九州の神社

福岡県・香春神社(香春町)

御祭神

御祭神ごさいじん 一ノ岳いちのたけ - 辛国息長大姫大目命からくにおきながおおひめおおじのみこと
二ノ岳にのたけ - 忍骨命おしぼねのみこと
三ノ岳さんのたけ - 豊比咩命とよひめのみこと

由緒

辛国息長大姫大目命からくにおきながおおひめおおじのみこと忍骨命おしぼねのみこと豊比咩命とよひめのみこと香春岳かわらだけまつ香春神社かわらじんじゃは、『延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』では名神小社みょうじんしょうしゃ列格れっかくされ、豊前国一宮ぶぜんのくにいちのみやとされた古社こしゃです。創祀そうし不詳ふしょうですが、社記しゃき香春神社縁起かわらじんじゃえんぎ』によれば、崇神天皇すじんてんのう御宇みう(BC97-BC30)、辛国息長大姫大目命からくにおきながおおひめおおじのみこと忍骨命おしぼねのみこと荒魂あらみたま豊比咩命とよひめのみこと三柱みはしら御神おんかみ香春岳かわらだけ奉祀ほうししたのが創始そうしとされています。

香春岳かわらだけは南から一ノ岳いちのたけ(元491m・現在270m程)、二ノ岳にのたけ(468m)、三ノ岳さんのたけ(511m)と並ぶ石灰岩からなる山で、元は草木の育たない石山であったとされています。その香春岳かわらだけの三峰の各頂上に三柱みはしら神霊しんれいを各々奉祀ほうしし、香春三所大明神かわらさんしょだいみょうじんと称しあがたてまつったとされています。

豊前国風土記ぶぜんのくにふどき逸文いつぶん』によれば往古、鮎の泳ぐ清浄な川原(香春かわら)を気に入った新羅国しらぎのくにの神が住むに至ったのが香春大神かわらのおおかみ鹿春大神かわらのおおかみ)となったとされています。

一ノ岳いちのたけまつられた辛国息長大姫大目命からくにおきながおおひめおおじのみことは、神代かみよ新羅国しらぎのくにに渡り、崇神天皇すじんてんのう御代みよに日本へ戻った神です。一ノ岳いちのたけの山頂には周り36歩ばかりの沼があり、黄楊樹つげ、及び龍骨りゅうこつがあったと伝えられています。

二ノ岳にのたけまつられた忍骨命おしぼねのみこと天忍穗耳尊あめのおしほみみのみこと)は、天照大神あまてらすおおみかみ素戔嗚尊すさのおのみこと誓約うけいで生まれた五皇子ごおうじ第一皇子だいいちおうじです。二ノ岳にのたけまつられたのは忍骨命おしぼねのみこと荒魂あらみたまで、その和魂は南山(一ノ岳いちのたけ)にまつられたとされ、二ノ岳にのたけの山頂には銅、黄楊樹つげ、及び龍骨りゅうこつがあったと伝えています。

三ノ岳さんのたけまつられた豊比咩命とよひめのみことは、神武天皇じんむてんのう外祖母がいそぼ住吉大明神すみよしだいみょうじん御母みおやです。香春神社かわらじんじゃ祭礼さいれいの時だけ香春神社かわらじんじゃに坐し、祭礼さいれいが終わると宇佐宮うさぐう放生会ほうじょうえ神鏡しんきょう奉納ほうのうした採銅所さいどうしょにある古宮八幡宮こみやはちまんぐう帰社きしゃするとされています。三ノ岳さんのたけの山頂には龍骨りゅうこつがあったと伝えています。

『風土記・逸文』豊前國・鹿春郷

豐前國風土記曰 田河郡 鹿春鄕[在郡東北]此鄕之中有河 年魚在之 其源從郡東北杉阪山出 直指正西流下 湊會眞漏川焉 此河瀬淸淨 因號淸河原村 今謂鹿春鄕訛也 昔者 新羅國神 自度到來 住此河原 便卽 名曰鹿春神 又鄕北有峯 頂有沼[周卅六歩許]黃楊樹生 兼有龍骨 第二峯有銅竝黃楊龍骨等 第三峯有龍骨。


豊前国の風土記に曰はく、田河郡の鹿春郷(郡の東北に在り)。此の郷の中に河有り。年魚在り。其の源は、郡の東北のかた杉坂山より出でて、直ぐに正西を指して流れ下りて、真漏川に湊ひ会へり。此の河の瀬、清浄し。因りて清河原村と号けき。今、鹿春の郷と謂ふは訛れるなり。昔者、新羅の国の神、自ら度り到来りて、此の河原に住みき。便即ち、名づけて鹿春の神と曰ふ。又、郷の北に峯有り。頂に沼有り(周り三十六歩ばかりなり)。黄楊樹生ひ、兼、龍骨有り。第二の峯には銅、並びに黄楊・龍骨等有り。第三の峯には龍骨有り。

『續日本後紀』卷第六

承和四年十二月庚子(838年1月14日)。(略)太宰府言。管豐前國田河郡香春岑神。辛國息長大姬大目命。忍骨命。豐比咩命。惣是三社。元來是石山而上木惣無。


承和4年12月11日(838年1月14日)。(略)太宰府言う。管る豊前国田河郡の香春岑神、辛国息長大姬大目命・忍骨命・豊比咩命。総て是の三社は、元来是れ石山にして上に木総て無し。

建保けんぽう元年(1213) 編纂へんさんの『彦山流記ひこさんるき』によれば、中国の天台山てんだいさんにある王子晋おうじしんの旧跡から来訪した彦山権現ひこさんごんげんは、豊前国ぶぜんのくに田河郡たがわぐん大津村おおつむら近くに船を着け、香春明神かわらみょうじんに宿を借りることを願います。しかし香春明神かわらみょうじんは、場所が狭く少ないことを理由に、宿を貸しませんでした。怒った彦山権現ひこさんごんげんは、1万の眷属けんぞくと10万の金剛童子こんごうどうじ香春岳かわらだけの樹木を引き抜かせてしまいました。そのため香春岳かわらだけは、苔生こけむす岩石ばかりの石山になってしまったと伝えています。

『彦山流記』建保元年(1213) 編纂

夫権現、(略)、甲寅歳震旦国天台山王子晋旧跡東漸、御意深凌西天之蒼波交東土之雲霞、其乗船舫親在豊前国田河郡有大津邑今号御舟是也。着岸之当初香春明神借宿、地主明神称狭少之由不奉借宿、爰権現発攀縁、勅壱万十万金剛童子、彼香春嶽樹木令曳取、因茲枝條蔽莀磐石露形。


夫れ権現、(略)、甲寅の歳、震旦国天台山の王子晋の旧跡より東漸す。御意の深さ西天の蒼波を凌ぎ、東土の雲霞と交わる。その乗りたる船を舫ふは豊前国田河郡大津邑の親くに在り。今、御舟と号すは是なり。着岸の当初、香春明神に宿を借る。地主明神、狭く少なし由と称し、借りの宿を奉らず。これに権現攀縁を発し、一万十万金剛童子に勅して、彼の香春嶽の樹木を曳き取らんと令ず。茲る枝を條ぎ蔽ふに因りて莀むす磐石の形を露わとす。

社記しゃき香春神社縁起かわらじんじゃえんぎ』によれば、和銅わどう2年(709)一ノ岳いちのたけ南麓に一社いっしゃ建立こんりゅうし、三神さんしん合祀ごうしして香春宮かわらぐうと称したとされ、弘安こうあん10年(1287)に成立した社記しゃき香春神社解文かわらじんじゃげぶみ』では、その新宮しんぐう三神さんしん合祀ごうしされた際、日置絢子ひおきのあやこ三ノ岳さんのたけ阿曾隈あそくま採銅所さいどうしょにてたてまつられていた豊比咩命とよひめのみこと勧請かんじょうされたと記しています。

延暦えんりゃく23年(804)桓武天皇かんむてんのうより入唐求法にっとうぐほう還学生げんがくしょうに選ばれた最澄さいちょうが、渡海とかいの安全祈願きがんのため香春神社かわらじんじゃもうでます。その仔細が、弘仁こうにん23年~元慶がんぎょう5年(822-881)の期間に編纂へんさんされた『叡山大師伝えいざんたいしでん』、及び正和しょうわ2年(1313)に編纂へんさんされた『八幡宇佐宮はちまんうさぐう御託宣集ごたくせんしゅう』に記されています。

最澄さいちょう宇佐宮うさぐう渡海とかいの安全を祈念きねんしたところ、八幡大神はちまんのおおかみ示現じげんし、新羅国しらぎのくにから来住した香春大神かわらのおおかみは、新羅しらぎ大唐だいとう百済くだらの事を詳しく知っているのでもうでるよう託宣たくせんします。最澄さいちょう香春かわら社に赴くと、思いがけないことに、左の半身は人、右の半身は石の姿をした幽玄なる1人の僧が現われて「何者であるか」と問いただしました。最澄さいちょう宇佐宮うさぐうでの示現じげん神託しんたくを語ると、僧は自分こそがその語られた香春大神かわらのおおかみであると告げます。香春大神かわらのおおかみ最澄さいちょうに、渡海とかいの安全を守護しゅごするので、仏の慈悲、大悲だいひ願海がんかいに浴して業道ごうどうから救ってくれるよう頼んだのでした。

とうに渡った最澄さいちょうは、天台山てんだいさんにて天台教学てんだいきょうがくを受けて翌年の延暦えんりゃく24年(805)に帰朝きちょうします。しかし、その洋上で風波により船が沈みそうになります。最澄さいちょうが安全を祈念きねんすると八幡大菩薩はちまんだいぼさつ天童てんどうとして虚空こくうに現われ、香春大明神かわらだいみょうじん碇石いかりいしとなってともづなを結び、大竜だいりゅうとなった竈門大菩薩かまどだいぼさつは船を背に乗せて無事に岸へと辿り着き、心から神恩しんおんに感謝したのでした。そして最澄さいちょうは、延暦えんりゃく25年(806)に天台宗てんだいしゅうを開いたのでした。

無事に帰朝きちょうした9年後の弘仁こうにん5年(814)の春、最澄さいちょうとうからの無事の帰朝きちょう天台宗てんだいしゅう開創かいそう奉謝ほうしゃし、当地を訪れ香春神宮寺かわらじんぐうじを開きます。そして智顗ちぎ天台大師てんだいたいし)による『法華玄義ほっけげんぎ』・『法華文句ほっけもんぐ』・『摩訶止観まかしかん』、湛然たんねん妙楽大師みょうらくたいし)による『法華玄義釈籤ほっけげんぎしゃくせん』・『法華文句記ほっけもんぐき』・『止観輔行伝弘決しかんぶぎょうでんぐけつ』、及び『法華経ほけきょう』2部の書写しょしゃ香春宮かわらぐうに納め、講読こうどくします。

最澄さいちょう神殿しんでんに向って、何事をもって神道かんながらのみちと為すのか、どのように神恩しんおんへの忠勤ちゅうきんを果たすべきかを問うと、香春大神かわらのおおかみ示現じげんして「我が在る所の山に、更に草木無し。法力を以て、若し生長せしめば、神の悦ぶ所なり」とりました。それを受けた最澄さいちょうが『妙法蓮華経みょうほうれんげきょう薬草喩品第五やくそうゆほんだいご』を講読こうどくするとたちまちの内に、石山に草木が繁茂して森となり、山を覆ったとされています。

加えて『叡山大師伝えいざんたいしでん』では、最澄さいちょう法音ほうおんを聞いた香春大神かわらのおおかみは、久しく聞くことができなかった説法せっぽう読経どっきょうを聞くことができたことを随喜ずいきしたことを記しています。香春大神かわらのおおかみ説法せっぽう読経どっきょう謝礼しゃれいとして、斎殿いみどのを開き、自らが所持していた紫の袈裟けさと紫のころも最澄さいちょう下賜かししました。又、この講読こうどくの時、青空の下、香春岳かわらだけに紫色に光り耀かがやく雲が出て、辺りにもやが立ち込める瑞相ずいそうが現われました。そのことを当地の郡司ぐんじ刀彌とね等が最澄さいちょう奏上そうじょうすると、最澄さいちょうは弟子の義真ぎしんに自らが亡くなるまでは、瑞雲ずいうんが起ったことを秘するよう伝えました。最澄さいちょうの没後に、この奇瑞きずいがあったことが知られるようになったと伝えています。

『叡山大師伝』弘仁23年~元慶5年(822-881)の期間に編纂

弘仁五年春。(略)又奉爲八幡大神。於神宮寺。自講法華敎。乃開講竟。大神託宣。我不聞法音。久歴歲年。幸値遇和上。得聞正敎。兼爲我修種種功德。至誠隨喜。何足謝德矣。苟有我所持法衣卽託宣主自開齋殿。手捧紫袈裟一紫衣一。奏上和上。大悲力故幸垂納受。是時禰宜祝等各歎異云。元來不見不聞如是奇事哉。此大神所旋法衣。今在山院也。又於賀春神宮寺。和上自講法華經。謝報神恩。是時豐前國田河郡司并村邑刀彌等。錄瑞雲狀。奏上大師。適取固封。告弟子義眞言。自非滅後。不得披封。奉敎固緘滅後披見。其文云。以今月十八日未時。紫雲光耀。自鹿春峰起。亙蒼空靄。覆講法之庭。忽見瑞相。擧衆歎異。郡解如別。昔大師。臨渡海時。路次寄宿田河郡賀春山下。夜夢。梵僧來到披衣。呈身而見。左半身似人。右半身如石。對和上云。我是賀春。伏乞和上。幸沐大悲之願海。早救業道之苦患。我當爲求法助晝夜守護。竟夜明旦。見彼山。右脇崩巖重沓。無有草木。宛如夢半身。卽便建法華院。講法華經。今呼賀春神功院是也。開講以後。其山崩巖之地。慚生草木。年年滋茂。村邑翁婆無不歎異。又託宣曰。海中急難時。我必助守護。若慾知我助。以現光爲驗。因玆毎急難時。有光相助。託宣有實。所求不虛。乃大師本願。始登山朝。終入滅夕。四恩之外。厚救神道。慈善根力。豈所不到哉。


弘仁五年の春。(略)又、八幡大神の為に奉る神宮寺に於いて、自ら法華教を講ず。乃ち開講を竟ると、大神託宣すらく。我法音を聞かずして、久く歳年を歴たり。幸に和上に値遇して正教を聞くことを得たり。兼て我が為めに種種の功徳に修するには至誠随喜す。何ぞ徳を謝するに足らん。苟も我が所持の法衣有り。即ち託宣の主、自ら斎殿を開きて、手に紫の袈裟一つ紫の衣一を捧げ和尚に奏上し、大悲力の故に幸に納受を垂れよと。是の時に禰宜・祝等、各歎異して云く。元より是の如き奇しき事を見ざる聞かざるかな。此の大神の施したまふ所の法衣、今山王院に在るなり。又、賀春神宮寺に於いて和上自ら法華経を講じて神恩を謝報す。是の時、豊前国田河の郡司、並びに村邑の刀彌等、瑞雲の状を録して大師奏上す。適ら取りて固く封じ、弟子の義真に告げて言く。自れの滅後に非ずんば。封を披くこと得ざれと。固く緘じて教へを奉つりて、滅後に披見す。其の文に云く、今月十八日未の時を以て。紫雲光耀して鹿春の峰より起り、蒼空に亘り、講法の庭に靄覆へり。忽に瑞相を見て、挙衆を挙げ歎異す。郡解、別の如し。昔大師、渡海に臨みし時、路次、田河郡賀春の山の下に寄宿す。夜の夢に梵僧来到して衣を披き、身を呈して見ゆ。左の半身は人に似、右の半身は石の如し。和上に対して云ふ。我は是れ賀春なり。伏して乞ふ和上。幸に大悲の願海に沐せしめて、早く業道の苦患を救ひたまへ。我れ当に求法の助けと為して、昼夜守護す。夜を竟へて明旦に彼の山を見るに、右脇は崩巌重沓して草木有ること無く、宛も夢の半身の如し。即便、法華院を建て、法華経を講ず。今、賀春神功院と呼ぶは是れなり。開講の以後、其の山の崩巌の地に慚く草木生して、年年滋茂せり。村邑の翁婆、歎異せざることなし。又託宣曰く、海中急難の時は、我れ必ず助け守護せん。若し我が助けを知らんと欲せば、光を現するを以て験と為す。因て玆れに急難の時毎に、光有り相ひ助く。託宣実有り。求る所、虚しからず。乃ち大師の本願は、登山の朝より始めて入滅の夕べに終るまで、四恩の外、厚く神道を救ひ給ふ。慈善根の力、豈に到らざる所あらんや。

『八幡宇佐宮御託宣集』大巻十一・又小倉山社部(上)

香春社流記云。伝教大師為祈申入唐事。延暦廿三年参宇佐宮。殊致精誠。奉増法楽之時。示現言。自此乾方香春云所霊験神令坐。新羅国神也。吾国来住。新羅。大唐。百済事能被鍳知。可信其教者。大師奉此神勅之間。詣彼社壇之処。不慮外有一僧。値途中。向吾言何人乎。奇此気色。語彼示現。僧言。我即此神也。大師造諸善而祈願。抽一心而請益。爰神令現之給。其片盤石片僧形也。星光之時如近而見物。明月之夜如遠而伺色。為幽々。為玄々。而神語云。八幡大菩薩阿登羅江。又法楽難忘。和上渡海在唐可守護也者。皈朝之時。於洋中有風波之難。依擬漂没祈念之間。大菩薩現天童在虚空。奉此厳詔。香春大明神成碇石。結纜竈門大菩薩成大竜負舟平安着岸。報寶心在。書写法花釈六十巻[天台。妙楽両大師釈]。法花経二部。奉納香春宮之上向神殿言。何事奉為神道。又可致忠勤耶。示現。我之在所山更无草木。以法力若令生長者。神之所悦也。大師講読妙法蓮花経薬草喩品之時。草木忽萠森列満山。大弐南渕長河朝臣感見此事。始奉寄水田十五町。永為之例。五ヶ任之間。已及七十五町而已。


香春社の流記に云く。伝教大師入唐の事を祈り申さんが為に、延暦廿三年、宇佐宮に参り、殊に精誠を致し、法楽に備へ奉る時、示現して言く。此より乾方の香春と云ふ所に、霊験の神坐まさしむ。新羅国の神なり。吾が国に来住す。新羅・大唐・百済の事を、能く鍳知せらる。其の教を信ずべしてへり。大師、此の神勅を奉る間、彼の社壇に詣る処に、不慮の外に一僧有り。途中に値ふ。吾に向つて、何人なるやと言ふ。此の気色を奇しみ、彼の示現を語る。僧の言く。我即ち此の神なり。大師諸善を造して祈願し、一心を抽んでて請益す。爰に神現れしめ給ふ。其の片は盤石にして、片は僧形なり。星光の時、近くして物を見るが如く、明月の夜、遠くして色を伺うが如し。幽々為り、玄々為り。しかるに神語つて云く。八幡大菩薩あとらへあり。又法楽忘れ難きなり。和上渡海して唐に在らば、守護すべきなりてへり。帰朝の時、洋中に於て、風波の難有り。依て漂没せんと擬す。祈念する間、大菩薩天童と現じて虚空に在り。此の厳詔を奉る。香春大明神は碇石と成りて纜を結び、竈門大菩薩は大竜と成りて舟を負ひ、平安にして岸に着く。報寶心に在り。法華釈六十巻[天台・妙楽大師の釈なり]を書経す。法華経二部を香春宮に納め奉る上、神殿に向つて言く。何事を神道と為し奉り、また忠勤を致すべきやと。示現して云く。我が在る所の山に、更に草木無し。法力を以て、若し生長せしめば、神の悦ぶ所なりと已上。大師妙法蓮華経薬草喩品を講読する時、草木忽に萠し、森列りて山に満つ。大弐南渕長河朝臣、此の事を感見し、始て水田十五町を寄せ奉り、永く例と為す。五ヶ任の間、已に七十五町に及ぶのみ。

『續日本後紀』卷第六

承和四年十二月庚子(838年1月14日)。(略)至延暦年中。遣唐請益僧最澄。躬到此山祈云。願縁神力。平得渡海。即於山下。爲神造寺讀經。爾來草木蓊鬱。神驗如在。毎有水旱疾疫之災。郡司百姓就之祈祷。必蒙感應。年登人壽異於他郡。望預官社。以表崇祠。許之。


承和4年12月11日(838年1月14日)。(略)延暦年中に至り、遣唐請益僧最澄、自ら此の山に到り、祈って曰く。願くは神力に縁って、平かに海を渡ることを得んと。即ち山下に於いて、神の為に寺を造り経を読む。爾来草木蓊鬱とし、神験在すが如し。水旱・疾疫の災有る毎に、郡司・百姓これに就て祈祷すれば、必ず感応を蒙る。年登り人寿ながきこと、他郡に異なり。望むらくは官社に預かり、以て崇祠を表さんと。これを許す。

承和じょうわ10年(843)3月3日、辛国息長大姫大目命からくにおきながおおひめおおじのみこと忍骨命おしぼねのみことが、正一位しょういちい神位しんいじょせられます。『日本三代実録にほんさんだいじつろく』の貞観じょうがん13年(871)2月26日くだりでは、従五位上じゅごいじょうであった辛国息長大姫大目命からくにおきながおおひめおおじのみこと忍骨命おしぼねのみこと従四位上じゅよんいじょう神階しんかいが授与されたことが記されています。延長えんちょう5年(927)に編纂へんさんされた『延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』では、豊前国ぶぜんのくに名神小社みょうじんしょうしゃとされました。

『日本三代實録』卷第十

貞觀七年二月廿七日(865年4月1日)。豐前國從五位上辛國息長比咩神。忍骨神。並授從四位上。

『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂

豐前國六座。大三座・小三座]。宇佐郡三座[竝大]、八幡大菩薩宇佐宮[名神大]、比賣神社[名神大]、大帶姬廟神社[名神大]。田川郡三座[竝小]、辛國息長大姬大目命神社[名神小]、忍骨命神社[名神小]、豐比咩命神社[名神小]。

香春社解状かわらしゃげじょう』、及び『大宮司申状写だいぐうじもうしじょううつし』の伝えるに永承えいしょう年中(1046-1053)天台座主てんだいだいざす西明坊せいめいぼうの時、造営遷宮之儀式ぞうえいせんぐうのぎしきが置かれ、以後建暦けんりゃく年中(1211-1213)まで、6度退転なく行われます。 建仁けんにん元年(1201)には豊比咩命とよひめのみこと正二位しょうにいたてまつられ、建暦けんりゃく2年(1212)8月21日には「香春明神かわらみょうじん聖朝鎮護無雙せいちょうちんごむそう霊神れいしんである故、33年毎に造営ぞうえいするよう宣旨せんじがなされます。寛元かんげん元年(1243)10月8日の宣旨せんじでは、当社の造営ぞうえいは、朝家ちょうかの経営、当国の課役かえきとなすとされ、歴代皇室こうしつ御尊崇ごそんすうの厚さを伝えています。

文永ぶんえい5年12月16日(1269年1月26日)に類火るいかにより炎上し、天台宗てんだいしゅうの第7祖とされる道邃どうすい金泥妙典きんでいみょうてん最澄さいちょうの直筆、寛元かんげん元年(1243)に造営ぞうえいを命じた宣旨せんじ住吉大神すみよしのおおかみ神宝しんぽう文書もんじょなどの宝物ほうもつを焼失。正応しょうおう元年(1288)に少弐氏しょうにしにより再建。その後にの戦乱の中、盛衰を経ますが天正14年(1586)豊臣秀吉とよとみひでよし九州平定きゅうしゅうへいていの際、社領しゃりょう没収により神宮寺じんぐうじの僧は離散し、宮司ぐうじ神官しんかんの権威は失墜します。江戸期中期になり、元禄げんろく16年(1703)の小笠原藩おがさわらはん社禄しゃろくの寄付等により社勢しゃせいを回復し、延享えんきょう2年(1745)に社殿しゃでんを再建しました。

明治4年(1871)9月郷社ごうしゃ列格れっかくして香春神社かわらじんじゃと改称。明治6年(1873)7月15日県社けんしゃに列せられました。大正4年(1915)1月14日に神饌しんせん幣帛料へいはくりょう供進社きょうしんしゃに指定されました。建築物として鳥居とりいや手洗盤などは江戸初期であるものの、本殿ほんでんなどは文化ぶんか文政ぶんせい期(1804-1830)に改築されたものです。西側の回廊かいろうは、平成期の改築。本殿ほんでん一棟いっとう拝殿はいでん一棟いっとう、東側の回廊かいろう一棟いっとう、石垣は香春町かわらまち第18号文化財指定を受けています。

社殿しゃでん向かって右手に奥に宇迦之御魂神うかのみたまのかみまつ白八稲荷大明神しろはちいなりだいみょうじん。その手前には、昭和14年(1939)6月30日の午後3時頃、一ノ岳いちのたけの採石場から神社後方の山林を突破して回廊かいろう前に転落した巨岩「山王石さんのうせき」がまつられています。その大きさは高さ4m20cm、周囲約15.6m、重さ約86t。東回廊かいろう隅柱すみばしらを損傷しただけで、ほとんど被害がありませんでした。これは神様のおかげであるとされ、山頂の山王神社さんのうじんじゃにちなんで「山王石さんのうせき」と命名され、神の宿やどる石としてまつられています。

社殿しゃでん向かって左手前に石祠いしほこら三社さんしゃ。右手より蛭子社えびすしゃ諏訪社すわしゃ天福社てんぷくしゃです。

社殿しゃでん奥、本殿ほんでん向かって左手に鎮座ちんざするのは、明治34年(1901)に香春岳かわらだけ一ノ岳いちのたけ山頂に建立こんりゅうされ、昭和34年(1959)3月3日に遷座せんざ建立こんりゅうされた納神社おさめじんじゃです。


一ノ岳いちのたけ、石灰岩採掘の経緯】

明治21年(1888)旧香春町かわらまちと旧下香春村しもかわらむらと合併した香春町かわらまちは、農業を主業として営むも、交通の要衝、近隣の中心地として栄えた町でした。しかし、筑豊炭田ちくほうたんでんが大きな産業となるのに合わせ、石炭の採掘の少ない香春かわらから町の中心地は離れることとなりました。農村の不況、並びに商工業の衰退により香春町かわらまちは年々活気を失います。その中、町の財政の出費はかさむこととなっていました。

その中で昭和6年(1931)8月、町長の江本達雄氏えもとけんきちしは、香春町かわらまち部落有林野ぶらくゆうりんやが旧下香春村しもかわらむらの所有に属し、香春岳かわらだけ一ノ岳いちのたけ二ノ岳にのたけ、及び三ノ岳さんのたけの南半面から、採銅所村さいどうしょむら、旧金川村かねかわむらまたがる広さに達し、香春町かわらまちの林野面積の約7割を占めることに着目します。

化学肥料の利用増加と農業の副業化。まぐさや薪炭の採取も減少して未利用地も多かったことから、町を挙げて香春町かわらまちの管理に一元化して収益の集約を計り、町財政の基礎を確立させようと動きます。昭和7年(1932)3月18日委員会の協定を遂げ、3月21日には町会で満場一致の可決をなして、60余歩町の県行造林けんこうぞうりん実施を見るに至りました。

しかし、石炭の採掘も僅少きんしょうで、狭溢きょうあいとした土地である香春町かわらまちは、各種施設の運営や教育の充実に備える財源は乏しく、町の財政は厳しいものがありました。また、この時期は昭和5-6年(1930-31)の昭和恐慌が発生していた時期でもありました。

その昭和恐慌から急速に経済回復を遂げていた昭和8年(1933)6月に浅野あさのセメント株式会社の香春かわら工場誘致の話が持ち上がります。香春町かわらまちでは直ちに期成同盟会きせいどうめいかいが結成され、工場誘致の実現へ動く中、木村健吉氏きむらけんきちしが町長に就任します。

町として有力な産業の無い香春町かわらまちは、石灰岩でできた香春岳かわらだけの一部を犠牲として、発展を計ることが最も適切な策とされ、町会議員、町民代表と協議を重ね、その結論を実施することを決します。浅野あさのセメント株式会社とも折衝を重ねた結果、町を挙げての誘致が決まり、同年11月に浅野あさのセメント株式会社会社との協定が成立。同年11月21日に町会に議案が提案され、満場一致で可決。直ちに県知事へ林野処分の要請がなされ、昭和9年(1934)6月22日付をもって許可されました。

昭和10年(1935)6月に工場が開設され、製造が始まります。それ以降も数回に及ぶ増設と山の買収が行われ、香春町かわらまちの主要産業となったのでした。当初はセメント用材として採掘されていましたが、現在は非常に純度の高い「香春岳かわらだけ寒水石かんすいせき」の産地として知られています。

※この項は、「香春町誌かわらまちし編集委員会編『香春町誌かわらまちし香春町かわらまち, 昭和41年 [p106-107]:誘致の理由」を元に紹介させていただきました。

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 一之鳥居
  • 一之鳥居
  • 一之鳥居と香春岳
  • 注連柱
  • 注連柱
  • 二之鳥居
  • 三之鳥居
  • 三之鳥居から参道
  • 境内
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 山王石
  • 山王石
  • 山王石と桜
  • 白八稲荷大明神と不動明王像等
  • 白八稲荷大明神
  • 不動明王像
  • 石碑
  • 天福社・諏訪社・蛭子社
  • 天福社・諏訪社・蛭子社
  • 納神社
  • 仏像と鹿像

情報

住所〒822-1406
田川郡たがわぐん香春町かわらまち香春かわら733
創始そうし 不詳ふしょう三社さんしゃ新宮しんぐう合祀ごうししたのは和銅わどう2年(709)
社格しゃかく 名神小社みょうじんしょうしゃ豊前国一宮ぶぜんのくにいちのみや県社けんしゃ旧社格きゅうしゃかく
例祭れいさい5月5日
HP Wikipedia /  神宮院

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