九州の神社

大分県・宝八幡宮(玖珠郡)

由緒

御祭神ごさいじん 品陀別大神ほんだわけのおおかみ応神天皇おうじんてんのう)、帯仲彦大神たらしなかつひこのおおかみ仲哀天皇ちゅうあいてんのう)、息長帯姫大神おきながたらしひめのおおかみ神功皇后じんぐうこうごう

由緒

宝山たからやま(816m)の中腹に鎮座ちんざする宝八幡宮たからはちまんぐうは、社伝しゃでんによれば、養老ようろう2年(718)2月初卯の日、八幡社はちまんしゃ総本社そうほんしゃ宇佐神宮うさじんぐうより霊峰れいほう宝山たからやま分社ぶんしゃされたとされています。以来、当地の産土神うぶすながみにしてあつく上下の崇敬すうけいを集めています。享和きょうわ3年(1803)の『豊後国志ぶんごこくし』では「降臨こうりん霊験れいげん有り、国司こくし奉奏ほうそうしてってほこらを此に立て、こおり総祠そうしとなす」とあり、玖珠くす総社そうじゃとされたと伝えています。

『豊後国志』(享和3年・1803)

在飯田鄕松木村寶山上。養老二年。有降臨之靈驗。國司奉奏以立祠于此。爲郡之宗祠。見于社記。今飯田鄕爲宗司。

鎌倉時代初期の建久けんきゅう年中(1190-1199)、大友能直公おおともよしなおこう所領しょりょうの頃より、社頭しゃとういよいよ繁栄するに至り「豊後七宮八幡ぶんごななみやはちまん」の一つに数えられ、そのめいにより御神殿ごしんでん御造宮ごぞうえいが行われたと伝えられています。戦国時代末期の天正てんしょう14年(1586)には、島津義弘しまづよしひろの軍勢が玖珠郡くすぐんに攻め入った折、兵火へいかかかり、社殿しゃでんを始め各種建造物・古文書こもんじょ御神宝類ごしんぽうるいに至るまでことごとく焼失・散逸致しました。

江戸時代にいたっては、日田郡代ひたぐんだいをしてあつ敬祭けいさいせしめ、ぐん宗廟そうびょうとしてあつ崇敬すうけいされました。延宝えんぽう5年(1677)造立ぞうりゅう第三鳥居だいさんのとりい九重町ここのえまち内で最も古いもので、右柱に「神宮寺じんぐうじ八幡大菩薩はちまんだいぼさつ御寶前ごほうぜん」と刻まれています。その他多数の銘文めいぶんが刻まれているものの、詳細は不明です。神仏習合しんぶつしゅうごうやしろとして、附属の神宮寺じんぐうじ各坊かくぼうがあり、鳥居とりい神額しんがく揮毫きごう英彦山座主ひこさんざしゅによる真筆しんぴつです。明治になり神仏分離令しんぶつぶんりれいで神社にある仏教色の物を廃除した際に破壊され、途中で折れ倒れていたものを、昭和初期に再建しました。

明和8年(1771)には、摂家門跡せっけもんぜきであります京都の随心院ずいしんいん御門跡ごもんぜきより御神燈ごしんとう二張の寄進きしんがあり、幔幕えんまくなどに菊の御紋ごもんを付けることを許可され、御祈願所ごきがんしょとされました。天明てんめい4年(1784)には神祇道じんぎどう管領かんれい吉田良延公よしだよしのぶこうより「宝山たからやま総社そうじゃ八幡宮はちまんぐう」と称したてまつむね神宣じんせんとうばり、御本殿ごほんでんの正面のがくにかかげてあります。放生池ほうじょういけの左右には、町内で最も古い明暦めいれき4年(1658)造立ぞうりゅう石灯篭いしどうろう(町指定有形文化財)。放生池ほうじょういけにかかる石橋は、明治12年(1879)製作です。

明治6年(1873)郷社ごうしゃ列格れっかく。明治42年(1909)6月16日には神饌幣帛料しんせんへいはくりょう供進神社きょうしんじんじゃの指定を受けます。昭和初期・昭和天皇の御大典記念ごたいてんきねんには、県下三社の内に加えられ神苑しんえん工事が行われ、約330段の石段いしだんもこの時の造営ぞうえいです。昭和53年(1978)9月には、「宝八幡宮国東塔たからはちまんぐうくにさきとう同板碑どういたび」が発見され、共に大分県指定文化財となっています。

境内けいだいには紫陽花あじさいが1万株植えられ、6月中旬から7月中旬のシーズンには沢山のアジサイが咲き乱れます。7月第1土曜日には「あじさいマルシェ」があり賑わいます。


平家へいけ落人伝説おちうどでんせつ

鎮座ちんざする宝山たからやまは、平家へいけ落人伝説おちうどでんせつ伝承地でんしょうちのひとつとされています。

宝山たからやまの東約6kmに、平家山へいけざん(1023m)があり、平家山へいけざんから宝山たからやまにかけては、平家へいけ落人おちうどの様々な謂われ・伝承でんしょうが残されています。宝山たからやまは、落人おちうどがお家再興のための財宝(軍資金)を隠したことから、「宝山たからやま」と称されるようになったとも伝えられています。

広く平家へいけ落人おちうどの地として知られ、那須大八郎なすだいはちろう那須宗久なすむねひさ)と平清盛たいらのきよもり末孫まっそんともされる鶴富姫つるとみひめとの哀話あいわが伝えられ、その伝承地でんしょうち鶴富屋敷つるとみやしき」が国指定重要文化財に指定される宮崎県椎葉村しいばむらには、明暦めいれき2年(1656)頃に編纂へんさんされた『椎葉山しいばやま根元記こんげんき』が残されています。『椎葉山しいばやま根元記こんげんき』には、壇ノ浦だんのうらたたかいで平家一族へいけいちぞく入水にゅうすいする中、再起を図った存命の者たちは、深山しんざんを求めて玖珠くす平家山へいけざんに分け入ったと記されています。しかし山浅やまあさく心もとなく思い、更に深山しんざんを求めて落ちていったのが椎葉しいばの里だとしています。

『椎葉山根元記』(明暦2年頃・1656頃)

-(前略)-。入水之内存命之面々申合せ時節を窺ふて命を全ふするにしくはなし。何卒嶮難の地を求め深く忍ひ天運の至る時節を待つべしと九州へ渡り嶮山を尋ね豊後の国玖球郡之内山中に分け入此処今に至り平家山といへるよし。馴共山浅く鎌倉へ知れ安からん事を斗り当国へ迷い来て此山中に忍ひいり、云々-(後略)-。

また、平家山へいけざんにまつわる伝説として「平家へいけ百猿ひゃくさる」という説話せつわも、当地に残されています。享保期きょうほうき(1716-36)平家へいけ落人おちうど平家へいけ再興の大望を果せず、その妄執もうしゅうが固まって猿になり、里に下りては作物や人民に悪さを働いて退治されたとする伝承でんしょうです。享保期きょうほうき(1716-36)以降につくられたものとされ、背景には日出生村ひじゅうだいむら(現・玖珠町くすまち)・野上村のがみむら(現・九重町ここのえまち)との村境むらさかいを巡る論争があるとも考えられています。


【白イノシシ】

白イノシシ

境内けいだいでは、数千頭に1頭という大変珍しい白イノシシの家族が飼われています。

八幡宮はちまんぐう総本社そうほんしゃである宇佐神宮うさじんぐう。その宇佐神宮うさじんぐうを舞台にした宇佐八幡宮うさはちまんぐう託宣事件たくせんじけん道鏡事件どうきょうじけん)で、皇位こういを奪おうとした道鏡どうきょうを阻止したのが和気清麻呂わけのきよまろです。はかりごとが失敗した道鏡どうきょうは、和気清麻呂わけのきよまろ大隅国おおすみのくに配流はいるを命じ、その途上での暗殺をくわだてます。しかし、和気清麻呂わけのきよまろの周りをイノシシの大群がまもり、暗殺はなりませんでした。その伝承でんしょうから、和気清麻呂わけのきよまろまつる神社、また八幡宮はちまんぐうにおいてイノシシは重要な意味合いを持つようになり、和気清麻呂わけのきよまろまつる神社の神使しんしはイノシシであるとされています。

その和気清麻呂わけのきよまろまつわわる伝承でんしょうとは別に、宝山たからやまには白いイノシシの伝承でんしょうが残されています。宝山たからやまは、平家へいけ落人おちうどがお家再興のため財宝(軍資金)を隠したことから「宝山たからやま」と称され、白いイノシシが財宝をまもっていると伝承でんしょうされていました。また、白イノシシを見ることは吉兆きっちょうであるともされています。

平成18年(2006)11月16日。その3年前に川上地区かわかみちく藤原三治ふじわらさんじさんにより、宝山たからやまで捕獲された白イノシシが干支えとちなんで奉納ほうのうされ、地域づくりグループ月次会つきなみかい豊後七福神会ぶんごしちふくじんかいなどとともに「お披露目式ひろめしき」が催されました。 「お披露目式ひろめしき」には、12歳から96歳の10人の年男・年女をはじめとした約50人が参加。その中で藤原三治ふじわらさんじさんは「町の活性化に少しでも役に立てたら。イノシシのように来年は九重町ここのえまち全体が活気のある年になりますように」と挨拶。年男としおとこ年女としおんなを代表して東飯田小学校ひがしいいだしょうがっこう5年生の玉井たまいさんが、「来年は6年生になるので低学年のお世話をし、三味線と習字もがんばりたい」と抱負を述べました。そして当時、体長約1mで体重は80kgの白イノシシを「シロくん」と、命名することが発表されました。

その1ヶ月後、近くの万年山はねやまで雌の白イノシシが見つかり、同年12月22日に「シロくん」のお嫁さんとして盛大に迎えられ、「ユメちゃん」と名付けられました。その後に生まれた白い子イノシシたちは、平成21年(2009)7月5日に和気清麻呂わけのきよまろ御祭神ごさいじんとする京都の護王神社ごおうじんじゃに派遣されたのを始めに、鹿児島の和気神社わけじんじゃなどに派遣され、育てられています。


境内社けいだいしゃなど】

宝八幡宮国東塔

宝八幡宮国東塔たからはちまんぐうくにさきとう同板碑どういたび

二之鳥居にのとりい向かって左側。宮司ぐうじ所有の山林土中より、他の五輪塔類ごりんとうるいと共に宮司ぐうじの手によって昭和50年(1975)10月に発見されました。六地蔵ろくじぞう板碑いたびの頭部のみが土中より顔を出し、他は埋まっていたものを下草刈りで偶然見つけ、掘り出し、組み立てて調査をした結果、大分県指定有形文化財になりました。国東塔くにさきとうにはめいがありませんが、板碑いたびには右側面に「宝徳三辛未歳(1451)卯月廿三日」の墨書銘すみがきめいがあり、正面には六地蔵ろくじぞう梵字ぼんじ陰刻いんこくされています。共に、室町時代初期から中期ごろの造立ぞうりゅうで、宝八幡宮たからはちまんぐう宮司家ぐうじけの先祖墓と考えられています。

御神木:イチイガシ

御神木ごしんぼく:イチイガシ」

本殿ほんでんの背後には、御神木ごしんぼくのイチイガシがそびえています。九重町ここのえまち指定天然記念物です。胸高周囲3.83m、樹高28m。イチイガシはカシ類中で一番寿命が長く、巨木になることから「一位いちい(イチイ)」に繋がるとされています。宝八幡宮たからはちまんぐうは戦国時代末期の天正てんしょう14年(1586)末、大友氏おおともし島津氏しまづしの戦いの地となります。玖珠郡くすぐんには約6000人の薩摩軍さつまぐんが乱入し、その兵火へいか宝八幡宮たからはちまんぐうは全焼しました。その後の復興に当たり八幡社はちまんしゃ総本社そうほんしゃ宇佐神宮うさじんぐう」のイチイガシ林(国指定天然記念物)より、苗を戴いて植樹したと考えられています。

イチイガシの実のドングリは、古代や飢饉の時などには貴重な食糧源でした。かつては槍の柄や木刀、長尺の船のは、このカシに限るとされました。熊本藩くまもとはん日向ひゅうが高鍋藩たかなべはんでは、槍の柄用の備林を確保していたとされています。

御神木ごしんぼく:クスノキ」

九重町ここのえまち内のクスノキでは、一番の巨木です。胸高周囲4.9m、樹高30m。九重町ここのえまち選定天然記念物です。『豊後国風土記ぶんごのくにふどき』によれば、玖珠郡くすぐんの地名の由来はクスノキの巨木だったとされています。伝説によるとその巨木の切株が、「切株山きりかぶさん」であるとされています。

『豊後国風土記』

玖珠郡 鄕參所 驛壹所
昔者 此村有洪樟樹 因曰玖珠郡。


玖珠の郡、郷は三所、驛は一所。
昔は、此の村に洪き樟の樹あり。因りて玖珠の郡といふ。

妙見宮入口(宝山登山口)

妙見宮みょうけんぐう

社殿しゃでん向かって左手奥には、宝山たからやまへの登山道・おくいんへの入口があります。宝八幡宮たからはちまんぐうおくいん妙見宮みょうけんぐう」は、宝山たからやま(816m)の9合目、これより890mの所にあり、神秘な洞穴の中にあります。途中、5ヶ所に末社まっしゃ石祠いしほこら)があり、所要時間は約50分です。古来より霊験れいげんあらたかで、夏の土用どよう3日にはかつては玖珠郡内くすぐんないは無論、日田ひた下毛しもげ宇佐郡うさぐん方面からも「霊水れいすい」を求めて、多くの人々が参拝さんぱいしていました。今でも7月下旬には、おくだり・おがりの神事しんじがあります。洞穴前からは、玖珠盆地くすぼんち・くじゅう連山れんざん涌蓋山わいたさんなどが遠望できます。

宮司社ぐうじしゃ

社殿しゃでん前、向かって左手に鎮座ちんざ宝八幡宮たからはちまんぐう代々の大宮司だいぐうじ、または特に功績のあったはふり神官しんかん)の御霊みたまをおまつりしています。春季大祭しゅんきたいさいには、神功社しんこうしゃ氏子社うじこしゃと共に祖霊祭それいさい執行しっこうし、霊魂れいこん安泰あんたい氏子うじこの御発展を祈念きねんしています。

神功社しんこうしゃ

社殿しゃでん前左に鎮座ちんざ宝八幡宮たからはちまんぐう発展のため尽力し、総代そうだい神事員しんじいんの役員を多年努め、神社に対して特に功績のあった者、または多額の御浄財ごじょうざい奉納ほうのうした者などを、おまつり申し上げています。春季大祭しゅんきたいさいには、宮司社ぐうじしゃ氏子社うじこしゃと共に祖霊祭それいさい執行しっこうし、霊魂れいこん安泰あんたい氏子うじこの御発展を祈念きねんしています。

氏子社うじこしゃ

社殿しゃでん前左に鎮座ちんざ宝八幡宮たからはちまんぐう氏子うじこ関係者の老若男女全ての霊魂れいこんをおまつりしています。春季大祭しゅんきたいさいには、宮司社ぐうじしゃ神功社しんこうしゃと共に祖霊祭それいさい執行しっこうし、霊魂れいこん安泰あんたい氏子うじこの御発展を祈念きねんしています。

護国神社ごこくじんじゃ

社殿しゃでんの前の第5石鳥居いしとりい前右手に鎮座ちんざ。明治時代以降の日清・日露・大東亜戦争で亡くなられた戦没者せんぼつしゃまつっています。

合格鳥居ごうかくとりい

拝殿はいでん内の合格鳥居ごうかくとりいは、飛翔の門としてくぐり「げん気・やる気・こん気」を持って頑張れば合格できるとされています。

開運鳥居かいうんとりい

拝殿はいでん内の開運鳥居かいうんとりいは、至福の門としてくぐれば「お宝の穴のむこうは宝の山よ不老長寿のめぐみあり」といわれ、開運間違いなしとされています。くぐった先には、開運の「御縁玉ごえんだま」が用意され、そのままお財布の中に入れてもらうと、開運間違いなし。

神事しんじ祭事さいじ

宝楽たからがく

宝楽たからがくは別名を「宇戸流楽うとりゅうがく」ともいい、毎年10月7日のお下りと9日のお上がりの神幸祭しんこうさい宝八幡宮たからはちまんぐう境内けいだいにおいて奉納ほうのうされる勇壮な杖楽つえがくです。杖楽つえがくには、大別してつえふえ・コモラシがあります。江戸時代の文化7年(1807)に記された『宇戸流杖楽之事うとりゅうつえがくのこと』と題する巻物に依ると、筑後国ちくごのくにに伝わった筑後楽ちくごがくを、玖珠郡くすぐん長野金右衛門忠尚ながのきんうえもんただなおが伝来し、宇戸流うとりゅうつえい合わせて旦村だんむら上旦かみだん下旦しもだん)・右田村みぎたむらの人々に教え、宝暦ほうれき2年(1752)はじめて宝八幡宮たからはちまんぐう神前しんぜん奉納ほうのうされたとあります。大分県指定無形民俗文化財。

あじさいマルシェ(アジサイ祭)

境内けいだいは1万株ものアジサイの名所としても知られています。6月中旬から7月中旬のシーズンには沢山のアジサイが咲き乱れ、「あじさいマルシェ」が盛大に催されています。

Photo・写真

  • 二之鳥居
  • 宝八幡宮国東塔
  • 三之鳥居
  • 四之鳥居
  • 参道から五之鳥居
  • 参道から五之鳥居
  • 五之鳥居
  • 五之鳥居
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 開運鳥居
  • 合格鳥居
  • 本殿
  • 本殿
  • 御神木:イチイガシ
  • 妙見宮入口(宝山登山口)
  • 宮地嶽神社
  • 龍田神社
  • 宮司社
  • 神功社
  • 氏子社
  • 護国神社
  • 白イノシシ舎
  • 白イノシシ

情報

住所〒879-4632
玖珠郡くすぐん九重町ここのえまち松木まつぎ1371
創始そうし養老ようろう2年 (718)
社格しゃかく郷社ごうしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい5月15日前後の日曜日(春祭はるまつり
10月7~9日(秋祭あきまつり
神事しんじ神衣祭かんみそのまつり(33年毎)
催事さいじあじさいマルシェ(7月第1日曜日)
HP 公式HP

地図・マップ