荒穂神社は、延喜5年(927)に編纂された『延喜式神名帳』で肥前国で記された四社の一社、式内小社です。御祭神は荒穂天神とされ、荒穂天神は瓊々杵尊、五十猛命などの説があります。鎮座地は、基山山頂(標高404m)でしたが、戦国時代には兵火にかかって転々とし、当地に造営されたのは、天文年中(1532-1555)か永禄年中(1558-1570)、もしくは貞享2年(1685)2月と考えられています。その旧鎮座地の基山山頂には、花崗岩の巨岩である麗々石・玉々石が磐座として祀られており、原初は、農業に恵みを与え、五穀豊穣をもたらす自然神・産土神だと考えられています。
基山は瓊々杵尊が国見した霊地とされ、始まりは瓊々杵尊から神武天皇に遡るとも考えられています。主祭神として瓊々杵尊を祀り、瓊々杵尊を助け、植林事業を恢興した五十猛命を配祀神として、基山の山上に社を建てたと伝えられています。
社伝では、その創建は大同元年(645)とされ、基肄国造物部金連の後裔の金村臣によると伝えています。貞享元年(1684)の『荒穂神社縁起』では、中央殿に荒穂大明神(瓊々杵尊)、左殿一に下鴨大神(玉依姫命)、左殿二に八幡大神(応神天皇)。右殿一に宝満大神(止与比咩命)、右殿二に春日大明神(天児屋根命)、右殿三に住吉大明神(表筒男命・中筒男命。底筒男命)を祀り本社六宮としています。大正年間(1912-1926)頃に五十猛命も御祭神に加えられました。
当初の鎮座地である基山の山頂は、国特別史跡である基肄城の跡地で知られています。基肄城は、天智天皇4年(665)白村江の戦いで大敗した大和朝廷が防衛のために築いた山城です。基肄城は、荒穂神社の社地を中心として外廓を定め、御祭神を城の警護の神と仰いだとされています。壮大な社殿に数百人もの神職・社僧が奉仕し、皇室も篤く尊崇しました。天禄年間(970-973)までは、しばしば勅使の参向があり、現在も勅使館遺跡、勅使道と称する地が残っています。
『日本三代實録』貞観元年(860)の条で荒穂天神の名で神階昇叙の記、『延喜式神名帳』では式内小社として記されています。
『日本三代實録』卷四
貞觀二年(860)二月八日己丑。進肥前國從四位下田嶋神階加從四位上。授従五位上荒穗天神正五位下。従五位下豫等比咩天神、久治國神、天山神、志志岐神、温泉神並従五位上。正六位上金立神従五位下。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
…(略)…。肥前國四座[大一座・小三座]。松浦郡二座[大一座・小一座]、田嶋座神社[名神大]、志志伎神社。基肄郡[小]、荒穂神社。佐嘉郡一座[小]、與止日女神社。
天禄年間(970-973)兵火に罹り社殿を焼失。保元年間(1156-1159)に社殿を再興。永正2年(1505)9月には領主となった筑紫広門が寄進と共に社殿を再興しました。しかし、筑紫惟門・照門と大友宗麟との戦禍に罹り、天文年中(1532-1555)、または永禄年中(1558-1570)に社殿は炎上。山頂の社は、少なくとも天正14年(1586)の筑紫氏落城までには戦火によって、ことごとく焼失したとされています。神職社僧も離散し、神宝古文書は剥奪・焼失して全てを失います。御神体だけは、神職数名が奉持して小社を守護したと口伝されています。その鎮座地は、現在地の当地であるとも、転々としていたともされています。
慶長4年(1599)宗義智が対馬府中藩主として当地を領すると、基肄郡上郷の総社として崇敬を受け、明治に到る迄、社殿の造営、及び祭費に到るまで総て藩費で賄われました。慶長10年(1605)6石を寄進。貞享2年(1685)社殿造営。この造営地は、現鎮座地であることがわかっています。それ以降も造営、改築があり、文政2年(1819)に拝殿、本殿と中殿を安政2年(1855)に改築したのが現在の社殿です。明治6年(1873)基肄郡の総社として郷者に列せられ、昭和3年(1928)県社に昇格しました。
三間社流造の本殿は、向拝三間の銅板葺で、拝殿は、桁行三間、梁間二間の入母屋造千鳥破風付、向拝一間軒唐破風付の銅板葺です。
「タマタマ石(麗々石・玉々石・霊々石)」
旧鎮座地の基山山頂の南端に奉斎されています。筑後国を南に一望できる地で、花崗岩の巨岩に五十猛命が腰かけた岩とも伝えられています。タマタマ石の隣には「天智天皇欽仰之碑」が建てられています。
「伝説の石」
拝殿の向かって右手に荒穂の神にまつわる「伝説の石」があります。
- 右:子宝石。この石に腰を掛け祈願すると子が授かると言われています。
- 荒穂の神と高良の神が統合された石と伝えられ石の上部に指の跡形がついています。荒穂の神の投げた石は高良の神の神殿の下に有ると言われています。
- 荒穂の神の馬が基山の頂上より飛降りた石と伝えられ馬の蹄の跡形がついています。この謂れが斎祭の起りと伝えられています。
境内社として、神池の畔に鎮座する水神社。社殿向かって右手奥に仏像・庚申塔などの石碑を安置した合祀殿。向かって左手奥に瓊々杵尊を御祭神とする麻生天神社が奉斎されています。
神幸祭
秋分の日に斎行。奉納される鉦と太鼓の音から「ドンキャンキャン」と呼ばれて親しまれています。日の出前に御神体を神輿に移す神事が行われ、日の出と共に神社本殿前で諸芸能が奉納されます。その後、災払、風流、獅子舞などを先頭に、鉦と太鼓で囃しながら約1時間かけて御仮殿へ行列が歩んでいきます。御仮殿で正午から神事、続いて芸能が奉納されたあと還幸、夕刻、再び芸能が奉納されます。