筥崎宮は、筥崎八幡宮とも称し、宇佐神宮・岩清水八幡宮と共に三大八幡宮として朝野の別なく信仰崇敬されてきた社です。御祭神は筑紫国蚊田の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた第15代天皇の応神天皇を主祭神として、神功皇后、玉依姫命をお祀りしています。
海外交通の要地であると同時に国防の要衝でもあった当地は、古く葦津ヶ浦と称されていました。その昔、三韓征討から凱旋された神功皇后は、筑紫の蚊田の里(現在の粕屋郡宇美町)で応神天皇を御出産なされます。その時の御胞衣を「筥」に歛めて、白砂青松の葦津ヶ浦に御埋鎮され、御標として松を植えられました。「標の松」は「筥松」と名付けられて以後、筥松のある岬(崎)ということで「筥崎」の名が起こったと伝わっています。その由緒から「筥」との字は畏れ多いとされ、人々の営みの場の名称には「箱崎」の文字が使われています。
その尊い由緒によって天皇崩御の後、祭祀の場として天皇の御遺徳を追慕し奉られていたと考えられていますが、神社としての創建の時期については諸説あります。
鎌倉時代中期・後期に成立したとされている『八幡愚童訓』等によれば、醍醐天皇の御代、大宰少弐藤原真材朝臣が石清水八幡宮に、廻廊を造営寄進せんと立願したところ、延喜21年(802)6月21日に「新に神宮を筑紫の筥崎に造営し宮殿を乾に向け柱に栢を用ふべし、末代に至りて異国より我国を窺ふ事あらば吾其敵を防去すべし、故に敵国降伏の字を書きて礎の面吾座の下に置くべし」との御神託を、急ぎの奏聞を経て神殿が造営されます。そして醍醐天皇の神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜されたとあります。また、正和2年(1313)に宇佐弥勒寺学頭僧神吽の撰した宇佐神宮の縁起書である『宇佐宮御託宣集』にも延喜21年(802)6月1日の条にての穂浪大分宮から箱崎の松原への遷座の神託があり、3年後の延長元年(923)にの遷御したと記されています。
『宇佐宮御託宣集』
延喜二十一年六月一日、筥崎神託す。我が宇佐宮よりは、穂浪大分宮は我の本宮なり。去る二十日辰時を以て、来り着く。今日巳時を以て、爰に来る所なり。其の故は、香椎宮は我が母堂、住吉宮は我が親父なり。我が幼少の当初、志賀嶋を点住して、これに跡づく所なり。夷類を征伐せしむる後、吾出生の時、号を崇めらるべし。我が先の世に、三箇所に居住せしむべき由、所々に有りと雖も、先の世に天下国土を鎮護し始めし時に、戒定恵の筥を納め置く。埋むる所は、彼の父母両所の敷地の中間に、松一本を殖うる、巳に其の璽なり。適生土の上へ、彼の所に居住せしめんと欲ふなりてへり。私に云く。大分宮は我が本宮とは、欽明天皇の御代、御示現の前、御霊行の時なり。
敵国降伏の御宸筆はの本宮に伝存したする第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれています。縦横約18cmで全部で37葉あります。社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納めれられた記録があります。特に文永11年(1274)の蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山上皇が納められた事跡は有名で、文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時に、亀山上皇の御宸筆を謹写拡大したものが楼門に掲げられています。
本宮はもと、八幡大菩薩筥崎宮と称し、『延喜式神名帳』では名神大社に列せられました。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
筑前國十九座[大十六座・小三座]。宗像郡四座[並大]。宗像神社三座[並名神大]、織幡神社一座[名神大]。那珂郡四座[並大]。八幡大菩薩筥崎宮一座[名神大]、住吉神社三座[並名神大]。糟屋郡三座[並大]。志加海神社三座[並名神大]。怡土郡一座[小]。志登神社。御笠郡二座[並大。筑紫神社[名神大]、竈門神社[名神大]。上座群一座[小]。麻氐良布神社。下座郡三座[並三座]。美奈宜神社三座[並名神大]。夜須郡一座[小]。於保奈牟智神社。
文治元年(1185)には後白河院の院宣により石清水八幡宮の別宮とせられます。中世以降は筑前国一宮として崇敬も篤く、鎌倉中期の蒙古襲来(元寇)の折、神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神として足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣します。武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ隆盛を辿り、江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治元年(1868)には八幡大菩薩の称号が廃せられてからは八幡大神と称え奉り、明治5年(1872)4月に県社、同18年(1885)4月22日に官幣中社、大正3年(1914)1月14日に官幣大社に昇格せられました。近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉せせり祭や放生会大祭など福岡・博多の四季を彩る杜として広く親しまれています。
【境内社など】
「社殿(本殿・拝殿)」
延喜21年(921)大宰少弐藤原真材朝臣が神のお告げにより神殿を造営。長徳元年(995)大宰大弐藤原有国が回廊を造営したと伝えられています。しかしその後、元寇の戦火、兵乱などにより幾度かの興廃がありました。現存したする本殿、拝殿は天文15年(1546)大宰大弐大内義隆が勅命を奉じて建立したものです。本殿は総建坪46坪に及ぶ優秀な建物で、九間社流造、漆塗、屋根は檜皮葺、左右には車寄せがあります。拝殿は切妻造の間、檜皮葺、二重虹梁、蟇股を有し、梁組が2重になっている素木のままの端正な建物です。本殿・拝殿とともにいずれも国の重要文化財に指定されています。
「楼門」
文禄3年(1594)筑前領主小早川隆景が建立。三間一戸入母屋造、檜皮葺。建坪はわずか12坪ですが、三手先組といわれる枡組によって支えられた、83坪余りの雄大な屋根を有した豪壮な建物です。「敵国降伏」の扁額を掲げていることから伏敵門とも呼ばれています。扉の太閤桐の紋様彫刻は、江戸時代の名匠左甚五郎の作と伝わっています。
「敵国降伏の扁額」
筥崎宮楼門に掲げられる扁額の敵国降伏の意味は、武力によって相手を降伏させる(覇道)ではなく、徳の力をもって導き、相手が自ずから靡き、降伏する(王道)という我が国のあり方を説いています。敵国降伏の御宸筆は、の本宮に伝存したする第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれています。元の大きさは縦17.5cm・横18.3cm。醍醐天皇の御宸筆に始まり、以後の天皇も納められた記録があり、全部で37葉あります。楼門高く掲げられている扁額の文字は、文永11年(1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山上皇が納められたもので、その御宸筆を文禄年間に筑前領主小早川隆景が楼門を造営した際、謹写拡大したものです。
「一之鳥居」
筥崎宮の鳥居は、御本殿近くより数えて一之鳥居、ニ之鳥居と呼ばれています。一之鳥居は慶長14年(1609)に藩主黒田長政が奉納したものです。鳥居の柱は三段に切れ、下肥りに台石と続いています。笠木島木は1つの石材で造られ、先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じの異色の鳥居で、その特異の形の故をもって「筥崎鳥居」と呼ばれています。 国重要文化財。
「御神木・筥松」
楼門前の朱の玉垣で囲まれた松は「筥松・標の松」と呼ばれる御神木です。応神天皇が筑紫国宇美の里(粕屋郡宇美町)にてお生まれになった時の御枹衣(胎盤・へその緒)を、筥に納めて浪の音も静かな白砂青松の浄地な岬に埋め奉ったと伝えられ、標しに植えられた松は「筥松」と名付けられました。この地は、もともと葦津ヶ浦と呼ばれていましたが、以後、筥松のある岬(崎)ということで「筥崎」の名が起こったと伝わっています。「筥」の文字は天皇様に由来し畏れ多いとして、人々の営みの場には「箱」の文字を用いられています。
「亀山上皇尊像奉安殿」
福岡市東公園に立つ銅造亀山上皇立像の原型となった木彫像を奉安しています。この銅像の原型となる木彫像を製作したのが福岡県出身の彫刻家・山崎朝雲です。亀山上皇は、13世紀後半の元(モンゴル)軍の来襲の際に、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願され、文永11年(1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり、筥崎宮に「敵国降伏」と記された御宸翰が納められました。その御宸筆を文禄年間に筑前領主小早川隆景が楼門を造営した際、謹写拡大したものが、楼門の扁額として掲げられています。
「西末社」
社殿向かって右手奥に四社を合祀して鎮座。海と空の守り神の龍王社。芸能文化の守り神の若宮殿。八幡様の親神、家族の守り神の仲哀殿。旅行安全の神の厳島殿。火除けの守り神の民潤社。
「東末社」
社殿向かって左手奥に四社を合祀して鎮座。手足の守り神の池島殿。不老長寿、健康の神の竹内社。子育ての神の乙子宮。海上交通の守り神の住吉殿。商売繁昌の神、田畑の守り神の稲荷神社。
【神事・祭事】
放生会(仲秋祭)
博多三大祭りに数えられる筥崎宮の放生会は「万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する」お祭りです。9月12日から18日までの一週間斎行され、昔は陰暦の8月に行われていました。15日が例大祭です。
養老4-5年(720-21)の「隼人の反乱」とその平定に際し、多くの犠牲者を出ました。そのことに対し八幡大神が「合戦の間多く殺生すよろしく放生会を修すべし」との御神託したことから放生会は、始まりました。1000年以上続く最も重要な神事です。また、一年おきに福岡市無形民俗文化財指定の御神幸(御神輿行列)が行われます。
7日間の期間中は、一之鳥居からお潮井浜までの参道一帯に数百軒の露店、見世物、飲食店、遊技場などが並び、九州随一の賑わいを見せます。「梨も柿も放生会」とも称され、博多に秋を告げる行事として愛されています。尚、筥崎宮の放生会は「ほうじょうえ」ではなく「ほうじょうや」と読みます。
玉せせり祭
玉せせり祭は正月3日の神事で俗に「玉せせり」と言います。創始は不明ですが、陰陽2個の玉を温湯の中で洗い、3合3勺の種油を注いで清め、2個の内、陽の玉を素裸のせり子が競り合う神事で、その玉を戴くと悪事災難から逃れられると伝えられています。
お潮井取り(社日祭)
春秋両度の社日行われる行事で、海岸の真砂をお潮井と称し、これを身に振りかけ祓い清めの具とした。特に社日の潮井が尊重され、遠近からの参拝者で終日賑わいます。
御胞衣祭(海鼠餅搗き行事)
神功皇后は仲哀天皇9年12月14日に宇美の里で応神天皇を御出産なされ、御胞衣を大晦日の夜を徹して筥崎の地に納められたと伝えられています。その由緒から毎年大晦日の夜に行われる神事です。箱崎浜に御胞衣を埋められるのを迎えて、その準備に慌ただしく正月の餅をつく暇もなかったため餅の代わりに「海鼠」を献じたとの故事は伝えています。箱崎の漁師等の奉仕にて行われ、神饌所に於て海鼠型の餅を搗きます。元旦には三元祭が斎行され、海鼠型の餅が献ぜられます。