鞍形尾神社(祖神社・元々宮)は、岩松ヶ峯(天瀬町鞍形尾)の地に示現した神を祀った当地から、慶雲元年(704)、又は貞観元年(859)に元大原神社の参道入り口にある杉原宮へ遷座するまでの期間、大原八幡宮の鎮座地とされた地です。
日田市(旧日田郡)の総鎮守社である大原八幡宮は、大波羅八幡宮とも称され、本殿の中央に誉田別命(応神天皇)、左殿に応神天皇の母である息長足姫命(神功皇后)、右殿に宇佐の氏神とも宗像の三女神とも言われる比売大神を祀っています。
天保3年(1832)成立した『造領記』(森春樹著)によれば、天武天皇9年(680)11月に靱負郷岩松ヶ峯(天瀬町鞍形尾)の当地に示現。当所は、何の神か不明であったものの、翌年の天武天皇10年(681)9月に、示現した神が宇佐の鷹居社の神であると村人に託宣し、八幡大神を祀ったのが起源とされています。後に、峯に鞍の形をした巨石があったことから鞍形峯と呼ばれるようになりました。
『造領記』天保3年(1832)成立
明日香浄御原宮御宇天渟中原瀛真人天皇九年庚辰(680)十一月靱負郷岩松峰峯に神現給ふ事ありき何の神におはしますといふことをしらす同十年辛巳秋九月神村人に詫て曰あれは宇佐の鷹居の社にをる神ありとのり給ふこの神の詫を承りて里人ともつとひてやかて湯山其峯に社を営てしつめまつりき此峯に石有其形勢鞍に似たりけれは後に鞍形岑と呼ならはしき
慶雲元年(704)杉原(神来町)の大杉の梢に大神が降り、村の乙女に神懸かりして「朕は岩松ヶ峯の神である。あの峯は路が険しく、人々が祀りをするに不便である。諸人のためにこの台地に現れた。永く豊前の地を守らむ」と神託が降ります。その神託を受けて、杉原宮を建てて祀りました。
『造領記』天保3年(1832)成立
慶雲元年(704)甲辰三月杉原の杉の梢に神現給ふそは岩松の御神にやといへともしられぬは郷民等杉のもとにいたり集ひて曰いかなる御御神にましますかいかならん御心ましませはこゝに瑞を示し給ふやこひねかわくはこゝにしつもりまして國人を護賑はし給へとねきまをしけれは民某か女に神憑て告給はくあれは先に岩松の峯にあわりたりし神也彼之年は四方より來りて我前をまつるに路さかしくて諸人煩ひぬれはあか心また悩しこゝの杉原はしかしかのわつらひなくよろつに便宜けれは以降はこゝにをりていやますます諸人に親しまんとの給ひけるによりて新に御社を建て御神のみこゝろのままにうつしまつりき
杉原の八幡宮は日田郡の人々はもとより他国の参拝者も多く、行基、伝教大師(最澄)、小野篁も礼拝したと、貞享3年(1686)以降に編纂された『豊西記』、及び『造領記』で伝えています。又、『造領記』では行基が訪れたのは天平12年(740)と記しています。
『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂
天平四年壬申(732)六月十八日僧行基菩薩、定諸國堺巡禮之時、宿于大原。鑒東西分、今之於高畷、向妙童鬼曰、此後二百年之中、大權神來現、此地可守護也。
延暦十一壬申年(792)九月三日、傳敎大師、宇佐宮七日參籠之後、阿蘇宮參詣之時、宿于大原、此後百年之中、大權神可有來現。云云。
弘仁八丁酉年(817)八月十五日小野篁、自石見國來宿大原。對杉木禮拜七日、語民曰、近代此所可有八幡來現也。
貞観13年(871)2月、日田郡司の大蔵永弘に「今の社の地、わが心に叶わず…北の方に清浄の地あり…」との夢告があります。その翌朝、木樵らが大蔵永弘を訪れて、150m程北東の丘上にある木の上に白幣がかかっており、神慮ではないかと報告します。それを聞いた大蔵永弘は、神の御心と畏み、その地に注連縄を引いて社殿を造営し、宇佐宮の神主の息子の橋本公則を神主として迎えて祭祀しました。これが神来町の元宮原(元大原八幡宮・元宮)になります。橋本公則が神主として迎えられたのは諸説あり、元慶元年(877)とも、現在の元大原八幡宮の社殿が完備され、御祭神として息長足姫命(神功皇后)と比売大神を奉斎するようになった延喜18年(918)とも伝えられています。又、享和3年(1803)編纂の『豊後国志』では貞観年間(859-877)に神宮寺も建てられ、密教により奉られていたと記しています。
『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂
貞観十三年(871)辛卯春二月或夜杉原の大宮司大蔵永弘に告白今の社の地あか心に不協こゝより少く北のかたに清浄地有そこにをらんと思ふ我しつまらんと思ふ地には必瑞あらんそこに社を造るへしとのり給ひき又其あくる朝樵夫等郡家に集ひ來りて永弘に申けらく杉原の少し北なる岡の上のそれの木のうれに白幣かゝれりこれは神のみつならんとまをす永弘これを聞てよへ神の告給へりしことにあへれはやかて往て見るにそのみつははやくうせたれとも神の御心をかしこみて其所のその木なりしといふ地にしめ引きわたしてこゝらの工ともをつとへて御社を新に太く高く造営ていとめてたき壮観となし奉りて宇佐宮の神主某の子公則といふをむかへて神主とし宇佐宮の如く比咩皇神神功皇后をも併まつりき。
公則は即比咩皇神の神裔にて神武天皇の御時に在て天皇を迎奉りて足一騰宮に饗奉りし菟狭津彦菟狭津媛の裔にて上古より宇佐の神の神主也或は曰く陽成天皇元慶元年丁酉公則來る或は曰醍醐天皇延喜十八年戊寅大原社興立則其年來るともいへり。
『豊後国志』享和3年(1803)
[神宮寺]在刄連鄕田島村。貞觀以來掌大原祠神亊奉密敎。
尚、『豊西記』では、創建譚の杉原の大杉の梢に大神が降臨したのは貞観元年(859)、元慶元年(877)9月1日に岩松ヶ峯に八幡大神が御来現したと伝えています。
『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂
貞觀元己卯年(859)、帝都男山石淸水宮始。大安寺行敎和尚、八幡宮奉祈移建立之。同時大原之杉梢白幤化現矣。
-(略)-。
元慶元丁酉年(877)九月朔日、當郡岩松、八幡來現。或家傳曰諸人不知之、晝夜雲霧覆當郡、鎭闇而無見日月。丁岩松之峯電雷鳴。當時之郡司職鬼藏大夫大藏永弘、家臣召雪野曰、汝、行岩松之峯、可窺見也。依仰發向岩松。于茲陳大屯矣。圍素幔於峯頭如白霧、錦幢、颺于大虛似電光。鈬皷、響岩谷震搖矣。異形之夜叉・鬼人、如雲霞令夜圍遶陣頭警固。厥粧巍蕩々而恰非所逮愚見矣。雪埜近玉席、令伺候、以傳奏、肥多鬼藏大夫之使趣奉呈敬令奏上。
神、詔曰、者是八幡大神也。爲當縣守護、現神靈者也。汝何者乎。雪野龔自姓名奉奏聞。神、再詔曰、汝自今以後、可爲朕臣、仍改名、稱ユキイ者也。爾時、雪野、頂禮歡喜、重姓名之文字奉尋問、矣。宣刄連也。然後、神乘白馬昇天畢。其跡有玉鞍於松下依之、岩松号鞍形尾云。
元禄12年(1699)貝原楽軒『大原八幡宮縁起』では、貞観元年(859)八幡大神が大原山の大杉の梢に白幣が出現したことから、奏聞を経て、勅命により宇佐神宮に倣った形式で神功皇后共々祀ったと伝えています。
『大原八幡宮縁起』元禄12年(1699)貝原楽軒
淸和天皇貞觀元年己卯年、八幡大神此地に鎭しますべきよし託告ありて、奇瑞あるべきおしるしとして御祠をたつべきよしなりしが、大原山の杉の梢に白幣出現しけれハ、村民等奇異の思ひをなし、則奏聞を經、勅命によりて其處に大宮柱ふとしきたてゝ、三ツ葉四ツ葉に殿作りして、崇め祭り奉りける。宇佐宮の例によりて、神功皇后媛御神をも相殿に祭り奉る、わきて靈告新にして、祭り奉れる御やしろなれハにや、神德日を追てあらわれ、稜威年に從てさかんなりき、これによりて世々の國主領主も、此御祠を敬れさるはなし。
【境内社など】
「天満宮」
社殿向かって左手後方に鎮座。菅原道真公を祀っています。
「鞍形尾神社の自然林」
日田市の総八幡社として知られる大原八幡宮の祖神社である鞍形尾神社周辺に残る境内林である。神社の北西背後地の約1haに広がる自然林は、ウラジロガシを主にした高木層を優占種に、亜高木層のヤブニッケイ・クロキ、低木層のヒサカキ・ネズミモチ、草木層のナガバジャノヒゲなどがあり、まとまった自然林を構成している。平成56年(1981)3月31日 県天然記念物指定。[※現地案内板]