住吉神社は延長5年(927)に編纂された『延喜式神名帳』にその名が見える名神大社で、筑前国一宮、旧官幣小社です。御祭神は、底筒男神・中筒男神・表筒男神で、三柱の神を住吉三神として祀っています。相殿には天照皇大神、神功皇后を配祀し、これを併せて住吉五所大神とも呼ばれています。
神代の昔、伊弉諾大神は、妻の伊弉冉大神がお亡くなりになったのを嘆かれ、その後を慕って黄泉国にお入りになります。しかし、変わり果てた伊弉冉大神の姿を目にして伊弉諾大神は黄泉国より逃げ戻り、「筑築の日向の橘の小戸の阿波岐原」に下られて御身の汚れを禊ぎ祓い、清められます。その時に住吉神社の御祭神の住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)、志賀海神社の御祭神の綿津見三神(底津綿津見神・仲津綿津見神・表津綿津見神)、禍津日神(八十禍津日神・大禍津日神)、直毘神(神直毘神・大直毘神)、天照大御神、建速須佐之男命と共に、他多くの神々が誕生されました。住吉三神の御神徳は、その禊ぎ祓いの御出現の由来から、「心身の清浄」を以てすべての災から身を護る神として古より広く信仰されています。また、筒男の「つつ」には星の意味があると云われ、航海・海上の守護神としても厚い崇敬があります。
『古事記』上巻・伊邪那岐命の禊祓の条
於是、詔之上瀬者瀬速下瀬者瀬弱而。初於中瀬墮迦豆伎而滌時、所成坐神、名八十禍津日神。次、大禍津日神。此二神者、所到其穢繁國之時、因汚垢而所成神之者也。次、爲直其禍而所成神名、神直毘神。次、大直毘神。次、伊豆能賣。次、於水底滌時所成神名、底津綿津見神、次、底筒之男命 。於中滌時、所成神名、中津綿、津見神、次、中筒之男命。於水上滌時、所成神名、上津綿、津見神、次、上筒之男命。此三柱綿津見神者、阿曇連等之祖神以伊都久神也。故阿曇連等者、其綿津見神之子宇都志日金拆命之子孫也。其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也。
是に詔りたまわく、上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し。初めて中つ瀬に墮りて迦豆伎滌ぎたまふ時、成り坐せる神の名は、八十禍津日の神、次に大禍津日の神。此の二神は、其の穢繁き国に到りし時、汚き垢に因りて神に成れる神なり。次に其の禍を直さむと為て成れる神の名は、神直毘の神、 次に大直毘の神、 次に伊豆能売。次に水底に滌ぎたまふ時、成れる神の名は、底津綿津見の神。次に底筒之男の命。 中に滌ぎたまふ時、成れる神の名は、中津綿津見の神。次に中筒之男の命。 水上に滌ぎたまふ時、成れる神の名は、は上津綿津見の神。次に上筒之男の命。 此の三柱の綿津見神は、阿曇連等が祖神といつく神なり。故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫なり。其の底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、三柱の神は、墨江の三前の大神なり。
住吉神社の鎮座地はこの禊ぎ祓いの古蹟とされ、御鎮座は遠い遠い神代のことで、全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つです。住吉大神をお祀りする神社は全国に2129社ありますが、その始源の神社とされ、古書にも「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記され、大阪の住吉大社、下関の住吉神社、そして当社が日本三大住吉と云われています。
神功皇后の三韓征伐に際し、住吉大神は神功皇后に新羅征討の託宣を下します。住吉大神の荒魂は水軍をお導きになり、和魂は胎中天皇と申し上げた応神天皇の玉体をお守りになり、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約しました。御凱旋した神功皇后は、住吉三神の御神徳を厚く敬仰感謝し、荒魂を長門(山口・住吉神社)に、和魂をまた摂津(大阪・住吉大社)に鎮祭したと伝えられています。
『日本書記』卷第九
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十二月辛亥。…(略)…。於是、從軍神、表筒男・中筒男・底筒男三神、誨皇后曰「我荒魂、令祭於穴門山田邑也。」時穴門直之祖踐立・津守連之祖田裳見宿禰、啓于皇后曰「神欲居之地、必宜奉定。」則以踐立爲祭荒魂之神主、仍祠立於穴門山田邑。
神功皇后摂政前紀、仲哀天皇九年(200)十二月辛亥。…(略)…。是に、軍に従ひし神、表筒男・中筒男・底筒男、三の神、皇后に誨へて曰はく「我が荒魂をば、穴門の山田邑に祭はしめよ」。時に穴門直の祖践立・津守連の祖田裳見宿禰、皇后に啓して曰はく「神の居しまさ欲しくたまふ地をば、必ず定め奉るべし」。則ち践立を以て、荒魂を祭ひたてまつる神主とす。仍りて祠を穴門の山田邑に立つ。
住吉本社として歴朝の御崇敬極めて篤く、平安時代には朝廷からの奉献を受けたことが記録に残されています。
文献上の初見は『続日本紀』天平9年(737)4月1日に見え、伊勢神宮などと共に新羅の無礼の報告と奉幣がなされたことが記されています。
『続日本紀』巻第十二
天平九年(737)四月乙巳朔。遣使於伊勢神宮。大神社。筑紫住吉。八幡二社及香椎宮。奉幣、以告新羅無礼之状。
『日本三代実録』の元慶2年(878)12月24日の条では、「新羅凶賊」を告げる香椎宮の託宣を受けて朝廷の奉幣に預かっています。
『日本三代實録』卷卅四
元慶二年十二月廿四日乙酉。遣民部少輔從五位下兼行伊勢權介平朝臣季長、向大宰府、奉幣橿日、八幡及姫神、住吉、宗形等大神。其橿日、八幡、姫神、別奉綾羅御衣各一襲、金銀装寶劔各一。以彼府奏有託宣云。新羅凶賊、欲窺我隙。并肥後國有大鳥集、河水変赤等之恠也。
延長5年(927)の『延喜式神名帳』では名神大社に列格。国家鎮護や航海安全、船舶守護の神として、筑前国一宮として朝野の厚い崇敬を受け、中世には和歌の神としても敬われました。朝廷の御崇敬は特に篤く、神功皇后の勅祭(10月13日の例祭の起源)に始まり、聖武天皇、清和天皇、陽成天皇、後一条天皇、鳥羽天皇、後花園天皇の各天皇から奉幣に預かり、大正天皇からは3度、昭和天皇からは5度の奉幣がありました。
諸武将からの崇敬も厚く、楠正成、源頼朝、足利尊氏は祈願文・寄進状を寄せ、一時は自国・他国を合わせ神領3000余町歩、神人300余人に及んだと伝えられています。中世は戦乱により荒廃しますが、元和9年(1623)福岡藩初代藩主の黒田長政が白銀2000両と材木を寄進して再建し、歴代藩主の崇敬は殊に篤いものがありました。
明治5年(1872)11月3日に県社に列格。大正14年(1925)11月10日に官幣小社に昇格。大正15年(1926)7月1日には神饌・幣帛料供進指定を受けました。戦後は神社本庁の別表神社に列しています。
なお、神社は現在、内陸に位置していますが、中世の終わり頃までは、博多湾がこの一帯まで大きくて湾入しており、当時は河口に突き出した場所に立地していました。
【境内社など】
「社殿」
本殿は国指定重要文化財です。元和9年(1623)福岡藩初代藩主の黒田長政により再建されたもので、神社建築史上最古とされる特殊な様式である「住吉造り」です。梁間2間、桁行4間の規模を持ち、柱・垂木・破風板は丹塗り、羽目板壁は白胡粉塗り。屋根は切妻の直線形、出入口が直線型妻入式、檜皮葺の屋根という特徴があります。拝殿は、入母屋造り銅板葺きで25坪。社殿を改築・修理する御遷宮が25年ごとに行われています。
「船玉神社・志賀神社・人丸神社・菅原神社」
社殿向かって左手前に四社。奥側から船玉神社・志賀神社・人丸神社・菅原神社です。船玉神社は、道の守護神(交通安全・海上安全)として猿田彦命を祀る摂社です。志賀神社は、海洋の守護神(開運・海上安全)として綿津見三神を祀る摂社です。人丸神社は、和歌、芸能の神(和歌芸能上達)として柿本人麿公を祀る摂社です。菅原神社は、学問の神(学業成就)として菅原道真公を御祭神として祀る末社です。
「荒熊白髭稲荷神社」
社殿向かって左手奥に鎮座。伊勢神宮・外宮に鎮座する豊受大神が勧請されて祀られています。10月10日が例祭日、及び11月8日が鞴祭。2月初午が初午祭。
- 初午祭
和銅4年(711)2月7日(2月の初の午の日)、宇迦之御魂神が京都の稲荷山に影向なされたことに由来。当日早朝より商売繁盛・家内安全等の祈願祭を斎行し、杉の葉に金の御幣を付けた霊験の「杉の葉金幣(開運招福)」を授与しております。
- 11月8日。鞴祭
稲荷神社は鍛冶の守護神とされていることから諸国の鍛冶屋が仕事を休み、鞴を清めて注連縄を張り、祭壇に新穀、新酒、蜜柑、海の幸を供え(不浄の意味で四つ足は近付けない)祖神の御加護を感謝する祭です。鞴を供え、職人をはじめ多くの参拝者を集め祭典を行います。たたら祭とも言います。
「天津神社」
表参道と那珂川の間にある天竜池の亀島に鎮座。伊弉諾大神を御祭神として祀っています。天竜池は、以前は満潮時、川を遡った海水がこの池に達していたため、汐入池とも呼ばれ、伊弉諾大神の禊ぎ祓いの霊池と伝えられています。縁結び、開運、除災の御神徳があるとされています。
「少彦名神社」
二ノ鳥居の前の参道左手に鎮座する少彦名神社は、少彦名神を御祭神として祀っています。少彦名神は、大国主神と共に国土を開拓経営され、酒造、薬業の神です。薬祖、婦人病に霊験高く、淡島神とも称され信仰されています。例祭日は6月8日と11月8日。
「三日恵比須神社」
境内南の功徳池に鎮座。幸運、航海の神である恵比須大神を御祭神として祀っています。昔は放生会の神事が行われていた功徳池に昭和24年(1949)1月3日鎮座しました。鎮座日に由来する1月3日が例祭日で、1月1日~3日までの間は福引行事が行われています。商売繁盛や豊漁の神徳が高く、社前の恵比須神像は、触れる場所によって様々な御利益があると云われています。
- 顔:家内安全
- 腹:病気退散
- 鯛:金運
- 腕:技能向上
「御神木 一夜松」
社殿の左手にあり、永享期(1429-1441)、社殿に差し掛かった松が造営の邪魔になるため切ろうとしたところ、一夜のうちに真っすぐになったという伝説が残っています。このことが天聴に達して後花園天皇は『勅松花和歌集』12巻を奉納されました。
「古代力士像」
社殿向かって右手前では古代力士像が威勢を放っています。神功皇后が三韓征伐より御帰還された際、住吉大神に対して神恩感謝として相撲・流鏑馬を奉納したことに由来するのが例大祭「相撲会大祭」です。その由緒から住吉神社は、相撲の神としても広く尊崇を篤めており、その昔、新横綱は横綱の免状取得に際し、熊本の吉田司家に行った帰路、必ず当社に参拝していました。現在では毎年、九州場所を前に日本相撲協会主催による横綱土俵入りが奉納されています。その由縁を以て、平成25年(2013)11月2日博多人形師の中村信喬・中村弘峰親子による合作となる古代力士像が建立されました。右手のシワの形が力という漢字に見える事から、その手に触れると力をもらえると云われています。
【神事・祭事】
潮干祭
4月3日。神功皇后御出船の故事を偲び奉る祭典で、敵国降伏、航海安全、豊漁祈願として神幸(神輿渡御)を行う祭りです。その昔、海が深くて湾入したて入江の岬に当社が鎮座されてあったころ、祭の一行はて御神輿を乗せた船で出航し、福岡の北に位置する「大築石・小築石」の側をて廻り、て荒津の岬(現・西公園周辺)まで船出し、若宮のて頓宮(現・今泉周辺)まで船神幸を行っていました。現在は陸上での神幸として行っています。
名越祭
7月30日~8月1日。名越とは、邪神(疫神・荒ぶる神)を和める意からきたもので、御祭神御出現の故事、住吉神社系統の信仰から起こったものと考えられています。住吉大神の御神徳である「禊(身をそぎ穢を落とす)・祓(心・精神を清める)」の御霊験を仰ぐ神事です。7月31日の午前10時より本殿祭(茅の輪くぐり)、午後7時より川岸祭(人形流し神事)を行います。
相撲会大祭
10月12日~13日。住吉神社で最も重要な祭とされています。神功皇后は、住吉大神の神託を受け三韓征伐を行います。三韓征伐から御帰還されて、住吉大神の御神徳に奉斎されようとその御神慮をうかがわれたところ、住吉大神から「相撲」と「流鏑馬」を行うよう宣旨があり、軍士に力競べをさせたのが始まりとされています。昔からこの地方の最も権威ある宮相撲となり、江戸期から現代に至るまで特設の桟敷が設けられ、大変盛大な催しでした。新横綱は戦前までは横綱の免許を受けに熊本の吉田司家に行った帰路、必ず当社に参拝をしていました。現在は、稚児行列や流鏑馬、また御縁をもとに5校(住吉・春吉・東住吉・春住・美野島)の小学校による少年相撲が行われ、地域の少年横綱を決定しています。
歩射祭
11月7日。国家の鎮護と海内の平穏をお祈りする神事。元慶2年(878)外賊が海辺を伺わんとする気配があったので、陽成天皇は平季長を勅使として当社に奉幣して国家の無事を祈願しました。その霊験はあらたかで外賊の災いはなく、その謝礼として、当時の大宰府政庁の役人が境内に於いて南西の方角(裏鬼門)に向かって歩射を行ったのが起源とされています。この神事は国家鎮座の祈念として、歴代天皇は度々勅使を下向させ、ときの国主も度々参拝されたと伝えられています。