九州の神社

韓国宇豆峯神社(霧島市)

御祭神

御祭神ごさいじん 五十猛命いそたけるのみこと事代主命ことよりぬしのみこと
  • 寛政かんせい4年(1792)『神代山陵考じんだいさんりょうこう』では五十猛命いそたけるのみこと韓神からかみ曾富理神そふりのかみ三座さんざ
  • 社伝しゃでん、及び文化ぶんか5年(1808)編纂へんさんの『三国神社伝記さんこくじんじゃでんき』では天児屋根命あめのこやねのみこと

由緒

大隅国五座おおすみのくにござのひとつである韓国宇豆峯神社からくにうずみねじんじゃは、延長えんちょう5年(927)にまとめられた『延喜式神明帳えんぎしきじんみょうちょう』で「大隅國おおすみのくに囎唹郡そおぐん韓國宇豆峯神社からくにうずみねじんじゃ」と記された式内社しきないしゃです。

『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂

西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。 …(略)…。大隅國五座[大一座・小四座]。桑原郡一座[大]。鹿兒島神社[大]。囎唹郡三座[並小]。大穴持神社、宮浦神社、韓國宇豆峯神社。馭謨郡一座[小]。益救神社。

創建年代は不詳ふしょうですが、養老ようろう4~5年(720-721)の「隼人はやとの乱」からさかのぼること6年前の和銅わどう7年(714)。朝廷に敵対する隼人はやと教導きょうどうするため、豊前国ぶぜんのくにから移民が行われました。その移民となった人々が崇敬すうけいしてまつったのが韓国宇豆峯神社からくにうずみねじんじゃと考えられています。当時、豊前国ぶぜんのくにの中心をなしていたのは宇佐神宮うさじんぐう宇佐宮うさぐう)であることから、その配下を当地へ使わせたと考えられています。

『続日本紀』

和銅七年三月壬寅(714年3月15日)。隼人昏荒。野心、未習憲法。因移豊前国民二百戸。令相勧導也。

社伝しゃでんによれば宇豆峯うずみねとは山林の美称びしょうとされ、古くは宇豆峯うずみね矢岳やだけの山頂に鎮座ちんざしていました。しかし、祭祀さいし参謁さんえつに不便であったため、国司こくしの進言により現在地に遷座せんざしたと伝えられています。明治21年(1888)に写本として残された『国分諸古記こくぶしょこき』に永正えいしょう元年12月(1505年1~2月)、元和げんな元年(1615)、宝永ほうえい7年(1710)再興さいこう棟札むなふだ銘文めいぶんが記されていることから永正えいしょう元年以前に現在地に移ったと考えられています。

また現鎮座地げんちんざちの元々のあざ内門うちもんで、内門うちもん宇豆門うずもん転訛てんかと伝えられています。明治12年(1879)地租改正の際に字内門あざうちもんから字前田あざまえだになりました。隣りのあざの「まえ」は、みねまえ宇豆峯うずみねまえとの意であったと考えられ、上古じょうこ宇豆峯うずみねの区域は広大であったと推察されています。

韓国大明神からくにだいみょうじん韓国様からくにさまと称されて崇敬すうけいを受けますが、御祭神ごさいじんについては諸説あり、現在は須佐之男命すさのおのみこと御子神みこがみである五十猛命いそたけるのみこと事代主命ことよりぬしのみこととされています。

白尾斉蔵しらおさいぞう寛政かんせい4年(1792)に記した『神代山陵考じんだいさんりょうこう』では、御祭神ごさいじん五十猛命いそたけるのみこと韓神からかみ曾富理神そふりのかみ三坐さんざとし、その中の二坐にざ甲冑かっちゅうを帯びた軍装ぐんそうであることから、韓国からくに大隅国おおすみのくにのことか?)防禦ぼうぎょのために築かれた城跡」との指摘もあることを記しています。社伝しゃでん文化ぶんか5年(1808)編纂へんさんの『三国神社伝記さんこくじんじゃでんき』では御祭神ごさいじん天児屋根命あめのこやねのみこととしています。

和銅わどう7年(714)豊前国ぶぜんのくにから当地へ移民が行われた際、重要な位置を占めたのが宇佐神宮うさじんぐうでした。当時の宇佐神宮うさじんぐう祠官しかん神職しんしょくは、大神氏おおがし宇佐氏うさし辛島からしま韓嶋からしま)氏が有力氏族しぞくでした。中でも辛島からしま韓嶋からしま)氏は、素戔鳴命すさのおのみこと五十猛命いそたけるのみこと祖神おやがみたてまつっていました。一般に渡来系とらいけい氏族しぞくと考えられていますが、宇佐氏うさしから分岐した氏族しぞくであるとの見方もあります。

尚、宇佐神宮うさじんぐうの始まりについては、正和しょうわ2年(1313)に編纂へんさんされた『八幡宇佐宮はちまんうさぐう御託宣集ごたくせんしゅう』に記された「鍛冶翁伝説かじのおきなでんせつ」に重きが置かれていますが、承和じょうわ11年(844)に編纂へんさんされた『宇佐八幡宮うさはちまんぐう弥勒寺建立縁起みろくじこんりゅうえんぎ』にて豊前国ぶぜんのくに宇佐郡うさぐん御許山おもとさん馬城嶺まきみね)に始めて顕現けんげんしたとの説も有ります。『宇佐八幡宮うさはちまんぐう弥勒寺建立縁起みろくじこんりゅうえんぎ』には、大神清麻呂おおがきよまろ解状げじょう辛嶋勝家主からしまかついえのぬし解状げじょうがあり、共に、欽明天皇きんめいてんのう御世みよ大御神おおみかみ宇佐郡うさのこおり辛国からくに宇豆高嶋うずたかしま天降あまふった後、御許山おもとさん馬城嶺まきみね)に始めて顕現けんげんしたと記しています。その後、辛嶋勝家主からしまかついえのぬし解状げじょうでは、大御神おおみかみは現在の乙咩神社おとめじんじゃに移り、その時に辛嶋氏からしまし始祖しそである辛嶋勝乙目からしまのすぐりおとめ大御神おおみかみとしてまつったと伝えています。

その宇佐神宮うさじんぐう元宮もとみやとされる御許山おもとさん馬城嶺まきみね)山頂に鎮座ちんざする大元神社おおもとじんじゃは、比売大神ひめおおかみ多岐津姫命たぎつひめのみこと市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと多紀理姫命たぎりひめのみこと)を御祭神ごさいじんとし、頂上側は禁足地きんそくちとなっています。その山頂側に対する形で、須佐之男命すさのおのみこと御祭神ごさいじんとしてまつ八坂神社やさかじんじゃ鎮座ちんざしています。

豊後国ぶぜんのくにからの移民、辛嶋氏からしまし祖神おやがみとする五十猛命いそたけるのみこと御祭神ごさいじんとすること。それらの背景から宇佐神宮うさじんぐうとの関りは深く、宇佐神宮うさじんぐう由緒ゆいしょ編纂へんさんした『八幡宇佐宮はちまんうさぐう御託宣集ごたくせんしゅう』においても「辛国からくに」の名が記されています。八幡大神はちまんおおかみは、辛国からくにの城に八流はちりゅうはた天降あまふり、日本の神に成ったと伝えています。また『八幡宇佐宮はちまんうさぐう御託宣集ごたくせんしゅう』において記せられる「辛国からくに」は大隅国おおすみのくにを念頭にしているとされ「辛国からくにの城」は霧島山きりしまやま韓国岳からくにだけなど)とされています。

『八幡宇佐宮御託宣集』護卷三 日本国御遊化部

・一。初辛國宇豆高嶋。天國排開廣庭天皇御宇三十二年辛卯。豐前國宇佐郡菱形大尾山有靈異之間。大神比義祈申之時。現天童言。

・辛國乃城始天降八流之幡。我成日本神。一切衆生左右任心。釋迦菩薩化身。 人皇第一主神日本磐余彦尊。御年十四歳之時。昇帝尺宮。受執印鑰。還來日州辛國城。蘇於峯是也。蘇於峯者霧嶋山別號也。


・一。初は辛国宇豆高嶋。天国排開広庭天皇御宇三十二年辛卯、豊前国宇佐郡菱形の大尾山に霊異有るの間、大神比義祈り申す時、天童と現れ、言まはく。

・辛国城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神と成れり。一切衆生、左も右も心に任せたり。釈迦菩薩の化身ありてへり。 人皇第一主、神日本磐余彦尊、御年十四歳之時、帝尺宮に昇り、印鑰を受け執り、日州辛国城に還り来たまふ。蘇於峰是也なり。蘇於峰は霧島山の別の号なり。

『八幡宇佐宮御託宣集』靈卷五 菱形池邊部

欽明天皇三十二年辛卯二月十日癸卯。捧幣傾首申。「若於爲神者、可顯我前」即現三歳少児於竹葉上宣。「辛國城始天降八流之幡。吾日本神成。一切衆生左右任心。釋迦菩薩之化身。一切衆生度念神道現也。我是日本人皇第十六代譽田天皇廣幡八幡麻呂也。我名曰護國靈験威力神通大自在王菩薩也。国々所々埀跡於神道』者。


欽明天皇三十二年辛卯二月十日癸卯。幣を捧げ、頸を傾けて申す。若し神為るに於いては、我が前に顕れるべしと。即ち三歳の少児と現れ、竹の葉の上に於て宣ふ。辛国の城に、始て八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり。一切衆生左にも右にも、心に任せたり。釈迦菩薩の化身なり。一切衆生を度むと念ふて神道と現るなり。我は是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麻呂なり。我名をば、護国霊験威力神通大自在王菩薩と曰ふ。国々所々に、跡を神道に垂るてへり。

この宇佐神宮うさじんぐうとの関わりは、養老ようろう4~5年(720-721)に起きた「隼人はやとの乱」の背景ともなっており、宇佐宮うさぐうから派遣された移民は、隼人はやと教導きょうどうのため当地で活躍していたと考えられています。「隼人はやとの乱」はその後、後世の八幡宮はちまんぐう八幡神社はちまんじんじゃに受け継がれる放生会ほうじょうえひらくこととなり、後の神仏習合しんぶつしゅうごうの象徴へと展開します。

一方、韓国宇豆峯神社からくにうずみねじんじゃ社伝しゃでんでは、御祭神ごさいじん天児屋根命あめのこやねのみこととされ、文化ぶんか5年(1808)に編纂へんさんされた『三国神社伝記さんこくじんじゃでんき』、及び明治4年(1871)の『薩隅日地理纂考さつぐうにちちりさんこう』にても、社伝しゃでんでは天児屋根命あめのこやねのみこと御祭神ごさいじんであると記しています。

後に春日大明神かすがだいみょうじんとして崇敬すうけいされる天児屋根命あめのこやねのみことは、邇邇芸命ににぎのみこと天孫降臨てんそんこうりんの際、 随伴ずいはんした神で 中臣連なかとみのむらじとなったとされる大神おおかみです。しかし、 天孫降臨てんそんこうりんの地とされる霧島山きりしまやま韓国岳からくにだけ)周辺において由緒ゆいしょを持ち、天児屋根命あめのこやねのみこと御祭神ごさいじんとしてまつる神社は見当らないことから、韓国宇豆峯神社からくにうずみねじんじゃの重要性を指摘する知見も有ります。尚、宇佐神宮うさじんぐう神亀じんき2年(725)最初に 造営ぞうえいされた 一之御殿いちのごてん脇侍社わきじしゃは、 春日神社かすがじんじゃです。

また、昭和53年(1978)の『式内社調査報告しきないしゃちょうさほうこく:第二十四巻・西街道さいかいどう』では、和銅わどう7年(714)の移民と共に、3世紀ごろの辛嶋氏からしましの傘下における中臣氏なかとみしの南下。そして日本武尊やまとたけるのみこと熊襲くまそを討った際の中臣氏なかとみし中臣神なかとみのかみ天児屋根命あめのこやねのこと)の働き。そのいずれかが韓国宇豆峯神社からくにうずみねじんじゃ創祀そうしに関わるのか定かではないものの、御祭神ごさいじんの二重性から鑑みて、辛嶋氏からしまし祖神おゆがみ五十猛命いそたけるのみこと」と中臣氏なかとみし祖神おゆがみの「天児屋根命あめのこやねのみこと」の繋がりは密接なものがあったとしています。

上古じょうこは朝廷の崇敬すうけいも厚く、島津氏しまづしも藩費を以て式年しきねん造営ぞうえいを行い、島津義久しまづよしひさ島津吉貴しまづよしたか両公は特に尊崇そんすうし、元和げんな元年(1615)、宝永ほうえい7年(1710)の再興さいこうに努めました。明治6年(1873)5月に県社けんしゃ列格れっかく。令和2年(2020)12月22日に南西400mに鎮座ちんざする諏訪神社すわじんじゃ合祀ごうししました。

現在の社殿しゃでんは、明治40年(1907)に改築され、その後修繕を加えたものです。春日造かすがづくり本殿ほんでんは間口2間・奥行1間半。入母屋造いりもやづくり拝殿はいでんは間口3間・奥行2間。例祭れいさいは、旧暦9月9日。旧暦3月16日の祈年祭きねんさいには、境内けいだいで農耕・種蒔・奉射ほうしゃ御田植神事おたうえしんじが行われます。能面五面が伝わっています。


境内社けいだいしゃなど】

三前神社みつまえじんじゃ

社殿しゃでん向かって右手の神池かみいけ鎮座ちんざ荒人神社あらひとじんじゃ若宮神社わかみやじんじゃ天一神社てんいちじんじゃの三社を合祀ごうし。縦4尺3寸、1尺6寸。

  • 荒人神社あらひとじんじゃ祭神不祥さいじんふしょう由緒ゆいしょ不詳ふしょう
  • 若宮神社わかみやじんじゃ:玉依姫命、応神天皇、仁徳天皇にんとくてんのう神功皇后じんぐうこうごうまつる。由緒ゆいしょ不詳ふしょう
  • 天一神社てんいちじんじゃ祭神不祥さいじんふしょう由緒ゆいしょ不詳ふしょう

大山祇神社おおやまつみじんじゃ

社殿しゃでん向かって右手の神池かみいけ鎮座ちんざ大山祇神おおやまつみのかみまつっています。由緒ゆいしょ不詳ふしょう。縦4尺3寸、横1尺6寸。

門守神社かどもりじんじゃ

二之鳥居にのとりいを過ぎた左右に鎮座ちんざ境内けいだいの守護する門番にあたる神様です。櫛石窓神くしいわまどのかみ豊石窓神とよいわまどのかみまつっています。

田之神神社たのかみじんじゃ

祭神不祥さいじんふしょう由緒ゆいしょ不詳ふしょう石祠いしほこら

Photo・写真

  • 境内入口
  • 鳥居
  • 鳥居
  • 鳥居
  • 門守神社
  • 門守神社
  • 境内
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 本殿
  • 本殿
  • 三前神社・大山祇神社
  • 三前神社
  • 大山祇神社
  • 田之神神社
  • 宇豆峯(矢岳)

情報

住所〒899-4313
霧島市きりしまし国分上井こくぶうわい898
創始そうし不詳ふしょう
社格しゃかく式内社しきないしゃ県社けんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい旧暦9月9日
HP 鹿児島県神社庁HP

地図・マップ