九州の神社

大分県・三笠山春日神社(豊後高田市)

由緒

御祭神ごさいじん 武甕槌命たけみかづちのみこと経津主命ふつぬしのみこと天児屋根命あめのこやねのみこと姫大神ひめおおかみ

由緒

大同だいどう4年(809)の故事こじ創始そうしとする三笠山みかさやま春日神社かすがじんじゃは大分県最古の春日社かすがしゃで、境内けいだいの多くの建造物が国指定登録有形文化財に登録されている古社こしゃです。

御祭神ごさいじんは、武甕槌命たけみかづちのみこと経津主命ふつぬしのみこと天児屋根命あめのこやねのみこと姫大神ひめおおかみ四柱よはしら神々かみがみ往昔おうせきは、四柱よはしら神々かみがみをそれぞれ独立した四殿よんでんまつっていました。

  • 武甕槌命たけみかづちのみこと国譲くにゆずりで大国主命おおくにぬしのみことの子・建御名方神たけみなかたのかみに勝ち、国譲くにゆずりをなし遂げた神です。勝運・産業繁栄・交通安全などの御神徳ごしんとくがあるとされています。
  • 経津主命ふつぬしのみこと武甕槌命たけみかづちのみことと共に国譲くにゆずりをなし遂げた神です。経津ふつは剣の切る勢いを示し、勇武ゆうぶをあらわしているとされています。勝運・交通安全・国家鎮護・諸産業の繁栄などの御神徳ごしんとくがあるとされ、災難除けの神でもあります。
  • 天児屋根命あめのこやねのみこと春日権現かすがごんげん春日大明神かすがだいみょうじんとも称される祭祀さいしつかさどる神です。国土安泰・産業繁栄・家内安全・交通安全、智育守護など常に国政に参与して、国土経営に大きく貢献しました。
  • 姫大神ひめおおかみ天児屋根命あめのこやねのみこと妃神きさきがみ
御神木:楢の木

大同だいどう4年(809)、現在の三笠山みかさやま霊光れいこうが雷鳴と稲光の如くなること連夜に及び、人々はその形状を窺うことすらできませんでした。その中、勇悍にして物怖じない兵部卿ひょうぶきょうが、直ちに訪れてその正体を窺うと、白髪の老翁ろうおう白鹿はくしかり、忽然こつぜんとしてならの大木の下に現れ、兵部卿ひょうぶきょうります。「我は三笠山みかさやまに住めるおきなぞ」と告げ、南東方向に飛び去りました。奇異きいの思いをなした兵部卿ひょうぶきょうは、これぞ奈良の春日大明神かすがだいみょうじん霊験れいげんに違いないと御神徳ごしんとく感佩かんぱいし、直ちに宮殿きゅうでん造営ぞうえいし、春日四神かすがよんしんしずたてまつりました。この時より当社山とうしゃざん三笠山みかさやまと唱へ、ならの木を御神木ごしんぼくと定めました。

鎮座ちんざ以来、社殿しゃでんの修理、年中の祭祀さいしなど怠ることありませんでしたが、寿永じゅえい元暦げんりゃく文治ぶんじ(1182-1190)の頃、賊徒ぞくとによりいくつかの社殿しゃでんなどがことごと破却はきゃくされます。

建久けんきゅう7年(1196)大友能直おおともよしなお豊前ぶぜん豊後両国ぶんごりょうこく守護職しゅごしょく、及び鎮西奉行ちんぜいぶぎょうとなってからは、大友氏おおともしから代々の尊崇そんすうを加え、神田しんでん等が寄附されました。また、承元じょうげん2年(1208)には獅子形一対ししがたいったい翁面一面おきなめんいちめん奉納ほうのうされました。由緒記ゆいしょきでは、藤原定家ふじわらのさだいえの弟・暁月ぎょうげつの作と伝えており、今も社庫しゃこに秘蔵されています。

大友氏おおともし幕下ばっか内藤主馬ないとうしゅめが当地に居住した時、祭殿さいでん奉建ほうけんして毎歳十二度の祭祀さいしを始め、建長けんちょう4年(1252)再び社殿しゃでん造営ぞうえい。同5年(1253)下川面しもかわつら御旅所おたびしょを構えて、神輿みこしを始め神具しんぐ等を新たに調進して馬場先ばばさき川向いに神庫じんこ造営ぞうえいして納めました。それ以来、その古跡は「御蔵みくらもと」と称されました。そして同7年(1255)10月9日に初めて下川面しもかわつらへの神幸しんこう奉斎ほうさいされました。

その後、大友氏おおともし幕下ばっか大友氏おおともし古庄氏ふるしょうし一族である草地氏くさじしが居住する采地さいちとなり、この時に草地氏くさじし伊豆守いずのかみに任ぜられたと伝えられています。祭事さいじを厳重に執行して、その子の草地くさじ勘解由介かげゆのすけ奉幣ほうへい尊崇そんすうを怠ることありませんでした。

しかし、天文てんぶん元年(1532)10月9日の祭礼さいれいにて、流鏑馬やぶさめ近広ちかひろまで狂走して頓死とんしし、くらの落ちた場所を鞍迫くらさこと称したとされています。当時の人々は不吉なことだと噂し、その行く末に暗い影を落とします。

天文てんぶん19年(1550)になるとキリスト教に肩入れした大友宗麟おおともそうりん大友氏おおともし21代目の当主となります。それ以降、大友宗麟おおともそうりんは領内の数々の神社を破却はきゃくし、神領しんりょう等を掠奪りゃくだつします。当社のその例外に漏れることなく、四殿よんでん並立の本殿ほんでんの他、境内けいだい境外けいがい社殿しゃでんことごと煙燼えんじんかかり、神領しんりょうも没収されて神幸しんこう祭祀さいしも廃絶しました。それまで奉仕ほうししていた禰宜ねぎ神職しんしょくも処々に離散し、落魄らくはくしました。往年の神田しんでん油田あぶらだ花神楽田はなかぐらだ三月田みつきだ祇園田ぎおんだ川面畑かわつらばた]も名前が残るのみとなり、御旅所おたびしょ御蔵所みくらしょも手を離れて公田こうでんとなりました。ただ御旅所おたびしょには小塚こづか小祠しょうしまつられ今に伝えられています。

天正てんしょう5年(1577)村の氏子うじこが力を合せて、宝殿一宇ほうでんいちうを旧地に再建し、往年は四殿よんでん鎮座ちんざしていた四柱よはしらの神を同殿に奉斎ほうさいします。

慶長けいちょう5年(1600)当地は細川忠興ほそかわただおきの所領となり当社を尊崇そんすうし、数度の奉幣ほうへいがあったとされています。慶長けいちょう9年(1604)神殿しんでん拝殿はいでん神供屋じんくや神楽殿かぐらでん社門しゃもん等を建立。慶長けいちょう13年(1608)神供屋じんくや神楽殿かぐらでん門等を建立されます。寛永かんえい9年(1632)細川氏ほそかわし熊本藩くまもとはん移封いほうし、松平重直まつだいらしげなお龍王城りゅうおうじょう跡地に龍王陣屋りゅうおうじんやを構えて入封にゅうほうし、同年に神殿しんでん拝殿はいでん神供屋じんくや神楽殿かぐらでん社門しゃもん等が造替ぞうたいされます。寛文かんぶん9年(1669)からは福知山城主ふくちやまじょうしゅ松平忠房まつだいらただふさ島原藩主しまばらはんしゅとなり、島原領しまばらりょうになってからも崇敬すうけいを集め、安政あんせい元年(1855)神幸祭しんこうさいを再興し、祭式も全て旧に復しました。明治6年(1873)郷社ごうしゃ列格れっかく。全村氏子うじこにして尊崇そんすう浅からず、明治39年(1906)神饌幣帛料しんせんへいはくりょう供進神社きょうしんじんじゃに指定されます。また明治40年(1907)大分県知事から地名を、奈良の御本社(春日大社かすがたいしゃ)と同様の名称である「西国東郡にしくにさきぐん草地村くさじむら三笠山みかさやま」の使用が認可され、内外の崇敬すうけいをうけて今日に至っています。

平成14年(2002)に氏子うじこ崇敬者すうけいしゃを挙げて「平成の大改修事業」として、拝殿はいでんほか3とう古代本瓦こだいほんがわらによる屋根のき替え、御旅所おたびしょ尾園おぞの神幸殿しんこうでん神輿蔵みこしくらの建て替え、本神輿ほんみこしの新調、『三笠山みかさやま春日神社誌かすがじんじゃし』の刊行などが行われました。平成23年(2011)10月28日には、平成14年(2002)に倒壊の危険からやむなく立て替えられた神輿蔵みこしくら尾園おぞの神幸殿しんこうでんを除く、全ての木造建物11件と、参道さんどう鳥居とりい並びに西参道にしさんどう鳥居とりいの合計13ヶ所が国指定登録有形文化財として登録されました。

なお、当社の境内けいだい三笠山みかさやまのほかに、秋季大祭しゅうきたいさい御神輿おみこしが一泊される尾園おぞの神幸殿しんこうでん豊後高田市ぶんごたかだしの史跡である呉崎くれさき潮汲しおく斎場さいじょうと、約7,000坪を有しており、名実ともに西国東にしくにさきを代表する神社のひとつです。

【国指定登録有形文化財】

境内けいだい建物のうち、平成14年(2002)の平成大改修工事事業に際して、倒壊の危険からやむを得ず建て替えた神輿蔵みこしくら尾園おぞの神幸殿しんこうでんを除く、三笠山みかさやま尾園おぞの御旅所おたびしょにある全ての木造建物11件と、南参道みなみさんどう鳥居とりい並びに西参道にしさんどう鳥居とりいの合計13件が、平成23年(2011)10月28日に国指定登録有形文化財として登録されました。

平成22年(2010)10月に登録に向けた調査をされた熊本大学大学院伊東龍一いとうりゅういち教授が、報告書の中にその特徴を記しています。

拝殿はいでん申殿もうしでん神殿しんでんを一直線に並べ、西に石段いしだん西門にしもんを設ける形式は、この地方の中心的位置を占める宇佐神宮うさじんぐうの建物配置に共通するものである。神殿しんでんの左右に摂社せっしゃを配し、3つの社殿しゃでんを並べる形式も、宇佐神宮うさじんぐうとの関係が濃厚な柞原八幡宮ゆすはらはちまんぐう神殿しんでん左右に西宝殿にしほうでん東宝殿ひがしほうでんを建てる形式に共通している。


三笠山みかさやま春日神社かすがじんじゃは、長い歴史を持つが、それに相応しい社殿しゃでんを備えている。宇佐神宮うさじんぐうの影響が濃厚にうかがえるこの地方らしく、宇佐神宮うさじんぐうと共通する要素が社殿しゃでんの配置、建物の種類にみられ、それらがセットでよく残されている点が貴重である。

大分県北部、特に宇佐うさ国東半島くにさきはんとうでは、上記のように本殿ほんでん申殿もうしでん・そして回廊かいろうとも呼ばれる横長の拝殿はいでんを持つ形式の神社が多くあります。三笠山みかさやま春日神社かすがじんじゃでは、これらの中心的社殿しゃでんとともに、神門しんもん鐘楼しょうろうなどの付随する社殿しゃでんがまとまって修理保存されていることが評価されました。

本殿

本殿ほんでん

木造平屋建もくぞうひらやだて銅板葺どうばんぶき。江戸後期(1830~1868)の造営ぞうえい境内けいだいの中央に南面して建っています。三間社切妻造さんげんしゃきりつまづくり向拝こうはい一間いっけん銅板葺どうばんぶき。周囲に組高欄付くみこうらんつき切目縁きりめえんをまわし、正面にしとみ、側面前一間いっけん桟唐戸さんからどを吊っています。妻飾つまかざり二重虹梁ふたえこうりょう大瓶束たいへいづか組物くみもの二手分ふたてわけ二手先ふたてさき)持ち出し、小天井しょうてんじょう支輪しりんを付けています。たちの高い外観構成になる本殿ほんでんです。

申殿・拝殿

申殿もうしでん

木造平屋建もくぞうひらやだて瓦葺かわらぶき。明治38年(1905)の造営ぞうえい本殿ほんでん正面に位置しています。東西棟とうざいとう切妻造きりづまづくり桟瓦葺あさかわらぶき桁行けたゆき一間いっけん梁間はりま一間いっけん円柱まるばしら長押なげし頭貫かしらぬき台輪だいわで固め、組物くみもの三斗みつとつまつか棟木むなぎ母屋おもやを支持しています。内部は一室で板敷、格天井ごうてんじょうを張り、柱間はしらまは側面後半を板壁、他はガラス戸を建てています。当地方に見られる申殿もうしでんの一例です。

拝殿はいでん

木造平屋建もくぞうひらやだて瓦葺かわらぶき。大正10年(1921)の造営ぞうえい申殿もうしでんの前方に東西棟とうざいとうで建っています。桁行けたゆき九間きゅうけん梁間はりま四間よんけん入母屋造いりもやづくり本瓦葺ほんかわらぶきで、正面中央に入母屋屋根いりもややね一間いっけん向拝こうはい切石積きりいしづみ基壇上きだんうえ方柱かくばしらを立て、ぬきで固めています。内部は一室で板敷で、格天井ごうてんじょうを張っています。両側面を土壁とする他は開口とする横長で開放的なつくりの拝殿はいでんです。

摂社・八坂神社

摂社せっしゃ八坂神社やさかじんじゃ

社殿しゃでん向かって右手に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして素戔嗚尊すさのおのみこと、他三柱みはしらの神々をまつっています。木造平屋建もくぞうひらやだて銅板葺どうばんぶき。(1751~1830)の造営ぞうえい本殿ほんでんの東に南面して建ち、一間社流造いっけんしゃながれづくり銅板葺どうばんぶき高欄付こうらんつき切目縁きりめえんを三方に廻しています。切石基礎きりいしきそに土台を据えて円柱まるばしらを立て、長押なげしぬきで固めています。組物くみもの三斗組みつとぐみのき二軒にけん繁垂木しげたるき妻飾つまかざり虹梁こうりょうを省き蟇股かえるまたのみ。海老虹梁えびこうりょう身舎側もやがわ頭貫かしらぬき木鼻きばなと同様の絵様えようを彫っています。

摂社・厳島神社

摂社せっしゃ厳島神社いつくしまじんじゃ

社殿しゃでん向かって左手に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして市杵島姫命いちきしまひめのみこと、他五柱ごはしらの神々をまつっています。木造平屋建もくぞうひらやだて銅板葺どうばんぶき。(1868~1912)の造営ぞうえい本殿ほんでんの西に南面して建ち、一間社流造いっけんしゃながれづくり銅板葺どうばんぶき切石基礎きりいしきそに土台を据えて円柱まるばしらを立て、長押なげしぬきで固めています。組物くみもの舟肘木ふなひじきのき二軒にけん繁垂木しげたるき妻飾つまかざり豕扠首いのこさすとしています。擬宝珠ぎぼし高欄付こうらんつき切目縁きりめえんを廻らし、正面に木階もくかい二級にきゅうを付けています。小規模ながら丁寧なつくりの社殿しゃでんです。

参道さんどう鳥居とりい

石造いしづくり間口まぐち3.1m、高さ3.8m。享保5年(1720)の造営ぞうえい春日神社かすがじんじゃ境内けいだいの南端に位置します。石造いしづくり明神鳥居みょうじんとりいで、幅3.1m、高さ3.8m。礎石そせきの上に内転うちころびで円柱まるばしらを建て、ぬき島木しまき笠木かさぎで固めています。笠木かさぎの両端に強い反りをもたせ、力強い立面を構成しています。深い社叢しゃそうの正面に建ち、近世以来の歴史的景観を伝えています。

神門しんもん

木造もくぞう瓦葺かわらぶき間口まぐち3.4m、左右袖塀付そでへいつき弘化こうか2年(1845)の造営ぞうえい拝殿はいでんの前方に位置し、四脚門よつあしもん切妻造きりづまづくり本瓦葺ほんかわらぶき本柱ほんばしら粽付ちまき円柱まるばしらで、控柱ひかえばしら几帳面取きちょうめんどり方柱かくばしら虹梁状こうりょうじょう頭貫かしらぬき台輪だいわで固め、組物くみもの三斗組みつとぐみつま虹梁大瓶束こうりょうたいへいづかで、二軒にけん繁垂木しげたるき四半石敷しはんせきじきで、格天井ごうてんじょうを張っています。前間には格子付の棚を設け随神像ずいしんぞうを安置。威厳ある境内けいだい構えです。

鐘楼しょうろう

木造平屋建もくぞうひらやだて瓦葺かわらぶき文政ぶんせい13年(1830)の造営ぞうえい拝殿はいでんの南方、神楽殿かぐらでん参道さんどうを挟んで対峙たいじして建てられています。切石基礎きりいしきそ上に建つ方一間いっけん袴腰付はかまごしつき鐘楼しょうろう入母屋造いりもやづくり本瓦葺ほんかわらぶき方柱かくばしら上部を頭貫かしらぬき台輪だいわで固め、三斗みつとを組み、中備なかぞなえ蟇股かえるまたを飾っています。一軒半いっけんはん繁垂木しげたるきとし、内部も化粧垂木けしょうたるぎで、近世における神仏習合しんぶつしゅうごう境内けいだい景観を伝えています。国東くにさき神仏習合しんぶつしゅうごうの地であることの証ともいえる存在です。

西参道にしさんどう鳥居とりい

石造いしづくり間口まぐち3.1m、高さ3.9m。昭和9年(1934)の造営ぞうえい西門にしもんへと延びる西参道にしさんどうの入口に建っています。石造いしづくり明神鳥居みょうじんとりいで、幅3.1m高さ3.9m。径36センチmの円柱まるばしら内転うちころびに建て、ぬき島木しまき笠木かさぎで固めています。島木しまき笠木かさぎはほぼ同じ高さで、全体に反りをもたせ、安定感のある姿を作り出しています。

西門にしもん

木造もくぞう瓦葺かわらぶき間口まぐち1.9m。(1751~1830)の造営ぞうえい拝殿はいでんの西方に位置しています。小規模な一間いっけん一戸薬医門で、切妻造きりづまづくり本瓦葺ほんかわらぶき本柱ほんばしら円柱まるばしら控柱ひかえばしらは面取角柱かくばしら。それぞれを虹梁形こうりょうがた頭貫かしらぬきで固め、主・控の柱間はしらまには男梁おうつばりを架しています。男梁おうつばりの上に虹梁こうりょうを置き、棟木むなぎを支持し、一軒疎垂木いっけんあばらだるきを配っています。木部は赤色に塗装され、西紅門にしべにもんとも称されています。

神楽殿かぐらでん

木造平屋建もくぞうひらやだて瓦葺かわらぶき天保てんぽう6年(1835)の造営ぞうえい拝殿はいでんの東南に西面して建っています。桁行けたゆき二間にけん梁間はりま一間いっけん入母屋造いりもやづくり妻入つまいり本瓦葺ほんかわらぶき。正・側面に切目縁きりめえんを廻し、北面後寄りから斜めに橋掛はしがかりを延ばしています。橋掛はしがかり桁行けたゆき三間さんけん梁間はりま一間いっけん両下造りょうさげづくり桟瓦葺あさかわらぶき神楽殿かぐらでん角柱かくばしら舟肘木ふなひじきを載せ、中備なかぞなえ間斗束けんとづか絵様えよう実肘木さねひじきをおいています。神社境内けいだいに残る神楽殿かぐらでんの好例です。

こも

造平屋建つくりひらやだて瓦葺かわらぶき。昭和2年(1927)の造営ぞうえい神楽殿かぐらでん橋掛はしがかりの先に続く桁行けたゆき5.9m梁間はりま3.9mの木造平屋建もくぞうひらやだて切妻造きりづまづくり桟瓦葺あさかわらぶきで西正面に瓦庇かわらびさしを付けています。内部は北側にコンクリート土間、南側に八畳の床上部を配しています。こもとしてとともに神楽殿かぐらでんの楽屋、地域住民の集会所などとして利用されています。

余興舞台よきょうぶたい

木造平屋建もくぞうひらやだて瓦葺かわらぶき。昭和27年(1952)の造営ぞうえい境内けいだいから1キロmほど離れた御旅所おたびしょに南を正面として建っています。桁行けたゆき16m梁間はりま7.9mの入母屋造いりもやづくりセメント瓦葺かわらぶき妻面つまめん下屋げやを付設しています。南半部を舞台、北半部を楽屋としています。正面を除き、外壁は下見板張したみいたばり。小屋は和小屋。伝統的な農村舞台建築です。


境内社けいだいしゃなど】

大明神白鹿騎上像だいみょうじんはくしかきじょうぞう

由緒記ゆいしょきにみえる、ならの木のこずえに現れた春日大神かすがのおおかみさまの御神像ごしんぞうです。御神像ごしんぞうは毎年元旦から3日間、拝殿はいでん内にお移しして初詣はつもうでの参拝者が直接拝観はいかんできるようになっています。

獅子形一対ししがたいったい

由緒記ゆいしょき承元じょうげん2年(1208)大友氏おおともしにより「翁面おきなめん」と共に、藤原定家ふじわらのさだいえの弟・暁月ぎょうげつの作として奉納ほうのうされたとあります。県立博物館では「由緒にある承元じょうげん年間の根拠は欠けるが、小像ながら鎌倉期狛犬こまいぬの伝統を受け継いだ作ぶりは古様こようである。南北朝から室町期にかけての造立ぞうりゅうと考えられる」と評価されています。

りんご」

御本社である奈良県・春日大社かすがたいしゃ本殿ほんでん前には「林檎庭りんごのにわ」があります。これは高倉天皇たかくらてんのうさまが中国からの林檎りんごの木を奉納ほうのうしたことに始まり、りんごの原種とされています。当社でもご本社に倣い、千二百年祭の事業の一環として平成18年(2006)に青森県に依頼したところ、青森県から「新疆野苹果しんきょうやべいか」・「黄太平きたいへい」の2種の苗木の奉納ほうのうがありました。同年12月、ミスりんご2名や県りんご試験場長など青森県の関係者7名、また地元は市長・県議会議員や氏子うじこ総代そうだいなどを迎えて盛大に植樹祭しょくじゅさい奉納式ほうのうしき斎行さいこうされました。4月第3土曜日の例祭れいさい春日祭かすがまつり」の時期にはそれぞれ薄紫と白に花芯が薄ピンクの花がちょうど満開になって満開の花を咲かせるほか、果実はりんご酒として初詣はつもうでなどに振舞っています。


神事しんじ祭事さいじ

例祭れいさい春日祭かすがまつり

4月第3土曜日。当社で一番大事な祭典さいてんです。大祭式たいさいしきでの神事しんじのほかに、新入生を迎えての勧学祭かんがくさい庄内神楽しょうないかぐらなどが行われます。当地草地くさじには江戸末から明治中期にかけて、私塾涵養舎しじゅくかんようしゃ川面学問所かわつらがくもんじょがあり、この教育施設が送り出した門下生は3000名にも及びました。そしてこの生徒をお守り下さったのが春日かすがさまでした。戦後長く途絶えていましたが、今日では復興して、先生の引率で児童が参拝し勧学祭かんがくさいが実施されています。また、この時期は境内けいだいにあるりんごの原種とされる新疆野苹果しんきょうやべいか黄太平きたいへいの花が見頃になります。

秋季大祭しゅうきたいさい

当社の秋祭りは、故郷のぬくもりにあふれた村まつりです。1週間前のしめおろし神事しんじから始まり、初日の神輿みこしのお下りとカラオケ大会などの賑わい行事、2日目の戦没者慰霊祭せんぼつしゃいれいさいと演芸、神輿みこしのおのぼりが行われます。平成18年(2006)からは奉納ほうのう子供相撲が10年ぶりに復活しました。また神幸殿しんこうでん境内けいだいでは青年団の『和楽会わがくかい』による露店が行われます。

  • 10月第3日曜日:しめおろし
  • 10月第4土曜日:神幸祭しんこうさいおくだり
  • 10月第4日曜日:神幸祭しんこうさいおのぼり

龍神祭りゅうじんさい

旧暦きゅうれき2月初辰はつたつ。当社由緒記ゆいしょきに「一丈いちじょう大幣たいへいささげて龍神祭りゅうじんさいを行う」とあります。当日の早朝、氏子うじこ地域を流れる広瀬川ひろせがわの河口に行き、しおを汲んで持ち帰ります。境内けいだいには笹竹ささたけにサラシを取り付けて大幣たいへいとしたものが4本立ちます。神前しんぜんに供えられた潮水しおみず祝詞のりとの後に境内けいだいに撒かれ、その年の過不足のない雨水を祈願きがんします。

毎年恒例の龍神祭りゅうじんさいに対して、数十年に一度の大干害の時に行われるのが臨時の大祭たいさいである雨乞あまごいの「大潮汲おおしおく神事しんじ」です。

当地は瀬戸内式気候のために、灌漑用水に苦慮してきました。日照りが続いて干害が心配される状況となると、神霊しんれい大幣たいへいにお移しし、太鼓や摺鉦すりがねなどのお囃子はやしに赤鬼・青鬼が行列の前後を舞い踊り、境内けいだい呉崎浜くれさきはままで下って潮水しおみずを汲み持ち帰る神事しんじです。それでも雨水が授からなければ、この行列に神輿みこしが加わり再度潮汲しおくみがおこなわれました。文政ぶんせい8年(1825)の様子を記した「春日神社かすがじんじゃ潮汲しおく神事しんじ絵巻えまき・一巻」が当社に所蔵されており、市指定有形文化財の指定を受けています。昭和6年(1931)を最後にこの臨時祭りんじさいは行われていませんでしたが、平成21年(2009)に御鎮座ごちんざ千二百年祭の記念事業のひとつとして78年ぶりに再現されました。呉崎くれさき潮汲しおく斎場さいじょうを出発した行列は、潮筒しおづつを入れた唐櫃からびつや馬上の神職しんしょく、高々と掲げられた大幣たいへいやお囃子はやしなど、250名にも及ぶ奉仕ほうし氏子うじこにより本宮ほんぐうに到着し、五穀豊穣・氏子うじこ安寧あんねい祭典さいてんが執り行われました。

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 参道
  • 二之鳥居
  • 二之鳥居
  • 神門
  • 神門
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 本殿・八坂神社・厳島神社
  • 本殿
  • 本殿
  • 摂社・八坂神社
  • 摂社・厳島神社
  • 神楽殿
  • 鐘楼
  • 御神木:楢の木

情報

住所〒879-0601
豊後高田市ぶんごたかだし草地くさじ三笠山みかさやま
創始そうし大同だいどう4年 (809年)
社格しゃかく郷社ごうしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい春季:4月第3土曜日(春日祭かすがまつり
秋季:10月第4土・日曜
催事さいじ龍神祭りゅうじんさい旧暦きゅうれき2月初辰はつたつ
HP 公式HP / Wikipedia

地図・マップ