九州の神社

大原八幡宮(日田市)

由緒

御祭神ごさいじん 誉田別命ほんだわけのみこと応神天皇おうじんてんのう)、息長足姫命おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)、比売大神ひめおおかみ

由緒

日田市ひたし(旧日田郡ひたぐん)の総鎮守社そうちんじゅしゃである大原八幡宮おおはらはちまんぐうは、大波羅八幡宮おおはらはちまんぐうとも称され、本殿ほんでんの中央に誉田別命ほんだわけのみこと応神天皇おうじんてんのう)、左殿さでん応神天皇おうじんてんのうの母である息長足姫命おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)、右殿うでん宇佐うさ氏神うじがみとも宗像むなかた三女神さんじょしんとも言われる比売大神ひめおおかみまつっています。

天保てんぽう3年(1832)成立した『造領記ぞうりょうき』(森春樹もりはるき著)によれば、天武天皇てんむてんのう9年(680)11月に靱負郷ゆきいごう岩松ヶ峯いわまつがみね天瀬町あまがせまち鞍形尾くらがとう)の鞍形尾神社くらがとうじんじゃ祖神社おやじんじゃ元々宮もともとみやの地に示現じげん。当所は、何の神か不明であったものの、翌年の天武天皇てんむてんのう10年(681)9月に、示現じげんした神が宇佐うさ鷹居社たかいしゃの神であると村人に託宣たくせんし、八幡大神はちまんおおかみまつったのが起源とされています。後に、峯に鞍の形をした巨石があったことから鞍形峯くらがみねと呼ばれるようになりました。

『造領記』天保3年(1832)成立

明日香浄御原宮御宇天渟中原瀛真人天皇九年庚辰(680)十一月靱負郷岩松峰峯に神現給ふ事ありき何の神におはしますといふことをしらす同十年辛巳秋九月神村人に詫て曰あれは宇佐の鷹居の社にをる神ありとのり給ふこの神の詫を承りて里人ともつとひてやかて湯山其峯に社を営てしつめまつりき此峯に石有其形勢鞍に似たりけれは後に鞍形岑と呼ならはしき

慶雲けいうん元年(704)杉原すぎはら神来町かみくまち)の大杉おおすぎこずえ大神おおかみが降り、村の乙女に神懸かみがかりして「ちん岩松ヶ峯いわまつがみねの神である。あの峯は路が険しく、人々がまつりをするに不便である。諸人のためにこの台地に現れた。永く豊前ぶぜんの地を守らむ」と神託しんたくが降ります。その神託しんたくを受けて、杉原宮すぎはらのみやを建ててまつりました。

『造領記』天保3年(1832)成立

慶雲元年(704)甲辰三月杉原の杉の梢に神現給ふそは岩松の御神にやといへともしられぬは郷民等杉のもとにいたり集ひて曰いかなる御御神にましますかいかならん御心ましませはこゝに瑞を示し給ふやこひねかわくはこゝにしつもりまして國人を護賑はし給へとねきまをしけれは民某か女に神憑て告給はくあれは先に岩松の峯にあわりたりし神也彼之年は四方より來りて我前をまつるに路さかしくて諸人煩ひぬれはあか心また悩しこゝの杉原はしかしかのわつらひなくよろつに便宜けれは以降はこゝにをりていやますます諸人に親しまんとの給ひけるによりて新に御社を建て御神のみこゝろのままにうつしまつりき

杉原すぎはら八幡宮はちまんぐう日田郡ひたぐんの人々はもとより他国の参拝者も多く、行基ぎょうき伝教大師でんきょうたいし最澄さいちょう)、小野篁おののたかむら礼拝らいはいしたと、貞享じょうきょう3年(1686)以降に編纂へんさんされた『豊西記ほうさいき』、及び『造領記ぞうりょうき』で伝えています。又、『造領記ぞうりょうき』では行基ぎょうきが訪れたのは天平てんぴょう12年(740)と記しています。

『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂

天平四年壬申(732)六月十八日僧行基菩薩、定諸國堺巡禮之時、宿于大原。鑒東西分、今之於高畷、向妙童鬼曰、此後二百年之中、大權神來現、此地可守護也。

延暦十一壬申年(792)九月三日、傳敎大師、宇佐宮七日參籠之後、阿蘇宮參詣之時、宿于大原、此後百年之中、大權神可有來現。云云。

弘仁八丁酉年(817)八月十五日小野篁、自石見國來宿大原。對杉木禮拜七日、語民曰、近代此所可有八幡來現也。

貞観じょうがん13年(871)2月、日田郡司ひたぐんじ大蔵永弘おおくらながひろに「今のやしろの地、わが心に叶わず…北の方に清浄の地あり…」との夢告むこくがあります。その翌朝、木樵きこりらが大蔵永弘おおくらながひろを訪れて、150m程北東の丘上にある木の上に白幣はくへいがかかっており、神慮しんりょではないかと報告します。それを聞いた大蔵永弘おおくらながひろは、神の御心みこころかしこみ、その地に注連縄しめなわを引いて社殿しゃでん造営ぞうえいし、宇佐宮うさぐう神主かんぬしの息子の橋本公則はしもときみのり神主かんぬしとして迎えて祭祀さいししました。これが神来町かみくまち元宮原もとみやばる元大原神社もとおおはらじんじゃ元宮もとみやになります。橋本公則はしもときみのり神主かんぬしとして迎えられたのは諸説あり、元慶がんぎょう元年(877)とも、現在の元大原神社もとおおはらじんじゃ社殿しゃでんが完備され、御祭神ごさいじんとして息長足姫命おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)と比売大神ひめおおかみ奉斎ほうさいするようになった延喜えんぎ18年(918)とも伝えられています。又、享和きょうわ3年(1803)編纂へんさんの『豊後国志ぶんごこくし』では貞観じょうがん年間(859-877)に神宮寺じんぐうじも建てられ、密教みっきょうによりたてまつられていたと記しています。

『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂

貞観十三年(871)辛卯春二月或夜杉原の大宮司大蔵永弘に告白今の社の地あか心に不協こゝより少く北のかたに清浄地有そこにをらんと思ふ我しつまらんと思ふ地には必瑞あらんそこに社を造るへしとのり給ひき又其あくる朝樵夫等郡家に集ひ來りて永弘に申けらく杉原の少し北なる岡の上のそれの木のうれに白幣かゝれりこれは神のみつならんとまをす永弘これを聞てよへ神の告給へりしことにあへれはやかて往て見るにそのみつははやくうせたれとも神の御心をかしこみて其所のその木なりしといふ地にしめ引きわたしてこゝらの工ともをつとへて御社を新に太く高く造営ていとめてたき壮観となし奉りて宇佐宮の神主某の子公則といふをむかへて神主とし宇佐宮の如く比咩皇神神功皇后をも併まつりき。

公則は即比咩皇神の神裔にて神武天皇の御時に在て天皇を迎奉りて足一騰宮に饗奉りし菟狭津彦菟狭津媛の裔にて上古より宇佐の神の神主也或は曰く陽成天皇元慶元年丁酉公則來る或は曰醍醐天皇延喜十八年戊寅大原社興立則其年來るともいへり。


『豊後国志』享和3年(1803)

[神宮寺]在刄連鄕田島村。貞觀以來掌大原祠神亊奉密敎。

尚、『豊西記ほうさいき』では、創建譚そうけんたん杉原すぎはら大杉おおすぎこずえ大神おおかみ降臨こうりんしたのは貞観じょうがん元年(859)、元慶がんぎょう元年(877)9月1日に岩松ヶ峯いわまつがみね八幡大神はちまんおおかみ御来現ごらいげんしたと伝えています。

『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂

貞觀元己卯年(859)、帝都男山石淸水宮始。大安寺行敎和尚、八幡宮奉祈移建立之。同時大原之杉梢白幤化現矣。

-(略)-。

元慶元丁酉年(877)九月朔日、當郡岩松、八幡來現。或家傳曰諸人不知之、晝夜雲霧覆當郡、鎭闇而無見日月。丁岩松之峯電雷鳴。當時之郡司職鬼藏大夫大藏永弘、家臣召雪野曰、汝、行岩松之峯、可窺見也。依仰發向岩松。于茲陳大屯矣。圍素幔於峯頭如白霧、錦幢、颺于大虛似電光。鈬皷、響岩谷震搖矣。異形之夜叉・鬼人、如雲霞令夜圍遶陣頭警固。厥粧巍蕩々而恰非所逮愚見矣。雪埜近玉席、令伺候、以傳奏、肥多鬼藏大夫之使趣奉呈敬令奏上。

神、詔曰、者是八幡大神也。爲當縣守護、現神靈者也。汝何者乎。雪野龔自姓名奉奏聞。神、再詔曰、汝自今以後、可爲朕臣、仍改名、稱ユキイ者也。爾時、雪野、頂禮歡喜、重姓名之文字奉尋問、矣。宣刄連也。然後、神乘白馬昇天畢。其跡有玉鞍於松下依之、岩松号鞍形尾云。

元禄げんろく12年(1699)貝原楽軒かいばららくけん大原八幡宮縁起おおはらはちまんぐうえんぎ』では、貞観じょうがん元年(859)八幡大神はちまんおおかみ大原山おおはらやま大杉おおすぎこずえ白幣はくへいが出現したことから、奏聞そうもんを経て、勅命ちょくめいにより宇佐神宮うさじんぐうならった形式で神功皇后じんぐうこうごう共々まつったと伝えています。

『大原八幡宮縁起』元禄12年(1699)貝原楽軒

淸和天皇貞觀元年己卯年、八幡大神此地に鎭しますべきよし託告ありて、奇瑞あるべきおしるしとして御祠をたつべきよしなりしが、大原山の杉の梢に白幣出現しけれハ、村民等奇異の思ひをなし、則奏聞を經、勅命によりて其處に大宮柱ふとしきたてゝ、三ツ葉四ツ葉に殿作りして、崇め祭り奉りける。宇佐宮の例によりて、神功皇后媛御神をも相殿に祭り奉る、わきて靈告新にして、祭り奉れる御やしろなれハにや、神德日を追てあらわれ、稜威年に從てさかんなりき、これによりて世々の國主領主も、此御祠を敬れさるはなし。

豊西記ほうさいき』によれば、延喜えんぎ18年(918)社殿しゃでんが完備され、八幡大神はちまんおおかみから郡司ぐんじ鬼蔵大夫おにくらだゆう大蔵大夫おおくらだゆう)に「肥多ひた」から日輪ひのわの下に万田まんだを開くとの意で「日田ひた」と書くよう神勅しんちょくがありました。そして同年、小野篁おののたかむらが再来したと伝えています。

『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂

延喜十八戊寅年、大原八幡宮社壇建立。爾時、八幡召鬼藏大夫曰、此所夲元者雖書肥夛、朕頂上有日輪、朕亦開萬田、自今以後可書日田也。同年、小埜篁再來、八幡宮奉見。隔時代年季後、篁來亊不思議也。二星化現之人、無疑者歟。

延久えんきゅう3年(1071)日田殿ひたどんと愛称され、摂社せっしゃ日田神社ひたじんじゃ御祭神ごさいじんとしてまつられる大蔵永季おおくらながすえが、16歳にして宮中儀式の相撲節会すまいのせちえされ、神威しんいにより出雲小冠者いずものこかじゃに勝利します。大蔵永季おおくらながすえはその後、長治元年(1104)まで10度も節会せちえに参加し、一度も負けることがなかったとされています。『豊西記ほうさいき』では、その大蔵永季おおくらながすえにより、承保じょうほう元年(1074)会所八幡宮よそはちまんぐうの裏の山上までの御神幸ごしんこうが始められたと伝えています。また、『造領記ぞうりょうき』では承徳じょうとく年間(1097-1099)大蔵永季おおくらながすえ大宰府だざいふ参詣さんけいしたとき、太宰府天満宮だざいふてんまんぐう権師ごんのそちであった大江匡房おおのまさふさに「大波羅野御屋新呂おおはらのおんやしろ」の扁額へんがくを依頼し、奉献ほうけんされたと『豊西記ほうさいき』は記しています。

『豊西記』貞享3年(1686)以降に編纂

承保元甲寅年八月十五日大原八幡宮放生會始。


『造領記』天保3年(1832)成立

堀河院承徳中永季大宰府参勤の時権師に請て大原八幡大神の社頭の額を書かしむ此時の権師は正三位権納言大江匡房卿にてまします則大波羅野御屋新呂の八字を二行に書てあたへたらる長く社の宝とせり或いはこの額大江師の書き給へるは白河院の承和元の事ともいへり

建久けんきゅう7年(1196)豊前ぶぜん豊後ぶんご両国の守護兼しゅごけん鎮西奉行ちんぜいぶぎょうとして現地へ下向げこうした大友能直おおともよしなお豊後ぶんご大友氏おおともし初代)は、大原八幡宮おおはらはちまんぐう豊西総社ほうさいそうじゃ柞原八幡宮ゆすはらはちまんぐう豊東総社ぶんとうそうじゃ豊後八郡ぶんごはちぐんを二分します。そして大原八幡宮おおはらはちまんぐう祭礼さいれいを鎌倉の鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう礼式れいしきに改めました。また神宮寺じんぐうじにも、大般若経だいはんにゃきょう奉納ほうのうを行います。社家しゃけも17軒あり、神宮寺じんぐうじには多くのぼうがあり、多くの神人じんにんがいて、盛大な祭礼さいれいが執り行われました。地頭じとう日田氏ひたしも代々篤く帰依きえし、応長おうちょう2年(1312)今も新大原宮しんおおはらぐう楼門ろうもん随神ずいじんとして鎮座ちんざしている善神王ぜじんのう奉納ほうのう貞和じょうわ4年(1348)大友氏時おおともうじときは、大原宮おおはらぐう豊後七社ぶんごななしゃの内に加えて崇敬すうけいするとともに、社殿しゃでんの建立などに力をつくしました。観応かんおう2年(1351)一式道猷いっしきどうゆうは、筑前国ちくぜんのくに夜須庄内やすしょうないの田地50町を寄進きしんして、足利直冬あしかがただふゆなどの逆徒ぎゃくと退治に、大原八幡宮おおはらはちまんぐう加護かごを祈りました。興国こうこく3年/暦応りゃくおう5年・康永こうえい元年(1342)大友氏おおともし大友氏泰おおともうじやすか)が社殿しゃでんを御造営ぞうえいし、豊後八社八幡ぶんごはっしゃはちまんの筆頭として尊崇そんすうします。文安ぶんあん4年(1447)大蔵永世おおくらながよ御殿ごてんを改築。文明ぶんめい6年(1474)日田親常ひたつかつねは、社殿しゃでんの再建、祭礼さいれいの整備につとめ、殊に御神幸ごしんこうは山を下りって会所八幡宮よそはちまんぐうへ至る道のりに改めました。永禄えいろく2年(1559)大友宗麟おおともそうりん竹田村たけだむらの田八町を寄進きしん天正てんしょう17年(1589)検地けんちが行われ、『豊西記ほうさいき』によれば日田郡ひたぐん検地けんち寺社じしゃの部にて「大原大宮司九町、大原承仕六反六畝、大原総禰宜九反八畝二十歩、二禰宜九反二畝、三禰宜四反八畝、真如坊真如坊六反八畝、実相坊八反五畝、一乗坊六反三畝、実成坊五反三畝、空善坊六反四畝、理趣坊三反三畝(真如坊しんにょぼう以下は神宮寺じんぐうじの六坊)」の大原八幡宮おおはらはちまんぐう関係の寺家じけ社家しゃけの所領が記載されています。

江戸後期(1800年代前半)に記された森春樹もりはるき豊西説話ほうせいせつわ』によれば、大坂夏の陣の後にて功を立てて日田郡ひたぐん永山城主ながやまじょうしゅとなった石川忠総いしかわただふさが、寛永かんえい元年(1625)5月に神来町かみくまち元大原神社もとおおはらじんじゃ元宮もとみや)までは遠く、崇敬すうけいの足らなくなることを憂慮して、現在地の新大原しんおおはら田島村たしまむら)へ遷座せんざしました。社領しゃりょう100石と山林数町歩が寄進きしんされ、遷座せんざの行列は、一番から三十番まで続き、家老以下の家臣、足軽、中間の警備など盛大を極めたと伝えています。寛永かんえい11年(1634)石川氏いしかわし佐倉藩さくらはん転封てんぽうし、寛永かんえい16年(1639)には日田ひた天領てんりょうとなります。明暦めいれき3年(1657)日田郡中ひたぐんちゅう大鳥居おおとりい建立。延宝4年(1676)放生会ほうじょうえも復興し、若八幡社わかはちまんしゃへの御神幸ごしんこうが行われて、現在まで続いています。貞享じょうきょう4年(1687)代官の小川氏おがわし樓門ろうもんを建立し、116段の見事な石段いしだん石灯籠いしとうろう手洗石ちょうずいし等も完成しました。寛政かんせい2年(1790)日田郡代ひたぐんだい揖斐氏いびしにより社殿しゃでんが改築され寛政かんせい12年(1800)に正遷宮せいせんぐう斎行さいこうされました。安政4年(1857)御鎮座ごちんざ一千年式年大祭しきねんたいさいが執り行われ、郡代ぐんだい池田氏いけだし大鳥居おおとりいを建立。明治5年(1872)県社けんしゃに列格されました。


境内社けいだいしゃなど】

社殿しゃでん

平成11月22日に日田市ひたし有形文化財に指定された社殿しゃでんは、寛政かんせい6年(1794)建立の棟札むねふだが残され、拝殿はいでん幣殿へいでん本殿ほんでん欅造けやきづくり。廊下ろうか銀杏いちょうの板で結ばれており、いずれも建築当時の様式をそのまま残しています。平成2年(1990)氏子融資の浄財じょうざいによって本殿ほんでんの屋根のき替え(銅板)が行われました。

  • 楼門ろうもん:三間一戸楼門ろうもん入母屋造いりもやづくり本瓦葺ほんかわらぶき貞享じょうきょう四年(1687)と社録しゃろくにある。
  • 拝殿はいでん桁行けたゆき五間、梁行はりゆき三間、入母屋造いりもやづくり千鳥破風付ちどりはふつき向拝こうはい三間、軒唐破風付のきからはふつき銅版葺どうばんぶき
  • 幣殿へいでん:正面三間(背面一間)、側面二間、切妻造きりづまづくり妻入つまいり銅版葺どうばんぶき
  • 本殿ほんでん桁行けたゆき三間、梁行はりゆき三間、入母屋造いりもやづくり向拝こうはい一間、銅版葺どうばんぶき

松尾神社まつおじんじゃ

社殿しゃでん向かって左奥に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして大山咋神おおやまくいのかみ中津島姫命なかつしまひめのみことを酒造の神としてまつっています。山城国やましろのくに(京都)の松尾大社まつおたいしゃからの勧請かんじょうで、古社殿こしゃでんめいに「元文三年十一月九日建立」、「文久四年三月十九日再建」とあります。

「うぶけ」

社殿しゃでん後方の向かって一番左に鎮座ちんざ。子供の成長を願い産毛を納める塚です。安産の神、赤子の神としてまつられています。

日田神社ひたじんじゃ

社殿しゃでん後方、「うぶけ」の右手に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして相撲の神様とされる日田郡司ひたぐんじ大蔵永季おおくらながすえ大蔵家おおくらけ鬼太夫おにだゆう永季ながすえ日田殿ひたどん)とそのまつっています。大蔵永季おおくらながすえは、後三条天皇ごさんじょうてんのう御代みよ相撲節会すまいのせちえにて出雲小冠者いずものこかじゃに勝ち、卯日相撲うのひすもうの起こりとされています。その優勝額は社宝しゃほうとして保存されています。

住吉神社すみよしじんじゃ

社殿しゃでん後方向かって日田神社ひたじんじゃの右手に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつの航路を守護しゅごした住吉大神すみよしのおおかみ表筒男命うわつつのおのみこと中筒男命なかつつのおのみこと底筒男命そこつつのおのみこと)をまつっています。海運、航行、漁業の守護神しゅごしんです。

醫祖神社いそじんじゃ医歯薬之神いしやくのかみ)・醫師薬神いしやくのかみの牛」

社殿しゃでん後方、大山祇神社おおやまつみじんじゃの左手に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして大國主命おおくにぬしのみこと少彦名命すくなひこなのみことまつっています。厚生、治病、衛生の守護神しゅごしんです。

大山祇神社おおやまつみじんじゃ

社殿しゃでん後方、向かって一番右に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして大山祇命おおやまつみのみことまつっています。大原八幡宮おおはらはちまんぐう鎮座ちんざ1100年に当り、日田木材協同組合より伊予国大三島に坐す大山祇神社おおやまつみじんじゃ御分霊ごぶんれい勧請かんじょうし、謹請きんぜい奉斎ほうさいしています。山林の恩恵を奉謝ほうしゃし、その育成守護を祈祝きしゅうするためにまつられています。

錦春稲荷大明神きんしゅんいなりだいみょうじん

境内けいだいの東口に鎮座ちんざ。衣食住の神として稲荷大神いなりのおおかみ豊宇氣姫とようけひめ)をまつっています。寛永かんえい6年(1629)水戸徳川家みととくがわけの江戸屋敷の中に造営ぞうえいされた小石川後楽園こいしがわこうらくえん錦春門内きんしゅんもんの台地に兜一刎かぶとひとはねを埋め、やしろを建てて、稲荷大神いなりのおおかみまつったのが創祀そうしです。水戸邸みとてい東京砲兵工廠とうきょうほうへいこうしょうとなってからも引き続き祭祀さいし奉斎ほうさいされていましたが、昭和9年(1934)2月21日、東京より小倉こくら遷座せんざして小倉陸軍造兵廠こくらりくぐんぞうへいしょう守護神しゅごしんとしてまつることとなり、昭和10年(1935)4月17日に遷座祭せんざさい挙行きょこうされました。昭和20年(1945)3月、小倉陸軍造兵廠こくらりくぐんぞうへいしょうの主力を日田市ひたしに疎開すると共に、同年7月吉日に遷座せんざ。同年8月15日終戦により軍の武装解除と共に造兵廠ぞうへいしょうも解散することとなり、大原八幡宮おおはらはちまんぐう境内けいだい神殿しんでんを新築して遷座せんざし、祭祀さいしされることとなりました。

牛御前うしごぜん

学徳の神、天神てんじん神牛かみうしとして錦春稲荷大明神きんしゅんいなりだいみょうじんの左手にまつられています。

稲荷大明神いなりだいみょうじん

境内けいだいの東口から出て北側の後方に石祠いしほこらと共にまつられています。

包丁塚ほうちょうづか

境内けいだいの東口から出て北側の後方。稲荷大明神いなりだいみょうじんから奥にまつられています。日田市ひたし郡内の食品営業者が調理に使い古した包丁を包丁塚ほうちょうづかに納めて、永くその功徳に感謝すると共に、包丁により調理された魚・鳥・獣・菜の霊を慰め、包丁の余財に預かり、業界の繁栄と万民の福祉を念じて例年包丁祭ほうちょうさい斎行さいこうされています。

宮地嶽神社みやじだけじんじゃ

境内けいだい東口から150m程東へ進んだ地に鎮座ちんざする境外末社けいがいまっしゃです。


特殊神事とくしゅしんじ祭事さいじ

米占こめうらな行事ぎょうじ

毎年行われる「大原八幡宮おおはらはちまんぐう米占祭よねうらさい」は、2月15日に炊き上げた小豆飯あずきめし神殿しんでん奉納ほうのうし、3月15日に古老ころうがそのカビの着き具合からその年の吉兆を占う神事しんじです。平成11年(1999)12月3日に国選定無形文化財に指定されています。

この行事は米占祭よねうらさいとも称され、新暦になっても2月15日に行われていましたが、昭和30年頃から3月15日に行うようになりました。粳米うるちまい1升3合3勺に小豆3合を入れて飯を焚き、赤飯と同じ程の硬さにまで炊き上げます。炊き上がった小豆飯あずきめしを深さ3cm、径33cmの丸い粥盆かゆぼんに、しゃもじで抑えながら、中央を少し高めにしたなだらかな山状にしっかりと押し付けます。

占う粥盆かゆぼんは、仕切り板で5つに分割して米・麦・粟・ひえ・豆(大豆)の木札を立てる「五穀盆ごこくぼん」と、かずらの根の皮で市内の16の河川を象った「地形盆ちけいぼん」の2つの粥盆かゆぼんからなります。調整された粥盆かゆぼんは、幣殿へいでんの八足の上に置かれ、本殿ほんでん向かって右側に五穀盆ごこくぼん、左側に地形盆ちけいぼんが置かれ、疫神祓えきじんばらいと供えた御饌みけに五穀の作柄と天変地異を米占こめうらないに示し、知らしめ賜うことを祈願する祝詞のりと奏上そうじょうされます。

五穀盆ごこくぼんは、時計回りで米・麦・ひえ・粟・豆(大豆)の五穀になります。

地形盆ちけいぼんは、日田の16の河川から地域を区切って作られます。

大肥川おおひがわ、②三隈川みくまがわ、③二串川にくしがわ、④山田川やまだがわ、⑤小野川おのがわ、⑥花月川かげつがわ、⑦有田川ありたがわ、⑧玖珠川くすがわ、⑨大山川おおやまがわ、⑩杖立川つえたてがわ、⑪津江川つえがわ、⑫上野川うえのがわ、⑬赤石川あかいしがわ、⑭高瀬川たかせがわ、⑮串川くしがわ、 ⑯川下川かわしたがわ

1ヶ月後の3月15日午前8時に、粥盆かゆぼんが取り出され回廊かいろうの斎場に置かれて占いは始まります。宮司ぐうじ祝詞のりとをあげて儀式を執り行いますが一切口出しせず、占いは、米占こめうらないの当日集まってきた人々により行われます。数十年もの間、米占祭よねうらさいに参加してきた古老ころうらの占い経験に基づき、皆が意見を出しあいながら、カビの映えている場所や色から神慮しんりょを伺います。

五穀盆ごこくぼんの判定例

  • 盆の中心:種を蒔く時期
  • 盆の縁:収穫時期の豊凶、天候
  • 白色のカビ:平年作
  • 白色のカビで表面に露がある:豊作
  • 赤味のカビ:凶作
  • 赤味を帯びたカビの斑点があり露が少ない:旱魃による凶作
  • 黄味を帯びたカビの斑点があり露が少ない:旱魃による凶作
  • 青色のカビ:病虫害のため不作かも知れない。
  • 紫色のカビ:病虫害のため不作かも知れない。
  • 黒色のカビ:病虫害のため不作かも知れない。

地形盆ちけいぼんの判定例

  • 白色のカビ:平穏無事
  • 赤色のカビ:火災の心配あり
  • 青色のカビ、亀裂が生じている、下流に向って盛り上がる:水害の心配あり
  • 黄色の塗り潰したようなカビ:暴風雨の心配あり
  • 黒色のカビ:疫病、病気の心配あり
  • 茶色のカビ:疫病、病気の心配あり

御田植祭おたうえさい

五穀豊穣を願って斎行さいこうされる御田植祭おたうえさいは、毎年4月15日にされています。鎌倉時代から続いていると伝えられる古来の作法を継承するお祭りで、昭和59年(1984)3月30日には県指定無形民俗文化財にも指定されています。装束を身に着けた神職が中心になって行われ、宮司ぐうじ祝詞のりとを上げ、五穀豊穣と無病息災を祈願します。

拝殿はいでん前に9尺×4尺の周囲を縄で囲った仮斎田かりさいでんが3つ作られ、田んぼに見立てられた境内けいだいでは、氏子うじこ2人が牛使いと牛に扮して、田を耕す場面が演じられます。牛の疲れた様子や牛使いとの掛け合いが見物客の笑いを誘います。そして御田植祭おたうえさいの花形である花笠はながさを被った早乙女さおとめに扮した園児達が、御神田ごしんでんに見立てた仮斎田かりさいでんに、早苗さなえに見立てたセキショウを植えて(置いて)豊作を祈願します。詠われる田植え歌は和歌に整えられており、3枚の田それぞれに決められた田植歌たうえうたがあり、朗詠ろうえいされます。

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 一之鳥居
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  • 稲荷大明神
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  • 宮地嶽神社
  • 宮地嶽神社

情報

住所〒877-0025
日田市ひたし田島たしま2丁目184
創始そうし天武天皇てんむてんのう9年 (680)
  • 鞍形尾神社くらがとうじんじゃから杉原宮すぎはらのみや
    慶雲けいうん元年(704)、又は貞観じょうがん元年(859)遷座せんざ
  • 杉原宮すぎはらのみやから元大原神社もとおおはらじんじゃ
    貞観じょうがん13年(871)、元慶がんぎょう元年(877)、
    又は延喜えんぎ18年(918)に遷座せんざ
  • 寛永かんえい元年(1625)大原八幡宮おおはらはちまんぐう新大原しんおおはら]へ遷座せんざ
社格しゃかく県社けんしゃ [旧社格]
例祭れいさい4月15日[春祭はるまつり
9月23日[仲秋祭ちゅうしゅうさい放生会ほうじょうえ
神事しんじ米占こめうらな行事ぎょうじ米占祭よねうらさい](3月15日)
御田植祭おたうえさい(4月15日)
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地図・マップ