とする会 有志一同『境内由緒書』,平成24年7月吉日. (参照 2023-06-30)
- 鹿児島県神社庁「川上天満宮」. 鹿児島県神社庁HP(参照 2023-06-30)
- 撰者不詳『鹿児島県地誌』巻二 鹿児島郡 下 P69&104-106,鹿児島県庁,明治15~17年(1882-1884). 鹿児島市HP (参照 2023-06-30)
- 吉元輝幸,有馬孝一『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書176:川上城跡』,鹿児島県立埋蔵文化財センター,2013. 全国遺跡報告総覧HP (参照 2023-06-30)
- 新東晃一,彌榮久志,池畑耕一,長野眞一『鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書14:九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告Ⅵ6 -加治屋園遺跡 木の迫遺跡-』,鹿児島県教育委員会,1981-03. 全国遺跡報告総覧HP (参照 2023-06-30)
- 戸崎勝洋,青﨑和憲,立神次郎,吉永正史,牛ノ濱修,長野眞一,宮田栄二『鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書16:九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告Ⅴ5 -加栗山遺跡 神ノ木山遺跡-』,鹿児島県教育委員会,1981-03. 全国遺跡報告総覧HP (参照 2023-06-30)
- 鹿児島県維新史料編さん所 編『鹿児島県史料:旧記雑録前編 二』P58,「720 嫡子川上氏文書」,1980-01. 鹿児島県HP (参照 2023-06-30)
- 鹿児島市史編さん委員会『鹿児島市史』第3巻 第3部 中世関係史料 P122,鹿児島市,1969-02. 鹿児島市HP (参照 2023-06-30)
- 山本正誼『島津国史』巻之十六 大中公上 P36-37,島津家編集所,明38年7月. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2023-06-30)
- 鹿児島短期大学図書委員会 編『鹿児島短期大学研究紀要』(41) P77,鹿児島短期大学,1988-03. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2023-06-30)