九州の神社

大分県・薦神社(中津市)

御祭神

御祭神ごさいじん 應神天皇おうじんてんのう八幡大神はちまんおおかみ)、比咩大神ひめおおかみ田心比売命たごりひめのみこと湍津比売命たぎつひめのみこと市杵島比売命いつきしまひめのみこと)、息長帯比売命おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう

由緒

大貞八幡宮おおさだはちまんぐうとも称される薦神社こもじんじゃは、池そのものが御神体ごしんたいとされる三角池みすみいけ御澄池みすみいけ)を内宮ないくう社殿しゃでん外宮げくうあお八幡大菩薩はちまんだいぼさつ八幡神はちまんしん)の所縁ゆかりの地です。隼人はやと征伐せいばつの際、戦地におもむいた八幡神はちまんしん依代よりしろとされ、その後に宇佐神宮うさじんぐうの三つの神殿しんでんにおける御神体ごしんたいとされた薦枕こもまくらの材料である「マコモ(真薦まこも)」の茂る霊地れいちです。そのことから宇佐神宮うさじんぐう祖宮おやみやとも称されています。

社殿

拝殿はいでんから回廊かいろうを介して奥に三つの社殿しゃでんが立っており、宇佐神宮うさじんぐうと似た構造となっていますが、中心に鎮座ちんざするのが薦神社こもじんじゃ本殿ほんでんで、應神天皇おうじんてんのう八幡大神はちまんおおかみ)、比咩大神ひめおおかみ田心比売命たごりひめのみこと湍津比売命たぎつひめのみこと市杵島比売命いつきしまひめのみこと)、息長帯比売命おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)をまつっています。向かって右手(東)は八坂神社やさかじんじゃで、素盞嗚尊すさのおのみことまつっています。向かって左手(西)の三角池みすみいけよりは若宮社わかみやしゃで、応神天皇おうじんてんのう若宮わかみやである大鷦鷯命おほさざきのみこと仁徳天皇にんとくてんのう)と四皇子よんおうじまつっています。

八幡神はちまんしんが歴史の表舞台に出ることとなったのは、養老ようろう4年(720)の隼人はやとの反乱と、それに対しての豊前国ぶぜんのくにからの出兵でした。三角池みすみいけ八幡大菩薩はちまんだいぼさつ八幡神はちまんしん)の所縁ゆかりの地であることと、隼人はやとの反乱の制圧に際して三角池みすみいけ真薦まこもを使って御験みしるしがつくられたことの次第が、正和しょうわ2年(1313)宇佐神宮うさじんぐう学頭がくとうであった神吽しんうん八幡神はちまんしん由緒ゆいしょ編纂へんさんした『八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう』に詳細が記されています。

元正天皇げんしょうてんのう御代みよ養老ようろう3年(719)大隅おおすみ日向ひゅうがの両国の隼人はやとたちが反乱を企んでいることが朝廷に届きます。翌年の養老ようろう4年(720)朝廷は宇佐宮うさぐうにて八幡神はちまんしん祈祷きとうしたところ「我行われゆきて降伏こうふくすべし」神託しんたくがあります。朝廷の祈祷きとうは、豊前国ぶぜんのくにから和銅わどう7年(714)3月に隼人はやとを教化のため、200戸の人々を隼人はやとに移住していたことも背景にあると考えられています。

『続日本記』巻六

和銅七年。壬寅。隼人昏荒。野心未習憲法。因移豊前國民二百戸。令相勤導也。


和銅七年(714)。三月。壬寅(15日)。隼人昏荒、野心にして未だ憲法を習わず、因つて豊前国民二百戸を移して、相勤め導かしむなり。

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池の辺の部(大尾山)

元正天皇五年。養老三年。大隅。日向両国隼人等襲来。擬打傾日本国之間。同四年。公家被祈申当宮之時。神託。

我行而可降伏者。


元正天皇五年、養老三年(719)。大隅・日向両国の隼人等、襲い来り、日本国を打ち傾けんと擬る間、同四年(720)、公家当宮に祈り申さる時に、神託く。

我行きて降伏すべしてへり。

その神託しんたくを受け、将軍の宇努首男人うぬのおびとおひと八幡神はちまんしんほうじて、隼人はやと征伐せいばつに向かうことになります。一方、神官しんかん大神諸男おおがもろおは、軍勢のほうじる御神体ごしんたいせる神輿みこしの準備を進めます。しかし、八幡神はちまんしん依代よりしろとなる御神体ごしんたい御験みしるし)をどのようにするのかに思い悩みます。神慮しんりょを探る中で、八幡大菩薩はちまんだいぼさつがかつて修行しゅぎょうした地とされる宝池たからいけ三角池みすみいけ)に至り、祈りをささげます。

内宮(宝池・三角池)

宝池たからいけ三角池みすみいけ)は、神霊しんれいの宿る木や薬草が奥深く茂る地で、果実は多くとも触ることができず、集まる鳥は人を恐れず、遠くから望むと眩暈めまいがして見えない。近づこうとすると気力が萎えてしまう。遠くにあって近く、近くにあって遠い。林を出れば人の世、林に入ると現世とは違う世界。霊虵れいじゃが気を吹くと、晴れた空がかき曇る。変化へんげした鳥が光を放ち、暗い夜が昼の如く明るくなる。鏡を懸けたように塵ひとつなく、洗い清められた水面には、勢い良くこもが茂っていました。玉のような水が堪えず満ちて、清浄で、五欲ごよくの濁りがない。そのことから神仏の御心みこころを澄ませるのは、ここの水をおいて他に無いと感じさせる霊妙れいみょうな地でした。

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池邊部

豊前守正六位上宇努首男人。奉官符令造進神輿之時。白馬自然来令副神輿。弥信仰矣。諸男朝臣倩以。以何物為御験。可奉乗神輿哉。豊前国下毛郡野仲之勝境。林間之宝池者。大菩薩御修行之昔。令湧出之水也。参詣彼所欲祈申。件勝境仮令東西四五余町。南北一十有町。宝池仮令卯酉三四余町、子午七八有町歟。只限界之所及非丈尺之所数也。霊木森然而不能入首。薬草幽深而不可運歩。又果実雖多不触手。禽獣雖集不恐人。欲遠望則目眩不見。欲近側亦心疲不覚。遠而近。近而遠矣。出林則日月下。入林則天地之外。或時霊虵吹気而晴天成雲。或時化鳥放光。陰夜如昼。宝池為躰。雙嶋之崎切水以出北。一池之形分波以入南。一面而三角。地窄而勢寛挺瑑而生薦。懸鏡而洗塵。玉水湛満而自然清浄也。無五欲之濁。故澄冥慮於斯水歟。


豊前守正六位上宇努首男人、官符を奉り、神輿を造り進めしむ時、白馬自然に来り、神輿に副はしめ、弥信仰せり。諸男朝臣倩以るに、何物を以て御験と為し、神輿に乗せ奉るべきやと。豊前国下毛郡野仲の勝境の林間の宝池は、大菩薩御修行の昔、湧き出でしむる水なり。彼の所に参詣し、祈り申さんと欲ふ。件の勝境は仮令ば東西四五余町、南北一十有町なり。宝池は仮令ば卯酉三四余町、子午七八有町か。只限界の及ぶ所、丈尺の数ふ所に非ざるなり。霊木森然として、首を入る能はず。薬草幽深として、歩を運ぶべからず。又果実多しと雖も、手に触れず。禽獣集ると雖も、人を恐れず。遠く望んと欲ひ、則ち目眩いて見ず。近く側ならんと欲ひ、亦心疲れて覚えず。遠くして近し、近くして遠し。林を出れば則ち日月の下、林に入れば則ち天地の外なり。或る時は霊虵気を吐いて、晴天に雲を成し、或る時は化鳥光を放つて、陰夜昼の如し。宝池の為体、雙嶋の崎は水を切つて以つて北に出で、一池の形は波を分つて以つて南に入る。一面にして三角なり。地窄して勢寛し。挺瑑にして薦を生ず。鏡を懸けて塵を洗ふ。玉の水湛へ満ちて、自然に清浄なり。五欲の濁無し。故に冥慮を澄すは、斯の水に於いてなるか。

池には青・黄・赤・白・黒の五色ごしきの波が立ち、大神おおかみはその姿を池に写しているのだと思われました。八幡神はちまんしんは、池のこも御枕みまくらを作り、百王守護ひゃくおうしゅごの誓いを起こし、この池を御座所ござしょとなして、生きとし生けるものの罪業ざいごうを洗い清めている。まさに八幡神はちまんしん遊化ゆけの地であり、八功徳水はっくどくすい浄土じょうどのようでした。池には常に常人じょうじんに有らざる300余歳になる宇佐池守うさのいけもりが付きしたがっていて、八幡神はちまんしん誓願せいがんによって霊池たまいけを守っていました。大神諸男おおがもろおが池に向かうと、宇佐池守うさのいけもりは、人の乗る船に変化へんげし、頭を池の上に浮かべ、次のようにと歌いました。

大貞おおさだ三角みすみの池の 真薦草まこもぐさ なにをえにし天胎はらみ生むらん」

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池邊部

有五色之波故写霊貌於斯底歟。此薦為御枕。発百王守護之誓。此池為御座。灌衆生罪業之垢。八幡遊化之宝所。八功徳水之浄土也。有常随之者。非直人之儀。依神誓守霊池。其寿三百余歳。宇佐池守是也。諸男常臨時。池守申云。化人乗船。頭浮池上。謌云。

大貞也。三角能池乃真薦草。那尼遠縁仁。天胎見生宇覧。


五色の波有り。故に霊貌を斯の底に写すか。此の薦を御枕と為して、百王守護の誓を発し、此の池を御座と為して、衆生罪業の垢を灌ぐ。八幡遊化の宝所にして、八功徳水の浄土なり。常随の者有り。直人の儀に非ず。神の誓に依つて、霊池を守る。其の寿三百余歳、宇佐池守是れなり。諸男常に臨む時、池守申して云く。化人船に乗り、頭を池の上に浮かべ、歌つて云く。

大貞や 三角の池の 真薦草 なにを縁に 天胎み生むらん

益々信心しんじんを深めた大神諸男おおがもろおは、まことめて行幸ぎょうこう御験みしるしを教えたまわんと祈りをささげます。そして初秋しょしゅう初午はつうまの日に、宝池たからいけ三角池みすみいけ)に霊波れいはが満ち、煙波えんぱなぎさとなり岸辺に寄り、波が沸き返り沸き返りする中で、雲中からる声が響きます。

れ昔、こもを枕とし、百王守護ひゃくおうしゅごちかいおこしき。百王守護ひゃくおうしゅごとは、凶賊きょうぞくしきを降伏こうふくすべきなりてへり」

この神託しんたくを賜った大神諸男おおがもろおは、宝池たからいけ三角池みすみいけ)の真薦まこもを刈り、御枕みまくらを作るための別屋べつおくを造り七日参籠さんろうし、一心に気を収めて御枕みまくらを作り上げます。それを受けた将軍の宇努首男人うぬのおびとおひとは、御枕みまくら御神体ごしんたいとし、禰宜ねぎ辛嶋波豆米からしまのよずめ御杖人みつえびととして戦場へおもむいたのでした。

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池邊部

諸男弥致信。殊抽誠祈申。行幸御験之時。初秋之天。初午之日。霊波満池。煙波依渚。沸返沸返。而雲中有声而宣。

我昔此薦為枕。発百王守護之誓。百王守護者可降伏凶賊者也。

令造別屋。七日参籠。一心収気奉曩御枕。御長一尺。御径三寸。皆以神慮也。豊前守将軍奉請大御神。禰宜辛嶋波豆米為大御神之御杖人。立御前。行幸彼両国。


諸男弥信を致し、殊に誠を抽んで行幸の御験を祈り申す時、初秋の天、初午の日に、霊波池に満ち、煙波渚に依り、沸き返り沸き返りて、雲中に声有りて宣く。

我れ昔此薦を枕と為し、百王守護の誓を発しき。百王守護とは、凶賊を降伏すべきなりてへり。

これに依つて、諸男此の薦を苅り奉る。別屋を造らしめ、七日参籠し、一心に気を収め、御枕を曩み奉る。御長一尺、御径三寸、皆以つて神慮なり。豊前守将軍、大御神を請じ奉る。禰宜辛嶋波豆米、大御神の御杖人と為り、御前に立ち、彼の両国に行幸す。

隼人制圧はやとせいあつの後も、薦枕こもまくら八幡神はちまんしん御験みしるしとして用いられます。この八幡神はちまんしん御験みしるし薦枕こもまくら造替ぞうたいにかかわる一連の神事しんじが、宇佐宮うさぐう行幸会ぎょうこうえです。薦枕こもまくらは、6年毎に薦神社こもじんじゃ三角池みすみいけのマコモを刈って、新しく造り替えられます。三つの御殿ごてん御神体ごしんたいをそれぞれ神輿みこしにお乗せして、八幡神はちまんしん顕現けんげんする前に巡行じゅんこうした八つの神社(田笛社たふえしゃ鷹居社たかいしゃ郡瀬社ごうせしゃ泉社いずみしゃ乙咩社おとめしゃ大根川社おおねかわしゃ妻垣社つまがきしゃ小山田社こやまだしゃ)をまわった後、宇佐宮うさぐう本殿ほんでんに納める宇佐宮うさぐう最大の神事しんじでした。古い御験みしるし下宮げくうに、さらに下宮げくうの古い御験みしるしは、国東半島くにさきはんとう東海岸の奈多宮なたぐうに納められ、最終的には海に流されました。天平神護てんぴょうじんご元年(765)10月8日の神託しんたくでは4年に1度、行幸会ぎょうこうえ斎行さいこうすることを宣っています。

  1. 薦神社こもじんじゃ八幡神はちまんしん御神体ごしんたいである薦枕こもまくらの材料の真薦まこもを苅る。
  2. 宇佐宮うさぐう下宮げくうに戻り、鵜羽屋うばやを造る。
  3. 鵜羽屋うばや大神氏おおがし神官しんかんが17日間参籠さんろうし、一心に気を収めて、薦枕こもまくらをつくる。
  4. 宇佐宮うさぐう上宮じょうぐうの各神殿しんでんに新しい御神体ごしんたいたてまつる。
  5. 宇佐宮うさぐう上宮じょうぐうの旧御神体ごしんたい下宮げくううつす。
  6. 宇佐宮うさぐう下宮げくうの旧御神体ごしんたいたてまつり、宇佐うさの八ヶ所の別宮べつぐう巡幸じゅんこうする。
  7. 奈多宮なたぐう宇佐宮うさぐう下宮げくうの旧御神体ごしんたいたてまつる。
  8. 奈多宮なたぐうの旧御神体ごしんたいを海に流す。

弘仁こうにん2年(811)以降、行幸会ぎょうこうえとりのの年、6年に1度に改められました。『八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう』に行幸会ぎょうこうえの詳細が記されています。

『八幡宇佐宮御託宣集』威巻七・大尾社部(下)

神服。神宝等者。六年一度雖公家貢進矣。今就神託依府符。御行之御出立奉調進神服等。令荘厳斎殿。奉裏荘御験也。相当卯酉之年。七月初午之日。御装束所忽検校。祝。権祝。陰陽師並神人等。自菱形宮参薦御池。御杖人奉苅調之。御輿持奉荷捧之。任先例令警蹕帰本宮。下宮着。神官松本着座礼節。御薦案上暫在。而有御祓。奉入当社神前。奉安申殿梁上。神服以下被調之後。令造鵜羽屋。大神氏神官一七日参籠一心収気奉裏成之。御長径御錦等巳神慮之趣如被定之文。旧御験者奉安下宮。下宮御験者奉乗旧神輿。奉渡奈多宮而巳。新御験者自鵜羽屋有御出。神官勢々警蹕。経正道而入奉正殿。旧御験者自西妻戸有御出。神官少々無音廻閑道而入御下宮。下宮御験又奉遷奈多宮。是即以御影移行。被示世間転変也。


神服・神宝等は、六年に一度、公家貢進したまふと雖も、今神託に就き、府の符に依つて、御行の御出立として、神服等を調進し奉り、斎殿を荘厳せしめ、御験を裏み荘り奉るなり。卯酉の年七月初午の日に相当り、御装束所の忽検校・祝・権祝・陰陽師並に神人等、菱形宮より薦御池に参り、御杖人これを苅り調へ奉り、御輿持、これを荷ひ捧げ奉る。先例に任せて、警蹕せしめて本宮に帰り、下宮に着く。神官、松の本に着座して、礼節有り。御薦案上に暫在り。而に御祓有り、当社の神前に入り奉り、殿の梁の上に安き申し奉る。神服以下調へらるる後、鵜羽屋を造らしむ。大神氏の神官一七日参籠し、一心に気を収めて、これを裏み成し奉る。御長径御錦等は、巳に神慮の趣、定めらるる文の如し。旧き御験は、下宮に安き奉り、下宮の御験は、旧き神輿に乗せ奉り、奈多宮に渡し奉るのみ。新しき御験は、鵜羽屋より御出あり。神官勢々警蹕して、正道を経て、正殿に入れ奉る。旧き御験は、西の妻戸より御出有り、神官少々音無しに、閑道を廻つて、下宮に入れたまふ。下宮の御験は、又奈多宮に遷し奉る。是れ即ち御影の移り行くを以て、世間の転変を示さるるなり。

行幸会ぎょうこうえが始まる前の承和じょうわ年中(834-848)に薦神社こもじんじゃ社殿しゃでん創建そうけんされ、この時より神池かみいけ三角池みすみいけ)を内宮ないくう社殿しゃでん外宮げくうと称するようになりました。天仁てんにん2年(1109)には、神宮寺じんぐうじ七堂伽藍しちどうがらん建立こんりゅうされています。

現在の三角池みすみいけ御澄池みすみいけ)は、一部埋め立てられていますが、三角池みすみいけ御澄池みすみいけ)の2つのさきの最奥から新中津球場しんなかつきゅうじょう付近に至るまでと中津市なかつし大幡コミュニティーセンターの南側は、沢・水辺となっていました。そのことから北西寄りから一鏡澤いちかがみさわ(最奥で二手に沢が分岐)・二鉾澤にほこさわ三玉澤さんたまさわと並ぶ三つのさきが島状に並んでいました。その島は、それぞれ宇佐宮上宮うさぐうじょうぐうの三つの神殿しんでんに対応し、それぞれの島にて刈り取られた真薦まこも宇佐宮下宮うさぐうげくう鵜羽屋うばやに運び、御神体ごしんたいである薦枕こもまくら御験みしるしが作られていました。

  • いちしま鏡島かがみしま)=一之神殿いちのしんでん八幡大神はちまんおおかみ
  • しま鉾島ほこしま)=二之神殿にのしんでん比咩大神ひめおおかみ
  • さんしま玉島たましま)=三之神殿さんのしんでん神功皇后じんぐうこうごう

元暦げんりゃく元年(1184)の緒方惟栄おがたこれよしによる破却はきゃくをはじめ、戦乱等に巻き込まれて衰微すいび応永おうえい15年(1408)に豊後守護職ぶんごしゅごしょくに任命された大内盛見おおうちもりはるが、宇佐宮うさぐう等の社殿しゃでん仏堂ぶつどう神事しんじ法会ほうえ再興さいこうし、後に当地を治めた大内氏おおうちしにより、宇佐宮行幸会うさぐうぎょうこうえも復活され、薦神社こもじんじゃ社殿しゃでんなども造営ぞうえいされたと考えられています。しかし再び、天正てんしょう年中(1573-1592)にキリシタン大名の大友宗麟おおともそうりんによる焼き討ちや戦乱で荒廃。慶長けいちょう5年(1600)に細川忠興ほそかわただおき中津城なかつじょう入部にゅうぶし、元和げんな2年(1616)に宇佐宮行幸会うさぐうぎょうこうえ復興ふっこう。その時に、細川忠興ほそかわただおきによって本殿ほんでん申殿もうしでん回廊かいろう神門しんもんなどの大規模造営ぞうえいがおこなわれ、復興ふっこうされました。

内宮(宝池・三角池)から八面山

元々は、箭山ややまとも呼ばれる八面山はちめんざんを仰いで暮らす人々が神をお迎えする聖地のひとつであったともされ、八面山はちめんざんの山頂近くの箭山神社ややまじんじゃ薦神社こもじんじゃ奥宮おくみやとされています。三角池みすみいけは穏やかに起伏する洪積台地こうせきだいちを利用して作られ、水利不便な台地に造営ぞうえいされ、古代には清冽せいれつな水が流れ入る溜池であったと考えられています。そのことから薦神社こもじんじゃまつ八幡神はちまんしんは、池の守り神でもあったともされています。

三角池みすみいけの植物と植物群落は、昭和55年4月8日に県指定天然記念物に指定されています。


境内社けいだいしゃなど】

社殿

社殿しゃでん

社伝しゃでんによれば、承和じょうわ年中(834-48)に社殿しゃでん創建そうけんされ、天仁てんにん2年(1109)には神宮寺じんぐうじ七堂伽藍しちどうがらん建立こんりゅうされたと伝えられています。元暦げんりゃく元年(1184)緒方惟栄おがたこれよしによって社殿しゃでんが破壊され、衰微すいびします。応永おうえい15年(1408)に豊後守護職ぶんごしゅごしょくに任命された大内氏おおうちしにより応永おうえい永享えいきょう年間(1418-1431)、及び天文てんぶん年間(1532-1555)の二度に渡り社殿しゃでん再興さいこうされました。しかし再び、天正てんしょう年中(1573-1592)にキリシタン大名の大友宗麟おおともそうりんによる焼き討ちや戦乱で荒廃。慶長けいちょう5年(1600)に細川忠興ほそかわただおき中津城なかつじょう入部にゅうぶすると、宇佐宮うさぐうとともに薦神社こもじんじゃ復興ふっこうにも力を注ぎ、元和げんな年間(1615-24)に本殿ほんでん申殿もうしでん回廊かいろう御炊殿おいどの薬師堂やくしどう楼門ろうもん若宮殿わかみやでん南門みなみもん鳥居とりいなどの大規模造営ぞうえいがおこなわれ、復興ふっこうされました。社殿しゃでんは、三角池みすみいけの東に位置し、本殿ほんでん申殿もうしでん拝殿はいでんを南北に並べ、周囲を築地塀ついじべいで囲み、東側に神門しんもんが開いています。現在の社殿しゃでんは江戸時代末期のものです。

神門

神門しんもん

昭和63年(1988)12月19日に国重要文化財に指定された神門しんもんは、細川忠興ほそかわただおき元和げんな8年(1622)に建立こんりゅうしたものです。その当時の造営ぞうえいによるものが現存しています。神門しんもんの方向は、宇佐神宮うさじんぐうに向かっています。三間一戸さんげんいっこ二重門にじゅうもんの前後には、庇状ひさしじょう裳階もこしが付設されています。平面規模に比べ立面は縦長で、側面から見ると幅が狭く、棟高むねだかを一層感じさせる珍しい作りです。柱やはり組物くみものには太い材を用い、木鼻きばなの細部の繰型くりかた絵様えよう彫物ほりものなども優秀で、意匠いしょうや造りが共に優れています。屋根は入母屋造いりもやづくりりの杮葺こけらぶきで、裳階もこしの前面は唐破風からはふ。工匠の技量の高さがしのばれ、江戸時代初期の門として九州地方を代表するものです。平成7~9年(1995-1997)にかけての大修理では、建物の解体段階で多くの墨書銘すみがきめいが発見され、当初の痕跡を調査しながら、造営ぞうえい時の姿に復元されました。

伊勢宮いせぐう

神門しんもん前向かって右手に稲荷社いなりしゃと並んで鎮座ちんざ天照大神あまてらすおおかみまつっています。本殿ほんでんから伊勢いせ神宮じんぐうの方向に鎮座ちんざ遙拝所ようはいしょとなっています。

稲荷社いなりしゃ

伊勢宮いせぐうの向かって右手に鎮座ちんざ宇迦之御魂神うかのみたまのかみまつっています。

黒男神社くろんどじんじゃ

北口の参道から三角池みすみいけを過ぎてすぐ、神門しんもん近くに鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして武内宿禰たけしうちのすくねまつっています。武内宿禰たけしうちのすくねは、景行天皇けいこうてんのう成務天皇せいむてんのう仲哀天皇ちゅうあいてんのう応神天皇おうじんてんのう仁徳天皇にんとくてんのうの五代の天皇、そして神功皇后じんぐうこうごうに仕え、300歳程の長命であったとされ、数多くの功労・忠誠により八幡大神はちまんおおかみ御奉仕ごほうしされた神として知られています。地元では「くろんどさん」と称され、築池ちくち灌漑かんがい・水田開発の神、真薦まこもを刈る神事しんじ守護神しゅごしんとしてまつられています。

呉橋くれはし

黒男神社くろんどじんじゃの前にある江戸時代後期造営ぞうえいの屋根付きの木橋もっきょうです。長さ10m、約幅3mで、唐破風からはふの屋根が架けられた太鼓橋たいこばしです。中津市なかつしの有形文化財に指定されています。

頓宮とんぐう

三角池みすみいけの北西に位置し、9月に行われる仲秋祭ちゅうしゅうさいでは、御祭神ごさいじんせた神輿みこし頓宮とんぐう巡行じゅんこうします。初日の夜に神輿みこしの行列が頓宮とんぐうへと巡行じゅんこうし、翌日また本宮ほんぐうへと還ります。

「神様の足跡あしあと

三角池みすみいけ社殿しゃでん側の畔にまつられています。八幡神はちまんしんが三歳の童の姿で降臨こうりんされた時の足跡あしあとです。


神事しんじ祭事さいじ

鎮疫祭ちんえきさい

鎮疫祭ちんえきさいは、建国記念日と同日の2月11日に斎行さいこうされています。昔、天然痘てんねんとう流行はやった時、これをしずめるための祭りとして始められました。現在では、病気平癒びょうきへいゆ無病息災むびょうそくさい等を祈願きがんする祭りとなっています。午前11時から本殿ほんでんにおいて行われる神事しんじの後、伊勢宮いせぐうの前で「おにやらい」の行事が行られます。病気や不幸を2m四方の紙に「おに」という文字で表した的を弓矢で射て、無病息災むびょうそくさい祈願きがんする行事です。境内けいだいでは総代そうだい達による甘酒の振る舞いや、マコモの入った餅の餅搗もちまきも催されます。また、御神楽おかぐら奉納ほうのうされます。

仲秋祭ちゅうしゅうさい

9月の第3土曜・日曜日。初日の夕方から祭典さいてんが行われ、3基の御輿みこし御霊みたまが移され、午後8時に花火を合図に御神幸ごしんこうが開始されます。先頭は、塩振しおふりと呼ばれる白装束しろしょうぞくの子供が、さかきで塩水を振りながら清めて行きます。その後に旗持はたもち、稚児車ちごぐるま子供御輿こどもみこし傘鉾かさほこ本御輿ほんみこし3基、最後に宮司ぐうじ御輿みこしをお守りしていきます。3基の神輿みこしの先頭にはそれぞれ「花棒はなぼう」が立ち、指揮をとります。午後10時頃に頓宮とんぐうに到着します。2日目は頓宮とんぐうから本殿ほんでんへの還御かんぎょになります。

Photo・写真

  • 鳥居(北口参道)
  • 北口参道
  • 北口参道
  • 内宮(宝池・三角池)
  • 内宮(宝池・三角池)
  • 内宮(宝池・三角池)
  • 内宮(宝池・三角池)
  • 内宮(宝池・三角池)
  • 内宮(宝池・三角池)
  • 内宮(宝池・三角池)から八面山
  • 内宮(宝池・三角池)から八面山
  • 北口参道
  • 北口参道
  • 呉橋・黒男神社
  • 黒男神社
  • 呉橋
  • 東口参道
  • 神門
  • 神門
  • 神門
  • 神門
  • 本殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 薦神社・本殿
  • 薦神社・拝殿より本殿
  • 薦神社の拝殿
  • 八坂神社・拝殿
  • 八坂神社・拝殿より本殿
  • 若宮社・本殿
  • 若宮社・拝殿
  • 若宮社・拝殿より本殿
  • 伊勢宮・稲荷社
  • 伊勢宮・稲荷社
  • 伊勢宮
  • 稲荷社
  • 石祠と石仏
  • 神様の足跡
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情報

住所〒871-0153
中津市なかつし大貞おおさだ209
創始そうし 御神体ごしんたいである三角池みすみいけ由緒ゆいしょ養老ようろう3年(719)以前
社殿しゃでん創建そうけん承和じょうわ年中(834-848)
社格しゃかく県社けんしゃ [旧社格しゃかく]
例祭4月21日
神事しんじ 鎮疫祭ちんえきさい(2月11日)、仲秋祭ちゅうしゅうさい(9月第3土・日曜)
関連 宇佐神宮(宇佐市)
奈多宮(杵築市)
HP 公式HP / Wikipedia

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