607.5mの本宮山(西寒多山)北麓に鎮座する西寒多神社は、元々は本宮山に鎮座する本宮社を本宮(元宮)としており、神功皇后の所縁の地とされています。三韓征伐から帰陣した神功皇后は、本宮山に御幸して一本の白旗を立て、人々はそれを敬い、端垣を結んで聖地として崇めます。次代の応神天皇9年(278)4月に、勅命を奉じた武内宿禰が、豊後国に下向し、社殿を創建したのが創始と伝えられています。7世紀の中頃には、藤原鎌足が百済救援のため豊前国仲津郡まで来た折、霊夢のお告げを受けて西寒多神社に参拝。老巧化した社殿を修築し、太刀一振と八幡舞面を奉納したと伝承されています。
国史の初見は『日本三代実録』貞観11年(869)3月22日の条で、従五位下を授けると記されています。延長5年(927)編纂の『延喜式神名帳』では、豊後国では唯一の式内社に列格されました。
『日本三代實録』卷十六
貞觀十一年(869)三月廿二日庚辰。進筑後國正二位高良玉垂命神階加從一位。授從四位上豐比神正四位下。但馬國從五位上養神。石見國從五位上物部神並正五位下。豐後國无位西寒多神從五位下。令下総國非違使帶劔把笏。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
豐後國六座。[大一座・小五座]。
直入郡一座[小]、建男霜凝日子神社。大分郡一座[大]、西寒多神社。速見郡三座[並小]、宇奈岐日女神社、火男火賣神社、二座。海部郡一座[小]、早吸日女神社。
以後、在地の有力武将の信仰篤く、大友家初代の大友能直を初めとする歴代大友氏からも尊崇を集めます。応永15年(1408)3月には大友親世により、本宮山頂上から現在地に遷座されました。尚、この時の遷座は、享和3年(1803)編纂の『豊後国志』、及び天保12年(1841)編纂の『太宰管内志』では、野津ノ荘寒田村(豊後大野市犬飼町西寒田520)の西寒多神社からとされていますが、現在では野津の西寒多神社は当社から勧請された社と見られています。
大友氏の後、当地を領した延岡藩の牧野氏、次いで内藤氏の信仰厚く、たびたび神殿の改修修繕が行われ、藩士による燈篭などが寄進されました。明治4年(1871)5月14日に国幣中社に列格。昭和20年(1945)12月に社格制度の廃止に伴い別表神社となり、今日に至っています。
また、『延喜式神名帳』に記された式内社であることから豊後国一宮とされますが、平安時代後期になると、当時の国司が神仏習合思想に基づき国内の世情を鑑み、宇佐八幡宮の別宮として崇敬を集めていた柞原八幡宮(由原八幡宮)を一宮とした事が伝えられています。江戸期に入り、延宝3年(1675)から元禄10年(1697)にかけて『諸国一宮巡詣記』を記した橘三喜が、延宝4年(1676)に当社を訪れ、豊後国一宮として記してからは、柞原八幡宮と併せて豊後国一宮として広く崇敬されるようになりました。
【境内社など】
萬年橋
萬年橋とも呼ばれる参道入り口の石造単アーチ橋です。全長23メートル、幅3.85メートル。文久2年(1862)延岡藩寒田村の庄屋の佐藤氏らが発起し、大野郡柴生田村(現在の豊後大野市千歳町)の石工の後藤氏らによって同年完成しました。11メートルの径間に対してアーチの長さが3.8メートルと低く、アーチと路面の間も狭いのが特徴です。昭和55年(1980)4月8日に県指定文化財に指定されました。
藤棚
萬年橋を過ぎて左手に、樹高:3m、幹周:2.3m、枝張が東西24m・南北5mの範囲で広がる、樹齢450年の大分市の名木です。社殿に供える御酒の酒造所を建てる時に植えたと伝えられています。昭和49年(1974)2月1日に市指定文化財に指定されました。
神庫
本殿の西に位置する校倉造りを特徴とした入母屋造り桟瓦葺き、高床式の建物です。応永15年(1408)の造営。校木を井桁に組み合わせた井篭組みという形式の校倉造りで、県下ではあまり例がありません。明治19年(1886)6月に改修。桁行5.7m、梁間4.8m、高床0.98mです。昭和49年(1974)1月9日に市指定有形文化財に指定されました。
観音堂
参道の手水舎を過ぎて、鳥居の右に鎮座しています。十一面観音菩薩を西寒多観音として祀っています。
合併社
鳥居を過ぎた札所の奥にあり、村内に散在していた御星社、保食社、龍王社、貴船社、歳神社、愛宕社、高尾社、金刀比羅社、天満社、竹内社、九一郎社を合祀しています。
鬼の歯形石
合併社の前に祀られています。本宮山の北西、西寒多神社の南西の霊山には、恐しい鬼が住み、麓の人々に悪さばかりしていました。ある時、天照大御神を祀る巫女の親子が本宮山にやって来て、毎日お祭りをするようになります。そのお祭りの音を不快に感じた鬼たちは、巫女の親子を取って喰おうとします。その際、巫女の母親は霊山と本宮山まで一晩で橋を架けられたら、食べられましょうと約束します。ならばと必死になった鬼は約束通り一晩で橋のほとんどをつくってしまいました。これに慌てた巫女の親子は、朝が来たかのように長鳴き鶏の鳴き声を真似ると、夜明けと間違えた鬼どもは、悔しがって歯で石を噛み、投げつけ退散したとされています。そして鬼たちは霊山から居なくなってしまいました。この歯形石は、その時の石とされています。最初は池に投げられましたが、流行り病が発生したので、当地に祀られるようになりました。
厳島神社
境内の神池に鎮座。市杵島姫命を祀っています。
菅原社
境内東の本宮山登山口、向かって左に鎮座。菅原道真公を祀っています。元は旧参道口の繰生社の左手に鎮座していました。
大分社
境内東の本宮山登山口、向かって右に鎮座。御祭神は、豊門別命。大分の地名の元となった古代の豪族の大分君を祀っています。
繰生社
境内西の旧参道に鎮座。御祭神として繰生夫婦(繰生青海とその妻)を祀っています。
遥拝所
旧参道から繰生社を過ぎて左手に奉斎されています。皇居を遙拝しています。
伊勢社
社殿向かって左側から本殿裏の小山を登ると山上に伊勢社が鎮座しています。
【神事・祭事】
御神衣祭
33年目ごとの例祭の日に斎行される特殊神事。御祭神・相殿神・殿内所在諸神の合わせて16柱の御神像の神衣を新調して、着せ替える式年大祭です。前回は、平成8年(1996)5月3日に斎行されました。
御神幸祭
昔は毎年斎行されていましたが、近年では3年に一度斎行されています。1日目、本社を出発した神輿は、寒田川を渡り渡御して御旅所(寒田公民館前広場)に一泊します。翌日の日暮れに還御します。渡御・還御の両日、神領の巡幸が行われます。
ふじ祭り
市指定文化財の藤棚が見頃となる4月中旬~5月5日に開催されています。神殿祭、育木祭、慰霊祭、水神祭、勧学祭も併せて行なわれています。