九州の神社

大分県・早吸日女神社(大分市)

御祭神

御祭神ごさいじん 八十枉津日神やそまがつひのかみ大直日神おおなほびのかみ住吉三神すみよしさんじん底筒男神そこつつおのかみ中筒男神なかつつおのかみ表筒男神うわつつおのかみ)、大地海原諸神おほとこうなはらもろもろのかみ

由緒

激しい潮流の難所として知られる速吸瀬戸はやすいのせと豊予海峡ほうよかいきょう)に面する佐賀関さがのせき鎮座ちんざする早吸日女神社はやすひめじんじゃ速吸日女神社はやすひめじんじゃ)は、お関様せきさま関権現せきごんげんとも称され、海上安全の神・厄除開運の神として厚く崇敬すうけいを集める古社こしゃです。

続日本後紀しょくにほんぎ』によれば承和じょうわ10年(843)9月、無位むいから従五位下じゅごいげ神階しんかいを授けられます。『日本三代実録にほんさんだいじつろく』によれば元慶がんぎょう7年(883)9月2日に正五位下しょうごいげ昇叙しょうじょ延長えんちょう5年(927)編纂へんさんの『延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』では豐後国ぶんごのくに式内小社しきないしょうしゃれっせられました。

『續日本後紀』卷十三 承和十年(843)

九月甲辰。…(略)…。豐後國无位健男霜凝日子并比咩神。无位早吸比咩神。日向國无位高智保皇神。无位都濃皇神並奉授從五位下。


『日本三代實録』卷四十四

元慶七年(883)九月二日乙丑。 九月甲午朔、二日乙丑。…(略)…。授豐後國從五位上建雄霜起神・早吸比咩神・宇奈支比咩神、並正五位下。


『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂

西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。…(略)…。豐後國六座[大一座・小五座]。直入郡一座[小]。建男霜凝日子神社。大分郡一座[大]。西寒多神社。速見郡三座[並小]。宇奈岐日女神社、火男火賣神社二座。海部郡一座[小]。早吸日女神社。

その創始そうしは諸説伝えられており、黄泉よみの国から戻った伊弉諾尊いざなぎのみこと禊祓みそぎはらえ神武天皇じんむてんのう東征とうせいに遡るとされています。御祭神ごさいじんは、八十枉津日神やそまがつひのかみ大直日神おおなほびのかみ底筒男神そこつつおのかみ中筒男神なかつつおのかみ表筒男神うわつつおのかみ大地海原諸神おほとこうなはらもろもろのかみ六柱神ろくはしらのかみ。『続日本後紀しょくにほんぎ』・『日本三代実録にほんさんだいじつろく』では「早吸比咩神はやすいひめのかみ」と記されていることから平安時代前期までは、早吸比咩神はやすいひめのかみ一座いちざであったと考えられています。現在の六柱神ろくはしらのかみとなったのは、「関六所せきろくしょ大権現だいごんげん」を称するようになった天慶てんぎょう4年(941)頃とも考えられています。

1.創始そうし伊弉諾尊いざなぎのみこと禊祓みそぎはらえ

社記しゃき、及び『豊後国志ぶんごこくし』(享和きょうわ3年・1803)によれば、黄泉よみの国で汚れた体をはらうため潮に入った伊弉諾尊いざなぎのみことは、禊祓みそぎはらえの後、高門岩たかどいわに昇ります。高門岩たかどいわは、今の牛島うしじまとされ、伊弉諾尊いざなぎのみこと二柱ふたはしらの幼き姉妹神しまいがみ白浜神しらはまのかみ黒浜神くろはまのかみの防護をうけ、林を伐り、地を整えて田刈穂浦たがりほのうら速吸比咩神はやすいひめのかみまつったとされています。二柱ふたはしら女神めがみ白浜神しらはまのかみ黒浜神くろはまのかみは、若御子鼻わかみこばなに住んでいたとされ、速吸比咩神はやすいひめのかみまつった田刈穂浦たがりほのうらは、古宮ふるみや六柱神社むはしらじんじゃとされています。速吸比咩神はやすいひめのかみ尊崇そんすうすることから古くより、当地は速吸門はやすいのとと称されました。

『豐後國誌』卷之五 海部郡志「神祠」

「早吸日女神祠」…(略)…。速吸祠記曰。昔者伊弉冉尊神浮潜潮中。以濯汚。昇于高門岩。稚御子兄弟二女神供奉防衞。伐林除地。鎭座于田刈穗浦。稱曰速吸比咩神。盖高門岩佐加東北海上里許。今名牛島。是也。稚御子白濱、黑濱神。其所居之址。今呼曰稚御子鼻。田刈穗浦始鎭座地。今呼曰古宮村。崇速早吸神。故古呼此水門。稱速吸門。 【※誤植:×伊弉冉尊 → ○伊弉諾尊】


「早吸日女神祠」…(略)…。速吸の祠記曰く。昔、伊弉諾尊神、潮中に潜りて浮くを以て汚きを濯きたまひて、ここに高門岩に昇る。稚御子の兄弟なりし二女神、供に防衛奉るなり。林を伐り地を除ひ、ここに田刈穂浦に鎮まり座す。称して速吸比咩神と曰ふ。盖し高門岩は佐加の東北の海の上の里の許にあり。今は牛島と名く、是れなり。稚御子は白浜、黒浜の神なり。其の居ます所の址、今は稚御子鼻と呼び曰へり。田刈穂浦は始めて鎮まり座す地なり。今は古宮村と呼び曰へり。速吸神を崇めたまう故に、古より此の水門を呼ぶに、速吸門と称す。

尚、『日本書記にほんしょき』の一書において速吸名門はやすいなとは、黄泉よみの国から戻った伊弉諾尊いざなぎのみことが、最初に禊祓みそぎはらえをしようとした地と伝えられています。しかし伊弉諾尊いざなぎのみことは、速吸名門はやすいなとは潮の流れが速過ぎるため、橘小門たちばなのおどに向かい禊祓みそぎはらえをしたとされています。

『日本書紀』巻第一 神代上 第五段一書第十

一書曰。…(畧)…。故欲濯除其穢惡、乃徃見粟門及速吸名門。然此二門、潮旣太急。故還向於橘之小門而拂濯也。


一書に曰はく。…(略)…。故、其の穢悪を濯ぎ除はむと欲して、乃ち往きて粟門及び速吸名門を見す。然るに、此の二の門、潮既に太だ急し。故、橘小門に還向りたまひて、拂ひ濯ぎたまふ。

2.創始そうし神武天皇じんむてんのう御東征ごとうせい

時は下って神武天皇じんむてんのう御代みよ神武天皇じんむてんのうは、当時は未だ皇威こういが全国に輝くわけではなかったことから、天下万民が幸せに暮らせるよう御齢45歳の時、みやこを中央にうつすべく美々津みみつ日向市ひゅうがし美々津みみつ立磐神社たていわじんじゃの港から船出され、御東遷ごとうせんの途につかれました。

その途次、皇軍こうぐんの向かう海路は風雲は自から静謐となり、速吸門はやすいのとに到りますが、急に進まなくなります。社伝によれば、神武天皇じんむてんのうが海底を御覧になると、何か光り輝くものがあり不思議に思って一同に尋ねますが、誰もその由縁ゆえんを知りませんでした。そこに当地の海女あま黒浜くろはまに住む黒砂神いさごのかみ白浜しろはまに住む真砂神まさごのかみという姉妹の海女あまが小舟で漕ぎ寄せます。そして海底には伊弉諾尊いざなぎのみことの遺した神剣しんけんがあり、神剣しんけん御神体ごしんたいとして速吸神はやすいのかみまつるよう奏上そうじょうします。神武天皇じんむてんのうは、2人に神剣しんけんを引き上げてくることができるか尋ねると、先に姉の黒砂神いさごのかみが潜りますがしばらくたっても戻ってこないため、妹の真砂神まさごのかみが続きます。海底では神剣しんけんを守護した大蛸が、姉の黒砂神いさごのかみ神剣しんけんを献上しており、妹の真砂神まさごのかみは姉に力添えして神剣しんけんを取り上げることができました。しかし姉の黒砂神いさごのかみは海中で命を落とし、妹の真砂神まさごのかみ神武天皇じんむてんのう神剣しんけん奉献ほうけんして程無く息絶えました。

その夜、深く二女を憐み思し召した、神武天皇じんむてんのうの夢の中に姉妹が現れます。そして「ここを航海する船は、私たちがおまもりします」と告げます。翌朝、激しい雷雨で大岩が裂けて二つの岩となり、それが黒ヶ浜くろがはま姉妹岩びしゃごいわとされています。神武天皇じんむてんのうはその神剣しんけん御神体ごしんたいとして天皇てんのう御自おんみずから田刈穂浦たがりほのうら古宮ふるみやの地に速吸日女神はやすいひめのかみ奉斎ほうさいし、建国の大誓願だいせいがんを立てられたのが当社の創始そうしとされています。御神体ごしんたい神剣しんけんは後世まで伝わるも、慶長けいちょう5年(1600)9月の「佐賀関さがのせきの戦い」で兵火へいかかかり焼失したとされています。

この故事こじから早吸日女神社はやすひめじんじゃでは、絵馬えまの代わりに「たこの絵」を拝殿はいでんの内部に奉納ほうのうし、自分でたこを一定の期間断つと必ず成就じょうじゅするとされる「蛸断祈願たこたちきがん」が、全国的にも珍しい祈願きがんとして有名です。

また、『豊後国志ぶんごこくし』(享和きょうわ3年・1803)によれば、神武天皇じんむてんのうがこの際、速吸神はやすいのかみまつった御神体ごしんたいは「天神氏てんじんし」という天神七代てんじんななよの時の事物じぶつで、簡策かんさくのようなもので長さ2尺余、丈1寸半、厚さ3分、合わせて20枚余りのなめしかはいとで編んだものが御神体ごしんたいとされていたと記されています。簡策かんさくには摩耗していたものの漆書きの科斗かとのような神代文字かみよもじが書かれていたとされていますが、こちらも慶長けいちょう5年(1600)9月の「佐賀関さがのせきの戦い」で兵火へいかかかり焼失したと伝えられています。

『豊後國志』(享和3年・1803)

神武東征時。到此門。祭速吸神遂創鴻基。其為神所祭。即天神氏時物也。其質似簡策。長二尺餘。濶寸半。厚三分強。凡二十餘枚。韋縧編之。皆神代文字。如科斗。漆書多漫滅。韋亦将絶。手不可近之。慶長五年。冬十月。罹兵燹而滅。


神武東征の時、此の門に到られ、速吸神を祭り、遂に鴻基を創る。其の神の為に祭る所、即ち天神氏といふ時物なり。其の質は簡策に似たり。長さは二尺余、濶さは寸半、厚さは三分強なり。凡そ二十余枚なり。韋の縧にてこれを編む。皆な神代文字なり。科斗の如し。漆書の多くは漫滅す。韋も亦た将に絶えんとせんため、手をこれに近付けるべからず。慶長五年の冬十月、兵燹に罹り滅す。

尚、『日本書紀にほんしょき』では、神武天皇じんむてんのう速吸門はやすいのとを航行するとき、珍彦うずひこ椎根津彦しいねつひこ)が先導したと伝えられ、その椎根津彦しいねつひこまつ椎根津彦神社しいねつひこじんじゃは、早吸日女神社はやすひめじんじゃの南300mに鎮座ちんざしています。

『日本書紀』卷第三 神日本磐餘彦天皇・神武天皇

神武天皇卽位前紀甲寅年十月辛酉。其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。…(略)…。

其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門、時有一漁人乘艇而至。天皇招之、因問曰、汝誰也。對曰、臣是国神。名曰珍彦。釣魚於曲浦。聞天神子來、故卽奉迎。又問之曰、汝能爲我導耶。對曰、導之矣。天皇、勅授漁人椎㰏末、令執而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特賜名、爲椎根津彦。此卽倭直部始祖也。


其の年(前667年)の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。速吸之門に至ります。時に、一の漁人有りて、艇に乗りて至れり。天皇、之を招せて、因りて問ひて曰はく「汝は誰そ」とのたまふ。対して曰さく「臣は是れ国神なり。名をば珍彦と曰す。曲浦に釣魚す。天神の子来でますと聞りて、故に即ち迎へ奉る」とまうす。又問ひて曰はく「汝能く我が為に導つかまつらむや」とのたまふ。対して曰さく「導きたてまつらむ」とまうす。天皇、勅をもて漁人に椎㰏が末を授して、執へしめて、皇舟に牽き納れて、海導者とす。乃ち特に名を賜ひて、椎根津彦とす。此れ即ち倭直部が始祖なり。

3.創始そうし景行天皇けいこうてんのう九州巡幸きゅうしゅうじゅんこう

景行天皇けいこうてんのう12年(82)景行天皇けいこうてんのうは、朝貢ちょうこうしない熊襲くまそ征伐せいばつするため九州巡幸きゅうしゅうじゅんこうを行います。同年10月に周防国すおうのくに佐婆津さばのつから海部郡あまぐん宮浦みやうらに入り停泊されたちょうどその時、景行天皇けいこうてんのう車駕しゃがを聞きつけた速津媛はやつひめという女性のおさが迎えに来ます。そして、「この山の鼠磐窟ねずみのいわやという大きな磐窟いわやに住む青・白という2人の土蜘蛛つちぐも直入郡なおいりぐん禰疑野ねぎのに住む打猿うちさる八田やた国摩侶くにまろという3人の土蜘蛛つちぐも、合わせて5人の土蜘蛛つちぐもは、粗暴で大勢の手下を抱え『天皇の命令には従うまいぞ』とそしっており、もし強いて召すと兵を集めて抵抗するでしょう」と伝えます。天皇は兵を遣わし、その要害を遮ってことごと土蜘蛛つちぐもたちを誅滅ちゅうめつしました。これによって速津媛国はやつひめのくにと称するようになり、後に速見郡はやみぐんとなったとされています。

『豊後國風土記』

速見郡…(略)…。 昔者纒向日代官御宇天皇、欲誅玖磨囎唹、行幸於筑紫、從周防國佐婆津發舩渡、泊於海部郡宮浦、時、於此村有女人、名曰速津媛、爲其處之長。即聞天皇行幸、親自奉迎奏言、此山有大磐窟、名曰鼡磐窟、土蜘蛛二人住之、其名曰靑、白、又於直入郡禰疑野、有土蜘蛛三人、其名曰打猿、八田、國摩侶、是五人、竝爲人強暴、衆類亦夛在、悉皆談云、不從皇命、若強喚者、興兵距焉、於茲天皇遣兵遮其要害、悉誅滅、因斯名曰速津媛國、後人改曰速見郡。


速見郡…(略)…。 昔者、纏向の日代の官に御宇しし天皇、玖磨贈於を誅はむと欲して、筑紫に行幸し、周防の国佐婆津より発船して渡りまして、海部の郡宮浦に泊てたまひき。時に、この村に女人あり、名を速津媛と曰ひ、其の処の長たりき。即ち天皇の行幸すを聞きて、親自ら迎へ奉りて奏言ししく、「この山に大きなる磐窟あり、名を鼠磐の窟と曰ひ、土蜘蛛二人住めり。その名を青と白と曰ふ。又、直入の郡禰疑野に、土蜘蛛三人あり、その名を打猿・八田・国摩侶と曰ふ。是の五人、並人と為り強暴び、衆類も亦多にあり。悉皆、談ひて云へらく、『皇命に従はじ』といへり。若し強ひて喚さば、兵を興して距ぎまつらむ」とまをしき。茲に、天皇兵を遣りて、その要害を遮へて悉に誅ひ滅したまひき。斯れに因りて名を速津媛の国と曰ふ。後の人改めて速見の郡と曰ふ。

『日本書記』卷第七

景行天皇十二年。冬十月。到碩田国。其地形広大亦麗。因名碩田也。到速見邑。有女人。曰速津媛。為一処之長。其聞天皇車駕、而自奉迎之諮言。茲山有大石窟。曰鼠石窟。有二土蜘蛛。住其石窟。一曰青。二曰白。又於直入県禰疑野、有三土蜘蛛。一曰打猿。二曰八田。三曰国摩侶。是五人並其為人強力。亦衆類多之。皆曰。不従皇命。若強喚者。興兵距焉。天皇悪之不得進行。即留于来田見邑。権興宮室而居之。仍与群臣議之曰。今多動兵衆。以討土蜘蛛。若其畏我兵勢将隠山野、必為後愁。


景行天皇十二年(82)。冬十月、碩田国に到ります。其の地形広く大にして亦麗し。因りて碩田と名づく。速見邑に到ります。女人有り、速津媛と曰ふ。一処の長たり。其れ天皇車駕すと聞きて、自ら迎へ奉りて諮して言さく、茲の山に大なる石窟有り、鼠石窟と曰ふ。二の土蜘蛛有り、其の石窟に住めり。一を青と曰ふ。二を白と曰ふ。又直入県の禰疑野に於いて三の土蜘蛛あり。一を打猿と曰ふ。二を八田と曰ふ。三を国摩侶と曰ふ。是の五人は並に其の人と為り強力して、亦衆類多し。皆曰く、皇命従はじ。若し強に喚さば兵を興して距がむ。天皇悪みたまひて、進行ますことを得ず。即ち来田見邑に留まりて、権に宮室を興てて居ます。仍りて群臣と議りて曰く、今多く兵衆を動かして以て土蜘蛛を討つ。若し其れ我が兵の勢に畏りなば、将に山野に隠れて必ず後の愁を為さむ。

4.創始そうし大宝たいほう元年の日向国造ひゅうがのこくぞう創始そうし

大宝たいほう元年(701)神慮しんりょによって現在の社地しゃち遷座せんざとの説が有力視されていますが、日向国造ひゅうがのこくぞう大宝たいほう元年(701)に創始そうししたとする説もあります。旧社記しゃきに記された古老の伝とする錦江寺きんこうじの祖均による『早吸日女神社記はやすひめじんじゃき』(享保きょうほう7年・1722)が初見です。

日向国造ひゅうがのこくぞうが京都に上るため50艘余そうあまりで航行していた時、高島たかしまで進むことができなくなります。すると波上に神光しんこうがあり、日向国造ひゅうがのこくぞう速吸はやすい上古じょうこ神境しんきょうであったことから神剣しんけんであると思い至ります。そこに白濱しらはま黒濱くろはま荒魂あらたまである白砂しろすな黒砂くろすなという海女あまの姉妹が日向国造ひゅうがのこくぞうに近づき、我等は速吸六神はやすいろくしん眷属けんぞく祭主さいしゅが訪れることを待ち望んでいたことを伝えて、神剣しんけん奉祀ほうしせんことを奏上そうじょうしたのでした。聞き及んだ日向国造ひゅうがのこくぞうは、神剣しんけん御神体ごしんたいとして曲浦浦わたのうら田刈穂たかりほ(現在の古宮ふるみやの地)に創建そうけんしたのが創始そうしと伝えています。

この大宝たいほう元年の日向国造ひゅうがのこくぞう創始譚そうしたんは、『太宰管内志だざいかんないし』(安永あんえい3年・1775)、『豊後国志ぶんごこくし』(享和きょうわ3年・1803)、『明治神社誌料めいじじんじゃしりょう』(明治45年・1912)で取り上げられています。

創建そうけん当初は田刈穂浦たがりほのうら古宮ふるみや六柱神社むはしらじんじゃの地に鎮座ちんざしていましたが、大宝たいほう元年(701)神慮しんりょによって現在の社地しゃち遷座せんざします。『豊後国志ぶんごこくし』(享和きょうわ3年・1803)によれば「大宝たいほう元年(701)神宣じんせんほうじて曲浦わたのうら清地すがち遷座せんざし、曲浦わたのうら和多浦わたのうらと呼ぶようになった。清地すがち素娥そがと呼ぶのが後に洲賀すがとなり、それが佐加さがの古い呼び方だった」と伝えています。

その他にも、大宝たいほう元年(701)の伝承として古老の伝説と旧家の古記によれば同年8月に地震があり、火災にかか社殿しゃでんを新造したとの説も残されています。

『豊後國志』(享和3年・1803)

大寶元年。奉神宣。移神宮于曲浦清地。曲浦呼為和多浦。清地呼為素娥。後作洲賀。盖佐加古称。


大宝元年、神宣を奉り、神宮を曲浦の清地に移したまひき。曲浦を和多浦と呼び、清地を素娥と呼び、後に洲賀と作す。盖し佐加と古に称す。

承和じょうわ10年(843)9月、無位むいから従五位下じゅごいげ神階しんかいを授けられ、元慶がんぎょう7年(883)9月2日に正五位下しょうごいげ昇叙しょうじょ昌泰しょうたい2年(899)には朝廷より奉幣使ほうへいし参向さんこうがあったとされ、『延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』では豐後国ぶんごのくに式内小社しきないしょうしゃれっせられました。

天慶てんぎょう4年(941)神仏習合しんぶつしゅうごう修験教義しゅげんきょうぎにより社名しゃめいを「関六所せきろくしょ大権現だいごんげん」と改称。建久けんきゅう7年(1195)豊前ぶぜん豊後両国ぶんごりょうこく守護職しゅごしょく、及び鎮西奉行ちんぜいぶぎょうとなった大友能直おおともよしなおより社領しゃりょう11町歩の寄進きしんを始め、大友氏おおともしより厚い崇敬すうけいを受けます。弘安こうあん4年(1281)元寇げんこうに際して勅願報賽ちょくがんほうさいのため伏見天皇ふしみてんのう勅筆ちょくひつ「君が手にまかする秋の風なれば、なびかぬ草もあらじとぞおもふ」をけんぜられます。

戦国期、佐賀関さがのせき大友宗麟おおともそうりんにより珍宮うずみや椎根津彦神社しいねつひこじんじゃ)や各寺院は烏有うゆうに帰す中、破却はきゃくは免れたと考えられています。しかし、慶長けいちょう5年(1600)関ヶ原の戦いに連動した「佐賀関さがのせきの戦い」にて、臼杵城城主うすきじょうじょうしゅ領主りょうしゅであった西軍・太田政信おおたまさのぶと東軍・中川秀成なかがわひでしげとの戦いで、中川秀成なかがわひでしげが当社に火を放ち、御神体ごしんたいと伝えられる伊弉諾尊いざなぎのみこと神剣しんけん、及び天神氏てんじんしなど、町と共に社殿しゃでんまでも焼亡しました。

佐賀関さがのせきの戦い」の後、熊本藩くまもとはん加藤清正かとうきよまさ飛地とびちとなり、慶長けいちょう7年(1602)加藤清正かとうきよまさにより本殿ほんでん拝殿はいでんを再建。慶長けいちょう9年(1604)神楽殿かぐらでん木造鳥居もくぞうとりいが建立され、慶長けいちょう10年(1605)12月20日には50石の寄進きしんがありました。慶長けいちょう19年(1614)延岡藩主のべおかはんしゅ有馬直純ありまなおずみは大阪冬の陣に向かう際、順風と必勝祈願ひっしょうきがんを行います。翌年の元和げんな元年(1615)祈願きがん成就じょうじゅ報賽ほうさいのため50石を寄進きしんし、元和げんな2年(1616)には現在の東海神社とうみじんじゃとして当社の御分霊ごぶんれいを自身の延岡藩のべおかはん勧請かんじょうして、住吉大明神すみよしだいみょうじん、または関権現せきごんげんと称して海上安全守護の神として尊崇そんすうしました。

寛永かんえい9年(1632)熊本藩くまもとはん加藤家かとうけ改易かいえきされ細川氏ほそかわしが継ぎます。その翌年の寛永かんえい10年(1633)には領主りょうしゅ細川忠利ほそかわただとしより所領しょりょう50石と共に、有馬直純ありまなおずみより神明社しんめいしゃの再建がありました。その後も熊本藩くまもとはん細川氏ほそかわしからの崇敬すうけい厚く、延宝えんぽう3年(1675)社殿しゃでんを再建。元禄げんろく10年(1697)には総門そうもんの建立。宝暦ほうれき13年(1763)細川重賢ほそかわしげかたにより現在に伝わる社殿しゃでん本殿ほんでん拝殿はいでん)の再建など、社領しゃりょう奉納ほうのう造替費ぞうたいひ奉献ほうけんがありました。天明てんめい6年(1786)社名しゃめい早吸日女神社はやすひめじんじゃふくすよう宗源そうげん宣旨せんじがあり、明治元年(1868)神仏分離令しんぶつぶんりれいを受けて神殿しんでん内に奉斎ほうさいされていた仏像6体は福正寺ふくしょうじへ、総門そうもん内の仁王像におうぞう2体は法心寺ほうしんじ安置あんちされました。

明治6年(1873)2月に県社けんしゃに指定。明治16年(1883)氏子中うじこちゅうにより本殿ほんでんを改修。明治40年(1907)1月11日に神饌幣帛料しんせんへいはくりょう供進神社きょうしんじんじゃの指定を受けました。大正4年(1915)氏子中うじこちゅうにより本殿ほんでん境内社けいだいしゃなどの改修。昭和29年(1954)氏子中うじこちゅうにより社殿しゃでんを改修。昭和55-56年(1980-1981)社殿しゃでん、及び境内けいだいの改修と整備。平成2年(1990)の社殿しゃでんの大改修と境内社けいだいしゃを整備。平成16-17年(2004-2005)に本殿ほんでん、並びに総門そうもん小野家住宅おのけじゅうたくが大分市指定有形文化財に指定され、次いで拝殿はいでん神楽殿かぐらでん石鳥居いしとりい漁業図絵馬ぎょぎょうずえま熊本藩船くまもとはんせん佐賀関さがのせき入港船絵馬にゅうこうふなえま、及び鯔網大漁光景図会絵馬ぼこあみたいりょうこうけいずええまが大分県指定有形文化財に指定されました。


境内社けいだいしゃなど】

社殿廻しゃでんまわ

本殿ほんでん申殿もうしでん渡殿わたりでん

宝暦ほうれき13年(1763)に再建された三間社流造さんげんしゃながれづくり桧皮葺ひわだぶきの神社建築です。梁行はりゆき二間余にけんあまり桁行けたゆき三間半さんけんはん、周囲には彫刻があります。平成16年(2004)3月31日に県指定有形文化財に指定されました。

拝殿はいでん

多くの絵馬えま蛸断祈願たこたちきがんの絵が奉納ほうのうされています。このうち熊本藩船くまもとはんせん佐賀関さがのせき入港船絵馬にゅうこうふなえまなど3枚が市指定文化財になっています。屋根の瓦には浦島太郎や龍宮城の意匠が施されています。

御神水ごしんすい

本殿ほんでんの向かって左手後方に祀られています。古来より農作物、その他に霊験著しい御神水ごしんすいと伝えられ、遠近からの参拝者が数多く訪れています。

神楽殿かぐらでん

慶長けいちょう9年(1604)加藤清正かとうきよまさにより奉献ほうけん。平成17年(2005)市指定有形文化財に指定。

二之鳥居にのとりい社殿しゃでんまでの摂末社せつまっしゃ

伊邪那岐社いざなぎしゃ

伊邪那岐社

伊邪那岐神いざなぎのかみ御祭神ごさいじんとしてまつっています。黄泉よみの国で汚れた体をはらうため潮に入った伊弉諾尊いざなぎのみことは、禊祓みそぎはらえの後、高門岩たかどいわに昇ります。伊弉諾尊いざなぎのみこと二柱ふたはしらの幼き姉妹神しまいがみ白浜神しらはまのかみ黒浜神くろはまのかみの防護をうけ、林を伐り、地を整えて田刈穂浦たがりほのうら速吸比咩神はやすいひめのかみまつったとされています。その伊弉諾尊いざなぎのみことの残した神剣しんけんが当社の御神体ごしんたいとされていました。

歳神社としじんじゃ天然社てんねんしゃ若御子社わかみこしゃ

歳神社・天然社・若御子社
  • 歳神社としじんじゃ御祭神ごさいじん大年神おほとしのかみ御年神みとしのかみです。
  • 天然社てんねんしゃ御祭神ごさいじん源維城敦仁親王みなもとのこれざねあつひとのみこ醍醐天皇だいごてんのう)です。
  • 若御子社わかみこしゃ御祭神ごさいじん黑砂神いさごのかみ眞砂神まさごのかみです。黑砂神いさごのかみ眞砂神まさごのかみは、伊弉諾尊いざなぎのみこと黄泉よみから戻って禊祓みそぎはらえをした後、高門岩たかどいわに昇って田刈穂浦たがりほのうら速吸比咩神はやすいひめのかみまつる際に防護した神とされています。また、神武天皇じんむてんのう東征とうせいの時、伊邪那岐神いざなぎのかみ神剣しんけんを海中の大蛸おおだこから取上げ奉献ほうけんするとともに亡くなった2人の姉妹神しまいがみともされています。

炊井かしぎい

姿見すがたみの井戸とも称し「心悪しき者姿映らず」と言い伝られています。

木本神社きもとじんじゃ

神武天皇じんむてんのう東征とうせいの時、速吸門はやすいのとで出会った珍彦うずひこ椎根津彦神しいねつひこのかみ)をまつっています。当地から水先案内人をせられ、後、大和国造やまとのくにのみやつこに任ぜられ、水先人の祖神おやがみとされています。

相殿社あいどのしゃ生土社うぶすなしゃ

相殿社あいどのしゃは、神武天皇じんむてんのうの御孫の健磐龍神たけいわたつのかみと、応神天皇おうじんてんのうを始め五代の天皇に仕えた武神ぶしん武内宿禰命たけのうちのすくねのみこと御祭神ごさいじんとしてまつっています。生土社うぶすなしゃは、土地を守護する神として埴安命はにやすのみこと御祭神ごさいじんとしてまつっています。

御供殿ごくうでん

神饌しんせんを準備する御供殿ごくうでんは、正徳しょうとく3年(1713)熊本藩くまもとはん第4代藩主・細川宣紀ほそかわのぶのりの建立です。

一之鳥居いちのとりい二之鳥居にのとりいにかけて

神明社しんめいしゃ

手水舎てみずやの右手に鎮座ちんざ天照大神あまてらすおおかみ御祭神ごさいじんとしてまつっています。

天満社てんまんしゃ

神明社しんめいしゃから右手奥に二社。その左側に鎮座ちんざ菅原道真公すがわらみちざねこう御祭神ごさいじんとしてまつっています。

佐賀関さがのせき護国神社ごこくじんじゃ

神明社しんめいしゃから右手奥に二社。その右側に鎮座ちんざ。当町出身、護国ごこく神霊しんれい御祭神ごさいじんとしてまつっています。

稲荷社いなりしゃ

天満社てんまんしゃの左手、やや上手に鎮座ちんざ保食神うけもちのかみ御祭神ごさいじんとしてまつっています。

厳島社いつくしましゃ

総門そうもんを過ぎて左手に鎮座ちんざ市杵島姫神いちきしまひめのかみ御祭神ごさいじんとしてまつっています。

総門そうもん

元禄げんろく10年(1697年)第3代熊本藩主くまもとはんしゅ細川綱利ほそかわつなとしにより建立されました。平成16年(2004)3月31日に県指定有形文化財に指定されました。

忠霊塔忠霊塔

総門の向かって右手建てられています。

石鳥居いしとりい

市指定有形文化財。

小野家住宅おのけじゅうたく

明和年間めいわねんかん(1764-1772)に小野河内守秀真おのかわちのかみひでまさが建てたもので、木材は佐伯さいき、瓦は熊本藩主くまもとはんしゅから拝領はいりょうしたといわれています。佐伯藩主さいきはんしゅ毛利高泰もうりたかやすの書「貝仙窟ばいせんくつ」という一枚板の額がかかった式台付き玄関が有り、中には神殿しんでん、上段の間、書「潔斎けっさいの間などがあります。平成16年(2004)3月31日に県指定有形文化財に指定されました。

Photo・写真

  • 一之鳥居と参道
  • 一之鳥居と参道
  • 総門
  • 総門
  • 忠魂碑
  • 厳島社
  • 二之鳥居・手水舎前の境内
  • 神明社
  • 天満社
  • 佐賀関護国神社
  • 摂社・末社
  • 伊邪那岐社
  • 炊井
  • 木本神社
  • 相殿社・生土社
  • 御供殿
  • 歳神社・天然社・若御子社
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 社殿の瓦:浦島太郎
  • 社殿の瓦:龍宮城
  • 狛犬
  • 狛犬
  • 本殿
  • 本殿
  • 水神宮
  • 水神宮
  • 神楽殿(衛士所)
  • 稲荷社
  • 神幸殿
  • 姉妹岩

情報

住所〒879-2201
大分市佐賀関さがのせき3336−2
創始そうし皇紀こうき前7年 (前667)
社格しゃかく式内小社しきないしょうしゃ県社けんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい7月28日:神衣祭かんみそのまつり
7月29日:例祭れいさい神幸祭しんこうさい
7月30日:還幸祭かんこうさい
神事しんじ大祓おおはらえ(6月30日・12月31日)
ふじまつり(5月3日)
関連 Wikipedia

地図・マップ