九州の神社

元大原神社(日田市)[大原八幡宮元宮・杉原宮]

由緒

御祭神ごさいじん 誉田別命ほんだわけのみこと応神天皇おうじんてんのう)、息長足姫命おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)、比売大神ひめおおかみ

由緒

元大原神社もとおおはらじんじゃは、岩松ヶ峯いわまつがみね天瀬町鞍形尾あまがせまちくらがとう)の地に示現じげんした神をまつった鞍形尾神社くらがとうじんじゃ祖神社おやじんじゃ元々宮もともとみやから、慶雲けいうん元年(704)、又は貞観じょうがん元年(859)に当参道さんどう入り口にある杉原宮すぎはらのみや遷座せんざ。次いで貞観じょうがん13年(871)、元慶がんぎょう元年(877)、又は延喜えんぎ18年(918)に杉原宮すぎはらのみやから、当元大原神社もとおおはらじんじゃ社地しゃち遷座せんざ。それから凡そ700年間、寛永かんえい2年(1625)に現在の大原八幡宮おおはらはちまんぐう新大原しんおおはらに地に遷座せんざ・再建されるまで大原八幡宮おおはらはちまんぐう鎮座地ちんざちとされた地です。往時は今よりももっと広大な地を占めていたと思われています。

日田市ひたし(旧日田郡ひたぐん)の総鎮守社そうちんじゅしゃである大原八幡宮おおはらはちまんぐうは、大波羅八幡宮おおはらはちまんぐうとも称され、本殿ほんでんの中央に誉田別命ほんだわけのみこと応神天皇おうじんてんのう)、左殿さでん応神天皇おうじんてんのうの母である息長足姫命おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)、右殿うでん宇佐うさ氏神うじがみとも宗像むなかた三女神さんじょしんとも言われる比売大神ひめおおかみまつっています。

天保てんぽう3年(1832)成立した『造領記ぞうりょうき』(森春樹もりはるき著)によれば、天武天皇てんむてんのう9年(680)11月に靱負郷ゆきいごう岩松ヶ峯いわまつがみね天瀬町あまがせまち鞍形尾くらがとう)の鞍形尾神社(祖神社・元々宮)の地に示現じげん。当所は、何の神か不明であったものの、翌年の天武天皇てんむてんのう10年(681)9月に、示現じげんした神が宇佐うさ鷹居社たかいしゃの神であると村人に託宣たくせんし、八幡大神はちまんおおかみまつったのが起源とされています。後に、峯に鞍の形をした巨石があったことから鞍形峯くらがみねと呼ばれるようになりました。

『造領記』天保3年(1832)成立

明日香浄御原宮御宇天渟中原瀛真人天皇九年庚辰(680)十一月靱負郷岩松峰峯に神現給ふ事ありき何の神におはしますといふことをしらす同十年辛巳秋九月神村人に詫て曰あれは宇佐の鷹居の社にをる神ありとのり給ふこの神の詫を承りて里人ともつとひてやかて湯山其峯に社を営てしつめまつりき此峯に石有其形勢鞍に似たりけれは後に鞍形岑と呼ならはしき

慶雲けいうん元年(704)杉原すぎはら神来町かみくまち)の大杉おおすぎこずえ大神おおかみが降り、村の乙女に神懸かみがかりして「ちん岩松ヶ峯いわまつがみねの神である。あの峯は路が険しく、人々がまつりをするに不便である。諸人のためにこの台地に現れた。永く豊前ぶぜんの地を守らむ」と神託しんたくが降ります。その神託しんたくを受けて、杉原宮すぎはらのみやを建ててまつりました。

『造領記』天保3年(1832)成立

慶雲元年(704)甲辰三月杉原の杉の梢に神現給ふそは岩松の御神にやといへともしられぬは郷民等杉のもとにいたり集ひて曰いかなる御御神にましますかいかならん御心ましませはこゝに瑞を示し給ふやこひねかわくはこゝにしつもりまして國人を護賑はし給へとねきまをしけれは民某か女に神憑て告給はくあれは先に岩松の峯にあわりたりし神也彼之年は四方より來りて我前をまつるに路さかしくて諸人煩ひぬれはあか心また悩しこゝの杉原はしかしかのわつらひなくよろつに便宜けれは以降はこゝにをりていやますます諸人に親しまんとの給ひけるによりて新に御社を建て御神のみこゝろのままにうつしまつりき

杉原すぎはら八幡宮はちまんぐう日田郡ひたぐんの人々はもとより他国の参拝者も多く、行基ぎょうき伝教大師でんきょうたいし最澄さいちょう)、小野篁おののたかむら礼拝らいはいしたと、貞享じょうきょう3年(1686)以降に編纂へんさんされた『豊西記ほうさいき』、及び『造領記ぞうりょうき』で伝えています。又、『造領記ぞうりょうき』では行基ぎょうきが訪れたのは天平てんぴょう12年(740)と記しています。

『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂

天平四年壬申(732)六月十八日僧行基菩薩、定諸國堺巡禮之時、宿于大原。鑒東西分、今之於高畷、向妙童鬼曰、此後二百年之中、大權神來現、此地可守護也。

延暦十一壬申年(792)九月三日、傳敎大師、宇佐宮七日參籠之後、阿蘇宮參詣之時、宿于大原、此後百年之中、大權神可有來現。云云。

弘仁八丁酉年(817)八月十五日小野篁、自石見國來宿大原。對杉木禮拜七日、語民曰、近代此所可有八幡來現也。

貞観じょうがん13年(871)2月、日田郡司ひたぐんじ大蔵永弘おおくらながひろに「今のやしろの地、わが心に叶わず…北の方に清浄の地あり…」との夢告むこくがあります。その翌朝、木樵きこりらが大蔵永弘おおくらながひろを訪れて、150m程北東の丘上にある木の上に白幣はくへいがかかっており、神慮しんりょではないかと報告します。それを聞いた大蔵永弘おおくらながひろは、神の御心みこころかしこみ、その地に注連縄しめなわを引いて社殿しゃでん造営ぞうえいし、宇佐宮うさぐう神主かんぬしの息子の橋本公則はしもときみのり神主かんぬしとして迎えて祭祀さいししました。これが神来町かみくまち元宮原もとみやばる元大原神社もとおおはらじんじゃ元宮もとみやになります。橋本公則はしもときみのり神主かんぬしとして迎えられたのは諸説あり、元慶がんぎょう元年(877)とも、現在の元大原神社もとおおはらじんじゃ社殿しゃでんが完備され、御祭神ごさいじんとして息長足姫命おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)と比売大神ひめおおかみ奉斎ほうさいするようになった延喜えんぎ18年(918)とも伝えられています。又、享和きょうわ3年(1803)編纂へんさんの『豊後国志ぶんごこくし』では貞観じょうがん年間(859-877)に神宮寺じんぐうじも建てられ、密教みっきょうによりたてまつられていたと記しています。

『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂

貞観十三年(871)辛卯春二月或夜杉原の大宮司大蔵永弘に告白今の社の地あか心に不協こゝより少く北のかたに清浄地有そこにをらんと思ふ我しつまらんと思ふ地には必瑞あらんそこに社を造るへしとのり給ひき又其あくる朝樵夫等郡家に集ひ來りて永弘に申けらく杉原の少し北なる岡の上のそれの木のうれに白幣かゝれりこれは神のみつならんとまをす永弘これを聞てよへ神の告給へりしことにあへれはやかて往て見るにそのみつははやくうせたれとも神の御心をかしこみて其所のその木なりしといふ地にしめ引きわたしてこゝらの工ともをつとへて御社を新に太く高く造営ていとめてたき壮観となし奉りて宇佐宮の神主某の子公則といふをむかへて神主とし宇佐宮の如く比咩皇神神功皇后をも併まつりき。

公則は即比咩皇神の神裔にて神武天皇の御時に在て天皇を迎奉りて足一騰宮に饗奉りし菟狭津彦菟狭津媛の裔にて上古より宇佐の神の神主也或は曰く陽成天皇元慶元年丁酉公則來る或は曰醍醐天皇延喜十八年戊寅大原社興立則其年來るともいへり。


『豊後国志』享和3年(1803)

[神宮寺]在刄連鄕田島村。貞觀以來掌大原祠神亊奉密敎。

尚、『豊西記ほうさいき』では、創建譚そうけんたん杉原すぎはら大杉おおすぎこずえ大神おおかみ降臨こうりんしたのは貞観じょうがん元年(859)、元慶がんぎょう元年(877)9月1日に岩松ヶ峯いわまつがみね八幡大神はちまんおおかみ御来現ごらいげんしたと伝えています。

『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂

貞觀元己卯年(859)、帝都男山石淸水宮始。大安寺行敎和尚、八幡宮奉祈移建立之。同時大原之杉梢白幤化現矣。

-(略)-。

元慶元丁酉年(877)九月朔日、當郡岩松、八幡來現。或家傳曰諸人不知之、晝夜雲霧覆當郡、鎭闇而無見日月。丁岩松之峯電雷鳴。當時之郡司職鬼藏大夫大藏永弘、家臣召雪野曰、汝、行岩松之峯、可窺見也。依仰發向岩松。于茲陳大屯矣。圍素幔於峯頭如白霧、錦幢、颺于大虛似電光。鈬皷、響岩谷震搖矣。異形之夜叉・鬼人、如雲霞令夜圍遶陣頭警固。厥粧巍蕩々而恰非所逮愚見矣。雪埜近玉席、令伺候、以傳奏、肥多鬼藏大夫之使趣奉呈敬令奏上。

神、詔曰、者是八幡大神也。爲當縣守護、現神靈者也。汝何者乎。雪野龔自姓名奉奏聞。神、再詔曰、汝自今以後、可爲朕臣、仍改名、稱ユキイ者也。爾時、雪野、頂禮歡喜、重姓名之文字奉尋問、矣。宣刄連也。然後、神乘白馬昇天畢。其跡有玉鞍於松下依之、岩松号鞍形尾云。

元禄げんろく12年(1699)貝原楽軒かいばららくけん大原八幡宮縁起おおはらはちまんぐうえんぎ』では、貞観じょうがん元年(859)八幡大神はちまんおおかみ大原山おおはらやま大杉おおすぎこずえ白幣はくへいが出現したことから、奏聞そうもんを経て、勅命ちょくめいにより宇佐神宮うさじんぐうならった形式で神功皇后じんぐうこうごう共々まつったと伝えています。

『大原八幡宮縁起』元禄12年(1699)貝原楽軒

淸和天皇貞觀元年己卯年、八幡大神此地に鎭しますべきよし託告ありて、奇瑞あるべきおしるしとして御祠をたつべきよしなりしが、大原山の杉の梢に白幣出現しけれハ、村民等奇異の思ひをなし、則奏聞を經、勅命によりて其處に大宮柱ふとしきたてゝ、三ツ葉四ツ葉に殿作りして、崇め祭り奉りける。宇佐宮の例によりて、神功皇后媛御神をも相殿に祭り奉る、わきて靈告新にして、祭り奉れる御やしろなれハにや、神德日を追てあらわれ、稜威年に從てさかんなりき、これによりて世々の國主領主も、此御祠を敬れさるはなし。

豊西記ほうさいき』によれば、延喜えんぎ18年(918)社殿しゃでんが完備され、八幡大神はちまんおおかみから郡司ぐんじ鬼蔵大夫おにくらだゆう大蔵大夫おおくらだゆう)に「肥多ひた」から日輪ひのわの下に万田まんだを開くとの意で「日田ひた」と書くよう神勅しんちょくがありました。そして同年、小野篁おののたかむらが再来したと伝えています。

『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂

延喜十八戊寅年、大原八幡宮社壇建立。爾時、八幡召鬼藏大夫曰、此所夲元者雖書肥夛、朕頂上有日輪、朕亦開萬田、自今以後可書日田也。同年、小埜篁再來、八幡宮奉見。隔時代年季後、篁來亊不思議也。二星化現之人、無疑者歟。

延久えんきゅう3年(1071)日田殿ひたどんと愛称され、摂社せっしゃ日田神社ひたじんじゃ御祭神ごさいじんとしてまつられる大蔵永季おおくらながすえが、16歳にして宮中儀式の相撲節会すまいのせちえされ、神威しんいにより出雲小冠者いずものこかじゃに勝利します。大蔵永季おおくらながすえはその後、長治元年(1104)まで10度も節会せちえに参加し、一度も負けることがなかったとされています。『豊西記ほうさいき』では、その大蔵永季おおくらながすえにより、承保じょうほう元年(1074)会所八幡宮よそはちまんぐうの裏の山上までの御神幸ごしんこうが始められたと伝えています。また、『造領記ぞうりょうき』では承徳じょうとく年間(1097-1099)大蔵永季おおくらながすえ大宰府だざいふ参詣さんけいしたとき、太宰府天満宮だざいふてんまんぐう権師ごんのそちであった大江匡房おおのまさふさに「大波羅野御屋新呂おおはらのおんやしろ」の扁額へんがくを依頼し、奉献ほうけんされたと『豊西記ほうさいき』は記しています。

『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂

承保元甲寅年八月十五日大原八幡宮放生會始。


『造領記』天保3年(1832)成立

堀河院承徳中永季大宰府参勤の時権師に請て大原八幡大神の社頭の額を書かしむ此時の権師は正三位権納言大江匡房卿にてまします則大波羅野御屋新呂の八字を二行に書てあたへたらる長く社の宝とせり或いはこの額大江師の書き給へるは白河院の承和元の事ともいへり

建久けんきゅう7年(1196)豊前ぶぜん豊後ぶんご両国の守護兼しゅごけん鎮西奉行ちんぜいぶぎょうとして現地へ下向げこうした大友能直おおともよしなお豊後ぶんご大友氏おおともし初代)は、大原八幡宮おおはらはちまんぐう豊西総社ほうさいそうじゃ柞原八幡宮ゆすはらはちまんぐう豊東総社ぶんとうそうじゃ豊後八郡ぶんごはちぐんを二分します。そして大原八幡宮おおはらはちまんぐう祭礼さいれいを鎌倉の鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう礼式れいしきに改めました。また神宮寺じんぐうじにも、大般若経だいはんにゃきょう奉納ほうのうを行います。社家しゃけも17軒あり、神宮寺じんぐうじには多くのぼうがあり、多くの神人じんにんがいて、盛大な祭礼さいれいが執り行われました。地頭じとう日田氏ひたしも代々篤く帰依きえし、応長おうちょう2年(1312)今も新大原宮しんおおはらぐう楼門ろうもん随神ずいじんとして鎮座ちんざしている善神王ぜじんのう奉納ほうのう貞和じょうわ4年(1348)大友氏時おおともうじときは、大原宮おおはらぐう豊後七社ぶんごななしゃの内に加えて崇敬すうけいするとともに、社殿しゃでんの建立などに力をつくしました。観応かんおう2年(1351)一式道猷いっしきどうゆうは、筑前国ちくぜんのくに夜須庄内やすしょうないの田地50町を寄進きしんして、足利直冬あしかがただふゆなどの逆徒ぎゃくと退治に、大原八幡宮おおはらはちまんぐう加護かごを祈りました。興国こうこく3年/暦応りゃくおう5年・康永こうえい元年(1342)大友氏おおともし大友氏泰おおともうじやすか)が社殿しゃでんを御造営ぞうえいし、豊後八社八幡ぶんごはっしゃはちまんの筆頭として尊崇そんすうします。文安ぶんあん4年(1447)大蔵永世おおくらながよ御殿ごてんを改築。文明ぶんめい6年(1474)日田親常ひたつかつねは、社殿しゃでんの再建、祭礼さいれいの整備につとめ、殊に御神幸ごしんこうは山を下りって会所八幡宮よそはちまんぐうへ至る道のりに改めました。永禄えいろく2年(1559)大友宗麟おおともそうりん竹田村たけだむらの田八町を寄進きしん天正てんしょう17年(1589)検地けんちが行われ、『豊西記ほうさいき』によれば日田郡ひたぐん検地けんち寺社じしゃの部にて「大原大宮司九町、大原承仕六反六畝、大原総禰宜九反八畝二十歩、二禰宜九反二畝、三禰宜四反八畝、真如坊真如坊六反八畝、実相坊八反五畝、一乗坊六反三畝、実成坊五反三畝、空善坊六反四畝、理趣坊三反三畝(真如坊しんにょぼう以下は神宮寺じんぐうじの六坊)」の大原八幡宮おおはらはちまんぐう関係の寺家じけ社家しゃけの所領が記載されています。

江戸後期(1800年代前半)に記された森春樹もりはるき豊西説話ほうせいせつわ』によれば、大坂夏の陣の後にて功を立てて日田郡ひたぐん永山城主ながやまじょうしゅとなった石川忠総いしかわただふさが、寛永かんえい元年(1625)5月に神来町かみくまち元大原神社もとおおはらじんじゃ元宮もとみや)までは遠く、崇敬すうけいの足らなくなることを憂慮して、現在地の新大原しんおおはら田島村たしまむら)へ遷座せんざしました。社領しゃりょう100石と山林数町歩が寄進きしんされ、遷座せんざの行列は、一番から三十番まで続き、家老以下の家臣、足軽、中間の警備など盛大を極めたと伝えています。


境内社けいだいしゃなど】

社殿しゃでん

文明ぶんめい6年(1474)に再建の後、現存の社殿しゃでん宝暦ほうれき10年(1760)に上棟じょうとう、再興されています。屋根については、当初は草葺くさふき(ワラ・カヤ)でしたが、修理変遷の中で現存のき仕様となりました。各社殿かくしゃでんともに優れた建造物であり、平成14年(2002)3月7日 市有形文化財に指定されています。

  • 神殿しんでん三間社流造さんげんしゃながれづくり、杉コケラ板葺いたふ
  • 幣殿へいでん一間社切妻いっけんしゃきりづま銅板横葺どうばんよこふ
  • 拝殿はいでん三間社流造さんげんしゃながれづくり銅板横葺どうばんよこふ
  • 水盤舎すいばんしゃ四脚切妻平入よつあしきりづまひらいり形、銅板横葺どうばんよこふ
  • 神輿藏みこしくら切妻造妻入きりづまづくりつまいり、桟瓦葺さんかわらぶ

杉原宮すぎはらのみや

杉原宮

参道さんどう入り口に鎮座ちんざ慶雲けいうん元年(704)杉原すぎはら神来町かみくまち)の大杉おおすぎこずえ大神おおかみが降り、村の乙女に神懸かみがかりして「ちん岩松ヶ峯いわまつがみねの神である。あのみねは路が険しく、人々がまつりをするに不便である。諸人もろびとのためにこの台地に現れた。永く豊前ぶぜんの地を守らむ」と神託しんたくが降り、岩松ヶ峯いわまつがみね天瀬町鞍形尾あまがせまちくらがとう)の地に示現じげんした神をまつった鞍形尾神社くらがとうじんじゃ祖神社おやじんじゃ元々宮もとみやじんじゃ)から、遷座せんざされた地です。遷座せんざされたのは貞観じょうがん元年(859)との説も有ります。後、貞観じょうがん13年(871)、元慶がんぎょう元年(877)、又は延喜えんぎ18年(918)に元大原神社もとおおはらじんじゃ社地しゃち遷座せんざしました。

御杉神木碑おすぎしんぼくひ

御杉神木碑

杉原宮すぎはらのみやの南西30m程に祀られている石碑。村の乙女に神懸かみがかりして「ちん岩松ヶ峯いわまつがみねの神である。あのみねは路が険しく、人々がまつりをするに不便である。諸人もろびとのためにこの台地に現れた。永く豊前ぶぜんの地を守らむ」と神託しんたくが降りた大杉跡です。幹回り10m、直径3.6m、高さ40m以上。中は空洞があり、根元は地上に盛り上がるほどの巨木で1200年を超える樹齢を誇りましたが、昭和5年(1930)に焼失。平成11年(1999)の神殿しんでん保存修復を記念して御神木ごしんぼく精霊せいれいを敬い碑が建てられました。

宝筐印塔ほうきょういんとう

宝筐印塔

元大原神社もとおおはらじんじゃの一角に残る二基の宝筐印塔ほうきょういんとうは、経文きょうもん等を納めた供養塔くようとうで、隅飾突起すみかざりとっきをつけた笠等に特徴がある。北側の一基は塔身とうしんと基礎のみしか残っていないが、塔身とうしん四面に刻まれた梵字ぼんじは格調が高い。基礎には「豊後国日田大原宮石塔壱基座 奉書写一乗妙典 右志者為天長地久願□□繁晶万民快楽也 大願主沙弥西円 尼妙仙 貞和三年(1347)八月十二 大工一乗」の墨書銘すみがきめいがあり、製作者や年代がはっきりしている石塔せきとうとしては、永平寺跡板碑えいへいじあといたひに次いで古い。南側の一基は完全な形をとどめており、高さ約2.6m。銘文めいぶんはないが北側の塔よりも年代は下る。平成3年(1991)の台風により倒壊したが、復元修理された。昭和57年(1982)5月11日 市有形文化財指定。[※現地案内板]

求来里くくり笠塔婆かさとうば

求来里の笠塔婆

笠塔婆かさとうば供養塔くようとうの一種で、この一基はかつて大字求来里おおあざくくり字東寺あざとうじにあった寺に関係するものと考えられるが、近年この地に移された。基壇きだんの上に塔身とうしんが立ち、高さ150cm、幅70cm、厚さ20cm。上部にある突起に、当時は笠部が載っていたと思われる。碑面には二段の刳込えぐりこみが施されており、その中に、正面上段に釈迦如来しゃかにょらい(バク)、下段に阿弥陀如来あみだにょらい(キリーク)、裏面上段に胎蔵界たいぞうかい大日如来だいにちにょらい(アーンク)、下段に金剛界こんごうかい大日如来だいにちにょらい(バーンク)の四尊の梵字ぼんじが、雄渾な薬研彫やげんぼりで彫ってある。基壇きだんは大正年間の後補こうほで、これに刻まれた文字は、もと碑正面下部にあった墨書の銘(今は消滅)を写したものであることから、北朝年号の観応かんおう年間(1350頃)の建立と考えられるが、裏面の梵字ぼんじについては後世に彫り加えられたものと言われる。このように、堂々たる碑の姿、明らかな制作年代、碑面の二段の刳込えぐりこみなど、県内でも例を見ない特徴的な形態をしており、中世の日田ひたの歴史を考える上でも貴重な資料である。平成14年(2002)3月7日 市有形文化財指定。[※現地案内板]

関大神宮せきだいじんぐう

笠塔婆かさとうばの右手に鎮座ちんざする石祠いしほこら関神せきのかみまつっています。

「稲荷大明神」

社殿前参道しゃでんまえさんどうの向かって左手に鎮座ちんざする石祠いしほこら宇迦之御魂神うかのみたまのかみまつっています。

Photo・写真

  • 御杉神木碑
  • 参道口
  • 杉原宮
  • 三之鳥居
  • 神橋
  • 四之鳥居
  • 境内
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 社殿向かって左手
  • 宝筐印塔
  • 関大神宮
  • 求来里の笠塔婆
  • 稲荷大明神

情報

住所〒877-0000
日田市求来里ひたしくくり423-1
創始そうし天武天皇てんむてんのう9年 (680)
  • 鞍形尾神社くらがとうじんじゃから杉原宮すぎはらのみや
    慶雲けいうん元年(704)、又は貞観じょうがん元年(859)遷座せんざ
  • 杉原宮すぎはらのみやから元大原神社もとおおはらじんじゃ
    貞観じょうがん13年(871)、元慶がんぎょう元年(877)、
    又は延喜えんぎ18年(918)に遷座せんざ
  • 寛永かんえい元年(1625)大原八幡宮おおはらはちまんぐう新大原しんおおはら]へ遷座せんざ
社格しゃかく大原八幡宮おおはらはちまんぐう 元宮もとみや杉原宮すぎはらのみや
HP Wikipedia

地図・マップ