九州の神社

佐賀県・黒髮神社(武雄市)

由緒

御祭神ごさいじん 闇淤加美神くらおかみのかみ黒髮神社くろかみじんじゃ原初の神]、伊奘冉尊いざなみのみこと速玉男命はやたまのおのみこと事解男命ことさかのおのみこと
相殿神あいどのがみ 菅原道真公命すがわらのみちざねこうのみこと今山鎮守神いまやまちんじゅのかみ

由緒

黒髮神社くろかみじんじゃは、崇神天皇すじんてんのう16年(前82)に朝廷の勅願社ちょくがんしゃとして黒髮山くろかみやま(標高:518m)をぼくして鎮座ちんざされたと伝えられる、肥前国ひぜんのくに最古の由緒を持つおやしろです。

“クロカミ”の名称は、龍神りゅうじんである闇淤加美神くらおかみのかみ、または岩上に神霊しんれいが鎮まる神座かむくらに由来する古語と考えられています。黒髮山くろかみやまの頂上にある天童岩てんどういわには、原初の信仰形態である磐座信仰いわくらしんこうの姿が伝えられ、太陽神・穀霊神に因む天童信仰てんどうしんこうも 見られて、歴史の古さが窺われます。黒髮神社くろかみじんじゃ原初の神として闇淤加美神くらおかみのかみが称えられますが、鎌倉期以降、天台修験てんだいしゅげんと結びついた熊野信仰くまのしんこうが伝播し、神仏習合しんぶつしゅうごうの様相が強まります。熊野系くまのけい祭神さいじんとして祀られる伊奘冉尊いざなみのみこと速玉男命はやたまのおのみこと事解男命ことさかのおのみことは、本地仏ほんじぶつ薬師如来やくしにょらい阿弥陀如来あみだにょらい千手観音せんじゅかんのんとしています。

中世以降、当社は黒髮大権現くろかみだいごんげん黒髮三社大権現くろかみさんしゃだいごんげんと称号され、やがて末社まっしゃ掛社かけしゃは、杵島郡きしまぐん松浦郡まつうらぐんを中心に50社に及びました。天台系てんだいけい熊野信仰くまのしんこう本山派修験ほんざんはしゅげん)によって、英彦山ひこさんとならぶ山岳修験さんがくしゅげんの活動拠点となりました。戦国期には、諸武将が誓願せいがん起請文きしょうもんとして用いた「牛王宝印ごおうほういん守札まもりふだを発行し、上宮じょうぐう中宮ちゅうぐう下宮げくうの三所からなる規模と共に社格の高さを表しました。戦国から江戸期には、真言宗しんごんしゅうの勢力が強まり西光密寺さいこうみつじ大智院だいちいんとの習合関係が進みます。祭礼日は「士民群集シテ市ヲナス」賑いであったと古記にあります[01]

又、『佐賀県神社誌要さがけんじんじゃしよう』(大正15年・1925)では、その由緒は伊奘諾命いざなぎのみこと伊奘冉尊いざなみのみことの神話に遡るとしています。

伊奘冉尊いざなみのみこと伊奘諾命いざなぎのみこととの間に、火神である軻遇突智命かぐつちのみことが産まれ、伊奘冉尊いざなみのみことは出産時に陰部に火傷を負って亡くなります。伊奘諾命いざなぎのみことは、亡くなった伊奘冉尊いざなみのみことを追って黄泉国よみのくにを訪れますが、伊奘冉尊いざなみのみことからその姿を見てはならないと言われます。しかし、伊奘諾命いざなぎのみことは約束を違えて、醜く変わり果てた伊奘冉尊いざなみのみことの姿を見て、恐怖にかられて逃げ出します。辱められたと激高した伊奘冉尊いざなみのみことは、黄泉醜女よもつしこめ予母都志許売よもつしこめ)に伊奘諾命いざなぎのみことを追わせます。逃げる伊奘諾命いざなぎのみこと黒御鬘くろかづら蔓草つるくさで出来た髪飾り)を黄泉醜女よもつしこめに投げつけると、黒御鬘くろかづらから山葡萄の実が生えてきました。黄泉醜女よもつしこめがその山葡萄に気を取られ、拾って食べている最中に先に伊奘諾尊いざなぎのみことは逃げたのでした。この時に投げつけた黒御鬘くろかづら黒髮くろかみであり、その黒髮くろかみが時を経て黒髮山くろかみやまになったと伝えています。

『古事記』上巻

於是、伊邪那岐命見畏、而逃還之時、其妹伊邪那美命、言令見辱吾。卽遣豫母都志許賣令追。爾伊邪那岐命、取黑御𦆅投棄、乃生蒲子、是摭食之間逃行。


是に伊邪那岐命、見畏みて逃げ還る時、其の妹伊邪那美命、「吾に辱見せつ」言ひて、即ち予母都志許売を遣して追はしめき。爾に伊邪那岐命、黒御鬘を取りて投げ棄つれば、乃ち蒲子生りき。是を摭ひ食む間に、逃げ行く。

『日本書紀』第五段一書第六

時伊奘諾尊、大驚之曰、吾不意到於不須也凶目汚穢之国矣、乃急走廻歸。于時、伊奘冉尊恨曰、何不用要言、令吾恥辱。乃遣泉津醜女八人、一云、泉津日狹女、追留之。故伊奘諾尊、拔劒背揮以逃矣。因投黑鬘、此卽化成蒲陶。醜女見而採噉之。


時に伊奘諾尊、大いに驚きて曰はく、「吾れ意はず、不須也凶目き汚穢き国に到にけり」とのたまひて、乃ち急に走げ廻帰りたまふ。時に、伊奘冉尊、恨みて曰はく「何ぞ要りし言を用ゐたまはずして、吾に恥辱みせます」とのたまひて、乃ち泉津醜女八人、一に云はく、泉津日狭女といふを遣して追ひて留めまつる。故れ、伊奘諾尊、剣を抜きて背に揮きつつ逃ぐ。因りて、黒鬘を投げたまふ。此即ち蒲陶に化成る。醜女、見て採りて噉む。
かづら蔓草つるくさの総称で蔓草つるくさを頭に巻いて装飾したものとされています。

併せて『佐賀県神社誌要さがけんじんじゃしよう』では、別の伝承も記しています。

ひとつは、黒髮山くろかみやまでは、伊奘冉命いざなみのみことが、山上に遊ぶ姿がたびたび見られると伝えています。伊奘冉命いざなみのみことは、2羽のからすが先導して牝牛に引かれた天磐船あまのいわふねに乗るとされ、黒髮山くろかみやまには天磐船あまのいわふねを繋いだ跡が残され、境内の2羽の烏像からすぞうはその名残とされています。そして、頂上の天童岩てんどういわは、老翁ろうおうの夢に二人の童子が現れ、伊奘冉命いざなみのみことが山上に飛遊して羽衣はごろもが高く舞う様を「山上飛遊の神は伊奘冉命いざなみのみことなり。これを尊祀するもの、必ず幸あらむ」とり、自らを速玉男命はやたまのおのみこと事解男命ことさかのおのみことと名乗ったことに由来し、名付けられたと記しています。その奇瑞きずいを受けて石祠いしほこらを山腹に立てて、祀ったのが崇神天皇すじんてんのう16年(前82)で、伊奘冉命いざなみのみこと天童岩てんどういわ霊窟れいくつの下に奉斎ほうさいし、速玉男命はやたまのおのみこと事解男命ことさかのおのみこと合祀ごうしして創祀そうしされたとしています。そして、黒髮山くろかみやま頂上にある天童岩てんどういわ下にある霊窟れいくつ上宮じょうぐうがその跡としています。霊亀れいき元年(715)下宮げくうが建立され、大同だいどう年中(806-810)みことのりが下されて田園若干が寄進されます。室町時代までは七合目から上は女人禁制の山とされます。中腹の乳待坊ちまちぼうには巨岩・大岩がそそり立ち、その中の雌岩・雄岩の間から万物が生まれたとの伝承も記しています[02]

国重要文化財の指定を受けている平安末期の史料『武雄神社文書たけおじんじゃもんじょ』では、当社は「朝廷ノちょうていの御祈祷所ごきとうしょ」、及び「杵島郡きしまぐん第一ノ霊社だいいちのれいしゃ」と見えます[03]

豊臣秀吉とよとみひでよしの治下となると田園悉く没収されます。龍造寺隆信りゅうぞうじたかのぶの子で後藤貴明娘ごとうたかあきらのむすめに婿入りした後藤家信ごとういえのぶ後藤助明ごとうすけあきらの17代末裔まつえい)は、これを憂いて田園山林を寄進して祭祀を続けました。又、流鏑馬場やぶさめばの左右に桜樹数百本株を植えました。以降、花咲く陽春となると多くの人たちが花見酒を楽しむ場となり、桜馬場さくらばばと称されました[04]

『日本書紀』第五段一書第五

故葬於紀伊国熊野之有馬村焉。土俗祭此神之魂者、花時亦以花祭。又用鼓吹幡旗、歌舞而祭矣。


故れ、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、此の神の魂を祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。

江戸期においても黒髮山くろかみやま修験道しゅげんどうでも格式の高い真言系当山派しんごんけいとうざんはの道場とされ、唐津藩内からつはんないでも多くの末寺まつじを持ち、英彦山ひこさんに対抗するほどの勢力を保っていました。佐賀藩主さがはんしゅ鍋島勝茂なべしまかつしげも深く神霊しんれいを尊信し、当社に詣でて上宮じょうぐうへの参道を整備しました。後藤家信ごとういえのぶの子の鍋島茂綱なべしましげつな上宮じょうぐう下宮げくう神殿しんでん拝殿はいでんを修築。爾後、代々の崇敬衰えることがありませんでした。尚、現在、参道に立っている鳥居の柱に刻された延宝えんぽう3年(1675)権僧正覚遍ごんのそうじょうかくへんの銘によると「黒髮山くろかみやま上下宮じょうげくう元是もとこれ熊野神也くまののかみなり」とあります。さらに、江戸時代の香橘神社こうきつじんじゃ(現・伊萬里神社いまりじんじゃ)も黒髮山くろかみやまの勢力下にあったことが香橘神社こうきつじんじゃ棟札むねふだによって推察されています[05]

明治維新後、社格制定に当り郷社ごうしゃに列せられます。相殿神あいどのがみとして祀られる菅原道真すがわらのみちざね今山鎮守神いまやまちんじゅのかみ無格社むかくしゃ合祀ごうしにより下宮げくう祭神さいじんとして合祀ごうしされます。神饌しんせん幣帛料へいはくりょう供進神社きょうしんじんじゃに大正12年(1922)10月2日指定されました[04]

祖神様おやがみさまとしての信仰篤く、五穀豊穣・雨乞い・病気平癒・商売繁昌・交通安全・学業成就・諸災消除・諸願成就の神様として崇敬されています。

聖徳太子社しょうとくたいししゃ

社殿しゃでん向かって右手に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして聖徳太子しょうとくたいしを祀っています。 中世以降、職人の守護神として崇められ、大工・左官の太子講たいしこうが結ばれました。本殿ほんでんに「寛政九年(1797)二月 武雄山内大工并諸職人中」と銘する石像とほこらが祀られています。

石祠いしほこら・石碑」

本殿ほんでんの向かって右手に並んで祀られています。本殿ほんでん寄りから稲荷大明神いなりだいみょうじん庚申塔こうしんとう金毘羅大権現こんぴらだいごんげん八天宮はちてんぐう辨財天べんざいてん天照太神宮てんしょうだいじんぐうです。


黒髮山くろかみやま大蛇退治おろちたいじ万寿姫まんじゅひめ

仁平にんぺい2年(1152)9月9日、塚崎城つかざきじょう及び住吉城すみよしじょうの城主にして肥前後藤氏ひぜんごとうし第3代の後藤助明ごとうすけあきら後藤高宗ごとうたかむね)が、重臣を真手野まてのやかたに招いて重陽ちょうよう節句せっくを祝っていたとき、有田郷ありたごうの百姓が3人連れでやってきて訴え出ました。

  • 有田郷ありたごうの百姓が訪れたのは久寿きゅうじゅ元年(1154)、永万えいまん元年(1165)など複数の説があります。尚、後に記す源為朝みなもとのためとも鎮西総追捕使ちんぜいそうついぶし鎮西八郎ちんぜいはちろう)が九州に追放されていたのは、仁平にんぺい元年(1151)~久寿きゅうじゅ2年(1155)頃とされています。

有田ありたの里にある白川池しらかわいけに、とても恐ろしい大蛇おろちが棲み着き、土地の者を悩ましています。七俣ななまたつのを振りながら、黒雲に乗って黒髮山くろかみやまを飛行し、天童岩てんどういわを7巻き半にもき立てて怪しき毒炎を吐きます。命を失うものも出てきており、皆表戸を閉じて外出を見合わせ、色づく秋の稲さえ刈り取ることができない有様です。何卒、一刻も早く大蛇おろちを退治してもらいたい」と哀願したのでした。

後藤助明ごとうすけあきらは不審に思うも、翌日2000余人を従えて真手野まてのを出発します。各所に軍勢を配して窺うも、遂に大蛇おろちの影も見えないのでやかたに引き上げました。その後も大蛇おろちは村に出没して、里人を悩まし、田畑を荒すとの訴えは後を絶たず、その都度軍勢を繰り出すも空しく引き上げるばかりでした。後藤助明ごとうすけあきらが朝廷に上奏じょうそうすると、九州に追放され、その身を川古かわご御所ごしょに養っていた源為朝みなもとのためとも鎮西総追捕使ちんぜいそうついぶし鎮西八郎ちんぜいはちろう)と協力して退治するよう勅命ちょくめいが下りました。

後藤助明ごとうすけあきら源為朝みなもとのためともを先頭に、家来6000余人を引き連れて白川池しらかわいけに押し寄せ、白川池しらかわいけや周囲の峰々を取り囲みます。大蛇おろちの出現を待つものの、奥深く潜んだ大蛇おろちは姿を現しません。四海しかいにその名を鳴らした強弓ごうきゅう源為朝みなもとのためともも、ただ腕をこまねいて、なすすべを知らない有様でした。

源為朝みなもとのためともや家来一同大勢で策を練っていると、一人の里人が現れ「出没自在、変化へんげ通力つうりきをもつ大蛇おろちを討ち取るのには、尋常一様の人業ではできますまい。思いまするに、池の水面に高い水棚みずだなを構え、つややかに着飾った美女をその上に座らせておけば、きっと大蛇おろちは現れるでしょう。その時、大勢の者が一斉に雨霰あめあられと射立てれば、さしもの大蛇おろちも難なく討ち取ることができましょう」と献策けんさくして、いずこともなく姿を消し、改めて探しても里人は見つかりませんでした。

後藤助明ごとうすけあきらは「昔、久米仙人くめのせんにんは虚空を飛び歩く通力つうりきを持つも、小川で洗濯する女の白いすねを見てたちまちに通力つうりきを失った。ましてや畜生の大蛇おろち水棚みずだなの上の美女に目がくらみ、姿を現すに違いない」と言って、この献策けんさくこそ黒髮くろかみの神の霊示れいじであろうと喜びます。早速、一同は領内の隅々まで触れを回し、要所要所には恩賞は望み通りにと高札こうさつを立てて、おとり生贄いけにえとなる美女を求めたのでした。

誰も生贄いけにえに名乗り出ない中、西川登にしかわのぼり高瀬こうぜ万寿姫まんじゅひめという16歳の娘がいました。父の松尾弾正吉道まつおだんじょうよしみちは、後藤助明ごとうすけあきらの父である後藤資茂 ごとうすけしげの重臣で、武勇に優れた武士でした。しかし、奸臣 かんしん讒言 ざんげん配謫 はいたくされ、喰うにも困り果てて病魔に襲われ、3年前に世を去っていました。万寿姫まんじゅひめと弟の小太郎 こたろう、そして母親が残され、母は悲嘆のあげく盲目になります。小太郎 こたろうはまだまだ幼いため、万寿姫まんじゅひめは1人で家の暮らしを支え、家の再興を念願していたのでした。その中で目にしたのが、生贄いけにえを募る高札こうさつでした。

この高札こうさつを見て決心した万寿姫まんじゅひめは、弟の小太郎 こたろうを説き伏せ、母には秘密にしておくようにと告げ、お家再興のために自ら生贄いけにえとなることを申し出ます。

後藤助明ごとうすけあきらは、万寿姫まんじゅひめの孝心をでると共に、全軍に準備を命じます。やがて白川池しらかわいけの渚には高さ10m程の水棚みずだなが作られ、朱丹しゅたんの色も美しく彩色され、棚の上にはゴザが敷かれました。そして万寿姫まんじゅひめ十二単じゅうにひとえを着飾って黒髮を後に波打たせ、水晶の数珠を爪繰りながら、法華経ほけきょう普門品ふもんぼん読誦どくじゅし、目を閉じて座りました。

この時、黒髮山くろかみやまいただきに金色の旗の様なものが棚引いたので、神仏の加護と人々はその方を伏し拝みます。そして間もなく、黒髮山くろかみやまの一角に黒雲が浮かんでなまぐさい風が吹き、大蛇おろちが姿を現しました。後藤助明ごとうすけあきら三人張さんにんばりの弓に十三束じゅうさんつかの矢をつがえ放つと、見事に大蛇おろち眉間みけんを捉えて血煙が舞います。大蛇おろちは火の如く怒り、万寿姫まんじゅひめをひと呑みにせんと立ち上がり、水棚みずだなに迫りました。その刹那、源為朝みなもとのためとも八人張はちにんばりの重藤弓しげどうのゆみ十五束八寸口じゅうごつかはっすんぐちの矢を満月のように引き絞って放つと、矢は唸りを生じて大蛇おろちの右眼を貫きました。怯んだところを将兵が一斉に雨霰あめあられと射たてると、遂に大蛇おろちは痛手に堪え兼ねて池中深くに沈みます。しばらくして池の水が引き出すと、大蛇おろちは再び水面に浮かび出て暴れまわります。しかし、雨霰あめあられと射立てると竜門りゅうもんまで逃げ、とうとう力尽きて崖から谷間に転落しました。

そこに梅野村うめのむら行慈坊ぎょうじぼう(後の海正坊かいしょうぼう)という後藤助明ごとうすけあきらの恩顧を蒙っていた座頭ざとう竜門りゅうもんの岩屋の下を通ります。 盲目の身では大蛇退治おろちたいじに馳せ参ずることもできず、物音だけでも聞いて後世の語り草にしようとするも、道に迷ったところでした。岩頭から転がり落ちて来た大蛇おろち行慈坊ぎょうじぼうは驚くも、9寸5分の懐刀ふところがたなを引き抜き、ここが急所の喉であらうと突き立てました。これがとどめとなって大蛇おろちは息絶えました。

大蛇だいじゃの毒牙から免れた万寿姫まんじゅひめと、姉の安否を案じて駆けつけていた小太郎こたろうは、後藤助明ごとうすけあきらの前に功労者として呼び出されます。万寿姫まんじゅひめは少なからぬ褒美と莫大な黄金を下賜かしされ、小太郎こたろうは亡き父の旧所領に加えて高瀬こうぜの地を加増して召し抱えられて松尾弾正之助吉春まつおだんじょうのすけよしはるの名を賜りました。現在も残されている高瀬こうぜ万寿観音まんじゅかんのん万寿姫まんじゅひめを祀ったところであり、松尾神社まつおじんじゃには小太郎こたろう合祀ごうししています。大正年間までは毎年の祭日に、氏子うじこより松尾家まつおけに神酒・供物などが贈られたと伝えられています[06]


黒髮山くろかみやま黒髮神社くろかみじんじゃ上宮じょうぐう

往古より黒髮山くろかみやま全体を霊山として崇め、頂上の天童岩てんどういわ下の霊窟れいくつ上宮じょうぐうとして祀っています。御祭神ごさいじん伊奘冉尊いざなみのみことで、御子神みこがみ速玉男命はやたまのおのみこと事解男命ことさかのおのみこと配祀はいししています。隣地に摂社せっしゃ白山神社はくさんじんじゃが祀られています。白山宮はくさんぐう御祭神ごさいじんは、夫神の伊奘諾尊いざなぎのみこと貞観じょうがん14年(872)の建立です。中腹の乳待坊ちまちぼうには巨岩・大岩がそそり立ち、その中の雌岩・雄岩の間から万物が生まれたとの伝承もあります。

黒髮山くろかみやまは、霊山として畏れられ、木々の伐採、植物の採掘が禁忌とされたことから、照葉樹林の原生林が護られ、国指定天然記念物「カネコシダ自生地」や高山植物の自生が残されています。尚、黒髮山くろかみやまは「日本の自然100選」、「新日本百名山」、及び「日本百低山」に佐賀県下で唯一選ばれています。


神事しんじ祭事さいじ

流鏑馬やぶさめ

秋のお供日くんちに奉納される流鏑馬やぶさめは、黒髮山くろかみやま大蛇退治おろちたいじに由来する神事とされています。源為朝みなもとのためとも大蛇退治おろちたいじの折り、祈願成就として黒髮神社くろかみじんじゃ下宮げくうの地にて旧暦9月29日に奉納したのが始まりで、現在まで続く伝統神事となっています。後藤助明ごとうすけあきら後藤高宗ごとうたかむね)は大蛇退治おろちたいじの報告のために上洛します。みかど大蛇退治おろちたいじには、武雄五社大明神たけおごしゃだいみょうじん黒髮三所大権現くろかみさんしょだいごんげんの御加護によるとし、勅願成就ちょくがんじょうじゅの御礼として、後藤高宗ごとうたかむねの帰国に際し、左大臣さだいじん元氏卿もとうじきょう鎌倉権守景藤かまくらごんのもりかげふじ(又は鎌倉権守景孝かまくらごんのもりかげたか)を勅使ちょくしとして差遣されました。後藤高宗ごとうたかむねは両人に随行して、永万えいまん元年9月17日塚崎に着きます。そして同月23日武雄大明神たけおだいみょうじんに、同29日に黒髪神社くろかみじんじゃ勅願成就ちょくがんじょうじゅの為の流鏑馬やぶさめが行われ、それが今に続く起源とされています。

【参考文献】


【出典】

  1. 『鎮西霊験社 黒髪神社御由緒記』黒髪神社社務所
  2. 『佐賀県神社誌要』佐賀県神職会, P.85-86
  3. 『佐賀県史料集成 第2巻:武雄神社文書』佐賀県立図書館, P.23
  4. 『佐賀県神社誌要』佐賀県神職会, P.87
  5. 『伊万里市史』伊万里市, P.900-901
  6. 『武雄市史 下』国書刊行会, P.267-273

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 一之鳥居
  • 一之鳥居
  • 桜馬場
  • 桜馬場から黒髪山山頂(天童岩)
  • 神橋から二之鳥居
  • 二之鳥居
  • 二之鳥居
  • 二之鳥居
  • 手水舎
  • 二之鳥居
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 聖徳太子社
  • 本殿向かって右手の石祠・石碑
  • 天照太神宮
  • 辨財天
  • 八天宮
  • 金毘羅大権現
  • 庚申塔
  • 稲荷大明神
  • 拝殿前から境内入り口
  • 拝殿前から境内入り口
  • 上宮:一之鳥居
  • 上宮
  • 上宮
  • 上宮
  • 上宮
  • 上宮
  • 上宮
  • 上宮
  • 上宮前の石仏
  • 白山宮
  • 白山宮

情報

住所〒849-2305
武雄市たけおし山内町宮野やまうちちょうみやの1093-2
創始そうし崇神天皇すじんてんのう16年(前82)
社格しゃかく郷社ごうしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい10月29日(流鏑馬神事やぶさめしんじ
HP 公式HP / Wikipedia

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