九州の神社

鹿児島県・大宮神社(入来町)

御祭神

御祭神ごさいじん大己貴命おおなむちのみこと

由緒

入来院いりきいん内諸社ないしょしゃ総社そうじゃである大宮神社おおみやじんじゃ創建年そうけんねん不詳ふしょうですが、宝治ほうじ2年(1248)に薩摩国さつまのくに下向げこうした、相模国さがみのくに御家人ごけにん渋谷光重しぶやみつしげの子、入来院定心いりきいんじょうしん家老職かろうしょく種田氏たねだしが、近江国おうみのくに日吉大社ひよしたいしゃ西本宮にしほんぐうまつられる大己貴命おおなむちのみこと勧請かんじょうしたと伝承でんしょうされています。元享げんこう2年(1322)にはじめて大宮おおみや社名しゃめいが現れることから、宝治ほうじ文永ぶんえい期(1247-1275)頃までの間に勧請かんじょうされたと推測されています。『入来文書いりきもんじょ』によれば、建長けんちょう2年(1250)の地目録ちもくろくにある地主神じぬしがみ当社とうしゃを指すものではないと見られることから、それ以降の勧請かんじょうと考えられていますが、入来院氏いりきいんし山王信仰さんのうしんこうによる山王社さんのうしゃ旧社地きゅうしゃちにあったともされています。

旧社地きゅうしゃちは、牟多田三文字むたださんもじから100mばかり南の久木塚くきづかの川添いにあったと伝えられ、延徳えんとく2年(1490)までは旧社地きゅうしゃち鎮座ちんざしていたことが算田帳さんでんちょうから判明しています。また、その時代は入来院氏いりきいんしの勢力が最も伸張した時期で、算田帳さんでんちょうには大宮神社おおみやじんじゃに対しても多大な給田きゅうでんがなされたことも記録されています。その後、社地しゃち後川内川うしろせんだいがわの水害をこうむるようになり、入来院重聡いりきいんしげさと当主期とうしゅき:1490~1539)の時代に現在地に遷座せんざしたと考えられています。

中世以降、入来いりき宗廟そうびょうとして入来五社いりきごしゃの筆頭に格付けられ、領主りょうしゅを初め郷民ごうみん尊崇そんすうする神社とされました。社殿しゃでんは、天明てんめい6年(1786)と大正7年(1918)に改築され、大正時代のものが現社殿しゃでんです。

梶山神社かじやまじんじゃ

社殿しゃでん向かって右手に鎮座ちんざ入来院氏いりきいんし家老かろうであった種田氏たねだし氏神うじがみである梶山権現かじやまごんげんまつっています。種田氏たねだし家紋かもん「丸に剣梅鉢けんうめばち」が刻まれています。


きみ入来神舞いりきかんめ

入来神舞いりきかんめ

例祭日れいさいびの11月23日と大晦日おおみそかから元旦がんたんにかけての年2回、入来神舞いりきかんめ奉納ほうのうされています。鎌倉時代から踊り継がれているとされ、古代入来隼人こだいいりきはやと隼人舞はやとまいと、宝治ほうじ2年(1248)に薩摩国さつまのくにに移住した渋谷氏しぶやしが伝えた雅楽ががく盤渉調ばんしきちょう、並びにその後に流入した出雲神楽いずもかぐらなどが混和こんわされたのが入来神舞いりきかんめと推定されています。15~16世紀前半にかけて当地では、渋谷氏しぶやしの支流である入来院氏いりきいんしの勢力が最も伸張し、大宮神社おおみやじんじゃに対しても多大な給田きゅうでんがなされました。その時期に入来神舞いりきかんめが成立したのではないかと考えられています。

現在、神舞かんめで使用される台本だいほん祭文集さいもんしゅう)は享和きょうわ期(1801-1804)に書写しょしゃされたもので、誤字・不明語句も多いことから享保きょうほう安永あんえい期(1716-1781)にまで元は遡るとされ、この時期に出雲神楽いずもかぐらが混じて、現在の入来神舞いりきかんめが完成したと見られています。

種目しゅもくは36番あり、種目しゅもくを大別すると、古代以来の攘災呪儀的舞じょうさいじゅぎてきまい巫女舞みこまい・火の神舞かんめ剣舞つるぎまい等)、稲作儀礼いなさくぎれいに関する舞(杵舞きぬまい・田の神舞かんめ等)、岩戸神楽いわどかぐらあま岩戸いわどの神話劇)からなっています。舞は種類によって異なりますが、1~12名の男女で構成され、がくは太鼓1名・笛1名で演奏されます。昭和49年(1974)7月1日に入来町いりきちょう無形文化財に指定されました。

十二人剣舞じゅうににんつるぎまい

入来神舞いりきかんめの22番「十二人剣舞じゅうににんつるぎまい」は、その中での朗詠ろうえいで「きみは干代に八千代にさざれいしいわおとなりてこけのむすまで」とあり、国歌「きみ」の源泉となったとされています。奈良時代の前後にかけて、隼人はやと歌舞音曲かぶおんきょく奉納ほうのうと共に、皇宮十二門こうぐうじゅうにもん警衛けいえいにあたっていました。「十二人剣舞じゅうににんつるぎまい」は、その十二人剣士じゅうににんけんしを象徴されたものと見られています。

演舞えんぶでは、烏帽子えぼし狩衣かりぎぬの姿の大刀持たちもち12人が各々左手に大刀たちを持ち、道楽みちがく舞場まいばに現れ、地舞じまいの後、舞場まいばの周囲に正座します。神楽かぐら鬼神楽おにかぐらに変わると、黒面くろめん黒毛笠くろけがさ黒地狩衣くろじかりぎぬ黒袴くろはかま白足袋しろたびの1人の鬼神きじんが、右手に扇、左手に3尺のブチを振り振り現われ、舞場まいばをひとまわりし、また反対にひとまわりして「すめらぎの国の初めをたずぬるにほこのしづくや葦原あしはらの里」という和歌を朗詠ろうえいし、ひとまわり、また反対にひとまわりします。そして、

きみ千代ちよ八千代やちよにさざれいしいわおとなりてこけのむすまで

朗詠ろうえいし、神座かむくらの前の椅子に腰かけて、十二人剣士じゅうににんけんし詰問きつもんします。

さって言語道断、言語道断、鬼形がおさえしかの地の所に、大刀を結界捧げあることは、これ不審とも不審なり。よく聞くものならば許すべし。また悪しく聞くものなれば、彼の御標の内に七日七夜の大牢をさせんとや。所の禍神み神楽の障りとなるべし。何の疑いあるべけん。さって、これより十二方に立ったる神は、如何なる神の変化にてましますか。疾う疾う聞け、我は聞かん。

それを受け、十二人剣士じゅうににんけんしは、鬼神きしんの前に進み出て「きみ」を謡い、次の祭文さいもんとなえて十二方じゅうにほうに正座します。

再拝々々、敬って申す。抑々中央はさもけしからん御姿となりて、四方四面ををとがめ給うは何の仔細に候や。抑々この御神針と申すは、天照大神天の岩戸に閉じ篭らせ給うに依りて、常闇の夜となり、八百万神達岩戸の前に神集いましまして神楽を奏し百舞い給えば、常闇の雲晴れて諸神達手を挙げて、あな面白やと力強く給う。今にその式を唱えて此所に御神屋を作り、注連縄引き渡し、十二方に剣を結界、地を定め彼所を鎮め、鶴の千年亀の万年、千代八千代に無息円満に、四神相応の地と鎮め申し奉る所なり。再拝々々、敬って申す。

鬼神きしんは椅子を離れて「きみ」を謡い、

さって、中央とは我等がことなり。鬼形は荒々汝に説いて聞かせ申さん。抑々天照大神天の岩戸に閉じ篭らせ給うこと、御弟素戔嗚命と御仲悪しくましますが故なり。天児屋根命を初め、思兼命の遠き慮りに任せて、結業をなさしめ給いしに依りて、常闇の雲晴れて日の光は国の内に充ち渡り、四方の衆生も利ありし給うなり。されば岩戸の前に起こりしその業を今に唱えて、十二本の剣を結界、地を鎮め舞を舞い給うこと、鶴の千年亀の万年に無息円満、四神相応の地となること疑いなし。再拝々々敬って申す。鬼形も共に和合の舞を舞い奉る。

祭文さいもんとなえながら、舞いつつ花道はなみちから退出します。続いて、正面に並んだ十二人剣士じゅうににんけんしは、刀を右手に持ち替えて、振り廻しながら正方・反方を舞った後、花道はなみちから退出します。

初代「きみ」は、作詞:島津忠良しまづただよし日新斎じっしんさい)と曲:淵脇了公ふちわきりょうこうによる薩摩琵琶さつまびわの曲「蓬莱山ほうらいさん」が元となっています。島津忠良しまづただよし入来いりき領主りょうしゅであった入来院重聡いりきいんしげさととの密接な関係から、「蓬莱山ほうらいさん」と「十二人剣舞じゅうににんつるぎまい」との関連性が指摘されています。

また、皇宮十二門こうぐうじゅうにもん警衛けいえいに出向いた隼人はやと親族しんぞくしのんで歌った「わが君は千代ちよ八千代やちよに~」が神舞かんめの歌詞とされ、それがいつしか「きみ」へと変遷へんせんしたとされています。

きみ

11月23日の例大祭と大晦日おおみそかから元旦がんたんにかけて奉納ほうのうされる入来神舞いりきかんめは、36番の種目しゅもくがあり、その22番「十二人剣舞じゅうににんつるぎまい」の中で「きみ」が謡われることで知られています。

奈良時代の頃、皇宮十二門こうぐうじゅうにもん警衛けいえいに当たった隼人族はやとぞくは、大和朝廷やまとちょうてい貢物みつぎものとして隼人舞はやとまいを演じたと伝えられています。「十二人剣舞じゅうににんつるぎまい」は、皇宮十二門こうぐうじゅうにもん警衛けいえいに当たった隼人はやとを象徴したものとされています。隼人司はやとのつかさとして宮中きゅうちゅうに出向いた親族しんぞくしのんで歌ったものが『古今和歌集こきんわかしゅう』に歌われた「わが君は千代ちよ八千代やちよに~」とされ、それがいつしか「きみ」へと変遷へんせんしたともされています。

『古今和歌集』巻七

賀歌

題しらず  よみ人しらず

わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで

戦国時代。島津氏しまづし中興ちゅうこうである島津忠良しまづただよし日新斎じっしんさい)は、自らの作詞、つかえていた盲目の琵琶法師びわほうし淵脇了公ふちわきりょうこうの曲で「蓬莱山ほうらいさん」を作曲します。「蓬莱山ほうらいさん」には「きみ千代ちよ八千代やちよにさざれいしいわおとなりてこけのむすまで」との歌詞があり、薩摩藩士さつまはんしにおいて慶賀けいがにつきものの曲となります。その当時、島津忠良しまづただよし重臣じゅうしんとして知られ、入来いりき領主りょうしゅ渋谷氏しぶやしの支流であった入来院重聡いりきいんしげさとは、島津忠良しまづただよし嫡男ちゃくなんである島津貴久しまづたかひさに娘である雪窓夫人せっそうふじん雪窓院せっそういん)を継室けいしつとしてとつがせています。そのことから、「蓬莱山ほうらいさん」を作曲する以前に島津忠良しまづただよし入来神舞いりきかんめを目にしていたとも考えられ、その関連性が指摘されています。

時は下り、明治時代。明治2年(1869)7月22日に英国ヴィクトリア女王の次男・エジンバラ公アルフレッドが来日することになります。その訪日の際の国際儀礼として国歌を演奏する必要から急遽、国歌が決められることとなります。そこに関わることになったのは、5人の人物でした。

  • 原田宗助はらだむねすけ接待掛せったいがかり通詞つうし薩摩藩士さつまはんし
  • 乙骨太郎乙おつこつたろうおつ接待掛せったいがかり通詞つうし元旗本もとはたもとの家の生まれで、沼津兵学校ぬまづへいがっこうで英語を教えていた。
  • ジョン・ウィリアム・フェントン : イギリス公使館こうしかん護衛隊ごえいたい歩兵大隊ほへいだいたい軍楽隊長ぐんがくたいちょう
  • 肝付半平きもりきはんぺい軍楽隊ぐんがくたい薩摩さつまバンド」の創設・責任者であった薩摩藩士さつまはんし
  • 大山巌おおやまいわお弥助やすけ): 初代陸軍大臣。薩摩琵琶さつまびわの名手としても知られた。

フェントンは、歓迎式典が近づく中、両国の国歌を演奏するため日本の国歌を教えて欲しいと問い合わせをします。原田宗助はらだむねすけは、ただちに指揮をあおぐため軍務官ぐんむかんの下に駆けつけるも、「いちいち問い合わせに来る必要はない」とケンモホロロに追い返されてしまいます。やむなく接待掛せったいがかりで協議したところ、乙骨太郎乙おつこつたろうおつ発意ほついにより、古歌こかの中から選定せんていすることになり、旧幕府時代、大奥おおおくにおいて毎年元旦がんたんに行われていた「おさざれいし」の儀式の歌「きみは干代に八千代にさざれいしいわおとなりてこけのむすまで」を案として出します。天皇陛下てんのうへいかたてまつり、聖寿萬歳せいじゅばんざい寿ことほぐのにふさわしいと決まります。その歌詞にどのように音楽を付けるかとなった時、原田宗助はらだむねすけ薩摩琵琶さつまびわの「蓬莱山ほうらいさん」にも「きみは干代に八千代にさざれいしいわおとなりてこけのむすまで」があることを思い出します。原田宗助はらだむねすけがフェントンの前で「蓬莱山ほうらいさん」を歌い、採譜さいふされてできたのが最初の「きみ」でした。そして、無事に歓迎式典で演奏されました。

その後、事の大きさから原田宗助はらだむねすけはその次第を肝付半平きもりきはんぺいに相談します。その結果、肝付半平きもりきはんぺいがフェントンに国歌作成を依頼したことにし、及び、薩摩琵琶さつまびわの名手としても知られた大山巌おおやまいわおの「蓬莱山ほうらいさん」をフェントンの前で歌うように依頼したことになります。それを全て肝付半平きもりきはんぺいの責任で行ったこととなります。やがて大山巌おおやまいわおにもその話が伝わることとなりますが、大山巌おおやまいわお自身がフェントンに依頼し、「蓬莱山ほうらいさん」を歌ったこととするとなり、不問になります。

作曲の翌年の明治3年(1870)8月12日には山手公園やまてこうえん音楽堂おんがくどうで、薩摩藩士さつまはんしによる初の西洋楽器の軍楽隊ぐんがくたい薩摩さつまバンド」が日本人による初演を行い、同年9月8日には、東京・越中島えっちゅうじまでの天覧調練てんらんちょうれんにおいても演奏されました。

しかし、急ごしらえの初代「きみ」は、曲調きょくちょうが不評であったため、明治9年(1876)1月「薩摩さつまバンド」の一員で、海軍軍楽隊長かいぐんぐんがくたいちょうとなっていた中村祐庸なかむらすけつねにより「天皇陛下てんのうへいかしゅくスル楽譜がくふ改訂之儀かいていのぎ上申じょうしん」が上奏じょうそうされます。そして歌詞はそのままに、奥好義おくよしいさ林廣守はやしひろもりによるによって雅楽ががく壱越調いちこつちょう旋律せんりつ音階おんかいで作曲された「きみ」が最優秀作品として選ばれます。それに、フェントンの後を継いで音楽教師として来日していたエッケルトが和声わせいを付けて、現代まで続く新しい「きみ」が完成しました。同年(1880)年11月3日の天長節てんちょうせつの日に、明治天皇めいじてんのう御前ごぜんで初演されました。

隼人舞はやとまい

隼人はやとは、海幸彦うみさちひこ火闌降命ほすそりのみこと)と山幸彦やまさちひこ彦火火出見尊ひこほほでみのみこと)の神話で語られる海幸彦うみさちひこ火闌降命ほすそりのみこと)をとしています。『古事記こじき』、及び『日本書記にほんしょき』にて海幸彦うみさちひこは、潮涸瓊しおひるにを出して潮を引かせた弟の山幸彦やまさちひこ神徳しんとくがあることを知り、山幸彦やまさちひこに対して自らの非を認め恭順きょうじゅんの意を示し、俳人わざひと狗人いぬひととなりつかえることを誓います。その子孫である隼人はやとは、天皇の宮墻みかきのそばから離れず、代々つかえているとされています。

『日本書記』第十段 一書第二

一書曰、…(略)…。兄既窮途、無所逃去。乃伏罪曰、吾已過矣。從今以往、吾子孫八十連屬、恆當爲汝俳人。一云、狗人。請哀之。弟還出涸瓊、則潮自息。於是、兄知弟有神德、遂以伏事其弟。是以、火酢芹命苗裔、諸隼人等、至今不離天皇宮墻之傍、代吠狗而奉事者矣。


一書に曰く、…(略)…。兄既に窮途りて、逃げ去る所無し。乃ち伏罪ひて曰さく、「吾已に過てり。今より以往は、吾が子孫の八十連属に、恒に汝の俳人と為らん。一に云はく、狗人という。請ふ、哀びたまへ」とまうす。弟還りて涸瓊を出したまへば、潮自づからに息ぬ。是に、兄、弟の神しき徳有すことを知りて、遂に其の弟に伏事ふ。是を以て、火酢芹命の苗裔、諸の隼人等、今に至るまで天皇の宮墻の傍を離れずして、代に吠ゆる狗して奉事る者なり。

宮中きゅうちゅうつかえた隼人(隼人司はやとのつかさ)に課せられたのは、竹細工の製作や歌舞音曲かぶおんきょく奉納ほうのう、そして魔をはら呪術的じゅじゅつてきな力があるとされた犬の鳴き声に似た吠声はいせい皇宮十二門こうぐうじゅうにもん警衛けいえい行幸ぎょうこう護衛ごえいすることでした。元旦朝賀がんたんちょうが即位礼そくいれい蕃客ぎんかく入朝にゅうちょう大嘗祭だいじょうさい行幸ぎょうこうなどにおいて、応天門おうてんもん前の左右に並び、儀式の進行に応じて吠声はいせいが発せられたことが記されています。

『延喜式』卷第二十八 兵部省

隼人司

凡元日即位及蕃客入朝等儀。官人三人。史生二人率大衣二人。番上隼人廿人。今來隼人廿人。白丁隼人一百卅二人。分陣應天門外之左右。群官初入自胡床起。今來隼人發吠聲三節。

また、隼人はやと吠声はいせいをもってみやこの警備・夜警していたともされ、吠声はいせいを題材とした和歌が『万葉集まんようしゅう』にも残されており、広く人々に周知されていたことうかがわせます。

『萬葉集』 巻第十一[2497]

早人名負夜音灼然吾名謂孋恃


隼人はやひと夜声よごゑの いちしろく わがりつ つまたのませ

隼人司はやとのつかさは6年交代で上京じょうきょうませしていたとも伝えられ、その帰郷ききょうませを願う気持ちが「わが君は千代ちよ八千代やちよに~」と歌われたとも考えられています。

蓬莱山ほうらいさん

島津氏しまづし中興ちゅうこうである島津忠良しまづただよし日新斎じっしんさい)の作詞、琵琶びわの名人であった淵脇了公ふちわきりょうこうの曲で作られたのが「蓬莱山ほうらいさん」です。その歌詞の中に「きみ千代ちよ八千代やちよにさざれいしいわおとなりてこけのむすまで」と歌われ、国歌「きみ」の元となりました。

蓬莱山ほうらいさん

目出度めでたやな、きみめぐみみは久方ひさかたの、ひかり長閑のどけはるに、不老門ふろうもんでて、「四方よも景色けしきながむるに」、「みね小松こまつ雛鶴ひなづるみて、たに小川おがわ亀遊かめあそぶ、きみは、千代ちよ八千代やちよ礫石さざれいしの、いわおとなりてこけのむすまで」命長いのちながらえて、雨塊あめつちくれやぶらず。風枝かぜえだらさじとへばまた、「堯舜ぎょうしゅん御代みよくやあらん」。斯程かほどおさまる御代みよなれば、千草萬木せんそうばんぼく花咲はなさみのり、五穀成熟ごこくじょうじゅくしてかみには「金殿楼閣きんでんろうかくいらかならべ、しもにはたみかまどあつうして、仁義じんぎただしき御代みよはる蓬莱山ほうらいさんとはこれとかや」。きみ千歳ちとせまつ常盤色ときわいろわらぬ御代みよためしには、天長地久てんちょうちきゅうと、くにゆたかにおさまりて、ゆみふくろに「つるぎはこおさく」。諌鼓かんここけふかうして、とり中々なかなかおどろくようぞなかりける」。

禅宗ぜんしゅう曹洞宗そうとうしゅう)をおさめ、神道しんとう奥儀おうぎきわめ、神仏儒しんぶつじゅの三教を習合しゅうごうして仁政じんせいを敷いた島津忠良しまづただよしは、58歳となった天文てんもん19年(1550年)に加世田かせだ隠居いんきょし、剃髪ていはつをして愚谷日新斎ぐこくじっしんさいごうします。そして家臣団かしんだん結束けっそくの教育に力を注ぐ中、親交を深めていた盲僧寺もうそうじ中島常楽院なかしまじょうらくいん住職じゅうしょく淵脇了公ふちわきりょうこうと共に薩摩琵琶さつまびわの普及に努めます。島津忠良しまづただよし日新斎じっしんさい)が作詞し、淵脇了公ふちわきりょうこうが曲を付けた琵琶歌びわうたはその後の郷中教育ごうちゅうきょういくに役立ったとされ、中でも「いろは歌」は特に広く知られたものでした。

また、元のそれまでの琵琶びわの演奏は士風しふうと異なるため、楽器自体の大幅な改造を加え、演奏法も新しく開拓されました。たてに構えてばちを横にはらうことで劇的な音の表現ができるようになり、どうをバチで叩きつけて風やいくさの音を表現する「くずれ」も演奏法として確立しました。

その中で生まれたのが「蓬莱山ほうらいさん」でした。

島津忠良しまづただよし日新斎じっしんさい)は、島津貴久しまづたかひさの父で、島津四兄弟しまづよんきょうだい義久よしひさ義弘よしひろ歳久としひさ家久いえひさ)の祖父そふに当たります。島津忠良しまづただよし重臣じゅうしんとして知られ、入来いりき領主りょうしゅ渋谷氏しぶやしの支流であった入来院重聡いりきいんしげさとは、享禄きょうろく天文てんもん(1528-1555)の頃、島津忠良しまづただよし所望しょもうにより島津貴久しまづたかひさに娘である雪窓夫人せっそうふじん雪窓院せっそういん)を継室けいしつとしてとつがせています。そのことから、「蓬莱山ほうらいさん」を作曲する以前に島津忠良しまづただよし入来神舞いりきかんめを目にしていたとも考えられ、その関連性が指摘されています。

蓬莱山ほうらいさん」は、薩摩藩士さつまはんし慶賀けいがにつきものの曲として歌われるようになり、藩士はんしの中で歌うことができないものはなかったとされています。中でも大山巌おおやまいわおの「蓬莱山ほうらいさん」は絶賛されていたと伝えられています。

Photo・写真

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情報

住所〒895-1402
薩摩川内市さつませんだいし入来町いりきちょう浦之名うらのみょう7308
創始そうし宝治ほうじ文永ぶんえい期(1247-1275)頃
社格しゃかく郷社ごうしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭11月23日
神事しんじ入来神舞いりきかんめ(11月23日・大晦日おおみそか

地図・マップ