九州の神社

佐賀県・千栗八幡宮(みやき町)

御祭神

御祭神ごさいじん 応神天皇おうじんてんのう仲哀天皇ちゅうあいてんのう神功皇后じんぐうこうごう難波皇子なにわのみこ宇治皇子うじのみこ住吉明神すみよしみょうじん武内宿禰たけしうちのすくね

由緒

千栗八幡宮ちりくはちまんぐうは、聖武天皇しょうむてんのう神亀じんき元年(724)当時の肥前国ひぜんのくに養父郡やぶぐん郡司ぐんじであった壬生春成みぶはるなりが、御神託ごしんたくこうむ創建そうけんしたのが創始そうしです。

当地で猟をしていた壬生春成みぶはるなりが休息していたところ、一羽の白鳩しろはとが飛んで来て、少しも恐れずに弓弭ゆはず(弓の先)に止まります。それを瑞兆ずいちょうと喜んだ壬生春成みぶはるなりは、神慮しんりょを伺うため物忌ものいみして就寝します。その夜、夢に一人のおきなが現れ「汝、今日猟に出でし時、白鳩しろはと弓弭ゆはずに止まりし奇瑞きずいあらん。その鳩、八幡大神やはたのおおかみ勅使ちょくしにて、弓箭きゅうせんの神なる八幡大神やはたのおおかみ此地このち降臨こうりんたまはん瑞相ずいそうなり」と告げます。そして千個のくりの実を盛った丸盆まるぼんさずけられる夢を見ました。翌朝、夢覚めて再びその山に来てみると、一夜いちやにして千本のくりの樹が生えていたと伝えられています。みやこに上った壬生春成みぶはるなりは、この不思議な出来事を詳しく聖武天皇しょうむてんのう奏上そうじょうし、叡感えいかん有りて嘉賞かしょうに預かります。そして神亀じんき元年(724)勅命ちょくめいをいただき、帰任きにんした壬生春成みぶはるなりやしろを建てて奉仕ほうししたのが創建そうけんとされています。

尚、この一夜いちやにして生えた千本のくりは、天地が入れ替わっていたことから「千栗ちくり」を「千栗ちりく」と称するようになったとされています。天地が逆になっていたのは、

  1. 根と枝の部分も含め天地が入れ替わった。
  2. 栗の実が天地で入れ替わって実っていた。

その二つの説が伝えられており、基本的には①の伝承が伝えられています。

承平じょうへい5年(935)の「天慶てんぎょうらん」の際には、朱雀天皇すざくてんのう勅願ちょくがんにより平将門たいらのまさかど藤原純友ふじわらのすみともらの追討ついとう祈願きがんのため九州に宇佐八幡うさはちまん五所別宮ごしょべつぐう(第一筑前ちくぜん大分宮だいぶぐう・第二肥前びぜん千栗宮ちりくぐう・第三肥後ひご藤崎宮ふじさきぐう・第四薩摩さつま新田宮にったぐう・第五大隅おおすみ正八幡宮しょうはちまんぐう)とされます。

長徳ちょうとく4年(999)12月19日には、油甕湧出あぶらがめゆうしゅつ奇瑞きずいがあり、朝廷ちょうてい献上けんじょうされたことが「『本朝世紀ほんちょうせいき』第十五・長保ちょうほう元年三月七日」にて詳細しょうさいしるされています。朝廷ちょうていからの崇敬すうけいあつく、火災あれば大廟たいびょうじゅんじて廃朝はいちょうが仰せ出されたことが『百錬抄ひゃくれんしょう』に残されています。

『百錬抄』第十三

寛喜二年(1230)七月廿三日。右大臣已下參入。廣田、千栗兩社御身焼亡事有群議。


寛喜二年(1230)七月二十三日。右大臣、以下参入。広田、千栗の両社、御身焼亡の事、群議有り。

中世、全国に一宮いちのみや制が確立していくとともに、当宮も肥前国ひぜんのくに一宮いちのみやと称されるようになりました。南北朝なんぼくちょうの時代になると当宮の西に千栗城ちりくじょうが築かれ、戦国時代には神域しんいき度々たびたび戦乱に巻き込まれ、社殿しゃでんも何度か焼失します。中でも天文てんもん3年(1534)大内義隆おおうちよしたか家臣かしん陶興房すえおきふさに攻められ、奉仕ほうし神官しんかん僧侶そうりょは戦死、または逃亡し、社殿しゃでんを始め全てが灰燼かいじんに帰しました。この時に、綸旨りんじ院宣いんぜん等の古文書こもんじょを始め、社宝しゃほう神具しんぐは、ことごとく失いました。天正てんしょう11年(1573)龍造寺政家りゅうぞうじまさいえが、散り散りになっていた神官しんかん僧侶そうりょ招致しょうちして祭祀さいしを復興、社殿しゃでん再興さいこうしました。

慶長けいちょう3年(1598)佐嘉藩祖さがはんそ鍋島直茂なべしまなおしげ社領しゃりょう200石を寄進きしんし、慶長けいちょう14年(1609)表坂下おもてざかした肥前鳥居ひぜんとりい奉納ほうのうしました。慶長けいちょう14年(1609)に後陽成天皇ごようぜいてんのうより「肥前国ひぜんのくに総一宮そういちのみや鎮守ちんじゅ千栗八幡ちりくはちまん大菩薩だいぼさつ」の勅額ちょくがくたまわりました。しかし、その前の慶長けいちょう7年(1602)に佐賀郡さがぐん川上神社かわかみじんじや與止日女神社よどひめじんじや)も後陽成天皇ごようぜいてんのうから「一宮いちのみや」の勅額ちょくがくを下されていたことから両社の間で紛争が続くこととなります。最終的には延宝えんぽう7年(1679)11月以降、双方共に新しく「一宮いちのみや」の記載きさいを許されないことで決着しました。

なお、現在は残っていませんが、武雄神社たけおじんじゃが建てられていた場所には、徳川家康とくがわいえやす御祭神ごさいじんとする九州で最初の東照宮とうしょうぐうまつられていました。寛永かんえい18年(1641)妙覚院みょうかくいんから天海僧正てんかいそうじょう東照宮とうしょうぐう勧請かんじょうの依頼がなされ、慶安けいあん3年(1650)に建立こんりゅうと伝えられています。鍋島藩主なべしまはんしゅは代々、この東照宮とうしょうぐう参拝さんぱいするのが慣例だったとされています。現在、例大祭れいたいさい御神幸祭ごしんこうさい武雄神社たけおじんじゃやしろ前でも浮立ふりゅう奉納ほうのうされますが、当初は東照宮とうしょうぐうへの奉納ほうのうであったとされています。

明治4年(1871)社格しゃかく制定に当り、養父郡やぶぐん郷者ごうしゃと定められ、明治36年3月9日県社けんしゃ昇格しょうかく。昭和15年(1940)には国幣小社こくへいしょうしゃ昇格しょうかくしました。現在は、別表神社べっぴょうじんじゃれっしています。


境内社けいだいしゃなど】

武雄神社たけおじんじゃ

御祭神ごさいじんとして、孝元天皇こうげんてんのう皇子おうじ彦太忍信命ひこふつおしのまことのみことの子である武雄心命たけおごころのみことまつっています。祭祀さいしうらないをつかさどる任に当たり、景行天皇けいこうてんのうにおつかえした臣下しんかです。武内宿禰たけしうちのすくねはその御子神みこがみです。相殿あいどのの神として、天之忍穂耳命あめのおしほみみのみこと菅原道真すがわらのみちざね伊弉諾尊いざなぎのみこと高木神たかぎのかみ合祀ごうししています。

鳩森はともり稲荷神社いなりじんじゃ

御祭神ごさいじんとして保食神うけもちのかみまつっています。千栗八幡宮ちりくはちまんぐう創建譚そうけんたん八幡大神やはたのおおかみ神使しんしである鳩が現れたことから「鳩森はともり」がついています。

宮地嶽神社みやじだけじんじゃ

表坂下おもてざかした鳥居とりいの右に鎮座ちんざ宮地嶽みやちだけ三柱大神みはしらおおかみ神功皇后じんぐうこうごう勝村大神かつむらのおおかみ勝頼大神かつよりのおおかみ)をまつっています。

「お粥堂かゆどう

お粥堂千栗八幡宮ちりくはちまんぐう創建そうけん神亀じんき元年・724)以来行われてきたと伝えられている、「お粥試かゆだめし」のおかゆ参拝さんぱい者に供覧きょうらんするところです。「お粥試かゆだめし」は、古くは正月十五日におかゆを炊き神殿しんでんに収め、二月初卯はつうの日にこれを取り出して粥占かゆうらないを行っていましたが、現在では、二月二十六日に社家しゃけ伝来の秘法ひほうによりおかゆを炊き、銅製どうせい神器しんきに盛って神殿しんでんに収め、三月十五日早朝にこれを取り出して表面に生えたかび(かび)によりその年の天候、五穀を始めとした作物の作柄さくがらなどを占っています。三月十五日、当八幡宮はちまんぐうの春の大祭たいさいである祈年祭きねんさいに行われる神事しんじです。

御神木ごしんぼく大楠おおくす

社殿しゃでん武雄神社たけおじんじゃとの間のクスノキで樹齢は450年以上。三韓征伐さんかんせいばつの際、沈みそうになった船を貝のホウジャ(ウミニナ)が助けたと伝えられ、県重要文化財の「千栗八幡宮ちりくはちまんぐう縁起えんぎ絵」にが描かれています。そのホウジャが、木肌きはだや割れ目に住み着いており、貝のむ木としても知られています。

御神木ごしんぼく親子楠おやこくす

武雄神社たけおじんじゃの向かいのクスノキ。根の部分から子のクスノキが生えています。木の幹から二つに分かれる夫婦楠めおとくすとも異なる御神木ごしんぼくです。家庭円満、良縁成就りょうえんじょうじゅ御神徳ごしんとくがあるとされています。


神事しんじ祭事さいじ

例祭れいさい秋季大祭しゅうきたいさい

9月15日午前11時に斎行さいこうされます。「放生会ほうじょうえ」とも呼ばれ、最も重要な祭典さいてんで、国家の安寧あんねい氏子うじこ崇敬者すうけいしゃの平安を祈ります。例祭れいさいに近い日曜日には、御神幸ごじんこうが行われます。午前8時に神様を神輿みこしにお乗せし、2km西にある下宮しもみやまでお下りします。当日は氏子うじこ地区による行列浮立ぎょうれつふりゅう奉納ほうのうがあります。

粥祭かゆまつり

お粥祭かゆにできたカビやヒビの様子でその年の天候や農作物の作柄さくがらを占う神事しんじ。2月26日に社務所しゃむしょ奥のお粥炊処かゆたきどころで3升の白米をひとつの大釜おおがまで炊き上げ、炊きあがったおかゆは、大釜おおがまに入ったままお粥祭かゆまつりの当日まで神殿しんでんで保管されます。3月15日午前8時から斎行さいこう。おかゆの表面を肥前ひぜん肥後ひご筑前ちくぜん筑後ちくごに分け、そのカビの様相から占います。宮司ぐうじにより占いの結果である「ためき」がき出され、大釜おおがまが公開されます。

Photo・写真

  • 鳥居
  • 参道
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • お粥堂
  • お粥堂
  • 武雄神社
  • 鳩森稲荷神社
  • 鳩森稲荷神社
  • 宮地嶽神社
  • 御神木・大楠
  • 御神木・大楠
  • 御神木・親子楠
  • お粥祭
  • お粥祭

情報

住所〒849-0111
三養基郡みやきぐんみやきちょう白壁しらかべ2403
創始そうし神亀じんき元年 (724)
社格しゃかく五所別宮ごしょべつぐう肥前国ひぜんのくに一宮いちのみや
国幣小社こくへいしょうしゃ別表神社べっぴょうじんじゃ
例祭れいさい9月15日(秋季大祭しゅうきたいさい放生会ほうじょうえ
神事しんじ御神幸ごじんこう秋季大祭しゅうきたいさいに近い日曜日)
粥祭かゆまつり(3月15日)
HP Wikipedia

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