城原八幡社は、景行天皇の熊襲征討の御征西の折、土蜘蛛の抵抗が強く一時、城原に引き返し軍を整えたと伝えられ、その行宮蹟が城原八幡社・上松原社地であるとされています。その御徳を称え、応神天皇2年(391)に現在の松原行宮蹟(松原公園)に景行祠を建て、祀ったのが創始です。景行天皇を産土神とし、南脇殿に安産交通安全の神として神功皇后、学問の神として応神天皇。北脇殿に五穀豊穣の神として比売大神、外二神を祀っています。
『日本書記』の景行天皇12年(82)の条に、
『日本書記』巻第七 景行天皇十二年十月
又於直入県禰疑野、有三土蜘蛛。一曰打猿。二曰八田。三曰国摩侶。是五人並其為人強力。亦衆類多之。皆曰。不従皇命。若強喚者。興兵距焉。天皇悪之不得進行。即留于来田見邑。権興宮室而居之。仍与群臣議之曰。今多動兵衆。以討土蜘蛛。若其畏我兵勢将隠山野、必為後愁。則採海石榴樹。作椎、為兵。因簡猛卒。授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛。而破于稲葉川上。悉殺其党。血流至踝。故時人其作海石榴椎之処曰海石榴市。亦血流之処曰血田也。復将討打猿。径度禰疑山。時賊虜之矢。横自山射之。流於官軍前如雨。天皇更返城原。而卜於水上。便勒兵、先撃八田於禰疑野而破。
又直入県の禰疑野に、三の土蜘蛛有り。一をば打猿と曰ふ。二をば八田と曰ふ。三をば国摩侶と曰ふ。是の五人は、並に其の為人強力くして、亦衆類多し。皆曰はく、『皇命に従はじ』といふ。若し強に喚さば、「兵を興して距かむ」とまうす。天皇悪したまひて、進行かこと得ず。即ち来田見邑に留まりて、権に宮室を興てて居します。仍りて群臣と議りて曰はく、「今多に兵衆を動して、土蜘蛛を討たむ。若し其れ我が兵の勢に畏りて、山野に隠れてば、必に後の愁を為さむ」とのたまふ。則ち海石榴樹を採りて、椎に作り兵にしたまふ。因りて猛き卒を簡びて、兵の椎を授けて、山を穿ち草を排ひて、石室の土蜘蛛を襲ひて、稲葉の川上に破りて、悉に其の党を殺す。血流れて踝に至る。故、時人、其の海石榴の椎を作りし処を、海石榴市と曰ふ。亦血の流れし処を血田と曰ふ。復、打猿を討たむとして、径に禰疑山を度る。時に賊虜の矢、横に山より射る。官軍の前に流ること雨の如し。天皇、更に城原に返りまして、水上に卜す。便ち兵を勒へて、先づ八田を禰疑野に撃ちて破りつ。
と記され、現在の境内地から北150m程にある松原公園の行宮蹟がその地とされています。宮城の址が残されていたことから城原と名付けられ、近くには宮園・御所園の名称が残されています。応神天皇2年(391)、その行宮蹟を崇めて景行祠を造営し、景行天皇の神霊を奉斎したのが創建とされています。
降って天安2年(858)2月、松林の中の桂の木に八幡大神の降臨の霊瑞がありました。これを聞いた国司の豊後守・石川宗継は神域を広め、景行祠を改築し、日野氏を神官として、八幡宮を配祀しました。以後、城原八幡宮と称されるようになりました。
仁平2年(1152)鎮西に下った源為朝が、騎牟礼城に居城した際、本社の頽廃を傷み神殿を再興し、従前は南面していたものを東面に改め、御霊社・武内社の二社、及びに弥勒寺・阿弥陀寺を新築。建久7年(1196)豊前・豊後両国の守護兼、鎮西奉行となった大友能直は、封内七社八幡
の一社と崇敬し、神領千余貫を寄附します。建久8年(1197)社殿を改造し、源為朝が寄附した弥勒仏を本尊として神宮寺を建立し、社僧12人神職74人を置いて奉仕させました。
天正6年(1578)7月にキリスト教の洗礼を受けた領主の大友宗麟は、領内の神社仏閣を次々に破棄します。本社は、幸いにもその難から免れるも、崇敬者を失い衰頽。天正14年(1586)10月、島津軍の乱入に遇い、社殿など悉く兵火に罹りますが、秘かに神輿を奉じて熊本県産山村の隠川(場所不承)に遁れ、辛くも一祠を営んで奉斎しました。
大友家が滅亡し、文禄3年(1594)に中川秀成が封に就くと、重臣の中川長祐に命じて封内の神社を調べさせ、同年12月に産山より本社の神霊を勝山(八幡山)に奉還しました。爾来、岡の総鎮守と定められます。しかし、丘上の勝山(八幡山)の地は風が強く、神慮に適わず、霊託が頻繁に起きたため、慶長元年(1596)3月に現鎮座地に遷座します。旧社地の松原行宮蹟(松原公園)には、松の名所として知られる播州国の舞子浜から持ち帰ったと伝えられる松が植えられ、宮の外苑とされました。20石の寄附がなされた社領は、後に50石に増加され、維新に至るまで、社殿の修築等は藩費を以て賄われていました。
明治4年(1871)社格制定により郷社に定められ、明治5年(1872)には県社に列しました。
【境内社など】
「社殿」
本殿・申殿・拝殿は市指定有形文化財に指定されています。
- 本殿は宝暦12年(1762)の建立。三間社流造、銅板葺。
- 拝殿は宝暦12年(1762)の建立。桁行七間、梁行二間、入母屋造。
- 申殿は宝暦12年(1762)の建立。正面三間、側面三間、入母屋造(正面軒唐破風付)。
- 楼門は文久2年(1862)の棟札があるものの、昭和60年(1985)に焼失し、平成2年(1990)に復元されたものです。三間一戸の入母屋造。
- 神楽殿は嘉永6年(1853)の建立。三間半の入母屋造。
「大歳社・武内社・御霊社・米長社」
社殿向かって右手に四社並びます。社殿寄りから大歳神を祀る大歳社、武内宿禰(善神王)を祀る武内社、須佐之男命を祀る御霊社。大日孁貴命・豊玉彦命・菅原道真を祀る米長社は米納地区と長迫地区の神社を合祀したものです。
「若宮八幡社」
社務所横に鎮座。城原八幡社が慶長元年(1596)に現鎮座地へ遷座する以前より祀られていたお宮です。
「興玉神社」
社殿向かって左奥に鎮座。猿田彦大神を祀っています。
「城原八幡社の社叢」
32科57種に及ぶ社叢の構成植物は、昭和47年(1972)4月1日に竹田市指定天然記念物に、昭和49年(1974)3月15日に県特別保護樹林に指定されています。大部分は、慶長元年(1596)3月の遷宮後の植栽になるものですが、楼門前の参道の並木は、それより年代を経ているとされています。参道の並木はスギが主で、その内の1本は平成2年(1990)に落雷をうけて伐採され、樹高37m、650年の樹齢だったと記録されています。同年代と推定されるものが伐根4本、生立木1本がある。境内にはイチョウとケヤキが各1本あります。楼門の後ろのイチョウは、昭和60年(1985)の楼門の放火による類焼と、平成3年(1991)の台風19号による被害が残っています。ケヤキは遷宮時すでに巨木であったと伝えられています。南側境内には、モミ、カラマツ、イロハモミジ、ヒヨクヒバ各1本の巨木。その他にオガタマノキ、カヤ、ゲッケイジュ、ヒイラギ、ソメイヨシノ、サカキなどが植えられています。中でも目通り周囲285cmのカヤは、御神木として崇められています【⑦】。
【神事・祭事】
夏越祭
「土用丑の日」近くの日曜日に斎行される夏越祭は、城原八幡社の3基の神輿が、竹田町に鎮座する西の宮神社・岡神社・神明社へ御神幸する祭りで、「城原様のおさがり」とも称されています。その始まりは宝暦12年(1762)に遡り、岡の総鎮守と定められた城原八幡社から、岡城の城下町の仮御殿(竹田市会々下木:現豊後竹田駅裏)に八幡大神の御神幸を行ったのが始まりです。当初は20日余りの御駐輦でしたが、明和6年(1769)からは14日間に、安永元年(1772)には3日間に短縮されます。安永2年(1773)正月に仮御殿が焼失したため、御神幸は中止され、城原において3日間の祭典のみに変更されました。安永6年(1777)からは、松原行宮蹟(松原公園)への御神幸が行われるようになり、竹田町からは囃子や山車等の余興が奉納されました。明治3年(1870)に竹田町に悪疫が流行したため、八幡大神の御神幸を願い、西の宮神社へ御神幸が行われ、現在の夏越祭の原型となりました。
祭りは、城原八幡社でお迎え神事が斎行し、神霊が遷された神輿を竹田町まで御神幸する「御下り」が行われます。かつては全ての行程を神輿を担いでいましたが、現在は自動車で豊後竹田駅前まで運んでいます。到着後、太鼓を打ちながら、「町祭じゃー」との掛け声と共に、平田獅子、太鼓、六角、榊、城原八幡社の神輿3基の順で隊列を組み、城下町を廻ります。また、御神幸では、神輿の下を両手を合わせ拝みながら潜ると、無病息災の御利益があるとされています。町廻りを終えると城原八幡社へ「お帰り」が行われ、神輿の「お帰り」の後、各祭組合の山車の巡行が神輿の御神幸とほぼ同じルートで行われ、祭りは終了します。
城原神楽・阿鹿野獅子舞
毎年10月第2日曜日に執り行われる例大祭では、前夜祭として竹田市指定無形民俗文化財に指定されている城原神楽が奉納されています。豊後大野市清川町の御嶽神社に伝わる御嶽神楽の流れをくむとされ、古文書には天明3年(1783)から始まったとされています。昭和60年(1985)に焼失した楼門が再建されたのを祝って平成6年(1994)から夜神楽として奉納されています。中でも須佐之男命が、酒を飲ませて八岐大蛇を退治する「八雲払」では、煙幕とライトアップで迫力ある神楽を見ることができます。
例大祭の当日には、雌雄の獅子が神輿を先導する形で県指定重要無形民俗文化財の「阿鹿野獅子舞」を奉納します。土蜘蛛征伐に向かう景行天皇は、阿鹿野の民の先導により、土蜘蛛を全滅させました。その喜びと天皇への感謝の意味もこめて舞った獅子舞が起源とされています。地面低くに獅子頭を擦り付けるような動きをするのが特徴となっています。その動きは、道なき道を先導し、土蜘蛛退治に貢献した状況を表現しているとされています。