御祭神として菅原道真公を祀る綱敷天満宮は、天暦9年(955)の神託により造営された神社です。
昌泰4年(901)正月25日に菅原道真公は太宰府への左遷の詔命を受け、翌2月1日に灘波津から太宰府へ御船出します。その途上、蓑島を巡ろうとしたところ、東北の季節風が起こり、当地から約4kmの浅瀬の小島鬼塚に漂着します。小原(旧八田・尾原の2村)の小原村太郎と八田村七郎は、菅原道真公の高貴な御姿を見て、浜辺に船を着けて上陸いただきます。しかし館を造る暇も、敷く物もなかったため、漁船の艫綱を円座に敷き、席を設けてお休みいただいたとされています。里人は皮の付いたままの丸木で仮の休所を造り、菅原道真公はそこで休養します。その時、この海辺の三枝の老松に腰掛けて「沖津風 吹きこす浜に生いそめて 色添ふ松は 幾代経ぬらむ(沖津風吹古須浜仁生曾免天色添布松盤幾代経奴良武)」と詠んだとされ、この地を三松の浜(満松浜)と呼ぶようになったと伝えられています。しばらくして船の修理が整い、菅原道真公は御乗船にて筑紫に赴かれました。
天暦9年(955)6月25日の夜、生田教久に「海辺に社壇を設け、我を斎き祭らば国家村民を鎮護すべし」との神託がありました。その旨を国府に申し出ると速やかに社殿が造営され、艫綱を円座に敷いて迎えした古事により「綱敷天満宮」と命名されました。生田教久は神官となり、今も代々神官として奉仕しています。築上郡の大社と定められ、社殿をはじめとする建物・境内・末社に至るまで総てに営繕がありました。
天正・文禄年中(1573-1596)に豊後の大友氏と薩摩の島津氏との豊薩合戦、及び朝鮮出兵の影響を被り衰微します。寛永14年(1637)8月に小倉藩主・小笠原忠真と日出藩主・木下延俊の両公により現在の社殿が造営され、祭祀も旧に復しました。小倉藩主の小笠原家からの崇敬厚く、貞享2年(1685)3月、小倉藩主・小笠原忠雄公自筆の神号額面一個奉納。宝暦5年(1752)11月、小倉藩主・小笠原忠総公より神鏡二面奉納。宝暦10年(1760)3月29日、小倉藩主・小笠原忠総公より石の鳥居一基奉納されています。郡代の歳時の参拝があり、宝剣、太刀や連歌、また県指定文化財の「西山宗因筆連歌懐紙」・「小笠原家奉納和歌集」などが奉納されました。社領5石1斗6升5合の寄附があり、維新前には社家・社僧を置き、社家は上田・宮尾の二氏、社僧は紅梅山昌福寺が奉仕しました。明治元(1868)年、小倉藩主の命により毎年3月7日、五穀成就祈願祭典を執行することになり、藩主の代拝・奉幣されることになりましたが、明治4年(1871)の廃藩置県を迎えることとなりました。明治6年(1873)7月9日、綱敷天満宮を綱敷神社と改めて、郷社に定められました。
明治41年(1908)2月1日、西角田村小原にて祀られていた菅原神社の菅原神を合祀。明治41年(1908)3月30日、椎田村山本にて祀られていた貴船神社の高淤加美神、闇淤加美神、闇御津波神を合祀。明治42年(1909)9月10日、椎田村鴨小路の無格社・綱敷神社にて祀られていた菅原神と共に、先んじて明治40年(1907)7月27日にその無格社・綱敷神社に合祀された椎田村の各社、柿田の鏑宅神社の高皇産霊神、船町屋敷の恵比寿神社の事代主神と崇徳天皇、下の川の彌都波能売神の水神社、合木の彌都波能売神の水神社も併せて合祀されました。大正11年(1922)10月3日には県社に列格されました。
境内は菅原道真公にちなんだ約1,000本の梅の木が植えられ、2月中旬から3月上旬にかけて紅梅・白梅が咲き誇り、多くの参拝者が訪れています。殊に学業の御神徳厚く、天下太平、国家安全、武運長久、子孫繁栄、息災延命、所願成就の御神徳があるとされています。夏の夏越祭には茅の輪くぐりや高塚楽(町指定民俗文化財)が行われます。
【境内社など】
社殿向かって右手。社殿寄りから、
- 白山神社:御祭神は、忍穂耳命、少童神。物事の仲介・和解の神として白山さまと称されています。
- 猿田彦大神:道の神、導きの神として石碑が2基。白山神社と須賀神社との間の奥に祀られています。
- 須賀神社:御祭神は、素戔嗚尊、住吉神。厄除けの神としてお祇園さまと称されています。
- 稲荷神社:御祭神として倉稲魂命、猿田彦神、大宮女神を祀っています。浜の宮稲荷社とも称されています。
- 開運招福の神:稲荷神社の右手に鎮座。
社殿向かって左手。社殿寄りから、
- 貴船神社:社殿向かって左手奥に鎮座。農業(雨)の神として高淤加美神を祀っています。
- 石碑:明治42年(1909)9月10日に合祀された椎田村鴨小路の無格社・綱敷神社の基礎石を祀っています。
- 昭和神社:昭和天皇の即位を祝して建てられ、国魂神を祀っています。