宗像市鐘崎の先端に突出した佐屋形山に鎮座する織幡神社は、延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に筑前国十九式内社の内、宗像郡4座(宗像神社1座・織幡神社1座)の名神大社として記録されている古社です。中座に武内大臣、西(右殿)に住吉大神、東(左殿)に志賀大神を祀り、天照皇大神、宗像大神、香椎大神、八幡大神、壹岐眞根子臣を配祀しています。主祭神の武内大臣は、武内宿禰とも呼ばれ、神功皇后を助け三韓出兵を行った武人です。
社記によれば、武内大臣は神功皇后の三韓征伐の折、軍隊を整え、御神力にて赤白2流の異敵退散の軍旗を織ったとされています。それを宗像大菩薩の竹竿に着け、異敵を退散させたのが「織幡」の由来とされています。武内大臣は征伐後、武内大臣は、応神天皇の御代に勅命を奉じて筑紫国に降り定めたとき、度々、佐屋形山を訪れ、その風光明媚を称えました。そして「この鐘崎の地は、日本で他に類のない霊地であり、私が死を迎えたなら御霊はこの地に鎮まりたい。そして異国の者が襲来したならば、これを打ち砕き日本安寧の守護神となろう」と申され、履中天皇年中(400-405)に当地で神去りました。
そして武内大臣の忠臣で相殿に祀られている壹岐眞根子臣の子孫が、武内大臣の遺言を奉じてこの山に亡骸を葬り。和魂を祀って「沓塚」と称え、更に荒魂の票を建てて異敵退散の守護神としたと伝えられています。鎮護国家の備えとして、国家守護、異国征伐、海浜守護の神として代々の朝廷から尊崇され、毎歳仲春4日に幣帛の勅使が下され、毎年11月中の卯の日には、新嘗祭の手向がありました。
尚、配祀神の壹岐眞根子臣の子孫とされる壱岐氏が代々織幡神社の社家として祭事を司り、戦後まもなくまで、宮司職を務めていました。社殿前には、その武内大臣昇天の際の沓塚の石塔があり、本殿に向かって左方に古墳のあることも注目されています。
『延喜式神名帳』に記される以前の国史に見えるのは『日本文徳天皇実録』で嘉祥3年(850)7月29日に従五位下、続いて『日本三代實録』の天安3年(859)1月27日に従五位上、元慶元年(877)12月15日に正五位下に昇格したことが記されています。中でも、嘉祥3年(850)には神鏡の授与があり、神宝として残されています。一説では、その神鏡は神功皇后の三韓征伐の時、韓王が奉献したものを納めたともされています。鎌倉時代末期に編纂された『宗像大菩薩御縁起 三十二巻』の応安8年(1375)の条では、宗像宮に奉幣の事あれば、必ず織幡にも奉幣があったことが記されています。
『日本文徳天皇実録』
嘉祥三年(850)七月甲辰。授筑前國織幡神從五位下。
『日本三代実録』卷二
貞觀元年(859)正月廿七日甲申。京畿七道諸神進階及新叙。惣二百六十七社。…(略)…。筑前國正三位勳八等田心姫神。湍津姫神。市杵嶋姫神並從二位。正五位下竈門神。從五位下筑紫神並從四位下。從五位下織幡神。志賀海神。美奈宜神並從五位上。无位住吉神從五位下。
『日本三代実録』卷卅二
元慶元年(877)十二月十五日辛巳。授筑前國從五位下織幡神正五位下。正六位下天照神從五位下。
『宗像大菩薩御縁起』では、宗像三神に織幡大明神と許斐権現とを加えてこれを宗像五社といい、これに神輿五基の存したことを記していますが、常にその筆頭は当社でした。御縁起にはさらに、本社は本地は如意輪観音。垂迹は武内大臣の御霊神としています。文永2年(1265)8月9日の太政官符案によれば、宗像社神宮寺の鎮国寺に宗像五社の本地として第一宮(大日如来)・第二宮(釈迦如来)・第三宮(薬師如来)・許斐(阿弥陀如来)・織幡宮(如意輪観音)を併せ祀った由が載せられています。
明治5年(1872)村社。明治10年(1877)3月宗像大社の境外摂社に定められ、同15年(1882)8月24日郷社。昭和3年(1928)8月6日には県社に列格し、神饌・幣帛料供進の指定を受けました。
【境内社など】
「今宮神社」
参道階段を登って左手に鎮座。御祭神は竹内大臣。
「高殿神社」
参道階段を登って中段右手。織物の神として応神天皇を祀っています。
「須賀神社」
社殿向かって左に2社。その右手に鎮座。素盞嗚命を祀っています。
「合祀社」
社殿向かって左に2社。その左手に鎮座。
地主神として
稲葉神社
(宇賀御魂神)、
御崎神社
(埴安命)、
白峯神社
(顕仁命)、
直日神社
(大直日神)、
根岳神社
(平家臣霊)、
葛原神社
(武雄心命・
顕姫命)、
山神社
(大山祇命)、
大歳神社
(保食神)
を祀っています。
「恵比寿神社」
社殿向かって右奥に2社。その手前に鎮座。事代主神を祀っています。
「海原神社」
社殿向かって右奥に2社。その奥に鎮座。和多津見神を祀っています。