加部島に鎮座する田島神社は、田島三神(田心姫尊・市杵島姫尊・湍津姫尊)を主祭神とし、中央の第一座に田心姫尊、向かって右手に第二座の市杵島姫尊、左手に第三座の湍津姫尊。相殿に大山祇神と稚武王を祀っています。肥前国の式内四社のうち唯一の大社です。
創始は遠い神代、天照大御神と素盞嗚尊と十握剣の誓約で田心姫尊・市杵島姫尊・湍津姫尊が御顕現されます。当地は、その三柱の姫神の鎮座する島であるため、島の名を姫島・姫神嶋と称したとされています。
伊弉諾尊から天下を治めるよう命じられていた素戔鳴尊は、母神の伊弉冉尊に会いたいと泣き続け、痺れを切らした伊弉諾尊から追い出されます。素戔鳴尊は、母神のいる根国に行く前に、高天原を治める姉神の天照大御神を訪ねてから、根国に赴くことにします。しかし、天照大御神は、粗暴で雄健な素戔鳴尊が高天原に向かって来ているのを知り、高天原を奪うために来るのに違いないと考え、戦う準備をします。そして厳しく素戔鳴尊に本心を問いただします。
素戔鳴尊は邪心は無いと答えますが、天照大御神から赤き心を明かすよう求められ、「お互いに御子神を生んで邪心の無いことを証明しましょう」と申し出ます。続けて「もし自分が生んだ御子神が男神ならば、私の御子神として天原を治めるようにしてください」と言います。それを聞いた天照大御神が、まず素戔鳴尊の十握剣を噛みしめて吹き付けると、田心姫尊、湍津姫尊、市杵島姫尊の三女神が生まれました。
『日本書記』卷第一 第六段本文
素戔鳴尊對曰、吾元無黑心。但父母已有嚴勅、將永就乎根國。如不與姉相見、吾何能敢去。是以、跋渉雲霧、遠自來參。不意、阿姉翻起嚴顏。于時、天照大御神復問曰、若然者、將何以明爾之赤心也。對曰、請與姉共誓。夫誓約之中、必當生子。如吾所生、是女者、則可以爲有濁心。若是男者、則可以爲有淸心。於是、天照大御神、乃索取素戔鳴尊十握劒、打折爲三段、濯於天眞名井、噛然咀嚼、而吹棄氣噴之狹霧所生神、號曰田心姫。次湍津姫。次市杵嶋姫。凡三女矣。
素戔鳴尊対へて曰はく、「吾は元黒き心無し。但し父母已に厳しき勅有りて、永に根国に就りなむとす。如し姉と相見えずは、吾何ぞ能く敢へて去らむ。是を以て、雲霧を跋渉み、遠くより来参つ。意はず、阿姉翻りて起厳顏りたまふといふことを」とのたまふ。時に、天照大御神、復問ひて曰はく、「若し然らば、将に何を以てか爾が赤き心を明さむ。対へて曰はく、「請ふ、姉と共に誓はむ。夫れ誓約の中に、必ず当に子を生むべし。如し吾が所生めらむ。是女ならば、濁き心有りと以為せ。若し是れ男ならば、清き心有りと以為せ」とのたまふ。是に、天照大御神、乃ち素戔鳴尊の十握剣を索ひ取りて、打ち折りて三段に為して、天真名井に濯ぎて、噛然に咀嚼みて、吹き棄つる気噴の狭霧に生まるる神を、号けて田心姫と曰す。次に湍津姫。次に市杵島姫。凡て三の女ます。
主祭神の三柱の姫神は、夷狄鎮守・航海・海上の守護神であることから、神功皇后の三韓征伐の際には、特に奉幣御祈願があったと伝えられています。その御凱旋の後、神功皇后は、殊勲を立てた稚武王(日本武尊の御子・仲哀天皇の弟)を島に留め、懇ろに奉斎するに至ったとされていることから、天平3年(731)相殿に稚武王を配祀します。尚に、島の北部にある前方後円墳の瓢塚古墳は稚武王の御墓と伝えられています。尚、殊勲を立てたのにも関わらず、稚武王がなぜ島に留められ、都に帰ることができなかったのかについては、歴史的にも様々な説がありますが仔細は分かっていません。
宗像大社と御祭神が同じであること、宗像大社の辺津宮の鎮座地が宗像市田島であることから、御祭神を遷し祀ったとも考えられ、対馬との地理的な意味合いからもその関係性が指摘されています。また、玄界灘から見ると、日本六所弁財天の一社とされる脊振神社・上宮(脊振神社)を中心に左に宗像大社・辺津宮と田島神社で三角形を描くこととなっています。尚に、稚武王の弟である十城別王を祀る志々岐神社(長崎県平戸市)が下松浦明神とされるのに対し、当社を上松浦明神と称することもあります。
- 東ルートの宗像大社(表津宮→中津宮→沖津宮→対馬)
- 西ルートの田島神社(田島神社→壱岐→対馬)
当地は古来、大陸との交流の要衝の地でもありました。霊亀2年(716)遣唐使に付随し、留学生となっていた吉備真備が天平7年(735)3月に帰朝します。その時、空一面かき曇り真の闇となると、朝日の如く遥かに光が顕われて航路を示します。そして天冠を戴いた女神が天の磐船に乗る姿が真昼のように光り輝きました。吉備真備は、これは田島宮であると九拝して神霊を尊崇し、無事に帰朝しました。その由縁を奏聞し、天平10年(738)大伴古麻呂を勅使として「田島大明神」の神号を贈られました。これより後は姫神島を田島と名付けられますが、後世は復び姫神島、神島と称されるようになります。
天平勝宝8年(756)宝殿に一匹の蜘蛛が出て、「国家安全」の四字を現す奇瑞があります。時を同じくして駿河国益頭郡の
人金刺舎麻自が
産まれた蚕が「五月八日開下帝釈標知天皇命百年息」と字をなす奇瑞があったと献ぜられます。共に上聞に達して資を賜わり、年号が天平宝字と改められます。
承和元年(834)遣唐副使に任ぜられた小野篁は、承和3年(836)、承和4年(837)と続けて渡唐に失敗します。そして三度目の航海となった承和5年(838)。船中の安全のため、奉幣を捧げて祈願を籠めると、夢の中に田島大明神が顕われます。そして船中は安全に渡唐することはできるものの、唐に着いてからその賢才を憎む者が大難を及ぼし、その難から遁れることはできない。今一年を経て入唐すべしと託宣します。元より覚束なく感じていた小野篁は、遣唐大使・藤原常嗣の第一船が損傷し、小野篁の乗る第二船に乗船してきたことへの抗議、併せて自身の病気、老母の世話が必要であることを理由に松浦の沖より帰ります。しかし嵯峨上皇の怒りを買うところとなり、隠岐国に流罪されるものの、承和7年(840)赦免により帰京し、参議左大弁従三位まで昇官しました。承和5年(838)の難を逃れることはできなかったものの、入唐後の大難を避けることができたのは、田島大明神の御加護であったと伝えられています。尚に、小野篁が抗議して帰京した承和5年(838)の遣唐使が、歴史上最後の遣唐使です。
『新抄格勅符抄』の大同元年(806)の牒では、肥前国から神戸として16戸が寄進されていたのが記されています。『延喜式神名帳』では名神大社に列せられ、元暦2年(1185)3月には正一位まで累進しました。
『新抄格勅符抄』第十巻抄
神事諸家封戸、大同元年牒。田嶋神十六戸、肥前国。
※「戸」は家の個数ではなく、地区を指していると考えられます。
『日本三代實録』卷二
貞觀元年(859)正月廿七日甲申。京畿七道諸神進階及新叙。惣二百六十七社。肥前國從五位下田嶋神從四位下。
『日本三代實録』卷四
貞觀二年(860)二月八日己丑。進肥前國從四位下田嶋神階加從四位上。
『日本三代実録』卷二十四
貞觀十五年(873)九月十六日戊寅。授肥前國從四位上田嶋神正四位下。
『日本三代實録』卷二十九
貞觀十八年(876)六月八日癸丑。肥前國從四位上田嶋神正四位下。
※上記の貞觀十五年の授位が「從四位上→正四位下」のため重複。この時の授位は「正四位上」か?
『日本三代實録』卷四十六
元慶八年(884)十二月十六日壬寅。授肥前國正四位下田嶋神正四位上。
※上記の貞觀十八年の記載が誤りならば「正四位上→從三位」か?
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
肥前國四座。[大一座・小三座]。松浦郡二座[大一座・小一座]、田嶋座神社[名神大]、志志伎神社。基肄郡[小]、荒穂神社。佐嘉郡一座[小]、與止日女神社。
平安時代中期の武将・源満仲からの崇敬は特に篤く、幾多の祭田を寄進されました。その子の源頼光は、京都・大江山の酒呑童子退治や土蜘蛛退治で知られ、肥前守に貞元2年(977)任命されます。源頼光は、父の命により社殿を造営し、天元3年(980)の銘の石鳥居一基を奉献したと伝えられ、副参道口にある頼光鳥居がその鳥居とされています。後に倒壊したものを波多氏が修造したもので、佐賀県最古、肥前鳥居の元とされています。当初掛けられていた扁額は、三跡の一人である藤原佐理の筆によるもので、現在は神庫に収められています。また、源満仲は当国への下向に際し、頼光四天王の筆頭として知られる渡辺綱を伴い、渡辺綱が当地で儲けた子が松浦氏の祖となったとされています。
中世以降は武門の崇敬を受け、天正8年(1580)波多信時が祭田12町を寄進し社殿を造営。この時の祭田は鎮西町打上と赤木にあり、夏越祭では籾を供進する習わしとなっています。
文禄元年(1593)朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際し、その出兵拠点として当社から南西2kmの勝男山に豊臣秀吉が名護屋城を築きます。滞陣した豊臣秀吉は、当社を度々参拝しますが、島にて鹿狩りを催し、捕獲した鹿を社壇の前に打ち並べます。群衆、臣下共に神明の咎があるとして外に出すよう求めるものの、豊臣秀吉は少しも恐れず寛然としていたところ、忽ち風波が起り、鹿は残らず吹き流され、穢れた土は清められました。すぐに宮司に神慮清しめの神楽を奉納するよう命じ、その後、丁重に祈祷・祈念を執り行い、奉納・寄附等を行ったと伝えられています。
社殿後方の山中に在る願かけ石、太閤石、祈念石とも呼ばれる大石も、豊臣秀吉が滞陣した時に所縁するものです。朝鮮出兵の先陣として小西行長・加藤清正の軍勢が出船の折から、敵国降伏の祈祷がなされ、当社の神職が17日間の断食潔斎、沐浴して「朝鮮、速かに降伏せばこの大石二つに割るべし」と敵国降伏の祈祷し、満願に及ぶも未だ割れないことを聞いた豊臣秀吉が、祈祷の後に石突でひと突きすると、鳴動して割れたと伝えられています。また、神職が祈祷し、百騎の精兵が朝鮮の方に向かい矢を放ち、鬨の声を上げると大石が堅に割れたとの伝承も残されています。太閤石をはじめ、本殿裏の山林内には磐境として立った3個の巨石と2個の平石があり、原初の祭祀の場であったとも考えられています。
豊臣秀吉は名護屋城在陣の折、姫島の百石の社領を朱印状でもって寄進。姫島は名護屋城の築城に際し、島全体に塀を立てるが如しとされ、壁島と名付けられ、今では加部島と字が当てられています。
江戸時代に入ってからは唐津城主の祈願所となり、明治4年(1871)5月14日に国幣中社に列格。毎年勅使を派遣されていましたが、戦後は宗教法人となり別表神社に編入されました。海陸交通安全、航海安全、船舶守護、大漁満船、海運漁業者の崇敬が極めて篤く、五穀豊穣、商売繁盛の祈願所として崇敬されています。社宝の備中国住人吉次銘の太刀は、国重要文化財に指定されています。
【佐與姫神社(佐用姫神社)】
『萬葉集』に詠まれ、『肥前国風土記』にも記された松浦佐與姫尊を祀る末社です。宣化天皇2年(537)10月、佐與姫の夫である大伴狭手彦は勅命により、任那を援護することになり、出発に際し、松浦郡篠原村(現・唐津市厳木町)に滞在しました。
『日本書記』巻第十八 宣化天皇二年(537)
二年冬十月壬辰朔。天皇以新羅寇於任那。詔大伴金村大連。遣其子磐與狹手彦、以助任那。是時。磐畄筑紫、執其國政、以備三韓。狹手彦徃鎭任那。加救百濟。
二年の冬十月の壬辰の朔に、天皇、新羅の任那に寇ふを以て大伴金村大連に詔して、其の子磐と与狭手彦とを遣して、任那を助けしむ。是の時に、磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加百済を救ふ。
その時、眉目麗しい篠原村の長者の娘である佐與姫と大伴狭手彦は相思の仲となり結婚します。
いよいよ新羅と任那の戦へ出航の時、佐與姫は、遠い別れとなるかもしれないと名残惜しんで御共することを願いますが、
大伴狭手彦は勅命を奉じた使命は重いとしてこれを許さず、
暫しの形見として鏡一面、小太刀一振、軸物一巻を渡して船出します。その後を慕う佐與姫は、形見を持ちつつ松浦川を渡ると、鏡の中央に結んだ紐が切れて鏡を川に沈めてしまいます。別れを惜しむ佐與姫は、鏡山(領布振山)に登り、遥か沖に望む船影に向かって領巾を振り続けます。佐與姫が漸く山を登ると、一本筋の下山の道が現われ、少しでも船の姿の近いところへと、急いで姫神島に渡ります。その途上、大伴狭手彦の名を呼び続けていたことから、呼子は呼名の浦とも称されています。姫神島に渡った佐與姫は、田島岳(天童岳)に登り、遥かに臨む帆影を追うものの、雲間に没して見えなくなりなした。佐與姫の悲嘆はますます募り、田島神社の神前に詣でて夫の安泰を祈念しながらも泣き続け、息絶えて神石(望夫石)となったとされています。その後、佐與姫の想いがかない、任那を救った大伴狭手彦は無事帰国することができたと伝えられています。
神亀4年(724)には和歌山市の玉津島神社の神官に「肥前国の篠原長者の娘、佐與姫といふ貞女あり、夫なるものの入唐を悲しみ死す、その姿忽ち霊石となれり、万代の亀鏡ともなるべし、今詔を申し下し是を神祇に祭らしむべし」と託宣があり、報告を受けた中納言の藤原武智麻呂が命じて、田島岳(天童岳)にあったものを遷座し田島神社の末社となりました。
文禄2年(1994)には名護屋城に在陣した豊臣秀吉が当社を篤く崇敬します。当時は、祭祀は怠ることはなかったものの、望夫石に注連を張るのみでした。左大臣にも任ぜられた藤原武智麻呂が記した告文もあったとされる類なき旧跡であるとして、望夫石に小社が建立され、社領100石の寄附を朱印状でもって寄進しました。現在、望夫石は佐與姫神社の本殿床下に祀られています。この社領は明治維新に至るまで寄進され続け、豊臣秀吉の朱印状は社宝として現存しています。
江戸期には、唐津城主の姫君などがお忍びで再三参拝され、良縁の御守りを持ち帰られたとされ、望夫石に祈願すると添い遂げられる相手と結ばれるといわれ、縁結びの御神徳、夫婦円満の神社として篤く信仰を集めています。
『萬葉集』 第五卷
八六八
松浦縣佐用姫の子が領巾振し山の名のみや聞きつつ居らむ
八七一
遠つ人松浦佐用姫夫戀に領巾振りしより負へる山の名
八七二
山の名と言ひ繼げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振りけむ
八七三
萬代に語り繼げとしこの嶽に領巾振りけらし松浦佐用姫
八七四
海原の沖行く船を歸れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫
八七五
行く船を振り留みかね如何ばかり戀しくありけむ松浦佐用姫
八八三
風說に聞き目には未だ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山
【境内社など】
「御崎神社」
御崎神社は、級長津彦命と級長津姫命、猿田彦命を御祭神とし、船霊の守護神として祀る末社です。文禄時代の豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際し、軍船の小鷹丸は、船首に真榊を立て、三種の神器を奉り、大陸と7度の往復から無事帰国を果たします。その後、神恩感謝のため船と共に本社に奉納され、姫島の神々と船霊の御守護と共に、海上安全の守護神としてお祀りすることになりました。小鷹丸は、その速きこと隼の如く、7度の航海にも堪えたことから波切丸ともいいます。小鷹丸は、永く社頭の汀に繋留されていましたが、腐朽のため解体された後、船材の一部は現在は社庫に保管されています。
「力石」
豊臣秀吉が名護屋城に在陣の折、その配下の武将等が田島神社参拝に際し、海岸より一抱えもある円石を社前に運び上げ、これを両手で頭上高く何回捧げ得るかに依って、互いに力量を競い合ったものとされています。