日田市(旧日田郡)の総鎮守社である大原八幡宮は、大波羅八幡宮とも称され、本殿の中央に誉田別命(応神天皇)、左殿に応神天皇の母である息長足姫命(神功皇后)、右殿に宇佐の氏神とも宗像の三女神とも言われる比売大神を祀っています。
天保3年(1832)成立した『造領記』(森春樹著)によれば、天武天皇9年(680)11月に靱負郷岩松ヶ峯(天瀬町鞍形尾)の鞍形尾神社(祖神社・元々宮)の地に示現。当所は、何の神か不明であったものの、翌年の天武天皇10年(681)9月に、示現した神が宇佐の鷹居社の神であると村人に託宣し、八幡大神を祀ったのが起源とされています。後に、峯に鞍の形をした巨石があったことから鞍形峯と呼ばれるようになりました。
『造領記』天保3年(1832)成立
明日香浄御原宮御宇天渟中原瀛真人天皇九年庚辰(680)十一月靱負郷岩松峰峯に神現給ふ事ありき何の神におはしますといふことをしらす同十年辛巳秋九月神村人に詫て曰あれは宇佐の鷹居の社にをる神ありとのり給ふこの神の詫を承りて里人ともつとひてやかて湯山其峯に社を営てしつめまつりき此峯に石有其形勢鞍に似たりけれは後に鞍形岑と呼ならはしき
慶雲元年(704)杉原(神来町)の大杉の梢に大神が降り、村の乙女に神懸かりして「朕は岩松ヶ峯の神である。あの峯は路が険しく、人々が祀りをするに不便である。諸人のためにこの台地に現れた。永く豊前の地を守らむ」と神託が降ります。その神託を受けて、杉原宮を建てて祀りました。
『造領記』天保3年(1832)成立
慶雲元年(704)甲辰三月杉原の杉の梢に神現給ふそは岩松の御神にやといへともしられぬは郷民等杉のもとにいたり集ひて曰いかなる御御神にましますかいかならん御心ましませはこゝに瑞を示し給ふやこひねかわくはこゝにしつもりまして國人を護賑はし給へとねきまをしけれは民某か女に神憑て告給はくあれは先に岩松の峯にあわりたりし神也彼之年は四方より來りて我前をまつるに路さかしくて諸人煩ひぬれはあか心また悩しこゝの杉原はしかしかのわつらひなくよろつに便宜けれは以降はこゝにをりていやますます諸人に親しまんとの給ひけるによりて新に御社を建て御神のみこゝろのままにうつしまつりき
杉原の八幡宮は日田郡の人々はもとより他国の参拝者も多く、行基、伝教大師(最澄)、小野篁も礼拝したと、貞享3年(1686)以降に編纂された『豊西記』、及び『造領記』で伝えています。又、『造領記』では行基が訪れたのは天平12年(740)と記しています。
『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂
天平四年壬申(732)六月十八日僧行基菩薩、定諸國堺巡禮之時、宿于大原。鑒東西分、今之於高畷、向妙童鬼曰、此後二百年之中、大權神來現、此地可守護也。
延暦十一壬申年(792)九月三日、傳敎大師、宇佐宮七日參籠之後、阿蘇宮參詣之時、宿于大原、此後百年之中、大權神可有來現。云云。
弘仁八丁酉年(817)八月十五日小野篁、自石見國來宿大原。對杉木禮拜七日、語民曰、近代此所可有八幡來現也。
貞観13年(871)2月、日田郡司の大蔵永弘に「今の社の地、わが心に叶わず…北の方に清浄の地あり…」との夢告があります。その翌朝、木樵らが大蔵永弘を訪れて、150m程北東の丘上にある木の上に白幣がかかっており、神慮ではないかと報告します。それを聞いた大蔵永弘は、神の御心と畏み、その地に注連縄を引いて社殿を造営し、宇佐宮の神主の息子の橋本公則を神主として迎えて祭祀しました。これが神来町の元宮原(元大原神社・元宮)になります。橋本公則が神主として迎えられたのは諸説あり、元慶元年(877)とも、現在の元大原神社の社殿が完備され、御祭神として息長足姫命(神功皇后)と比売大神を奉斎するようになった延喜18年(918)とも伝えられています。又、享和3年(1803)編纂の『豊後国志』では貞観年間(859-877)に神宮寺も建てられ、密教により奉られていたと記しています。
『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂
貞観十三年(871)辛卯春二月或夜杉原の大宮司大蔵永弘に告白今の社の地あか心に不協こゝより少く北のかたに清浄地有そこにをらんと思ふ我しつまらんと思ふ地には必瑞あらんそこに社を造るへしとのり給ひき又其あくる朝樵夫等郡家に集ひ來りて永弘に申けらく杉原の少し北なる岡の上のそれの木のうれに白幣かゝれりこれは神のみつならんとまをす永弘これを聞てよへ神の告給へりしことにあへれはやかて往て見るにそのみつははやくうせたれとも神の御心をかしこみて其所のその木なりしといふ地にしめ引きわたしてこゝらの工ともをつとへて御社を新に太く高く造営ていとめてたき壮観となし奉りて宇佐宮の神主某の子公則といふをむかへて神主とし宇佐宮の如く比咩皇神神功皇后をも併まつりき。
公則は即比咩皇神の神裔にて神武天皇の御時に在て天皇を迎奉りて足一騰宮に饗奉りし菟狭津彦菟狭津媛の裔にて上古より宇佐の神の神主也或は曰く陽成天皇元慶元年丁酉公則來る或は曰醍醐天皇延喜十八年戊寅大原社興立則其年來るともいへり。
『豊後国志』享和3年(1803)
[神宮寺]在刄連鄕田島村。貞觀以來掌大原祠神亊奉密敎。
尚、『豊西記』では、創建譚の杉原の大杉の梢に大神が降臨したのは貞観元年(859)、元慶元年(877)9月1日に岩松ヶ峯に八幡大神が御来現したと伝えています。
『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂
貞觀元己卯年(859)、帝都男山石淸水宮始。大安寺行敎和尚、八幡宮奉祈移建立之。同時大原之杉梢白幤化現矣。
-(略)-。
元慶元丁酉年(877)九月朔日、當郡岩松、八幡來現。或家傳曰諸人不知之、晝夜雲霧覆當郡、鎭闇而無見日月。丁岩松之峯電雷鳴。當時之郡司職鬼藏大夫大藏永弘、家臣召雪野曰、汝、行岩松之峯、可窺見也。依仰發向岩松。于茲陳大屯矣。圍素幔於峯頭如白霧、錦幢、颺于大虛似電光。鈬皷、響岩谷震搖矣。異形之夜叉・鬼人、如雲霞令夜圍遶陣頭警固。厥粧巍蕩々而恰非所逮愚見矣。雪埜近玉席、令伺候、以傳奏、肥多鬼藏大夫之使趣奉呈敬令奏上。
神、詔曰、者是八幡大神也。爲當縣守護、現神靈者也。汝何者乎。雪野龔自姓名奉奏聞。神、再詔曰、汝自今以後、可爲朕臣、仍改名、稱ユキイ者也。爾時、雪野、頂禮歡喜、重姓名之文字奉尋問、矣。宣刄連也。然後、神乘白馬昇天畢。其跡有玉鞍於松下依之、岩松号鞍形尾云。
元禄12年(1699)貝原楽軒『大原八幡宮縁起』では、貞観元年(859)八幡大神が大原山の大杉の梢に白幣が出現したことから、奏聞を経て、勅命により宇佐神宮に倣った形式で神功皇后共々祀ったと伝えています。
『大原八幡宮縁起』元禄12年(1699)貝原楽軒
淸和天皇貞觀元年己卯年、八幡大神此地に鎭しますべきよし託告ありて、奇瑞あるべきおしるしとして御祠をたつべきよしなりしが、大原山の杉の梢に白幣出現しけれハ、村民等奇異の思ひをなし、則奏聞を經、勅命によりて其處に大宮柱ふとしきたてゝ、三ツ葉四ツ葉に殿作りして、崇め祭り奉りける。宇佐宮の例によりて、神功皇后媛御神をも相殿に祭り奉る、わきて靈告新にして、祭り奉れる御やしろなれハにや、神德日を追てあらわれ、稜威年に從てさかんなりき、これによりて世々の國主領主も、此御祠を敬れさるはなし。
『豊西記』によれば、延喜18年(918)社殿が完備され、八幡大神から郡司の鬼蔵大夫(大蔵大夫)に「肥多」から日輪の下に万田を開くとの意で「日田」と書くよう神勅がありました。そして同年、小野篁が再来したと伝えています。
『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂
延喜十八戊寅年、大原八幡宮社壇建立。爾時、八幡召鬼藏大夫曰、此所夲元者雖書肥夛、朕頂上有日輪、朕亦開萬田、自今以後可書日田也。同年、小埜篁再來、八幡宮奉見。隔時代年季後、篁來亊不思議也。二星化現之人、無疑者歟。
延久3年(1071)日田殿と愛称され、摂社の日田神社の御祭神として祀られる大蔵永季が、16歳にして宮中儀式の相撲節会に召され、神威により出雲小冠者に勝利します。大蔵永季はその後、長治元年(1104)まで10度も節会に参加し、一度も負けることがなかったとされています。『豊西記』では、その大蔵永季により、承保元年(1074)会所八幡宮の裏の山上までの御神幸が始められたと伝えています。また、『造領記』では承徳年間(1097-1099)大蔵永季が大宰府を参詣したとき、太宰府天満宮の権師であった大江匡房に「大波羅野御屋新呂」の扁額を依頼し、奉献されたと『豊西記』は記しています。
『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂
承保元甲寅年八月十五日大原八幡宮放生會始。
『造領記』天保3年(1832)成立
堀河院承徳中永季大宰府参勤の時権師に請て大原八幡大神の社頭の額を書かしむ此時の権師は正三位権納言大江匡房卿にてまします則大波羅野御屋新呂の八字を二行に書てあたへたらる長く社の宝とせり或いはこの額大江師の書き給へるは白河院の承和元の事ともいへり
建久7年(1196)豊前・豊後両国の守護兼鎮西奉行として現地へ下向した大友能直(豊後大友氏初代)は、大原八幡宮を豊西総社、柞原八幡宮を豊東総社と豊後八郡を二分します。そして大原八幡宮の祭礼を鎌倉の鶴岡八幡宮の礼式に改めました。また神宮寺にも、大般若経の奉納を行います。社家も17軒あり、神宮寺には多くの坊があり、多くの神人がいて、盛大な祭礼が執り行われました。地頭の日田氏も代々篤く帰依し、応長2年(1312)今も新大原宮楼門に随神として鎮座している善神王を奉納。貞和4年(1348)大友氏時は、大原宮を豊後七社の内に加えて崇敬するとともに、社殿の建立などに力をつくしました。観応2年(1351)一式道猷は、筑前国夜須庄内の田地50町を寄進して、足利直冬などの逆徒退治に、大原八幡宮の加護を祈りました。興国3年/暦応5年・康永元年(1342)大友氏(大友氏泰か)が社殿を御造営し、豊後八社八幡の筆頭として尊崇します。文安4年(1447)大蔵永世が御殿を改築。文明6年(1474)日田親常は、社殿の再建、祭礼の整備につとめ、殊に御神幸は山を下りって会所八幡宮へ至る道のりに改めました。永禄2年(1559)大友宗麟が竹田村の田八町を寄進。天正17年(1589)検地が行われ、『豊西記』によれば日田郡検地の寺社の部にて「大原大宮司九町、大原承仕六反六畝、大原総禰宜九反八畝二十歩、二禰宜九反二畝、三禰宜四反八畝、真如坊真如坊六反八畝、実相坊八反五畝、一乗坊六反三畝、実成坊五反三畝、空善坊六反四畝、理趣坊三反三畝(真如坊以下は神宮寺の六坊)」の大原八幡宮関係の寺家、社家の所領が記載されています。
江戸後期(1800年代前半)に記された森春樹『豊西説話』によれば、大坂夏の陣の後にて功を立てて日田郡の永山城主となった石川忠総が、寛永元年(1625)5月に神来町の元大原神社(元宮)までは遠く、崇敬の足らなくなることを憂慮して、現在地の新大原(田島村)へ遷座しました。社領100石と山林数町歩が寄進され、遷座の行列は、一番から三十番まで続き、家老以下の家臣、足軽、中間の警備など盛大を極めたと伝えています。寛永11年(1634)石川氏は佐倉藩に転封し、寛永16年(1639)には日田は天領となります。明暦3年(1657)日田郡中が大鳥居建立。延宝4年(1676)放生会も復興し、若八幡社への御神幸が行われて、現在まで続いています。貞享4年(1687)代官の小川氏が樓門を建立し、116段の見事な石段、石灯籠、手洗石等も完成しました。寛政2年(1790)日田郡代の揖斐氏により社殿が改築され寛政12年(1800)に正遷宮が斎行されました。安政4年(1857)御鎮座一千年式年大祭が執り行われ、郡代の池田氏が大鳥居を建立。明治5年(1872)県社に列格されました。
【境内社など】
「社殿」
平成11月22日に日田市有形文化財に指定された社殿は、寛政6年(1794)建立の棟札が残され、拝殿、幣殿、本殿は欅造り。廊下は銀杏の板で結ばれており、いずれも建築当時の様式をそのまま残しています。平成2年(1990)氏子融資の浄財によって本殿の屋根の葺き替え(銅板)が行われました。
- 楼門:三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺。貞享四年(1687)と社録にある。
- 拝殿:桁行五間、梁行三間、入母屋造、千鳥破風付。向拝三間、軒唐破風付。銅版葺。
- 幣殿:正面三間(背面一間)、側面二間、切妻造。妻入、銅版葺。
- 本殿:桁行三間、梁行三間、入母屋造。向拝一間、銅版葺。
「松尾神社」
社殿向かって左奥に鎮座。御祭神として大山咋神、中津島姫命を酒造の神として祀っています。山城国(京都)の松尾大社からの勧請で、古社殿の銘に「元文三年十一月九日建立」、「文久四年三月十九日再建」とあります。
「うぶけ」
社殿後方の向かって一番左に鎮座。子供の成長を願い産毛を納める塚です。安産の神、赤子の神として祀られています。
「日田神社」
社殿後方、「うぶけ」の右手に鎮座。御祭神として相撲の神様とされる日田郡司の大蔵永季(大蔵家鬼太夫永季・日田殿)とその祖を祀っています。大蔵永季は、後三条天皇の御代、相撲節会にて出雲小冠者に勝ち、卯日相撲の起こりとされています。その優勝額は社宝として保存されています。
「住吉神社」
社殿後方向かって日田神社の右手に鎮座。御祭神として神功皇后の三韓征伐の航路を守護した住吉大神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)を祀っています。海運、航行、漁業の守護神です。
「醫祖神社(医歯薬之神)・醫師薬神の牛」
社殿後方、大山祇神社の左手に鎮座。御祭神として大國主命、少彦名命を祀っています。厚生、治病、衛生の守護神です。
「大山祇神社」
社殿後方、向かって一番右に鎮座。御祭神として大山祇命を祀っています。大原八幡宮鎮座1100年に当り、日田木材協同組合より伊予国大三島に坐す大山祇神社の御分霊を勧請し、謹請奉斎しています。山林の恩恵を奉謝し、その育成守護を祈祝するために祀られています。
「錦春稲荷大明神」
境内の東口に鎮座。衣食住の神として稲荷大神(豊宇氣姫)を祀っています。寛永6年(1629)水戸徳川家の江戸屋敷の中に造営された小石川後楽園の錦春門内の台地に兜一刎を埋め、社を建てて、稲荷大神を祀ったのが創祀です。水戸邸が東京砲兵工廠となってからも引き続き祭祀は奉斎されていましたが、昭和9年(1934)2月21日、東京より小倉に遷座して小倉陸軍造兵廠の守護神として祀ることとなり、昭和10年(1935)4月17日に遷座祭が挙行されました。昭和20年(1945)3月、小倉陸軍造兵廠の主力を日田市に疎開すると共に、同年7月吉日に遷座。同年8月15日終戦により軍の武装解除と共に造兵廠も解散することとなり、大原八幡宮の境内に神殿を新築して遷座し、祭祀されることとなりました。
「牛御前」
学徳の神、天神の神牛として錦春稲荷大明神の左手に祀られています。
「稲荷大明神」
境内の東口から出て北側の後方に石祠と共に祀られています。
「包丁塚」
境内の東口から出て北側の後方。稲荷大明神から奥に祀られています。日田市郡内の食品営業者が調理に使い古した包丁を包丁塚に納めて、永くその功徳に感謝すると共に、包丁により調理された魚・鳥・獣・菜の霊を慰め、包丁の余財に預かり、業界の繁栄と万民の福祉を念じて例年包丁祭が斎行されています。
「宮地嶽神社」
境内東口から150m程東へ進んだ地に鎮座する境外末社です。
【特殊神事・祭事】
米占い行事
毎年行われる「大原八幡宮の米占祭」は、2月15日に炊き上げた小豆飯を神殿に奉納し、3月15日に古老がそのカビの着き具合からその年の吉兆を占う神事です。平成11年(1999)12月3日に国選定無形文化財に指定されています。
この行事は米占祭とも称され、新暦になっても2月15日に行われていましたが、昭和30年頃から3月15日に行うようになりました。粳米1升3合3勺に小豆3合を入れて飯を焚き、赤飯と同じ程の硬さにまで炊き上げます。炊き上がった小豆飯を深さ3cm、径33cmの丸い粥盆に、しゃもじで抑えながら、中央を少し高めにしたなだらかな山状にしっかりと押し付けます。
占う粥盆は、仕切り板で5つに分割して米・麦・粟・稗・豆(大豆)の木札を立てる「五穀盆」と、蔓の根の皮で市内の16の河川を象った「地形盆」の2つの粥盆からなります。調整された粥盆は、幣殿の八足の上に置かれ、本殿向かって右側に五穀盆、左側に地形盆が置かれ、疫神祓と供えた御饌に五穀の作柄と天変地異を米占いに示し、知らしめ賜うことを祈願する祝詞が奏上されます。
五穀盆は、時計回りで米・麦・稗・粟・豆(大豆)の五穀になります。
地形盆は、日田の16の河川から地域を区切って作られます。
①大肥川、②三隈川、③二串川、④山田川、⑤小野川、⑥花月川、⑦有田川、⑧玖珠川、⑨大山川、⑩杖立川、⑪津江川、⑫上野川、⑬赤石川、⑭高瀬川、⑮串川、
⑯川下川
1ヶ月後の3月15日午前8時に、粥盆が取り出され回廊の斎場に置かれて占いは始まります。宮司は祝詞をあげて儀式を執り行いますが一切口出しせず、占いは、米占いの当日集まってきた人々により行われます。数十年もの間、米占祭に参加してきた古老らの占い経験に基づき、皆が意見を出しあいながら、カビの映えている場所や色から神慮を伺います。
五穀盆の判定例
- 盆の中心:種を蒔く時期
- 盆の縁:収穫時期の豊凶、天候
- 白色のカビ:平年作
- 白色のカビで表面に露がある:豊作
- 赤味のカビ:凶作
- 赤味を帯びたカビの斑点があり露が少ない:旱魃による凶作
- 黄味を帯びたカビの斑点があり露が少ない:旱魃による凶作
- 青色のカビ:病虫害のため不作かも知れない。
- 紫色のカビ:病虫害のため不作かも知れない。
- 黒色のカビ:病虫害のため不作かも知れない。
地形盆の判定例
- 白色のカビ:平穏無事
- 赤色のカビ:火災の心配あり
- 青色のカビ、亀裂が生じている、下流に向って盛り上がる:水害の心配あり
- 黄色の塗り潰したようなカビ:暴風雨の心配あり
- 黒色のカビ:疫病、病気の心配あり
- 茶色のカビ:疫病、病気の心配あり
御田植祭
五穀豊穣を願って斎行される御田植祭は、毎年4月15日にされています。鎌倉時代から続いていると伝えられる古来の作法を継承するお祭りで、昭和59年(1984)3月30日には県指定無形民俗文化財にも指定されています。装束を身に着けた神職が中心になって行われ、宮司が祝詞を上げ、五穀豊穣と無病息災を祈願します。
拝殿前に9尺×4尺の周囲を縄で囲った仮斎田が3つ作られ、田んぼに見立てられた境内では、氏子2人が牛使いと牛に扮して、田を耕す場面が演じられます。牛の疲れた様子や牛使いとの掛け合いが見物客の笑いを誘います。そして御田植祭の花形である花笠を被った早乙女に扮した園児達が、御神田に見立てた仮斎田に、早苗に見立てたセキショウを植えて(置いて)豊作を祈願します。詠われる田植え歌は和歌に整えられており、3枚の田それぞれに決められた田植歌があり、朗詠されます。