九州の神社

唐津神社(唐津市)

御祭神

御祭神ごさいじん 一ノ宮いちのみや住吉三神すみよしさんじん表筒男命うわつつのおのみこと中筒男命なかつつのおのみこと底筒男命そこつつのおのみこと
二ノ宮にのみや神田宗次こうだむねつぐ
相殿神あいどのがみ 水波能女神みずはのめのかみ

由緒

その由緒ゆいしょ神功皇后じんぐうこうごうに見る唐津神社からつじんじゃは、唐津城からつじょう祈願所きがんしょと定められた神社で、唐津からつくんちで広く知られています。

神功皇后じんぐうこうごうは、新羅しらぎ征討せいとうに向かった折、渺茫びょうぼうと広がる海に新羅しらぎへの航路こうろを求めますが、舟師ふねし(水軍)はそのみちが分かりませんでした。神功皇后じんぐうこうごうは、住吉三神すみよしさんじんに『かみわれをして新羅しらぎせいせしめんとほっせば、一條いちじょう舟路ふなじしめせ、われよりもっすすめん』と祈願きがんします。すると、たちまちのうちに海上かいじょうに光が輝やいて航路こうろを示し、皇軍こうぐんみちびきました。三韓征伐さんかんせいばつを成しげた神功皇后じんぐうこうごうは、凱旋がいせんの後、住吉大神すみよしのおおかみ御神徳ごしんとくに感謝して松浦まつうら海浜かいひん宝鏡ほうきょうけて三神さんじんまつったのが創始そうしとされています。

数百年を経て、社殿しゃでんも消滅せんとしていた天平勝宝てんぴょうしょうほう7年(755)地頭じとう神田宗次公こうだむねつぐこうが、神夢しんむを見たことから海浜かいひんおもむくと、漂着ひょうちゃくしてきた宝鏡ほうきょう入りのはこを得ます。これは神功皇后じんぐうこうごうささげた鏡に間違いないと奏聞そうもんしに、叡感えいかんを得て、9月29日のちょくにて「唐津大明神からつだいみょうじん」の神号しんごうたまわったとされています。神田氏こうだしを始め里人の崇敬すうけい益々ますます加わり、文治ぶんじ2年(1186)には神田宗次こうだむねつぐ後裔こうえいを称する神田広こうだひろしが、社殿しゃでん造立ぞうりゅうして神田しんでん寄進きしん家祖かそ神田宗次公こうだむねつぐこう神霊しんれい合祀ごうしして二ノ宮にのみやとしました。

文禄ぶんろく4年(1595)寺沢広高てらざわひろたか唐津藩主からつはんしゅとなり、慶長けいちょう7年(1602)から本格的に唐津城からつじょう築城ちくじょうします。その唐津城からつじょう築城ちくじょうに際して、当社を唐津城からつじょう守護神しゅごしんとして崇敬すうけいし、慶長けいちょう7年(1602)、または慶長けいちょう11年(1606)に、現在地に社殿しゃでんを新築しました。そして領内りょうない守護神しゅごしん唐津藩主からつはんしゅ祈願所きがんしょと定められ、城下の火災鎮護ちんごとして水波能女神みずはのめのかみ相殿あいどのとして勧請かんじょうしました。その後、代々の各藩主はんしゅ大久保おおくぼ松平まつだいら土井どい水野みずの小笠原おがさわら)も、いずれも祈願所きがんしょと定めて領内りょうない総社そうじゃとして崇敬すうけいしました。明治6年(1873)郷者ごうしゃれっして「唐津神社からつじんじゃ」へ改称。昭和17年(1942)県社けんしゃ昇格しょうかくし、境内けいだいを拡張して社殿しゃでんが総改築されました。

御祭神ごさいじん住吉三神すみよしさんじんは、伊邪那岐大神いざなぎのおおかみ禊祓みそぎはらえをしたときに生れた神であることから、厄災清祓やくさいきよはらえ御神徳ごしんとくがあるとされ、海をつかさどる神として海上安全の崇敬すうけいを集めています。水波能女神みずはのめのかみ火伏ひぶせ御神徳ごしんとくがあり、神田宗次公こうだむねつぐこう神霊しんれい唐津からつ産土大神うぶすなのおおかみ総氏神そううじがみとして尊崇そんすうされています。


神事しんじ祭事さいじ

唐津からつくんち

唐津くんち

唐津神社からつじんじゃ秋季しゅうき例大祭れいたいさいは「唐津からつくんち」として広く知られています。乾漆かんしつで製作された巨大な曳山ひきやまが、笛・太鼓・鐘の囃子はやしにあわせた曳子ひきこたちのけ声とともに、唐津市内からつしないの旧城下町じょうかまち巡行じゅんこうします。「供日くにち」と書き「くんち」と読むことから秋のめぐみ、収穫感謝しゅうかくかんしゃの意がめられています。神輿みこし御神幸ごじんこう寛文かんぶん年間(1661-1673)に始まったとされ、その神輿みこしと共に、曳山ひきやまが登場するのは、刀町かたなまちによる一番曳山ひきやま赤獅子あかじし」が文政ぶんせい2年(1819)に奉納ほうのうされてからのことです。以後、各町内がこぞって曳山ひきやまを競う所となり、現在は14台の曳山ひきやまが祭りを盛り上げています。

  • 11月2日「宵曳山よいひきやま
    いわゆる宵宮よいみやで、よいこく、各町の曳山ひきやま提灯ちょうちんともして大手口おおてぐちから出発して巡幸じゅんこうした後、社頭しゃとう勢揃せいぞろいします。
  • 11月3日「神幸祭しんこうさい
    神霊しんれいを乗せた神輿みこし二基にき供奉ぐぶして、神社前から出発。氏子うじこ区内を神幸しんこうし、正午に西にしはま御旅所おたびしょ明神台みょうじんだいに至り、御旅所祭おたびしょさい斎行さいこうします。曳山ひきやま御旅所おたびしょ入るのを曳込ひきこみ、15時から各町内へ出発するのを曳出ひきだしと称し、その勇壮華麗ゆうそうかれいな姿に賑わいます。
  • 11月4日「翌日祭」
    神幸しんこうはなく、曳き子と曳山ひきやまだけの祭日さいじつです。夕刻、曳山ひきやまくらに納める際は、興奮の中にも感傷的な雰囲気がただよいます。

境内社けいだいしゃなど】

白飛稲荷神社

白飛稲荷神社しらとびいなりじんじゃ

社殿しゃでん向かって右手前に鎮座ちんざ。元は呉服町ごふくまち(現・平野町ひらのまち)に鎮座ちんざ。明治37年(1904)に境内けいだい奉遷ほうせんし、今では崇敬すうけいの深い呉服町ごふくまち奉斎ほうさいしています。慶長けいちょう年間(1596-1615)、京都伏見きょうとふしみより飛来ひらいされたと伝えられ奉斎ほうさいされていました。

壽社

壽社ことぶきしゃ

境内けいだい東。3社並ぶ奥に鎮座ちんざ少彦名神すくなひこなのかみ国安命くにやすのみこと神亀之霊しんきのみたま三柱みはしらの神をまつっています。その創始そうし不詳ふしょうですが、古来より少彦名神すくなひこなのかみ国安命くにやすのみことまつられていた中、松浦まつうら海浜かいひんに「神亀顕現しんきけんげん」の瑞祥ずいちょうがあり、その瑞祥ずいちょう寿ことほいで神亀之霊しんきのみたま合祀ごうしして「寿様ことぶきさま」と称したと伝えられています。蜆貝しじみがいを好み、首より上(顔・目・耳・喉・鼻・歯・口等)の病気に霊験れいげんがあり、近年は、学業成就・運気増進の守護神しゅごしんとしても崇敬すうけいされています。例祭日れいさいび旧暦きゅうれきの3月23日。

粟島神社

粟島神社あわしまじんじゃ

境内けいだい東。3社並ぶ真ん中に鎮座ちんざ少彦名命すくなひこなのみことまつ和歌山市わかやまし御本社ごほんしゃからの勧請かんじょう。元は、中町なかまち鎮座ちんざしていましたが、明治45年(1912)に西寺町にしてらまち熊野原神社くまのはらじんじや奉遷ほうせん。その後も中町なかまちでは、御神徳ごしんとく追慕ついぼして夏越なごし例祭れいさい斎行さいこうされていましたが、昭和32年(1952)熊野原神社くまのはらじんじゃとは別に、社殿しゃでん境内けいだいに新築してまつるようになりました。例祭日れいさいびは7月25日でしたが、近年は夏の土用夜市どようよるいちに日取りを合わせ、くぐりの神事しんじ等が盛大に行われています。婦人の病に霊験れいげんがあるされています。

鳥居天満宮

鳥居天満宮とりいてんまんぐう

境内けいだい東。3社並ぶ手前の奥に鎮座ちんざする鳥居天満宮とりいてんまんぐうは、豪商ごうしょう常安九右衛門保道とこやすきゅうえもんやすみち太宰府天満宮だざいふてんまんぐう青銅製せいどうせい唐金からかね)の大鳥居おおとりい奉献ほうけんした故事こじまつわわる神社です。元は木綿町きわたまち鎮座ちんざ。 若年より太宰府天満宮だざいふてんまんぐうを信仰していた唐津京町からつきょうまち豪商ごうしょう常安九右衛門保道とこやすきゅうえもんやすみちは、銀取引ぎんとりひき大難たいなんを生じますが、御神慮ごしんりょもっ大難たいなん吉事きちじとなりました。不束ふそくの身分であるものの、何かしらの寄進きしんをしたいと思い立ち、青銅製せいどうせい唐金からかね)の大鳥居おおとりい奉献ほうけんすると祈願きがんします。しかしどこでもその青銅製せいどうせい唐金からかね)の大鳥居おおとりいを引き受けることなかったため、自ら鋳立ちゅうりつから行うことにしました。それにあた木綿町きわたまち鋳造場ちゅうぞうばに、太宰府天満宮だざいふてんまんぐうから天満宮てんまんぐう勧請かんじょうし、鋳造場ちゅうぞうばでは鳥居天満宮とりいてんまんぐうと称してまつりました。天明てんめい3年(1783)8月16日に太宰府天満宮だざいふてんまんぐう金鳥居かねとりいとして奉献ほうけんされました。残念ながら、大鳥居おおとりいは昭和18年(1943)8月12日に戦時の戦費調達せんぴちょうたつのため供出きょうしゅつされ今は残っていませんが、160年に渡り参道さんどう名所めいしょとされました。鳥居天満宮とりいてんまんぐうは、その鋳造場ちゅうぞうばまつられていた社で、大鳥居おおとりい奉献ほうけん後も木綿町きわたまち守護神しゅごしんとして崇敬すうけいされました。大正年中(1912-1926)境内けいだい奉遷ほうせん。3月25日、9月25日が例祭れいさいです。うし御祭神ごさいじん神使しんしとされ、鳥居とりい前のうし木綿町きわたまちより奉献ほうけんされたものです。

火伏稲荷神社ひぶせいなりじんじや

境内けいだい西。4社並ぶ一番奥に鎮座ちんざ。元は本町ほんまち鎮座ちんざ文化ぶんか年中(1804-1818)唐津市からつしの中心地である本町ほんまちの町内安全のため勧請かんじょう。この時、御祭神ごさいじん蜆貝しじみがいに乗って着いたと伝わっています。火除ひよけ霊験れいげん有りとされ、明治37年(1904)唐津神社からつじんじや境内けいだい奉遷ほうせんしました。昭和26年(1951)コンクリート造りの近代的神社建設により総改築しました。

白玉稲荷神社しらたまいなりじんじや

境内けいだい西。4社並ぶ奥から2番目に鎮座ちんざ。元は新町しんまち鎮座ちんざ。江戸末期頃、黒崎坊くろさきぼうが町内安全のため奉祀ほうし。その後、町内が奉斎ほうさいするようになりました。昭和55年(1980)境内けいだい奉遷ほうせん

廿日恵比須神社はつかえびすじんじゃ

境内けいだい西。4社並ぶ手前から2番目に鎮座ちんざ。元は刀町かたなまち鎮座ちんざ。 江戸後期頃、刀町かたなまちの各家で恵比須講えびすこうが組織され、毎年宮座みやざを定めて尊崇そんすうされていました。その後、町内で祭礼さいれいをしていましたが、昭和58年(1983)境内けいだい奉遷ほうせん。1月19日・20日の例祭れいさい廿日恵比須祭はつかえびすまつりとして賑わいます。

水天宮すいてんぐう

境内けいだい西。4社並ぶ一番手前に鎮座ちんざ唐津在住からつざいじゅう筑後人会ちくごじんかい筑後地方ちくごちほう総氏神そううじがみである水天宮すいてんぐう御分霊ごぶんれい勧請かんじょう筑後人会ちくごじんかいの人々の守護神しゅごしんとして、又愛郷心あいきょうしんの証しとして奉斎ほうさいされています。例祭れいさいは5月5日前後。

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 一之鳥居
  • 二之鳥居
  • 二之鳥居
  • 手水舎
  • 社殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 白飛稲荷神社
  • 壽社
  • 壽社
  • 粟島神社
  • 鳥居天満宮
  • 火伏稲荷神社
  • 火伏稲荷神社
  • 白玉稲荷神社
  • 廿日恵比須神社
  • 水天宮
  • 水天宮
  • 唐津くんち(宵曳山):赤獅子
  • 唐津くんち(宵曳山):青獅子
  • 唐津くんち(宵曳山):飛龍
  • 唐津くんち(神幸祭)
  • 唐津くんち(神幸祭)
  • 唐津くんち(神幸祭):赤獅子
  • 唐津くんち(神幸祭):赤獅子
  • 鯛
  • 鯛
  • 唐津くんち(神幸祭):飛龍
  • 唐津くんち(神幸祭):武田信玄
  • 唐津くんち(神幸祭):金獅子

情報

住所〒847-0013
唐津市からつし南城内みなみじょうない3-13
創始そうし天平勝宝てんぴょうしょうほう7年 (755)
社格しゃかく県社けんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭4月29日(春季しゅんき)・11月3日(秋季しゅうき
神事しんじ唐津からつくんち(11月2日~4日)
HP唐津くんち / Wikipedia

地図・マップ