長嶽山山上の上宮と中宮からなる宇美八幡宮は、古くは怡土郡中津領十二ヶ村、明治維新の際には長野庄(長野・川村・小蔵・飯原)の総社とされた古社です。
長嶽山南方に鎮座する上宮は、丸型山陵(周囲45間)頂上に石祠として祀られています。艮(北東)の方向を向く上宮の御祭神は、仲哀天皇とされ、当社の縁起に依れば神功皇后摂政元年、神功皇后は香椎宮に安置していた先帝の御棺を長嶽山に斂めさせるよう大臣の武内宿禰に命じ、宮を築かせたのが起源と伝えられています。
その後、神功皇后が朝鮮へ出兵した折、越前国の気比神宮(福井県敦賀市)の御祭神である気比大神が船上に現れ、「吾は新羅の神、清龍権現なりと皇后の国土を守護せん」と旨を示します。無事に帰国した神功皇后はその神恩に感謝し、長嶽山で奉斎の祭礼を催したとされています。
中宮の起源は、仁徳天皇10年(322)武内宿禰の子である平群木菟宿禰の子、武内宿禰の孫にあたる博公を神官とし、この霊蹟に神社を建立し、気比大神(天日鉾尊)を祀らせたのが起源とされています。神護景雲元年(767)には社務の武内公実が八幡宮、聖母宮、宝満宮の三社を勧請します。
その後、八幡宮の威徳霊験があらたかと篤く崇敬を受け、社名も八幡宮を称するようになり、応神天皇御降誕の地であるとの伝承から宇美八幡宮と称されるようになります。また、当地は『和名類聚抄』に記された長野郷であることから、長野八幡宮と記した古文書も多数現存しています。奈良、平安の頃は大社であり、2月初卯日には、7日間の大祭が行われ神輿3基、供奉行列とともに鎮懐石八幡宮の鎮座する深江子負ヶ原海岸に至り、筑前、肥前国の大競技会が行われていたと伝えられています。
平群木菟宿禰の孫裔は世々専ら祭祀を掌り、現在も代々神職を「武内」姓にて務めています。時には、社僧となり高野山金剛峯寺に属し、寺号を長嶽山瑞雲院宝蔵坊と称へ、僧位は権大僧都法印とされました。特別に妻帯を許され、代々神宮寺の別当職となり、大用山小蔵寺熊野権現社以下14社を支配しました。
江戸期には、中津藩の藩史が出役して祭事にあたり、風雨疫病の祈願祭などがありました。社殿の改修には中津藩の藩費が充てられ、今の社殿は宝暦9年(1759)3代藩主・奥平大膳大夫昌邦(奥平昌鹿)の建立によるものです。
現在の中宮の御祭神は、神護景雲元年(767)に勧請された応神天皇、神功皇后、玉依姫、瓊々杵尊、菅原大神です。それに当初から上宮で奉斎されていた気比大神です。上宮は本社と一体不離の関係ながらも、別の社とされていたものを大正元年(1912)11月13日に本社の飛地境内の神社として許可されました。中宮に合祀される瓊々杵尊は、仁徳天皇10年(322)の創建と伝えられ、大字川付大原に鎮座していた天降神社を、明治44年(1911)5月26日に合併したものによります。
尚、気比大神は天日鉾尊と同一神と伝えられています。『釈日本記』に記された『風土記』の逸文では、熊襲討伐に親征した仲哀天皇を当地で迎えた縣主の五十跡手は、天日鉾尊の苗裔であると記しています。
『風土記 逸文』 筑前国 (『釈日本記』巻十)』
筑前國風土記曰、怡土郡。昔者、穴戶豐浦宮御宇足仲彦天皇、將討球磨噌唹幸筑紫之時、怡土縣主等祖五十跡手、聞天皇幸、拔取五百枝賢木、立于舩舳艫、上枝挂八尺瓊、中枝挂白銅鏡、下枝挂十握剱、參迎穴門引嶋獻之。天皇勅問阿誰人。五十跡手奏曰、高麗國意呂山、自天降來日桙之苗裔、五十跡手是也。天皇、於斯譽五十跡手曰、恪乎、五十跡手之本土可謂恪勤國、今謂怡土郡訛也。
筑前の国の風土記に曰はく、怡土の郡。昔者、穴戸の豊浦の宮に御宇しめしし足仲彦の天皇、将に球磨噌唹を討たむとして筑紫に幸しし時、怡土の縣主等が祖、五十跡手、天皇幸しぬと聞きて、五百枝の賢木を抜取りて、船の舳艫に立て、上枝に八尺瓊を挂け、中枝に白銅鏡を挂けて、下枝に十握剱を挂けて、穴門の引嶋にへて獻りき。天皇、勅して、「阿誰人ぞ」と問ひたまへば。五十跡手奏ししく、「高麗の国の意呂山、天より降り来し日桙の苗裔、五十跡手是なり」とまをしき。天皇、ここに五十跡手ほ誉めて曰りたまひしく、「恪しきかも、五十跡手が本土は恪勤の国と謂ふべし」とのりたまひき。今、怡土の郡と謂ふは訛れるなり。
明治5年(1872)11月3日郷社に定められ、大正4年(1915)7月幣帛料供進神社に指定。大正7年(1918)12月24日に県社に昇格しました。
【上宮(長嶽山古墳群)】
仲哀天皇の御陵として祀られる上宮は、長嶽山古墳群の最も南に位置する奥の院古墳(長嶽山1号墳)で、5世紀半ばに築かれた前方後円墳です。
長嶽山古墳群は、宇美八幡宮本殿を中心として南北に伸びる長嶽山の上には総数14基を数える古墳群で、平成4年の測量調査によって奥の院古墳(長嶽山1号墳)は全長38mの前方後円墳とされています。長嶽山古墳群は今から1400~1600年前に川付、飯原、長野地区一帯を治めていた首長一族の墓所であったと考えられます。
古墳の平面形は、帆立貝に似ているのが特徴で、墳丘は2段に土が積み上げられ、その斜面に葺石と呼ばれる河原石の貼石が施されています。古墳群の東に広がる水田からは、多くの弥生時代~古墳時代の遺跡が発見されており、長嶽山古墳群は長野川流域の歴史・文化を研究するうえで貴重な文化遺産とされています。
【境内社など】
参道階段前に末社が並びます。明治44年、村内各地に鎮座していたものを合祀したものです。
参道階段前、向かって左手。
「宮地嶽神社」
- 御祭神 : 勝門姫命、阿部助盛命
- [合祀]風神神社(御祭神:阿部高盛命、大山祇命)、両神神社(御祭神:豊玉比古命、豊玉比売命)
「猿田彦神社」
- 宮地嶽神社の左に鎮座。物事の初めの導きの神とされる猿田彦命を祀っています。
参道階段前、向かって右手。
「金刀比羅神社」
- 御祭神 : 崇徳天皇
- [合祀]生目神社(御祭神:志那津比古命、志那津比売命)、和多積神社(御祭神:彦火々出見尊、豊玉姫命)