激しい潮流の難所として知られる速吸瀬戸(豊予海峡)に面する佐賀関に鎮座する早吸日女神社(速吸日女神社)は、お関様・関権現とも称され、海上安全の神・厄除開運の神として厚く崇敬を集める古社です。
『続日本後紀』によれば承和10年(843)9月、無位から従五位下の神階を授けられます。『日本三代実録』によれば元慶7年(883)9月2日に正五位下に昇叙。延長5年(927)編纂の『延喜式神名帳』では豐後国の式内小社に列せられました。
『續日本後紀』卷十三 承和十年(843)
九月甲辰。…(略)…。豐後國无位健男霜凝日子并比咩神。无位早吸比咩神。日向國无位高智保皇神。无位都濃皇神並奉授從五位下。
『日本三代實録』卷四十四
元慶七年(883)九月二日乙丑。
九月甲午朔、二日乙丑。…(略)…。授豐後國從五位上建雄霜起神・早吸比咩神・宇奈支比咩神、並正五位下。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。…(略)…。豐後國六座[大一座・小五座]。直入郡一座[小]。建男霜凝日子神社。大分郡一座[大]。西寒多神社。速見郡三座[並小]。宇奈岐日女神社、火男火賣神社二座。海部郡一座[小]。早吸日女神社。
その創始は諸説伝えられており、黄泉の国から戻った伊弉諾尊の禊祓、神武天皇の東征に遡るとされています。御祭神は、八十枉津日神、大直日神、底筒男神、中筒男神、表筒男神、大地海原諸神の六柱神。『続日本後紀』・『日本三代実録』では「早吸比咩神」と記されていることから平安時代前期までは、早吸比咩神一座であったと考えられています。現在の六柱神となったのは、「関六所大権現」を称するようになった天慶4年(941)頃とも考えられています。
1.創始:伊弉諾尊の禊祓
社記、及び『豊後国志』(享和3年・1803)によれば、黄泉の国で汚れた体を祓うため潮に入った伊弉諾尊は、禊祓の後、高門岩に昇ります。高門岩は、今の牛島とされ、伊弉諾尊は二柱の幼き姉妹神の白浜神と黒浜神の防護をうけ、林を伐り、地を整えて田刈穂浦に速吸比咩神を祀ったとされています。二柱の女神の白浜神と黒浜神は、若御子鼻に住んでいたとされ、速吸比咩神を祀った田刈穂浦は、古宮(六柱神社)とされています。速吸比咩神を尊崇することから古くより、当地は速吸門と称されました。
『豐後國誌』卷之五 海部郡志「神祠」
「早吸日女神祠」…(略)…。速吸祠記曰。昔者伊弉冉尊神浮潜潮中。以濯汚。昇于高門岩。稚御子兄弟二女神供奉防衞。伐林除地。鎭座于田刈穗浦。稱曰速吸比咩神。盖高門岩佐加東北海上里許。今名牛島。是也。稚御子白濱、黑濱神。其所居之址。今呼曰稚御子鼻。田刈穗浦始鎭座地。今呼曰古宮村。崇速早吸神。故古呼此水門。稱速吸門。
【※誤植:×伊弉冉尊 → ○伊弉諾尊】
「早吸日女神祠」…(略)…。速吸の祠記曰く。昔、伊弉諾尊神、潮中に潜りて浮くを以て汚きを濯きたまひて、ここに高門岩に昇る。稚御子の兄弟なりし二女神、供に防衛奉るなり。林を伐り地を除ひ、ここに田刈穂浦に鎮まり座す。称して速吸比咩神と曰ふ。盖し高門岩は佐加の東北の海の上の里の許にあり。今は牛島と名く、是れなり。稚御子は白浜、黒浜の神なり。其の居ます所の址、今は稚御子鼻と呼び曰へり。田刈穂浦は始めて鎮まり座す地なり。今は古宮村と呼び曰へり。速吸神を崇めたまう故に、古より此の水門を呼ぶに、速吸門と称す。
尚、『日本書記』の一書において速吸名門は、黄泉の国から戻った伊弉諾尊が、最初に禊祓をしようとした地と伝えられています。しかし伊弉諾尊は、速吸名門は潮の流れが速過ぎるため、橘小門に向かい禊祓をしたとされています。
『日本書紀』巻第一 神代上 第五段一書第十
一書曰。…(畧)…。故欲濯除其穢惡、乃徃見粟門及速吸名門。然此二門、潮旣太急。故還向於橘之小門而拂濯也。
一書に曰はく。…(略)…。故、其の穢悪を濯ぎ除はむと欲して、乃ち往きて粟門及び速吸名門を見す。然るに、此の二の門、潮既に太だ急し。故、橘小門に還向りたまひて、拂ひ濯ぎたまふ。
2.創始:神武天皇の御東征
時は下って神武天皇の御代。神武天皇は、当時は未だ皇威が全国に輝くわけではなかったことから、天下万民が幸せに暮らせるよう御齢45歳の時、都を中央に遷すべく美々津(日向市美々津・立磐神社)の港から船出され、御東遷の途につかれました。
その途次、皇軍の向かう海路は風雲は自から静謐となり、速吸門に到りますが、急に進まなくなります。社伝によれば、神武天皇が海底を御覧になると、何か光り輝くものがあり不思議に思って一同に尋ねますが、誰もその由縁を知りませんでした。そこに当地の海女で黒浜に住む黒砂神と白浜に住む真砂神という姉妹の海女が小舟で漕ぎ寄せます。そして海底には伊弉諾尊の遺した神剣があり、神剣を御神体として速吸神を祭るよう奏上します。神武天皇は、2人に神剣を引き上げてくることができるか尋ねると、先に姉の黒砂神が潜りますがしばらくたっても戻ってこないため、妹の真砂神が続きます。海底では神剣を守護した大蛸が、姉の黒砂神に神剣を献上しており、妹の真砂神は姉に力添えして神剣を取り上げることができました。しかし姉の黒砂神は海中で命を落とし、妹の真砂神も神武天皇に神剣を奉献して程無く息絶えました。
その夜、深く二女を憐み思し召した、神武天皇の夢の中に姉妹が現れます。そして「ここを航海する船は、私たちがお護りします」と告げます。翌朝、激しい雷雨で大岩が裂けて二つの岩となり、それが黒ヶ浜の姉妹岩とされています。神武天皇はその神剣を御神体として天皇、御自から田刈穂浦(古宮)の地に速吸日女神を奉斎し、建国の大誓願を立てられたのが当社の創始とされています。御神体の神剣は後世まで伝わるも、慶長5年(1600)9月の「佐賀関の戦い」で兵火に罹り焼失したとされています。
この故事から早吸日女神社では、絵馬の代わりに「蛸の絵」を拝殿の内部に奉納し、自分で蛸を一定の期間断つと必ず成就するとされる「蛸断祈願」が、全国的にも珍しい祈願として有名です。
また、『豊後国志』(享和3年・1803)によれば、神武天皇がこの際、速吸神を祀った御神体は「天神氏」という天神七代の時の事物で、簡策のようなもので長さ2尺余、丈1寸半、厚さ3分、合わせて20枚余りの韋の縧で編んだものが御神体とされていたと記されています。簡策には摩耗していたものの漆書きの科斗のような神代文字が書かれていたとされていますが、こちらも慶長5年(1600)9月の「佐賀関の戦い」で兵火に罹り焼失したと伝えられています。
『豊後國志』(享和3年・1803)
神武東征時。到此門。祭速吸神遂創鴻基。其為神所祭。即天神氏時物也。其質似簡策。長二尺餘。濶寸半。厚三分強。凡二十餘枚。韋縧編之。皆神代文字。如科斗。漆書多漫滅。韋亦将絶。手不可近之。慶長五年。冬十月。罹兵燹而滅。
神武東征の時、此の門に到られ、速吸神を祭り、遂に鴻基を創る。其の神の為に祭る所、即ち天神氏といふ時物なり。其の質は簡策に似たり。長さは二尺余、濶さは寸半、厚さは三分強なり。凡そ二十余枚なり。韋の縧にてこれを編む。皆な神代文字なり。科斗の如し。漆書の多くは漫滅す。韋も亦た将に絶えんとせんため、手をこれに近付けるべからず。慶長五年の冬十月、兵燹に罹り滅す。
尚、『
日本書紀』では、
神武天皇が
速吸門を航行するとき、
珍彦(
椎根津彦)が先導したと伝えられ、その
椎根津彦を
祀る
椎根津彦神社は、
早吸日女神社の南300mに
鎮座しています。
『日本書紀』卷第三 神日本磐餘彦天皇・神武天皇
神武天皇卽位前紀甲寅年十月辛酉。其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。…(略)…。
其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門、時有一漁人乘艇而至。天皇招之、因問曰、汝誰也。對曰、臣是国神。名曰珍彦。釣魚於曲浦。聞天神子來、故卽奉迎。又問之曰、汝能爲我導耶。對曰、導之矣。天皇、勅授漁人椎㰏末、令執而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特賜名、爲椎根津彦。此卽倭直部始祖也。
其の年(前667年)の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。速吸之門に至ります。時に、一の漁人有りて、艇に乗りて至れり。天皇、之を招せて、因りて問ひて曰はく「汝は誰そ」とのたまふ。対して曰さく「臣は是れ国神なり。名をば珍彦と曰す。曲浦に釣魚す。天神の子来でますと聞りて、故に即ち迎へ奉る」とまうす。又問ひて曰はく「汝能く我が為に導つかまつらむや」とのたまふ。対して曰さく「導きたてまつらむ」とまうす。天皇、勅をもて漁人に椎㰏が末を授して、執へしめて、皇舟に牽き納れて、海導者とす。乃ち特に名を賜ひて、椎根津彦とす。此れ即ち倭直部が始祖なり。
3.創始:景行天皇の九州巡幸
景行天皇12年(82)景行天皇は、朝貢しない熊襲を征伐するため九州巡幸を行います。同年10月に周防国の佐婆津から海部郡の宮浦に入り停泊されたちょうどその時、景行天皇の車駕を聞きつけた速津媛という女性の長が迎えに来ます。そして、「この山の鼠磐窟という大きな磐窟に住む青・白という2人の土蜘蛛、直入郡の禰疑野に住む打猿・八田・国摩侶という3人の土蜘蛛、合わせて5人の土蜘蛛は、粗暴で大勢の手下を抱え『天皇の命令には従うまいぞ』と謗っており、もし強いて召すと兵を集めて抵抗するでしょう」と伝えます。天皇は兵を遣わし、その要害を遮って悉く土蜘蛛たちを誅滅しました。これによって速津媛国と称するようになり、後に速見郡となったとされています。
『豊後國風土記』
速見郡…(略)…。
昔者纒向日代官御宇天皇、欲誅玖磨囎唹、行幸於筑紫、從周防國佐婆津發舩渡、泊於海部郡宮浦、時、於此村有女人、名曰速津媛、爲其處之長。即聞天皇行幸、親自奉迎奏言、此山有大磐窟、名曰鼡磐窟、土蜘蛛二人住之、其名曰靑、白、又於直入郡禰疑野、有土蜘蛛三人、其名曰打猿、八田、國摩侶、是五人、竝爲人強暴、衆類亦夛在、悉皆談云、不從皇命、若強喚者、興兵距焉、於茲天皇遣兵遮其要害、悉誅滅、因斯名曰速津媛國、後人改曰速見郡。
速見郡…(略)…。
昔者、纏向の日代の官に御宇しし天皇、玖磨贈於を誅はむと欲して、筑紫に行幸し、周防の国佐婆津より発船して渡りまして、海部の郡宮浦に泊てたまひき。時に、この村に女人あり、名を速津媛と曰ひ、其の処の長たりき。即ち天皇の行幸すを聞きて、親自ら迎へ奉りて奏言ししく、「この山に大きなる磐窟あり、名を鼠磐の窟と曰ひ、土蜘蛛二人住めり。その名を青と白と曰ふ。又、直入の郡禰疑野に、土蜘蛛三人あり、その名を打猿・八田・国摩侶と曰ふ。是の五人、並人と為り強暴び、衆類も亦多にあり。悉皆、談ひて云へらく、『皇命に従はじ』といへり。若し強ひて喚さば、兵を興して距ぎまつらむ」とまをしき。茲に、天皇兵を遣りて、その要害を遮へて悉に誅ひ滅したまひき。斯れに因りて名を速津媛の国と曰ふ。後の人改めて速見の郡と曰ふ。
『日本書記』卷第七
景行天皇十二年。冬十月。到碩田国。其地形広大亦麗。因名碩田也。到速見邑。有女人。曰速津媛。為一処之長。其聞天皇車駕、而自奉迎之諮言。茲山有大石窟。曰鼠石窟。有二土蜘蛛。住其石窟。一曰青。二曰白。又於直入県禰疑野、有三土蜘蛛。一曰打猿。二曰八田。三曰国摩侶。是五人並其為人強力。亦衆類多之。皆曰。不従皇命。若強喚者。興兵距焉。天皇悪之不得進行。即留于来田見邑。権興宮室而居之。仍与群臣議之曰。今多動兵衆。以討土蜘蛛。若其畏我兵勢将隠山野、必為後愁。
景行天皇十二年(82)。冬十月、碩田国に到ります。其の地形広く大にして亦麗し。因りて碩田と名づく。速見邑に到ります。女人有り、速津媛と曰ふ。一処の長たり。其れ天皇車駕すと聞きて、自ら迎へ奉りて諮して言さく、茲の山に大なる石窟有り、鼠石窟と曰ふ。二の土蜘蛛有り、其の石窟に住めり。一を青と曰ふ。二を白と曰ふ。又直入県の禰疑野に於いて三の土蜘蛛あり。一を打猿と曰ふ。二を八田と曰ふ。三を国摩侶と曰ふ。是の五人は並に其の人と為り強力して、亦衆類多し。皆曰く、皇命従はじ。若し強に喚さば兵を興して距がむ。天皇悪みたまひて、進行ますことを得ず。即ち来田見邑に留まりて、権に宮室を興てて居ます。仍りて群臣と議りて曰く、今多く兵衆を動かして以て土蜘蛛を討つ。若し其れ我が兵の勢に畏りなば、将に山野に隠れて必ず後の愁を為さむ。
4.創始:大宝元年の日向国造の創始
大宝元年(701)神慮によって現在の社地に遷座との説が有力視されていますが、日向国造が大宝元年(701)に創始したとする説もあります。旧社記に記された古老の伝とする錦江寺の祖均による『早吸日女神社記』(享保7年・1722)が初見です。
日向国造が京都に上るため50艘余で航行していた時、高島で進むことができなくなります。すると波上に神光があり、日向国造は速吸は上古、神境であったことから神剣であると思い至ります。そこに白濱・黒濱の荒魂である白砂・黒砂という海女の姉妹が日向国造に近づき、我等は速吸六神の眷属で祭主が訪れることを待ち望んでいたことを伝えて、神剣を奉祀せんことを奏上したのでした。聞き及んだ日向国造は、神剣を御神体として曲浦浦の田刈穂(現在の古宮の地)に創建したのが創始と伝えています。
この大宝元年の日向国造の創始譚は、『太宰管内志』(安永3年・1775)、『豊後国志』(享和3年・1803)、『明治神社誌料』(明治45年・1912)で取り上げられています。
創建当初は田刈穂浦の古宮(六柱神社)の地に鎮座していましたが、大宝元年(701)神慮によって現在の社地に遷座します。『豊後国志』(享和3年・1803)によれば「大宝元年(701)神宣を奉じて曲浦の清地に遷座し、曲浦を和多浦と呼ぶようになった。清地を素娥と呼ぶのが後に洲賀となり、それが佐加の古い呼び方だった」と伝えています。
その他にも、大宝元年(701)の伝承として古老の伝説と旧家の古記によれば同年8月に地震があり、火災に罹り社殿を新造したとの説も残されています。
『豊後國志』(享和3年・1803)
大寶元年。奉神宣。移神宮于曲浦清地。曲浦呼為和多浦。清地呼為素娥。後作洲賀。盖佐加古称。
大宝元年、神宣を奉り、神宮を曲浦の清地に移したまひき。曲浦を和多浦と呼び、清地を素娥と呼び、後に洲賀と作す。盖し佐加と古に称す。
承和10年(843)9月、無位から従五位下の神階を授けられ、元慶7年(883)9月2日に正五位下に昇叙。昌泰2年(899)には朝廷より奉幣使の参向があったとされ、『延喜式神名帳』では豐後国の式内小社に列せられました。
天慶4年(941)神仏習合の修験教義により社名を「関六所大権現」と改称。建久7年(1195)豊前・豊後両国の守護職、及び鎮西奉行となった大友能直より社領11町歩の寄進を始め、大友氏より厚い崇敬を受けます。弘安4年(1281)元寇に際して勅願報賽のため伏見天皇勅筆「君が手にまかする秋の風なれば、なびかぬ草もあらじとぞおもふ」を献ぜられます。
戦国期、佐賀関も大友宗麟により珍宮(椎根津彦神社)や各寺院は烏有に帰す中、破却は免れたと考えられています。しかし、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに連動した「佐賀関の戦い」にて、臼杵城城主で領主であった西軍・太田政信と東軍・中川秀成との戦いで、中川秀成が当社に火を放ち、御神体と伝えられる伊弉諾尊の神剣、及び天神氏など、町と共に社殿までも焼亡しました。
「佐賀関の戦い」の後、熊本藩・加藤清正の飛地となり、慶長7年(1602)加藤清正により本殿と拝殿を再建。慶長9年(1604)神楽殿と木造鳥居が建立され、慶長10年(1605)12月20日には50石の寄進がありました。慶長19年(1614)延岡藩主の有馬直純は大阪冬の陣に向かう際、順風と必勝祈願を行います。翌年の元和元年(1615)祈願成就報賽のため50石を寄進し、元和2年(1616)には現在の東海神社として当社の御分霊を自身の延岡藩に勧請して、住吉大明神、または関権現と称して海上安全守護の神として尊崇しました。
寛永9年(1632)熊本藩は加藤家が改易され細川氏が継ぎます。その翌年の寛永10年(1633)には領主の細川忠利より所領50石と共に、有馬直純より神明社の再建がありました。その後も熊本藩の細川氏からの崇敬厚く、延宝3年(1675)社殿を再建。元禄10年(1697)には総門の建立。宝暦13年(1763)細川重賢により現在に伝わる社殿(本殿・拝殿)の再建など、社領の奉納や造替費の奉献がありました。天明6年(1786)社名を早吸日女神社に復すよう宗源宣旨があり、明治元年(1868)神仏分離令を受けて神殿内に奉斎されていた仏像6体は福正寺へ、総門内の仁王像2体は法心寺に安置されました。
明治6年(1873)2月に県社に指定。明治16年(1883)氏子中により本殿を改修。明治40年(1907)1月11日に神饌幣帛料供進神社の指定を受けました。大正4年(1915)氏子中により本殿や境内社などの改修。昭和29年(1954)氏子中により社殿を改修。昭和55-56年(1980-1981)社殿、及び境内の改修と整備。平成2年(1990)の社殿の大改修と境内社を整備。平成16-17年(2004-2005)に本殿、並びに総門、小野家住宅が大分市指定有形文化財に指定され、次いで拝殿、神楽殿、石鳥居、漁業図絵馬、熊本藩船佐賀関入港船絵馬、及び鯔網大漁光景図会絵馬が大分県指定有形文化財に指定されました。
【境内社など】
社殿廻り
「本殿・申殿・渡殿」
宝暦13年(1763)に再建された三間社流造、桧皮葺の神社建築です。梁行二間余、桁行三間半、周囲には彫刻があります。平成16年(2004)3月31日に県指定有形文化財に指定されました。
「拝殿」
多くの絵馬、蛸断祈願の絵が奉納されています。このうち熊本藩船佐賀関入港船絵馬など3枚が市指定文化財になっています。屋根の瓦には浦島太郎や龍宮城の意匠が施されています。
「御神水」
本殿の向かって左手後方に祀られています。古来より農作物、その他に霊験著しい御神水と伝えられ、遠近からの参拝者が数多く訪れています。
「神楽殿」
慶長9年(1604)加藤清正により奉献。平成17年(2005)市指定有形文化財に指定。
二之鳥居~社殿までの摂末社
「伊邪那岐社」
伊邪那岐神を御祭神として祀っています。黄泉の国で汚れた体を祓うため潮に入った伊弉諾尊は、禊祓の後、高門岩に昇ります。伊弉諾尊は二柱の幼き姉妹神の白浜神と黒浜神の防護をうけ、林を伐り、地を整えて田刈穂浦に速吸比咩神を祀ったとされています。その伊弉諾尊の残した神剣が当社の御神体とされていました。
「歳神社・天然社・若御子社」
- 歳神社の御祭神は大年神、御年神です。
- 天然社の御祭神は源維城敦仁親王(醍醐天皇)です。
- 若御子社の御祭神は黑砂神、眞砂神です。黑砂神、眞砂神は、伊弉諾尊が黄泉から戻って禊祓をした後、高門岩に昇って田刈穂浦に速吸比咩神を祀る際に防護した神とされています。また、神武天皇の東征の時、伊邪那岐神の神剣を海中の大蛸から取上げ奉献するとともに亡くなった2人の姉妹神ともされています。
「炊井」
姿見の井戸とも称し「心悪しき者姿映らず」と言い伝られています。
「木本神社」
神武天皇の東征の時、速吸門で出会った珍彦(椎根津彦神)を祀っています。当地から水先案内人をせられ、後、大和国造に任ぜられ、水先人の祖神とされています。
「相殿社・生土社」
相殿社は、神武天皇の御孫の健磐龍神と、応神天皇を始め五代の天皇に仕えた武神の武内宿禰命を御祭神として祀っています。生土社は、土地を守護する神として埴安命を御祭神として祀っています。
「御供殿」
神饌を準備する御供殿は、正徳3年(1713)熊本藩第4代藩主・細川宣紀の建立です。
一之鳥居~二之鳥居にかけて
「神明社」
手水舎の右手に鎮座。天照大神を御祭神として祀っています。
「天満社」
神明社から右手奥に二社。その左側に鎮座。菅原道真公を御祭神として祀っています。
「佐賀関護国神社」
神明社から右手奥に二社。その右側に鎮座。当町出身、護国の神霊を御祭神として祀っています。
「稲荷社」
天満社の左手、やや上手に鎮座。保食神を御祭神として祀っています。
「厳島社」
総門を過ぎて左手に鎮座。市杵島姫神を御祭神として祀っています。
「総門」
元禄10年(1697年)第3代熊本藩主・細川綱利により建立されました。平成16年(2004)3月31日に県指定有形文化財に指定されました。
「忠霊塔」
総門の向かって右手建てられています。
「石鳥居」
市指定有形文化財。
「小野家住宅」
明和年間(1764-1772)に小野河内守秀真が建てたもので、木材は佐伯、瓦は熊本藩主から拝領したといわれています。佐伯藩主・毛利高泰の書「貝仙窟」という一枚板の額がかかった式台付き玄関が有り、中には神殿、上段の間、書「潔斎の間などがあります。平成16年(2004)3月31日に県指定有形文化財に指定されました。