戸上神社は、北九州市門司区の最高峰である戸ノ上山(521m)の山頂に上宮、麓に本宮を有する神社です。
戦国の世の天正9年(1581)一切を焼失しているため、中古のことは不詳ですが、宝暦2年(1752)に没した福聚寺の黙厳が、仏教側から縁起をたてた『戸上山満隆寺記』では、戸ノ上山への最も古い信仰は、大同元年(806)に訪れた弘法大師(空海)の伝承を創始としています。
延暦23年(803)遣唐使として入唐した弘法大師は、大同元年(806)3年の留学を経て帰国します。その折、柳ヶ浦に停泊した弘法大師は、戸ノ上山に祥雲がなびくのを見ます。戸ノ上山が霊境であると知った弘法大師は、山麓に満隆寺を建立し、身に着けていた閻浮檀金観世音尊像をこの中に納め、17日間に渡り密法を修めたのでした。
『戸上山滿隆寺記』
延暦甲申歳 弘法大師為求法入唐 凡閲三星霜 大同丙戌歳 伝法東旋 此時舟適泊于此浦 大師遥観祥雲擁于此峰頂 知是霊境遂於此山麓卓錫 号滿隆寺 且以大師所随身供養閻浮檀金観世音尊像 安于此中 更修密法一七昼夜 期滿則下山矣
その後、戸上神社の創始として、寛平年間(889-898)に漁師の大江繁松が神像を引き上げる伝承が伝えられています。史料としては、『戸上山三大社権現治願覚書』。前述の『戸上山満隆寺記』。『小倉県書上神社帳』が由緒を記しています。また、満隆寺は神像が戸ノ上山に御鎮座した後、神宮寺として奉仕するようになったと伝えられています。
元禄9年(1696)の『戸上山三大社権現治願覚書』では、根二の海上で大里の漁師・大江繁松が、網を引いたところ、網に入った神像を取り上げたのを創始としています。時を同じくして、馬寄村の伊古野大学と申す者に「根二に行き神像を得よ」とのお告げがあり、伊古野大学は神像を得て、根に少しの清水の出る神島井の上に鳥居を立てて奉りました。そして同じ村の弟の伊古野刑部と申合せ、根二から枝折戸の上に奉載して自身の屋敷内に神柴を結び、庵を立て、鳥井ノ宮と称し祀りました。その後、馬寄村の一之坂の前立山に御座を作って奉り、柳之口の氏神としました。伊古野大学・刑部の兄弟により上宮には、6人の山伏六坊と申す山伏を彦山(英彦山)より呼んで駐在させるも、仕えるのは承引できないとのことから、
柳村の石橋山に少さな寺を立て、観音仏を祀ったのが万立寺(満隆寺)とされています。
『戸上山三大社権現治願覚書』
戸上山三社社権現と申は 先年根二海上ニ而 大里浦りやう人大江繁松と申者 網ヲ引候所 此網ニ御入被成 御上り被成候ヲ 右りやうじんとりて をかに拾候 其時馬寄村伊古野大学と申者ニ御つけ被下候に いかに大学根二ニ下り候得と 御つげ被下 それより根二ニ下り 見分仕候得共 根ニ少の清水出鳥居立神島井の上ニ御座被成候ヲ奉拾 夫より同村伊古野刑部と申者兄弟ニ申聞せ 両人根二ニ罷下り しをり戸ニ奉乗せ 学屋敷ニ少之柴をむすび いおりを立テ 其時則此宮ヲ鳥井ノ宮と名付申候 そののち馬寄村一之坂前立山ニ 御屋敷ヲ作リ奉上ケ 柳之口之氏神奉拾 其時大学刑部より 上宮ニ六人の山伏六坊と申山伏ヲすへ置申を 彦山より押寄 下山ニ成候得と申候得共 承引不仕候故 大数ニ而彼六部を打つふし申 それよりのみ柳村之内石橋山と申所ニ 少之寺ヲ立テ 上山よりくわんおん仏を下し奉すへ 則此寺万立寺と名付申候
宝暦2年(1752)没の黙厳による『戸上山満隆寺記』では、次のように記しています。寛平年間(889-898)漁師の重松大江が一日中漁をするも魚を捕ることができませんでした。すると網の中に一つの木が入り、漁師は怒って木を海に投げ捨てました。その夜、海に網をかけると再び木が網にかかりました。この木をよく見ると観自在菩薩の聖像でした。驚いた漁師は海岸の松の樹の下に置くと、時折り光輝き、村人たちは漁火のようだと村人は称しました。ある夕方、聖像が光り輝いていたところに馬寄村の老夫が何事かと近寄ります。それまでは数里先から見えるほどに光り輝いていたものが、急に光を失います。不吉だと嘆いた老夫は、家に聖像を持ち帰り、堂を作り奉って、毎日、香と花を供えて至心に恭敬礼拝しました。しかし光は戻ることなく、しばらくしたある時、老夫の夢に聖像が現れ「汝が我を尊崇するその姿は甚だ心のこもったものだ。これより東北に昔、菩薩が降臨した吉祥の霊地がある。そこに祀れば国、及び郡は永く福が与えられるだろう」と告げます。老夫は霊夢に感じ入って額突き、この山の頂上に登って榛荊を披き、一棟の建物を作り、編戸(枝折戸)を座として作り、その上に聖像を奉りました。これが戸上権現と伝えています。
『戸上山滿隆寺記』
宇多天皇寛平間 此浦漁人重松大江者 一日罟於海上 而不得魚 忽有一木橛撃網中 漁者甚怒投之水中 其夜又罟於海中 又其木橛入網中 取之熟視 則彷彿于観自在菩薩之像 漁者驚異 遂置之海岸長松樹下 従茲時々彼処有異光其光輝 里人皆謂是漁火也 一夕又異光晃耀 時馬寄有一老夫深怪之 而尋其光輝 而行数里許 抵聖像之在処 俄失其光輝 老夫不勝感嘆 自擎聖像 而皈祀之家堂 日供香華 至心恭敬礼拝 自爾後彼処異光無復見 或時老夫 夢中聖像告白 汝尊崇我者 其心甚勤矣 然自此当東北 有吉祥之霊地 曾登地菩薩降臨之所也 冝鎮我于此中 則永福国郡 老夫感厥霊夢 乃登此絶頂 披榛荊創一宇 作編戸以為座 安奉聖像于其上繇是里人崇曰戸上横現也
明治4年(1871)の『小倉県書上神社帳』では、寛平年間(889-898)柳ヶ浦の漁夫の重松大江らの2人が、一日中海に網を投げて漁をしていると一つの神像を得ますが、海に投げ入れます。夕暮れに再び神像を得ます。2人はその神像を根二の松の枝の上に掛け置くと、神像は夜な夜な光を放ちました。馬寄の里人がその光りを求めて当地に至ると、根二の松の枝に木像が掛けられているのを見つけます。これは霊像に違いないと奉迎して馬寄の屋敷に安置しました。すると馬寄の里人に託宣があり「我れを山頂に安置すべし。そうすれば長く海上を鎮護せん」と告げました。その託宣を受け、山頂に祠を建てて、神像を竹で作った網戸(枝折戸)の上に奉り、霊験あらたかであったことから戸上と称するようになったと伝えられています。
『小倉県書上神社帳』
五十九代宇多天皇之御宇寛平年中柳之浦ノ漁夫重松大江ト申二人之者 一日網ヲ海中ニ投ス 一ツノ神像ヲ得テ海中ニ投ス 昏ニ又網ヲ下シテ彼像ヲ得タリ 二人依テ彼像ラ根二松ノ枝上掛置 然ルニ其像夜々光ヲ放ツ 馬寄ノ里人其光ヲ求メ其所ニ至 根二松ノ枝ニ一ツノ木像アリ 是霊像也ト迎奉ル 馬寄中屋鋪ト申処ニ安置ス 彼像里人ニ託曰 冝ク我ヲ此山頂ニ安置スヘシ 長ク海上鎮護セント 即託ニ依テ山頂ニ一祠ヲ建テ 彼像ヲ竹ノ戸ノ上載遷奉ル 爾来霊験新也 故ニ戸上ト号スル也
現在は、寛平年間(889-898)戸上山山上に天之御中主神、伊邪那岐神、伊邪那美神の三柱の大神を奉祀したことに始まるとし、御霊代を枝折戸に奉載して山上に奉安したことから山を戸上と号し、戸上神社と称するようになったと伝えています。
天慶2年(939)伊予の藤原純友が海賊を率いて朝廷に対し反乱を起こした際、源経基公が藤原純友征伐の勅を奉じて九州に下向し、当神社に鎮定を祈願します。そして賊徒平定に及び、社殿を御造営。御領10ヶ所を寄進し、佩剱を奉納するなど報賽の誠を捧げたとされています。
寿永2年(1183)には源氏に追われた平氏が、安徳天皇を奉じて九州落ちします。安徳天皇は、柳ヶ浦に仮の御所を置いて「内裏が浦」と呼び行在所としました。現在は当社の神幸祭の御旅所とされています。また、「大里」の地名は、享保年間(1716-1736)に小笠原忠雄が海上の保安を幕命で受けるに及び「内裏の海に之を防ぐは畏し」として内裏の文字を大里の文字に改めたのが由来とされています。
中世は本地垂迹説の影響下から神仏習合し、山岳信仰の修験道場と変わっていったとも考えられていますが、天正9年(1581)大友宗麟の部将が門司城を攻めるに際して、兵火に罹り、山上山下の堂宇・僧坊は悉く焼失。旧記は概ね滅して不詳で、社人は御神霊を護り奉り、一時難を避けたと伝えられています。
慶長年間(1596-1615)快周が再建して満隆寺を中興します。元和3年(1617)小倉藩細川家第2代藩主・細川忠利が、領内及び藩府・鎮護の社たる本社を尊崇すること甚だ篤く、戸上山の頂上の上宮を再建。元和3年(1617)満隆寺は修験道に属することとなり、神仏混交の奉仕が執り行われました。正保元年(1644)学寿のときに満隆寺を常学院と改称。寛文元年(1661)正月朔日細川氏に次いで藩主となっていた小倉藩小笠原家初代藩主・小笠原忠真は、当社に国祚祈禱の祈禱道場を建て、以来毎年正月朔日に国祚祈禱を勧業します。寛文12年(1672)には十二神将の像を納めて整備充実しました。
また、寛永12年(1635)に参勤交代が制度化されると、当地を経由する多くの諸侯は代参を差し立てて、武運の長久と海陸の安全を祈願しました。その中、久留米藩は、領内に良港が無いため黒田藩から若松港を借りて船屋敷を設けていましたが、寛永20年(1643)第2代藩主・有馬忠頼の時、黒田藩から即刻立ち退きを求められて海上に退去するも、小倉藩小笠原家初代藩主・小笠原忠真より内裏(大里)大川の川口の土地を借用し、船屋敷を置きました。それより江戸期を通じて久留米藩主をはじめ船屋敷衆は平素より戸上権現を篤く尊崇しました。元禄8年(1695)第4代藩主・有馬頼元は、当社前の海上の危難に際し、神明の加護を受けたとして鳥居を奉建。及び、絵馬2面を奉納しました。正徳元年(1711)には船屋敷衆等により石鳥居が寄進されました。
正徳4年(1714)11月15日、小倉藩小笠原家第2代藩主・小笠原忠雄が社殿を修復し、社領高6石を寄進。宝暦13年(1763)7月5日、第4代藩主・小笠原忠総が社殿立て替え、並びに屋根を葺き替えします。第6代藩主・小笠原忠固は、文化11年(1814)10月朔日に下宮の神殿の屋根の葺き替え、文政11年(1828)神殿を建立、天保2年(1831)3月3日に社殿を建立、天保7年(1836)6月に拝殿を再建し、木の鳥居を1基奉納しました。
明治元年(1868)3月に神仏分離令が出されたのを受け、神仏を分離して、修験者は神官となります。旧藩寄進の社領を奉還し、宏大な社地の一部をも上地して、僅かに建物と敷地のみの境内となり、地元民の奉仕する神社として存続することとなりました。明治6年(1873)村社の指定を受け、明治13年(1880)、及び明治45年(1912)に附近の神社を合併し、奉祀の御祭神を合祀しました。
明治13年(1880)6月に合祀。
- 字大久保:荒神祠(奥津日子神、奥津比売神)
明治45年(1912)7月20日に合祀。
- 字焼野:無格社・福智社(保食神)
- 字貴船:無格社・貴船神社(弥都波能売命、高淤加美命、闇淤加美命、大穴牟遅神、大山祇神、須佐之男神、少名比古那神)
- 字カセン:無格社・疫神社(豊日別命、須佐之男命、大穴牟遅命、少彦名命、大山津見命、保食神)
- 字中原:無格社・水神社(罔象女神、須佐之男命、大己貴神、少彦名神)
- 字林:無格社・疫神社(須佐之男命、大穴牟遅命、少彦名命)
- 字林:無格社・貴船神社(高淤加美命、闇淤加美命、安徳天皇)
- 字屋敷:無格社・諏訪神社(建御名方神)
- 字屋敷:無格社・貴船神社(高淤加美神、闇淤加美神、弥都波能売神、宇迦之御魂神、猿田彦神)
※字林の貴船神社・疫神社は、安徳天皇が柳ヶ浦に置いた仮の御所「内裏が浦」とされ、現在は、飛地境内地の柳御所となっており、神幸祭の御旅所とされています。
大正15年(1926)6月24日に神饌幣帛料供進神社の指定を受け、昭和14年(1939)6月10日県社に列格されました。同年に合祀神の闇美豆羽命を安徳天皇に訂正し、平宗盛の一神を増加しました。
【境内社など】
喜代茂稲荷神社:社殿向かって右手前に鎮座。宇迦之御魂神を祀っています。
交通神社:喜代茂稲荷神社の左手直ぐに祀られています。
市杵島姫神社:喜代茂稲荷神社の左手の石祠に祀られています。市杵島姫命を祀っています。
喜代茂稲荷神社の向かって右手に石碑群が祀られています。三柱がまとめて祀られる石碑は、猿田彦大神・池神・水神を祀っています。その右手に高倉稲荷大明神、恵比寿神、愛染明王。そこからさらに右手に池神の石碑と稲荷神。神池からの南端には猿田彦大神、庚申塚、水神等の石碑が祀られています。
参道入り口の左手、二之鳥居過ぎに慰霊塔(忠魂碑)が祀られています。二之鳥居の右手脇の手水舎の奥にあるのは新池坊石碑です。そこから右手奥に進むと、満隆寺の名残と伝えられる大師堂と地蔵堂が祀られています。