「宝八幡宮国東塔・同板碑」
二之鳥居向かって左側。宮司所有の山林土中より、他の五輪塔類と共に宮司の手によって昭和50年(1975)10月に発見されました。六地蔵板碑の頭部のみが土中より顔を出し、他は埋まっていたものを下草刈りで偶然見つけ、掘り出し、組み立てて調査をした結果、大分県指定有形文化財になりました。国東塔には銘がありませんが、板碑には右側面に「宝徳三辛未歳(1451)卯月廿三日」の墨書銘があり、正面には六地蔵の梵字が陰刻されています。共に、室町時代初期から中期ごろの造立で、宝八幡宮宮司家の先祖墓と考えられています。
「御神木:イチイガシ」
本殿の背後には、御神木のイチイガシが聳えています。九重町指定天然記念物です。胸高周囲3.83m、樹高28m。イチイガシはカシ類中で一番寿命が長く、巨木になることから「一位(イチイ)」に繋がるとされています。宝八幡宮は戦国時代末期の天正14年(1586)末、大友氏と島津氏の戦いの地となります。玖珠郡には約6000人の薩摩軍が乱入し、その兵火で宝八幡宮は全焼しました。その後の復興に当たり八幡社の総本社「宇佐神宮」のイチイガシ林(国指定天然記念物)より、苗を戴いて植樹したと考えられています。
イチイガシの実のドングリは、古代や飢饉の時などには貴重な食糧源でした。かつては槍の柄や木刀、長尺の船の艪は、このカシに限るとされました。熊本藩や日向の高鍋藩では、槍の柄用の備林を確保していたとされています。
「御神木:クスノキ」
九重町内のクスノキでは、一番の巨木です。胸高周囲4.9m、樹高30m。九重町選定天然記念物です。『豊後国風土記』によれば、玖珠郡の地名の由来はクスノキの巨木だったとされています。伝説によるとその巨木の切株が、「切株山」であるとされています。
『豊後国風土記』
玖珠郡 鄕參所 驛壹所
昔者 此村有洪樟樹 因曰玖珠郡。
玖珠の郡、郷は三所、驛は一所。
昔は、此の村に洪き樟の樹あり。因りて玖珠の郡といふ。
「妙見宮」
社殿向かって左手奥には、宝山への登山道・奥の院への入口があります。宝八幡宮の奥の院「妙見宮」は、宝山(816m)の9合目、これより890mの所にあり、神秘な洞穴の中にあります。途中、5ヶ所に末社(石祠)があり、所要時間は約50分です。古来より霊験新たかで、夏の土用3日にはかつては玖珠郡内は無論、日田・下毛・宇佐郡方面からも「霊水」を求めて、多くの人々が参拝していました。今でも7月下旬には、お下り・お上がりの神事があります。洞穴前からは、玖珠盆地・くじゅう連山・涌蓋山などが遠望できます。
「宮司社」
社殿前、向かって左手に鎮座。宝八幡宮代々の大宮司、または特に功績のあった祝(神官)の御霊をお祀りしています。春季大祭には、神功社・氏子社と共に祖霊祭を執行し、霊魂の安泰と氏子の御発展を祈念しています。
「神功社」
社殿前左に鎮座。宝八幡宮発展のため尽力し、総代・神事員の役員を多年努め、神社に対して特に功績のあった者、または多額の御浄財を奉納した者などを、お祀り申し上げています。春季大祭には、宮司社・氏子社と共に祖霊祭を執行し、霊魂の安泰と氏子の御発展を祈念しています。
「氏子社」
社殿前左に鎮座。宝八幡宮の氏子関係者の老若男女全ての霊魂をお祀りしています。春季大祭には、宮司社・神功社と共に祖霊祭を執行し、霊魂の安泰と氏子の御発展を祈念しています。
「護国神社」
社殿の前の第5石鳥居前右手に鎮座。明治時代以降の日清・日露・大東亜戦争で亡くなられた戦没者を祀っています。
「合格鳥居」
拝殿内の合格鳥居は、飛翔の門として潜り「げん気・やる気・こん気」を持って頑張れば合格できるとされています。
「開運鳥居」
拝殿内の開運鳥居は、至福の門として潜れば「お宝の穴のむこうは宝の山よ不老長寿のめぐみあり」といわれ、開運間違いなしとされています。潜った先には、開運の「御縁玉」が用意され、そのままお財布の中に入れてもらうと、開運間違いなし。