生松天神社は、平安時代後期の外寇として知られる寛仁3年(1019)の「刀伊の入寇」にその緒を見る神社です。
寛仁3年4月7日(1019年5月20日)、中国東北部黒竜江(アムール川)下流域から沿海州一帯に勢力を持った女真族の一派とみられる刀伊の賊徒が、対馬・壱岐に続いて筑前国怡土・志摩・早良の諸郡を侵略します。その船団の数、50艘ほどで1艘につき60-50人、もしくは30-20人。その総勢、約3,000人。
刀伊の賊徒は、人々を拉致し、金穀を略奪し、暴虐の限りを尽くしました。翌8日(5月21日)には博多湾の能古島、9日(5月22日)には博多の警護所を襲撃します。その後、能古島に戻るも、風が強く、浪も高かったため大宰府軍と膠着状態となります。その間の11日(5月24日)の未明、藤原隆家の率いる大宰府軍は、船越津に財部弘延をはじめとする精鋭を派遣し、襲撃を待ち受けました。12日(5月25日)の酉の刻(17-19時)賊徒は再び志摩郡の沿岸を侵しますが、待ち伏せていた大宰府軍に討ち取られて外洋に走り去りました。翌13日(5月26日)肥前国松浦郡の海岸を侵しますが、日本側に撃たれ、刀伊の賊徒は壱岐・対馬へ還り去ったのでした。
社伝によれば、「刀伊の入寇」のあった5月11日(5月24日)の未明に派遣された精鋭部隊が、大宰府天満宮から御祭神を勧請し、賊徒退散を神明に祈願し、梓(あずさ・たず)の弓を奉納しました。この時の祈願所となったのが生松天神社のはじまりと伝えています。その戦禍の後、亡くなった人々を、刀伊の賊徒も含め、手厚く葬ったとされています。その由緒から、現在でも4月25日と11月25日の宮座祭では、白羽の弓矢を宮座当番が各3組を奉献する習いとなっています。
往古は浦(久家地区)の南の海岸沿いに鎮座しましたが、文政6年(1823)2月に現在地へ遷座しました。
神宝として石玉の御神体が伝えられ、御神体を納めた箱の蓋には「享保壬子十七年(1732)二月八日八大竜王磯取揚」との書付が記されていることから、龍王宮(現・綿積神社)前の磯から取上げ、納められたと考えています。この石玉の御神体(神宝)のことは夙に知られ、『筑前国風土記拾遺』にも「色浅青にして形西瓜の如し。水に浸せば、光沢有りて鑑むべし」との記載があります。一説には漁夫が平戸の海中に光るものを見つけ、珍しきものなりとて持ち帰ったものとも伝えられています。
神社名は、生松天神社→老松天神社→老松神社→生松天神社→老松神社(文化年間:1804-1818)→生松天神社(現在)と「生松」と「老松」を交互によく変わっており、老松神社の扁額も幣殿に掲げてあります。明治5年(1872)11月3日に村社に定められました。
※年代表記 : 旧暦(新暦)
【刀伊の入寇】
大陸から海を隔てた日本に対する外寇として知られる鎌倉時代の元寇。その前の平安時代後期。寛仁3年(1019)壱岐・対馬、そして怡土郡・早良郡などへ中国東北部黒竜江(アムール川)下流域から沿海州一帯に勢力を持った女真族の一派とみられる刀伊が、大船団による襲撃を行います。その事変が「刀伊の入寇」です。
壱岐・対馬、そして怡土郡・早良郡などの領民が朝鮮半島北部、及び北東部を拠点とする国外へ連れ去られた事変で、公卿の藤原実資(957~1046)が残した日記である『小右記』、平安時代後期の白河院政期(1086-1129)に編纂された『大鏡』、及び永久4年(1116)に成立した『朝野群載』にその詳細が記されています。
刀伊の賊徒の規模は、50余艘。船の長さ12尋(約21.7m)、あるいは8~9尋(約14.5~16.3m)。舵は30~40ほどあり、乗る者は50~60人、もしくは20~30人あったとされています。耀く刀を持った20~30人の先陣が奔騰して上陸し、次に弓矢や楯を持った者70~80人ほどがその後に従いました。その兵団の数は10~20隊に及び、総勢は3,000人に及んだと考えられています。
『朝野群載』
撃攻刀伊國賊徒状
大宰府解 申請 官裁事
言上刀伊國賊徒或撃取或逃劫状
右件賊船、五十餘艘、(略) 今月七日到來、即載在状言上先了、且整舟船、且軍兵警固要害所々、然間壱岐島講師常覺、同七日申時參來申云、合戦之間、島司及島内人民、皆被攻略、常覺獨逃脫者、同日襲來筑前國怡土郡、經志摩早良等郡、奪人物、焼民宅、其賊徒之船、或長十二箇尋、或八九尋、一船之檝、三四十許、所乗五六十人、二三十人、耀刀奔騰、次帯弓矢、負楯者七八十人許、相從如此、一二十隊。
刀伊の賊徒は先ず3月28日(5月11日)に対馬に襲来します。その軍船は隼のように速く、36人を殺害、382人(346人?)を拉致し、対馬銀山も焼損しました。続いて壱岐島に襲い掛かり、国司の壱岐守藤原理忠をはじめとする僧侶や地元住民たちは、応戦するも三度の襲来に討ち死にします。総計で148人が殺害され、239人が拉致。追討から逃れたのは35人だけでした。対馬国司の対馬守遠晴、及び壱岐島分寺の常覚は、島からの脱出に成功し、刀伊の賊徒が怡土郡・志摩郡・早良郡を襲う寸前に大宰府に刀伊の襲来を報告しました。大宰府がその報告を受け、朝廷に飛駅を遣わし、飛駅が到着したのは4月17日(5月30日)の事で『小右記』に詳細が記されています。4月8日(5月21日)に賊徒は能古島に到り大宰府の警固所を襲ったことも時を同じくして報告されました。
『小右記』寛仁三年四月一七日
戌刻許惟圓師持來帥中納言書、[只一行、]今月七日書云、刀伊國者五十余艘來、着對馬島、殺人放火、警固要害、差遣兵船、府飛驛言上者、惟圓歸去、不幾重來云、八日送内房師書同飛驛持來云、件異國船來着乃古島、[去大宰府警固咫尺云々者、
午後8時頃に惟円師が帥中納言より一行のみ書かれた書状を持ってきた。今月七日の書状に云うには、刀伊国の者の五十艘が対馬島に来着し殺人・放火をしている。要害を警固し、兵船を差し遣わしますとのことだ。惟円が帰り去って幾ばくもなく重ねて来て云うには、八日に内房に送った師の書状を、同じく飛駅で持ってきましたと。その云うには、異国船は大宰府の警固所に近い乃古島に来着したとのことだ。
『小右記』寛仁三年四月一八日
府解云。刀伊國撃對馬壹岐等嶋[對馬守遠晴參府申事由、壹岐守理忠被殺害、又筑前國乃古嶋(警固近々所云々)、示彼賊多來、不可敵對、其迅如隼云々、帥率軍到警固可合戦云々]
大宰府の解文に云うには、刀伊国が対馬・壱岐等の島を襲撃した。[対馬守大春日遠晴が大宰府に参り、事情を申しました。壱岐守藤原理忠は殺害されました。また、筑前国の乃古嶋(警固所の近々の所)より、あの賊は多く来襲しており、敵対することができません。その速さは、隼の如くです。帥は軍を率いて警固所に到り、合戦することになった]
『小右記』寛仁三年六月二九日
壹岐講師常覺、
賊徒三襲、毎度撃返後、不堪數百之衆、一身迯脫。身雖非在俗、其忠不可隠。
(略)
壹岐嶋
守藤原理忠被殺害、被殺害嶋内人民百四十八人、男四十四人、法師十六人、童廿九人、女五十九人、
追取女等二百丗九人。
遺留人民丗五人[諸司九人、郡司七人、百姓十九人]
對馬嶋
銀穴燒損事云々、
被殺害人十八人、被追取人百十六人[男三十三人、童・女合八十三人、童廿八人、女五十六人、已上百三十四人]
上縣郡百卌一人
被殺害人九人、被追取男・女・童百卅二人[男三十九人、女・童九十三人]
下縣郡男・女并百七人
被殺害男・女并百七人、被追取男・女・童九十八人[男三十人・女童并六十八人]
并三百八十二人[男百二人、女童二百八十人]
壹岐講師常覺。
賊徒は三度、襲来した。毎回、撃退した後、数百の兵に堪えられず、一身で逃れ脱した。身は在俗ではなくとも、その忠節は隠すことはできない。
(略)
壱岐島。
守藤原理忠が殺害された。殺害148人。男44人、法師16人、童29人、女59人。拉致された女達239人。遺留35人[諸司9人、郡司7人、百姓19人]。
対馬島。
対馬銀山焼損。殺害18人。拉致116人[男33人、童と女83人(童28人・女56人)。以上134人]。
上縣郡。
総計141人。殺害9人。拉致132人[男39人、女と童93人]。
下縣郡。
総計107人。殺害9人。拉致98人[男30人、女と童68人]。
対馬島の総計382人[男102人。女と童280人]。
4月7日(5月20日)。刀伊の賊徒は、筑前国怡土・志摩・早良の諸郡に侵略します。山に登って一帯を制圧し、馬牛を斬って食らい、犬肉を屠りました。児童や老人はことごとく斬殺され、400~500人ほどの壮健な大人を船に拉致し、手当たり次第に穀米の類も略奪し尽くしました。
大宰府軍は兵士を召し抱えていたものの、中心部から離れ、対峙すべき場所が広すぎたことから集まるのに時間がかかり、兵船を整えることができませんでした。その中、志摩郡の住人である文室忠光らが賊徒を迎撃します。賊徒の射手が数十人、船にも船員が残っている中に乗り込んで数人の賊徒の首を斬り、10人余りの射手に危害を加えたのでした。
『朝野群載』
登山絕野、斬食馬牛、又屠犬肉。叟嫗兒童、皆悉斬殺、男女壯者、追取載船、四五百人。又所々運取穀米之類、不知其數、云々。事出處外、要害地廣、雖召人兵、來未多、雖整舟船、勢未□、雖然輿所差遣兵士、幷彼郡住人文室忠光等、合戦之塲、賊徒中矢者數十人、或扶以載船、其中追所斬首數輩、兵士等中矢十余人。
4月8日(5月21日)。刀伊の賊徒は博多湾の能古島を襲撃。住民は応戦するも多くが拉致されます。対して大宰府軍は藤原隆家を大宰権帥とし、大蔵種材、藤原朋範、平為賢、平為忠、藤原助高、大蔵光弘、藤原友近等の府兵に警固所の守護を命じました。
『朝野群載』
同八日移來同國那珂郡能古島、重錄在状、言上又了、但彼郡人民、或迷闘戰、或爲賊虜、飛驛言上之前、不申仔細也、以前少監大藏朝臣種材、藤原朝臣朋範、散位平朝臣爲賢、平朝臣爲忠、前監藤原助高、傔杖大藏光弘、藤原友近等、警固所、令相禦。
4月9日(5月22日)の朝。刀伊の賊徒は警固所を焼こうと襲撃してきました。しかし藤原隆家を大宰権帥とする大宰府軍は、平為賢と平為忠が先陣を切って多くの賊徒を射殺。賊徒は死体を船中に持ち入ったり、棄て置いたり、生虜られる者もいました。船には50~60人乗っており、合戦の場では全員が楯を持ち、前衛が鉾、次陣は大刀、その後に弓箭が続いていました。箭は1尺ほどの長さで、大宰府軍の楯を貫いて人に達するほどの威力を持っていました。しかし大宰府軍は下人が射殺されたのみで、指揮官たちは無傷でした。馬に乗って射取り、鏑矢を放つとその音を恐れて引き退きました。賊徒が船に遁れ、岸に沿って掉さすも、大宰府軍は兵船が無いので追撃できませんでした。次に刀伊の賊徒は、船を下りて筥崎宮を焼こうとしましたが、前行していた兵を1人を射殺すると驚いて船に乗って能古島に逃遁しました。
『小右記』寛仁三年四月二十五日
惟円云、使者乘隼船參上、但異國八日俄來着能古嶋、同九日亂登博多田、府兵忽然不能徵發、先平爲忠・同爲方等爲帥首馳向合戰、異國軍多被射殺、不留戰塲持入船中、又有弃置者、又有生虜者等、又奪取兵具・甲冑者、一船中有五六十人、合戰塲毎人持楯、前陣者持鉾、次陣持大刀、次陣弓箭者、箭長一尺余許、射力太猛、穿楯中人、府軍被射殺者只下人也、爲將軍者不被射、乗馬馳向射取、只恐加不良聲引退、[刀伊國人之中有新羅國人等云々]乗船遁去、傍岸掉船、府軍等依無兵船不能追撃、從陸路馳行、刀伊人更下船燒欲莒前宮、府兵射殺前行兵一人、驚乗船逃遁。
惟円が云ったことには、「使者は隼船に乗って参上しました。但し、異国は八日、急に能古島に来着しまし、同じく九日に博多田に乱れて上陸しました。大宰府兵は、急に徴発することはできませんでした。先ず平為忠と平為方が帥の先駆として合戦に馳せ向かいました。異国軍は多く射殺されました。死体は戦場に留めずに船中に持ち入り者も、また棄て置く者もいました。また生虜となる者もいました。また、兵具や甲冑を奪取しました」ということだ。「一船の中には五六十人がいました。合戦の場では、人毎に楯を持ち、前人の者は鉾を持っていました。次陣は大刀を持ち、その次は弓箭の者でした。箭の長さは一尺余りほどで、射力ははなはだ猛々しく、楯を穿ち人に当たりました。大宰府軍で射殺された者は、ただ下人だけです。将軍である者は射られませんでした。馬に乗って馳せ向かい、射取りました。賊徒は鏑矢の声を恐れて引き退きました[刀伊国の人の中には、新羅国の人もいましたということです]。船に乗って遁れ去り、岸に沿って船を掉さしました。大宰府軍は、兵船が無いので追撃することができませんでした。陸路から馳せ行きました。刀伊人は、更に船を下りて、筥崎宮を焼こうとしましたが、府兵は前行していた兵一人を射殺すると驚いて船に乗って逃遁しました。」。
その戦いの後の2日間は北風が強く波が高かったため互いに攻めることなく膠着状態となります。その間に大宰府軍は、38艘の軍船を急ぎ造らせます。そして4月11日(5月24日)の未明に早良郡から志摩郡船越津に財部弘延をはじめとする精鋭を派遣し、襲撃を待ち受けました。4月12日(5月25日)の酉の刻(17-19時)賊徒は再び志摩郡の沿岸を侵しますが、待ち伏せていた大宰府軍に討ち取られて退却します。
『朝野群載』
其後二箇日風猛波高、不能相攻。十一日未明、同國早良郡至志摩郡船越津、先是分遣精兵、豫令相待、同十二日酉時上陸、與大神守宮權撿非違使弘延等、合戰、中矢之賊徒卅餘人、生得二人、其中一人被疵、一人女、少貳平朝臣致行、前監種材、大監藤原朝臣致孝、散位爲賢、同爲忠等、差加兵士、以船卅餘艘、令攻追。
『小右記』寛仁三年四月二十五日
十日・十一日北風猛烈、不得還渡逗留海中、神明所爲欤兩日間府令營造兵船卅八艘令追襲、賊徒遁去。
『小右記』寛仁三年六月二十九日
大神守宮・擬撿非違使財部弘延、
賊徒撃却之間、計要害所々、件守宮等差加兵士豫所遣也、而於筑前國志摩船越津邊合戰之間、中件守宮等之矢者多、就中生捕者二人、但一人被疵死了。
4月13日(5月26日)。刀伊の賊徒は、肥前国松浦郡の海岸を侵すも、源知をはじめとする大宰府軍が討ち取り賊船は遂に本土から離れたのでした。
『朝野群載』
同十三日、賊徒至肥前國松浦郡、攻劫村閭、爰彼國前介源知□、率郡内兵士戰、中矢者數十人、生得者一人、賊船不能進攻遂以歸。
この戦いの後、大宰権帥の藤原隆家は大宰府軍に刀伊軍の追撃を命じます。先ず対馬・壱岐に到り、国境に限っての襲撃を命じました。この時に捕まえた賊徒は高麗人で、取り調べに対し「高麗の村々を襲う刀伊を撃退するために従軍していたものの、逆に捕まった者だ」と話をしていました。しかし、当時の日本は、女真族と思われる刀伊が何者か分からなかったため、実は攻めてきたのは高麗で、生虜った賊徒の虚言ではないかとも考えられていました。尚、朝鮮語では外夷を「toi-nom」と言い、高麗時代には主として女真族の呼称であったとされています。
この刀伊の入寇において、九州本土での被害は殺害・拉致を合わせて900人近くに及びました。殺害数に比して拉致数が多いことなどから、刀伊の襲撃の目的は奴隷であったと考えられています。
『小右記』寛仁三年六月二九日
筑前
志摩郡人五百四十七人、[被殺害者百十二人、追取者四百三十五人、牛馬七十四疋頭]
早良郡人六十四人、[男廿四人、女四十人、牛十頭、馬九疋、被殺害者十九人、被追取者四十四人、被切食牛馬疋六頭]
怡土郡人二百六十五人、[被殺害四十九人(男童并四十三人、女六人)、被追取二百十六人(男卅八人、女童并百七十八)、牛馬卅三疋頭、牛十六頭、馬十八疋]
能古島人九人、[女六人、童三人、駄四十四疋、牛廿四頭]
筑前
志摩郡。総計547人。殺害112人。拉致435人。牛馬74頭。
早良郡。総計64人。男24人、女40人。牛10頭。馬9匹。殺害19人。拉致44人。喰われた牛馬6匹。
怡土郡。総計265人。殺害49人(男と童43人・女6人)。拉致216人(男38人・童と女178人)。牛馬33匹頭。牛15頭。馬18匹。
能古島。総計9人。女6人。童3人。荷馬44匹。牛24頭。
朝廷にこの「刀伊の入寇」の報がもたらされたのは、最後の襲撃となった4月13日(5月26日)の後、4月17日(5月30日)でした。朝廷は一報が入った翌日の4月18日(5月31日)に討伐令を発しました。そのことから6月29日(8月8日)に軍功を協議することになった際、討伐令が発せられる以前の戦闘は軍功に値しないのではとの論議がなされます。最終的には、藤原実資が「刀伊人は警固所まで攻めてきた。また、1000人余りを拉致し、数百の牛馬を殺害し、壱岐守藤原理忠を殺した。対して大宰府は兵士を発し、忽然と追撃し刀伊人を射取った。やはり恩賞を与えるべきである。もし恩賞を与えなければ、以降の有事に誰が戦おうとするだろうか」と反論し、軍功は認められることになりました。
その後、福岡沖から去った刀伊の子細が伝えられるのは、『小右記』寛仁3年8月3日(9月10日)対馬国判官代の長嶺諸近が拉致された状況を伝えた条と、9月4日(10月10日)大宰府解にて高麗の使者・鄭子良が拉致された270人ほど(男60人・女200人余)が帰還させたのを伝えた9月19日~24日(10月25日~30日)の条になります。
刀伊軍は、最初に対馬を襲った時、長嶺諸近とその家族等を拉致します。刀伊の賊徒は筑前国・肥前国を侵した後、再び対馬に立ち寄りました。その時に長嶺諸近は隙を見て逃げ出すのに成功します。そして家族の安否を調べるため、渡海の禁を破って密出国し、高麗の金海府に赴きます。そこで対応した高麗の通事は次のように答えたのでした。
「刀伊の賊徒は、高麗で収奪を行っていたため、攻撃しようとしたところ逃げて日本に行った。兵船など準備して待ち受けていたところ、ほどなくして還ってきて海辺を荒らしたので、5ヶ所に1,000艘余配置していた兵船で打倒した。その中に日本人の捕虜が300人余いたが、日本国に帰還させることが既に公定で決まっている。早く対馬に戻り、このことを伝えるように」。
『高麗史』の4月16日(5月29日)によれば刀伊の賊徒を打倒した高麗水軍は、鎮溟(現在の北朝鮮・元山市付近)から出撃し、賊船8艘を捕獲して拉致されていた男女259人を保護したこと、鄭子良を使者として日本に捕虜を送り返したことが記されています。
その捕虜が帰還する時に、長嶺諸近もまた金海府に赴いたのでした。その人々に長嶺諸近は一家の消息を問うたところ「高麗の地に到着したる賊徒は、強壮なる高麗人を取り載せ、日本人の病羸尫弱なるものは、皆な之を海に投ぜり。汝の母並に妻・妹等も以て死せり」と知ったのでした。
長嶺諸近は、日本へ戻って大宰府に報告し、その後に高麗の使者・鄭子良が捕虜を対馬へ送還して「刀伊の入寇」は終息を見たのでした。
【境内社など】
「金刀比羅宮」
御祭神は、本座:大物主神 / 相殿:崇徳天皇。元は香月地区の青木氏宅の祖先・喜右門氏の代、文政元年(1818)金毘羅の神号を授けられ、小祠を斎祀ってきました。嘉永3年(1851)大風雨により社の周辺が損壊しました。かかる威徳ある大神を農家の近くに祀ることを畏み、氏神である当社に遷座することを願い出て相殿に遷御したところ、社家・宮﨑氏の子息の身体に異変が起こりました。これは神怒なりとして当社の南隣に社垣を構えて分祀したところ、子息は元の如く治癒したので、毎月の10日を祭日と定めて奉仕に努めたとされています。その後、祭日は1月・4月・10月と年3回行われていましたが、今は4月10日の年1回のみの斎行となっています。大正・戦前の頃までは、祭日となると多くの露天屋や見世物小屋が出て、村内はもちろん船越・岐志・新町や遠く唐津や呼子からも船で参拝があり、盛大なものであったと伝えられています。近年まで祭り当日は、氏子各家ごとに多くの客を招待し接待を尽くし、香月の青木家からも供え物の奉納がなされていました。
御祭神の大物主神は大国主命の和魂神であり、古来「海の神様」として漁業・航海など海上の安全を守ってくれる神としての信仰のみならず、農業殖産の神、医薬の神、技芸の神としても全国各地の人々から厚い崇敬が寄せられ、民衆の神様・庶民の神様として、身近な気安さを感じさせる神様です。
「稲荷神社」
御祭神は、稲荷大神(宇迦之御魂神[倉稲魂命])。一切の食物を司り給い、稲の豊饒を守護されます。稲荷は「稲生り」の義とされ、神像が稲を荷っていることから稲荷の字を充てたといわれています。後世、工業・商業が盛んになると、その御神徳も農耕神から広がり、殖産興業神・商業神・屋敷神・衣食住の祖神として稲荷大神が農村・漁村・大名・町家・商家に至るまで勧請されました。現在では、商売繁盛・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として広く信仰を集め、神社数は全国で3万余社に達し最も多いとされています。
「猿田彦大神」
『古事記』によると猿田彦大神は天孫降臨に際し、天孫邇々芸命を日向国に案内したとされ、導きの神として知られています。このことから「道祖神」にも擬せられ、旅安全の神として、全国いたるところの道筋に祠や石碑が建立されています。当社も久家地区の道筋から移設したと思われますが、移設前の鎮座の場所は不明です。
「秋葉神社」
御祭神は、火之迦具土大神。鎮火・防火の神として信仰が篤く、各地に多数の分社・講社を持っています。昔は火災が多く、勧請して祀ったと思われています。
「恵比須(恵美寿)神社」
御祭神は、事代主命。航行安全・漁労守護・五穀豊穣・家運隆昌・商売繁盛・家内安全の神として広く信仰を集めています。境内に恵比寿神社は2社ありますが、この社は生松天神社と金刀比羅宮の奥に祀ってあった小祠を昭和44年(1969)頃、久家船頭の人等が敬神の念篤く近くの浜より石を運び上げ奉納し直したものです。台座の丸石の間から2~3ヶ所常時地下水が滲み出ているのは不可思議とされています。
「諏訪神社」
御祭神は、建御名方神。持統天皇5年(691)天候不順に際して勅使を派遣して祭らせたことから、特に風鎮・水鎮の神として信仰されました。五穀豊穣の神としても信仰を集めています。古老によれば当社は、特に蛇除けの神として勧請されています。諏訪社を蛇除けの神と見立てた理由は定かではありませんが、往時は蛇(蝮)の被害が多かったためとも考えられています。また、近辺によく見られる青大将(当地ではヤジラミと通称)を寧ろ守護神として祀ったとも考えられています。