古くは高良玉垂命神社・高良玉垂宮などと呼ばれた高良大社は、『延喜式神名帳』にて名神大社に列せられ、筑後国一宮・九州総社・鎮西11ヶ国の宗廟と称えられてきました。中門の奥に本殿があり、左殿に八幡大神。中央に高良玉垂命。右殿に住吉大神を祀っています。本殿内には御客座があり、『延喜式神名帳』で同様に名神大社に列せられた豊比咩大神が合祀され、豊比咩大神は高良玉垂命とは夫婦神との説もあります。御客座には他にも境内にあった坂本神社の御祭神などが合祀されています。
高良大社所蔵の『高良玉垂宮神秘書(高良記)』によると主祭神の高良玉垂命は、異国の兵が九州を攻めた際、西に下った神功皇后が筑紫国四王子嶺にて神に助けを祈られると東方から白雲が顕れ、四方に開き、月の光と共に御出現された大神と伝えられています。右殿に祀られる相殿神の住吉大神も金星の光と共にご出現なされ二柱の神が戦勝を導かれました。その二柱の神に、神功皇后の御子である応神天皇の御神霊である八幡大神を左殿に相殿神として祀り、この三座を高良三所大神として古くより筑紫国を始め、人々の生活のあらゆる守護神として奉斎しています。その由緒から、高良玉垂命の神紋は四方に開いた雲の中から、高良神が出現なさるその瞬間を表す「横木瓜」で神使は「烏」です。八幡大神の神紋は「右三巴」で神使は「鳩」。住吉大神の神紋は「五七桐」で神使は「鶴」です。
社伝によると仁徳天皇55年(367)、または同78年(390)に高良神(玉垂命)が高良山に御鎮座といわれ、履中元年(400)御社殿を創建し、玉垂宮と称し祀ったとあります。
神護景雲元年(767)勅命により大祭礼(神幸祭)が開始され、正史上の初見は『日本紀略』にて延暦14年(795)5月6日高良神が従五位下の神階を授けられた記録です。弘仁9年(818)名神に列し、以後神階を進めて貞観11年(869)3月には従一位を、寛平9年(897)12月正一位の神階を授かります。さらに社宝の『国内神名帳』(県文化財)によれば、寛平9年(897)極位を超えて正一位を授けられたとあります。寛仁元年(1017)には、宗像・阿蘇・宇佐の各社とともに、一代一度の奉幣に与ります。
『日本後紀』卷三逸文
延暦十四年(795)五月壬申。筑後國高良神奉授従五位下。
※『日本紀略』により逸文を復元。
八幡宮と同様、早くから仏教と習合していたことも特徴で、御祭神を「護国神通高良大菩薩」と呼び、神孫を称する大祝・大宮司に加えて、座主丹波氏が一山の宗徒を率いて神前に奉仕しました。鎌倉時代以前は御造営はすべて勅裁を以て行われました。12世紀の末、源平の争乱で荒廃しますが、文永11年(1274)、及び弘安4年(1281)の蒙古襲来には、勅使が参向。蒙古調伏の折には「天下の天下たるは、高良の高良たるが故なり」との綸旨を賜わったと伝えられています。
また10月の大祭には太宰府から勅使参向し、九州9ヶ国の国司・郡司が参集して奉仕するを例としました。「武運長久の神」として、神験著しく、鎌倉幕府の崇敬、他に異なるものがありました。南北朝争乱の時代にも少弐・菊池・大友・島津の九州四大豪族が「四頭」に任じられ輪番に祭事を執り行い、御神幸祭は、高良大社に属する侍120名、国侍36名、その他筑後一円の神職、社人はもとより、商工業者・村役人・武士団・芸能者など供奉の者は1000余人という盛儀になりました。
戦国の争乱で荒廃しましたが、江戸期に入ると、豊臣秀吉によって改めて寄進された神領1000石を基盤に、戦乱などで荒廃した霊峰高良山の復興が進むと同時に、歴代の久留米藩主の崇敬を集めます。第2代有馬忠頼は山麓の石造大鳥居、第2代有馬頼利は現在の御社殿、第7代有馬頼徸は中門・透塀をそれぞれ造営寄進しました。社殿や祭事の復活で、高良山信仰と文化が深く光を放つようになり、寛政4年(1792)からは50年に一度の例祭として「御神期祭」が盛大に執り行われ、今日に続いています。平成4年(1992)に御神期大祭を斎行。その後、伝統神事を継承のため5年に1度、神幸祭を斎行することとなり、平成24年(2012)に再興されました。平成29年(2017)は、御社殿竣成に伴う本殿遷座祭があったため、平成30年(2018)に斎行されました。
江戸末期までは、神仏習合の下、天台の僧徒が多数奉仕し、山内に26ヶ寺360坊もあったと伝えられますが、明治2年(1869)久留米藩は山内の廃仏毀釈を断行し、1200年に及ぶ神仏習合の歴史に終止符を打ちます。明治4年(1871)高良神社と改称。国幣中社に列し、大正4年(1915)11月10日国幣大社に昇格し、特に金500円を御下賜されました。現在は、高良大社と称しています。
広大な社地は、高良山のほぼ全域で、高牟礼山・不濡山とも呼ばれ、その中腹に高良大社の社殿が鎮座しています。標高312mの高良山を起点として背後に耳納山地が広がり、筑紫平野と筑後川の流れを見る地勢的に絶好の位置を占め、古代より宗教・政治・文化の中心、軍事・交通の要衝として歴史上極めて大きな役割を果たしてきました。その高良山の西麓から山を囲むようにあるのが神籠石で、高良大社はその最高部・最東部近くに位置しており、社背の尾根上には古代の祭祀遺跡があります。
主祭神である高良玉垂命は、「高良」は鎮座の地名、「玉垂」は御神徳を表すと解されますが、『古事記』・『日本書紀』など古典に見えぬ神名であり、古くより祭神をめぐる論議が絶えません。一般に九州北部の古社は、八幡神を中心に西方に対する国防を意識しているとされ、高良神も、中世以降八幡宮第一の伴神と位置づけられてきました。その活動は、神功皇后の異国征伐の縁起に見ることができ、これを史上実在の人物に求め、武内宿禰に宛てる説が根強く行われてきました。それと併せて規模雄大な神籠石、古代の祭祀遺跡、古墳などの残る九州屈指の古社であることから、その創始と由来、及び御祭神については様々な説があります。
神籠石
御本殿の背後から山裾まで約1500mにわたって、1300個の巨石が神域を取り囲むように列石となっています。このような列石は、福岡・佐賀・山口県で八ヶ所確認されており、古代の山城跡とも、神域の標示とも言われ、わが国古代遺跡中最も壮大なものです。本殿の後方でその列石が途切れていますが、天武天皇7年(678)の筑紫国大地震の際に崩れたのではと推察されています。築造については、国家的な関与か、豪族か不明で謎めいた古代遺跡で、『日本書紀』に記される継体天皇22年(528)物部麁鹿火が「磐井の乱」にて筑紫国造磐井を筑紫国御井郡に討ったことに関連すると指摘する説もあります。
【建造物など】
「本殿・幣殿・拝殿」
権現造りの社殿は、第3代久留米藩主有馬頼利が造営したもので、明暦元年(1655)に工事を計画、万治3年(1660)に本殿、寛文元年(1661)7月に拝殿が竣工しました。九州最大級の神社建築といわれ、昭和47年(1972)に国重要文化財に指定されました。平成27年(2015)より2年をかけて保存した修理が行われました。屋根は木曽地方のサワラを小割にした板によるこけら葺きです。なお、拝殿・幣殿の格天井絵は狩野白信が宝暦5年(1755)に描いたものです。
「石造大鳥居(一の鳥居)」
高良大社の入口は、高良山の麓にある、一の鳥居「石造大鳥居」です。国重要文化財。明暦元年(1655)第2代藩主有馬忠頼が寄進されました。石材は領内の15歳から60歳までの男子延べ10万人が運んだと伝えられています。
【境内社】
標高312Mの高良山は、麓の第二鳥居から石階段を登って約20分ほどで高良大社に着きます。そしてそこから約20分ほど登ると山頂近くの奥宮です。摂末社は、高良山の各所に鎮座していますが、主に次の5つの区域に分けられます。
- 奥宮(高良大社社殿から南東方向)
- 高良大社社殿周辺
- 石階段の登山参道(高良大社社殿から西方向)
- 自動車参道(高良大社社殿から南西方向)
- 吉見嶽(高良大社社殿から北西方向)
【奥宮(高良大社社殿から南東方向)】
「奥宮(奥の院)」
高良大社の本殿後方から歩いて約20分。霊泉が湧く聖地で、高良大社の奥宮です。古くは「高良」「御神廟」と称し、高良神である武内宿禰葬所と伝えられていました。高良山信仰の原点ともいうべき聖地です。付近の地名を「別墅」といい、天武天皇7年(678)高良山を開山したともされる隆慶上人が、毘沙門天(高良神の本地仏)を感見して毘沙門堂を建て、天竺国無熱池の水を法力で招き寄せたのが、奥宮の清水であると伝えられています。鎌倉時代の貞永元年(1232)には、惣地頭代刑部丞の中原為則なる者が、五重の石塔をここに造立供養したとされますが現存していません。次いで南北朝時代には征西将軍懐良親王の御在所となったとの説もあります。中世末の記録によれば、ここには戒壇が設けられていたとあり、恐らく現存したの石積の壇を指すと考えられています。壇上には室町時代の石造宝塔が立っています。江戸時代の中頃、山中の極楽寺を再興した僧の即心は、晩年ここに籠って念仏修行したとされています。明治初年の神仏分離令により、毘沙門堂は「水分神社」と改められましたが、「あらゆる願い事を叶えてくださる神様」として現在も「寅」の日をじめ多くの皆様の参拝があり、高良大社の数ある末社の中でも、今日特に厚い信仰を集めています。
【高良大社社殿周辺】
「豊比咩神社」
本殿内の御客座に摂社として合祀されています。『延喜式神名帳』で同様に名神大社に列せられた式内社で、旧県社です。御祭神は豊比咩大神(豊玉姫命)。天安元年(857)5月に豊比咩神社の社殿を焼失した際、高良玉垂宮にも被害があった記録があることから、相殿あるいは至近距離にあったとする説もあります。貞観11年(869)3月22日、正四位上に列格。『筑後国神名帳』にも記載はありますが、その後は退転し不詳となります。貞享2年(1685)に末社として再興され、その時の社殿は現在は真根子神社のものとして使われています。明治維新の頃、御手洗池西岸の清水山山頂に新清水観音堂の小祠が作られ再興。さらに明治の神仏分離令により新清水観音堂が廃されたことから新清水観音堂は、豊比咩神社とされます。明治6年(1873)県社に列格して「豊比咩社」「豊比咋咩神社」とも称しました。昭和11年(1936)に隣接地であるブリヂストン石橋家の別荘「水明荘」の用地の一部となったことから本殿に合祀されました。
「高良御子神」
社殿の向かって右手奥に鎮座。本社の御祭神の高良玉垂命の御子神の九躰皇子(斯礼賀志命・朝日豊盛命・暮日豊盛命・渕志命・谿上命・那男美命・坂本命・安志奇命・安楽應寳秘命)を祀っています。高良山の麓の山川町に鎮座する高良御子神を明治6年(1873)境内に勧請したものになります。無敵の勝利、農産牛馬守護、厄除、安産、病気平癒の御神徳があります。11月13日が例祭日(摂末社例祭)です。
「真根子神社」
社殿の向かって右手前に鎮座。御祭神の壹岐眞根子命は、武内大臣の身代わりとなり大臣をお助けになった神です。『日本書紀』の応神天皇9年4月の条によれば、天皇の命で武内宿禰が筑紫へ派遣された際、弟の甘美内宿禰が兄を廃そうと「武内宿禰は三韓を引き入れて天下を取ろうとしている」と天皇に讒言し、それを聞いた天皇は武内宿禰を殺すため使者を出します。それを知って嘆く武内宿禰に対し、武内宿禰と容姿がよく似ていた壱伎直祖真根子が武内宿禰の身代わりとなって自刃しました。その後、武内宿禰は朝廷に至って天皇に弁明し、甘美内宿禰との盟神探湯の対決を経て疑いを晴らしたと伝えられています。至誠、忠義、身体守護の御神徳があります。現在の社殿は、貞享2年(1685)再興の豊比咩神社の旧社殿とされています。昭和10年(1935)同じく境内にあった五所八幡宮、日吉神社、風浪宮を合祀しています。11月13日が例祭日(摂末社例祭)です。
『日本書紀』卷第十 譽田天皇 應神天皇
九年夏四月、遣武内宿禰於筑紫、以監察百姓。時武内宿禰弟、甘美內宿禰、欲廢兄、卽讒言于天皇「武内宿禰、常有望天下之情。今聞、在筑紫而密謀之曰『獨裂筑紫、招三韓令朝於己、遂將有天下。』」於是天皇則遣使、以令殺武内宿禰、時武内宿禰歎之曰「吾元無貳心、以忠事君。今何禍矣、無罪而死耶。」於是、有壹伎直祖眞根子者、其爲人能似武内宿禰之形、獨惜武内宿禰無罪而空死、便語武内宿禰曰「今大臣以忠事君、既無黑心、天下共知。願密避之、參赴于朝、親辨無罪、而後死不晩也。且時人毎云、僕形似大臣。故今我代大臣而死之、以明大臣之丹心。」則伏劒自死焉。時武内宿禰、獨大悲之、竊避筑紫浮海以從南海𢌞之、泊於紀水門、僅得逮朝、乃辨無罪。天皇則推問武内宿禰與甘美內宿禰、於是二人各堅執而爭之、是非難決。天皇勅之令請神祇盟神探湯、是以、武内宿禰與甘美內宿禰、共出于磯城川湄、爲盟神探湯。武内宿禰勝之、便執横刀、以毆仆甘美內宿禰、遂欲殺矣。天皇勅之令釋、仍賜紀直等之祖也。
九年の夏四月に、武内宿禰を筑紫に遣して、百姓を監察しむ。時に武内宿禰の弟、甘美內宿禰、兄を廃てむとして、即ち天皇に讒し言さく、「武内宿禰、常に天下を望ふ情有り。今聞く、筑紫に在りて、密に謀りて曰ふならく、『独筑紫を裂きて、三韓を招きて己に朝はしめて、遂に天下を有たむ』といふなり」とまうす。是に、天皇、則ち使を遣して、武内宿禰を殺さしむ。時に武内宿禰、歎きて曰はく、「吾、元より弐心無くして、忠を以て君に事めつ。今何の禍そも、罪無くして死らむや」といふ。是に、壱伎直の祖、真根子といふ者有り。其れ為人、能く武内宿禰の形に似れり。独惜武内宿禰の、罪無くして空しく死らむことを惜ぴて、便ち武内宿禰に語りて曰はく、「今大臣、忠を以て君に事ふ。既に黒心無きことは、天下共に知れり。願はくは、密に避りて、朝に参赴でまして、親ら罪無きことを弁めて、後に死らむこと晩からじ。且、時人の毎に云はく、『僕が形、大臣に似れり』といふ。故、今我、大臣に代りて死りて、大臣の丹心を明さむ」といひて、則ち剣に伏りて自ら死りぬ。時に武内宿禰、独大きに悲びて、窃に筑紫を避りて、浮海よりして南海より廻りて、紀水門に泊る。僅に朝に逮ること得て、乃ち罪無きことを弁む。天皇、則ち武内宿禰と甘美內宿禰とを推へ問ひたまふ。是に、二人、各堅く執へて争ふ。是非決め難し。天皇、勅して、神祇に請して盟神探湯せしむ。是を以て、武内宿禰と甘美內宿禰、共に磯城川の湄に出でて、盟神探湯す。武内宿禰勝ちぬ。便ち横刀を執りて、甘美內宿禰を殴ち仆して、遂に殺さむとす。天皇、勅して釈さしたまふ。仍りて紀直等の祖に賜ふ。
「印鑰神社」
社殿の向かって左手奥に鎮座。高良大社の大宮司家の祖神である武内宿禰命を祀っています。高良山の麓の御井町に鎮座する印鑰神社を明治6年(1873)境内に勧請したものになります。印鑰とは高良大社の印と鍵(鑰)のことで、高良大社の宝を守る鍵、あるいは高良大社そのものを守る神社であるといわれています。延命長寿、病気平癒、盗難除けの御神徳があります。11月13日が例祭日(摂末社例祭)です。
「市恵比須社」
御祭神は、夫婦恵比須神。元は麓の御井町府中に祀られていた「府中の市」の神社。筑後国付近で市を開くときは高良山大祝の許可を得て恵比寿神を勧請するのが通例であったとされています。神像は市指定文化財。9月25日が例祭日です。
「御神木大楠」
県指定記念物。高良大社の縁起書「高良記」によれば、クスの木は御神木として、御社殿の用材としても一切使用しないという秘伝があり、御神木として大切に育ててられています。年代ははっきりしませんが、樹齢約400年位です。
【石階段の登山参道】
「御手洗池・厳島神社」
二の鳥居前の御手洗池に鎮座。市杵嶋姫命を御祭神として祀っています。11月13日が例祭日(摂末社例祭)です。御手洗池は、元は谷で土橋があったところに安永年間(1772-1780)に久留米藩が放生池として整備し、享和3年(1803)9月に御手洗橋(県指定有形文化財)ができました。池の南岸の玉垣は、高良神がここで御手を洗って山に登られたとの謂れのある井戸の名残りです。
「高樹神社」
御手洗池の道を挟んだ向かいに鎮座。高皇産霊神を御祭神として祀っています。12月13日が例祭日です。「高牟礼権現」「高牟礼神社」と称される高良山の地主神です。『日本三代實録』元慶2年(878)11月13日の条に「筑後國高樹神」に従五位上の神階が授けられたことが記され、やがて正五位下に進んだことが天慶7年(944)の『筑後国神名帳』に見ることができます。元は地主神として山上に鎮座していましたが、高良神に一夜の宿を貸したところ、高良神が神籠石を築いて結界の地としたため山上に戻れず現在地に鎮座するに至ったとの伝説が高良大社の古縁起に記されています。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのも高樹神の名に近むとされています。明治6年(1873)3月14日郷者に、大正11年(1922)11月24日神饌・幣帛料供進社に列しました。明治中年頃の『国幣中社高良神社絵図』には「境外郷社」とある。境内社に社日神社、猿田彦大神。狛犬は筑後地方で最も古いものであり、久留米市指定民俗文化財。
『日本三代實録』卷十八
元慶二年(878)十一月十三日甲辰。…(略)…。筑後國高樹神並從五位下。
「背比べ石」
二の鳥居から進んで馬蹄石の手前に鎮座。神功皇后が朝鮮半島への出兵を前に、この石と背丈を比べて吉兆を占われたとの伝説が残されています。古代の習俗を伝えるものとされ、享和2年(1802)の菱屋平七による『筑紫紀行』では「勢比石」と記されています。
「馬蹄石」
二の鳥居を過ぎ、50mほどに鎮座。高良神さまが御鎮座の際に神馬の蹄の跡を残されたと伝えられる巨石で、「馬の足形」とも呼ばれています。中世の縁起書『高良記』では、この石こそが神籠石であり「八葉の石畳(現在の神籠石列石)」の起点、終点であると記されています。古代の盤座の一種とも考えられています。
「伊勢天照御祖神社」
皇大神宮(内宮)から天照大神を分祀した『延喜式神名帳』に記される筑後国式内小社です。天慶7年(944)の『筑後国神名帳』には「正五位下伊勢天照名神」とも見え、筑後国における最も由緒正しい皇大神宮(内宮)の分祀とされています。伝えるところによれば、延暦3年(784)9月、国司藤原易興の受奏によって、伊勢国より遷座、神貢57束が奉られたと伝えられています。建仁元年(1201)の文書には、単に「伊勢社」とあり、室町時代末の『高良社画縁起』では、山麓の大鳥居の北、現・御井小学校「伊勢の井」付近に「伊勢」の小祠が描かれていましたが、明和4年(1767)の府中大火を機として、現在地に遷座されました。同年以降、毎年7月23・4の両日には『灯篭賑』が行われ、参詣者が群集したという。左右の境内社は、応神天皇を祀る八幡宮と菅原道真を祀る天満宮で、古くから山内に祀られていたものを遷座したものです。11月13日が例祭日(摂末社例祭)です。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
…(略)…。筑後國四座[大二座・小二座]。三井郡三座[大二座・小一座]。高良玉垂命神社[名神大]、伊勢天照御祖神社、豐比咩神社[名神大]。御原郡一座[小]、御勢大靈石神社。
「鏡山神社」
社殿前の三の鳥居から登山道手前200mほどに鎮座する末社です。御祭神は、高良玉垂命の分祖とされています。11月13日が例祭日(摂末社例祭)です。元は麓の御井町字賀輪に祀られていましたが、九州自動車道の建設のため現在地に遷座。高良大社宝物館に収められている2枚の鏡のうちの1枚「四雲文重圏規距鏡」が祀られていました。
「孟宗金明竹」
鏡山神社の周辺を取り囲むように群生している国指定天然記念物。緑と淡い黄色が竹の節間に交互に現れる金明竹は、全国にありますが孟宗竹は、当地を含めて4ヶ所だけです。高良山で、孟宗金明竹が発生したのは、昭和9年(1934)です。 その後、数も増え、約300本になっています。 高良山の孟宗金明竹は、地下茎から、小枝に至るまで一節ごとに交互に緑の縦縞があらわれています。
【自動車参道】
「愛宕神社」
二の鳥居を過ぎ高良大社への自動車道を500mほど登って右手に鎮座。京都の愛宕山の神で万治3年(1660)に隈山(現・久留米大学御井学舎付近)に勧請され、寛文11年(1671)に現社地の礫山に遷座したのが創始です。御社殿は延宝8年(1680)の再興で、本社御社殿に次ぐ規模と風格を持つ建造物です。火伏せ、火難除けの神として広く信仰されていますが、牛馬の守護神としても篤い信仰を集めています。なお、この山に古くから鎮座し「愛宕山稲荷」と呼ばれた稲荷社は、明治8年(1875)御井町字宗崎の稲荷山に遷座され、これが現在の大学稲荷神社だと伝えられています。
「岩不動(三尊磨崖種子)」
愛宕神社の鳥居から階段を下って左手に一枚岩に仏を表す梵字(種子)が刻まれています。中央に地蔵菩薩、左に不動明王、右に毘沙門天の三尊で、作者・建立年代は不明です。正式には「三尊磨崖種子」という市指定文化財です。
「宮地嶽神社」
愛宕神社から自動車道を挟んだ虚空蔵山山頂に鎮座する末社。福津市の宮地嶽神社からの勧請で、神功皇后が主祭神で、勝村大神・勝頼大神を配祀しています。11月13日が例祭日(摂末社例祭)です。
「桃青霊神社」
宮地嶽神社の向かって右に鎮座する末社。御祭神は、松尾芭蕉で寛政8年(1796)2月建立。桃青は、俳聖・松尾芭蕉の雅号です。全国で初めて松尾芭蕉を祀った神社とされ、元は御手洗池西岸の清水山の新清水観音堂、後の豊比咩神社境内に鎮座していました。豊比咩神社の社地が「水明荘」の用地の一部となったため昭和35年~40年(1960-1965)頃に虚空蔵山の宮地嶽神社境内に遷座しました。
「自得祠」
宮地嶽神社の向かって左手に鎮座。高良山55代座主の伝雄僧正は、殺人を犯した自得に新清水観音堂の堂守の役を与えます。懺悔した自得は、その新清水観音堂の再興に身を捧げ、昭和8年(1933)頃に自得が建立した石祠に、末永く護持せんと自らを祀ったものです。昭和30年代に桃青霊神社と合わせて現在地へ遷座し祀られています。
「大学稲荷神社」
愛宕神社を過ぎ高良大社への自動車道を500mほど登って右手に鎮座。「筑前・筑後稲荷十社第一の社」といわれ、境内地に上社と下社が鎮座しています。明和8年(1771)2月、京都伏見稲荷(伏見稲荷大社)から「大学」の称号を持つ稲荷神を勧請したものです。上社・下社の共に倉稲魂命を御祭神として祀っており、下社は小学稲荷とも称され「稲荷山」の名の起源となった古い稲荷社で、上社が本来の大学稲荷神社です。始めは愛宕山に鎮祭され「愛宕山稲荷」と称しましたが、慶応2年(1866)現在の社壇を拓き、明治8年(1875)3月拝殿を建立。同年8月1日現在地に遷座されました。「大学」の名に因み、学業成就・各種試験合格を祈願する人が甚だ多く、商売繁昌の神様としても「御利益著し」と、庶民に親しまれています。なお神紋とされる轡紋は、明治の始め、高良山を住居とした久留米藩主有馬頼咸が、特に当社に授けられたものです。春季大祭(4月6日)、秋季大祭(10月16日)が例祭日です。
【吉見嶽】
「琴平神社」
高城神社前から吉見嶽へ徒歩800m。吉見嶽の山頂に鎮座しています。大物主命と崇徳天皇を御祭神として祀っています。春季大祭(4月10日)と秋季大祭(9月10日)が例祭日です。安永3年(1774)3月10日、讃岐国の金刀比羅宮からの勧請で、明治4年(1871)、讃岐国の本社と同様に崇徳天皇を合祀し「白峰社」さらに「琴平神社」と改称しました。吉見嶽は、桜の名所としても知られる中世の山城で、大友宗麟・豊臣秀吉も陣を張った吉見嶽城跡があります。