『平家物語』の大蛇と華御本姫との神婚「緒環伝説」の舞台である穴森神社は、延長5年(927)編纂の『延喜式』にて豊後国の式内小社と記された健男霜凝日子神社の論社です。健男霜凝日子神社は、祖母山山頂の上宮、祖母山北麓の下宮・神幸所、及び穴森神社からなり、健男霜凝日子神社の御祭神(祖母山の神)が変化したのが、穴森神社の伝説で伝えられる大蛇であるとされています。
社殿裏の岩窟は、元々は満々と水をたたえる一町歩ばかりの池でした。池の中には大蛇が棲み、御神体として崇められ、池の明神、池社と称されていました。池の水が抜かれた後、岩窟を神社の御神体として、窟大明神とも称されました。
往古より里人は、崇敬厚く四季の祭を行なっていましたが、祭が粗末に行われるとその度毎に天候急変し、里人を苦しめる災禍が生じていました。住民を困らす怪神であると激怒した岡藩主の中川久清(第3代藩主期:1653-1666)は、神池を決潰させ、水を抜きます。すると、三日三晩の暴風雨となったと伝えられています。
元禄16年(1703)10月20日、農民の半次郎・今平・文助の3人が野良仕事をしてた際、岩窟が鳴動しているのを 訝しり、松明を翳して岩窟を捜索します。6尋(約9m)の入口から冷気が滲み出る中、意を決して捜索を行ったところ、300歩進んだ岩窟の奥に清泉が迸り、神池がありました。池の大きさは6坪で、地下を潜ると渓流となっていました。その岩窟の中程には、犬の頭より大きな石の如き白骨があり持ち帰ります。里正を経て、国主に差し出したところ、その白骨は大蛇の骨であることがわかります。宝永2年(1705)藩命で現在の岩窟に御神体として祀られ、宝永7年(1710)7月5日には社殿が奉建されます。同年8月13日に社殿の後方の岩を穿って蛇骨を安置し、穴之森大明神と称するようになり、藩主中川家累代の御祈願所となりました。
この大蛇は大神姓の神婚伝説の主役であり『平家物語』、『源平盛衰記』に見る大神惟基の遠祖とされています。また穴森神社の岩窟と、大蛇と神婚した華御本姫を祀る豊後大野市清川町の宇田姫神社の御神体である洞穴は相通じていると伝えられています。
天候気象を司る神として、大神氏一族の始祖として血縁者が多く参拝し、特に子宝を神授された子孫繁栄の神として、篤く崇敬されています。子に恵まれない夫婦が相携えて岩窟に入れば、神験を被るとされ、岩窟内に置かれた箱から子宝石(子授け石)を持ち帰ると子宝に恵まれると崇敬されています。祈願成就の後のお礼参りの折には、子宝石(子授け石)を返す習いとなっています。近年は恋と出会いの場所ともされ、多くの参拝者が訪れています。
明治41年(1908)に栃長迫の大山祇尊・菅原神・市杵島姫尊と振顔野の伊弉諾尊・大巳貴命・市杵島姫尊・菅原神・大山祇尊を合祀。昭和2年(1927)2月21日、健男霜凝日子神社の摂社となりました。
尚、健男霜凝日子神社、及び穴森神社の神主は宮砥八幡神社の相馬氏ですが、鍵番は大神氏の流れを汲む阿南氏が勤めていることからも三輪山信仰とのつながりが考えられています。
「淡島社と生目社」
拝殿前の木製の鳥居、その右手に、七福神の石像、その奥に淡島社と生目社の石祠が祀られています。手前が生目社。右手が淡島社です。由緒については不詳。
【緒環伝説】
祖母山の北麓である当地は、早くから大和国の大神氏の傍流と考えられる豊後大神氏によって開発され、発展してきました。その豊後大神氏の始祖とされるのが大神惟基です。大神惟基は、『平家物語』、『源平盛衰記』においてその活躍とその出自が記された緒方惟栄の5代前の祖先とされています。
当初、平重盛と主従関係を結んでいた緒方惟栄は、兄の臼杵惟隆と共に反旗を翻し、九州に落ち延びた平家を駆逐します。その活躍が『平家物語』、『源平盛衰記』にて語られた後、その出自が「おそろしき者のおそろしき末なり」と語られます。この神体山の神が変化した蛇との神婚伝説は、苧環型蛇婿入譚・緒環型蛇婿入譚と呼ばれ、各地に見られるものです。この神婚譚の緒は、大和国の大神神社に伝わる三輪山伝説と考えられています。当地では、祖母山大明神である蛇が住んでいたのが当地であったとされています。
『『平家物語』巻第八 緒環
彼維義はおそろしき者の末なりけり。たとへば豊後国の片山里にをんなありけり。或人のひとり娘、夫もなかりけるがもとへ、母にも知らせず、男よなよなかよふ程に、とし月もかさなる程に、身もただならずなりぬ。母是をあやしむで、「汝がもとへかよふ者は何者ぞ」と問へば、「くるをば見れども、帰るをば知らず」とぞいひける。「さらば男の帰らむとき、しるしを付けて、ゆかむ方をつないで見よ」とをしへければ、娘、母のをしへにしたがつて、朝帰する男の水色の狩衣を着たりけるに、狩衣の頸かみに針をさし、しづの緒環といふものをつけて、へてゆくかたをつないでゆけば、豊後国にとつても日向ざかひ、優婆岳といふ嵩の裾、大きなる岩屋のうちへぞつなぎいれたる。をんな岩屋のくちにたたずんで聞きけば、おほきなる声してによびけり。「わらはこそ是まで尋ね参りたれ。見参せむ」といひければ、「我は是人のすがたにはあらず。汝すがたを見て肝たましひも身にそふまじきなり。とうとう帰れ。汝がはらめる子は男子なるべし。弓矢打物とつて九州二島にならぶ者もあるまじきぞ」とぞいひける。女重ねて申しけるは、「たとひいかなるすがたにてもあれ、此日来のよしみ何とて忘るべき。互にすがたをも見もし見えむ」といはれて「さらば」とて、岩屋の内より臥だけは五六尺、跡枕べは十四五丈もあるらむとおぼゆる大蛇にて、動揺してこそはひ出でたれ。狩衣のくびかみにさすと思ひつる針は、大蛇の喉ぶえにこそさいたりけれ。女是を見て、肝たましひも身にそはず。ひきぐしたりける所従十余人倒れふためき、をめきさけむでにげさりぬ。女帰つて程なく産をしたれば、男子にてぞありける。母方の祖父太大夫そだてて見むとてそだてたれば、いまだ十歳にもみたざるに、せいおほきにかおながく、たけたかかりけり。七歳にて元服せさせ、母方の祖父を太大夫といふ間、是をば大太とこそつけたりけれ。夏も冬も手足におほきなるあかがりひまなくわれければ、あかがり大太とぞいはれける。件の大蛇は日向国にあがめられ給へる高知尾の明神の神体なり。此緒方の三郎は、あかがり大太には五代の孫なり。かかるおそろしき者の末になりければ、国司の仰せを院宣と号して、九州二島にめぐらしぶみをしければ、しかるべき兵ども維義に随ひつく。
あの維義は恐ろしい者の子孫であった。説明すれば次のような事である。昔、豊後国の片田舎の山里に女がいた。ある人のひとり娘で、夫もなかったがその女の所へ、母にも知らせず、男が毎夜通ううちに、年月も経って女は妊娠した。母はこれを不審に思って、「お前の所に通う者は何者か」と問うと、「来るのを見るけれども、帰るのはわからない」と言った。「それならば男の帰ろうとする時に印をつけて、糸でつないで行く先をたどって見よ」と教えたので、娘は母の教えどおりに、朝帰って行く男が水色の狩衣を着ていたが、その狩衣の襟に針を刺し、倭文の緒環という物をつけて、通って行く所を糸を頼りにたどって行くと、豊後国のうちでも日向国との境の優婆岳という山の麓のやや大きな岩屋の中に糸は入っている。女は岩屋の口にたたずんで中の様子を聞くと、大きな声でうめいている。「私がここまで尋ねて来た。お会いしたい」と言うと、「自分は人の姿ではない。お前が姿を見れば仰天するであろう。早く帰れ。お前の腹にいる子は間違いなく男子であろう。弓矢・刀を持って九州・壱岐・対馬に匹敵する者はあるまいぞ」と言った。女から重ねて、「たとえどのような姿であっても、この日頃の交情をどうして忘れる事ができようか。互いに姿を見もし、見せもしよう」と言われて、「それでは」といって、岩屋の中から現れたのは、とぐろを巻いた長さが五、六尺、体を伸ばせば十四、五丈もあるだろうと思われる大蛇で、体を揺すりながら這い出した。狩衣の襟に刺したと思った針は、ちょうど大蛇の喉笛に刺したのだった。女はこれを見て、仰天をする。引き連れていた家来十数人は、腰を抜かしてばたばたし、大声で叫んで逃げ去った。女は帰宅してまもなく産をしたが、男子であった。母方の祖父の太大夫が育てみようといって育てると、まだ十歳にもならない時に、背が高く顔が長く体が大きかった。七歳で元服させ、母方の祖父を太大夫というので、この男を大太と名付けた。夏も冬も手足に大きなあかぎれがいっぱいできたので、あかぎれ大太と言われた。例の大蛇は日向国で祭られていた高知尾明神の神体である。この緒方三郎は、あかぎれ大太の五代の子孫である。こんな恐ろしい者の子孫であったので、国司の命令を院宣と称して、九州・壱岐・対馬に廻文をしたので、相当な武士どもが維義に従いついた。
当地の伝承では、上記の『平家物語』で語られた内容と共に、一部の微細な違いと共により詳細が伝承されています。
祖母山大明神(健男霜凝日子神社)の化身である蛇神(穴森神社の神)の子を宿したのは、豊後大野市清川町宇田枝(地図)に在した華御本姫とされています。華御本姫は、藤原伊周の娘で、父君の薫育により和歌などの国風に堪能であったことから歌媛様と称されていました。草木も眠る丑満時になると、その華御本姫のもとに端麗な若者が風の如く寝所を訪れ、未明には煙の如く、所も言わず名も語らず去るのでした。
不審に思った姥(又は母親とも)は、麻糸を付けた針を若者の袴の裾に縫い付け、その糸を便りに所在を探れば良いのではと華御本姫に進言し、実行する事にしました。そして若者が帰った後、華御本姫と姥と侍女の三人は、若者の後を追いました。その途上の麻の生えた所を糸径野。途中糸を束ねた所を佃原。途中顔を洗った地を洗い原。鏡を掛けて化粧した所を鏡山と称し、史跡として残されています。そして祖母山の北麓の当地、穴森に辿り着きました。
胸躍らして華御本姫が中を覗くと、岩窟の奥深くから苦しんでいる声がします。こここそ若者の住まいする所と思った華御本姫が丁寧に挨拶をすると、中から若者から呻きながら返事があります。
「私は醜悪で正視に堪えないので姿を見せることができない。貴方が刺した針は袴の裾ではなく、私の急所の喉に刺さっている。そのため間もなく私は死ぬだろう。貴方は既に私の子を宿している。必ず天下の英傑となるであろうから大神と名乗りなさい。」
その返事を聞いても、一目会うまでは梃でも動かない覚悟で華御本姫が立っていると、一陣の風と共に山が鳴動し、岩窟より大蛇が匍匐して出てきました。
驚いた華御本姫と姥と侍女の三人は逃げ出しますが、華御本姫は驚きと悲しみ、これは夢なのではと思う気持ちの中、今一度と端麗の若者の姿を思い浮かべて振り返ります。すると大蛇は若者として現われ、伸び上がりつつ名残を惜しんで華御本姫を見送る様が見えました。その華御本姫が振り返った地は、振返野と名付けられて今に伝えられています。一方、姥と侍女は失神せんばかりに打ち驚き、命からがらに逃げる途中で息絶えてしまいました。その息絶えた場所が姥社とされ、小祠が建てられ、祀られています。
郷に戻った華御本姫は、弘仁2年(811)3月5日に萩を折り敷きつめた産祷で男子を挙げ、神宣に従い大神大太と名付けます。その産祷の地は、華御本姫を祀る豊後大野市清川町の宇田姫神社とされ、その御神体とされる社殿奥の洞穴からは滔々と清水が湧き出でています。その清水は、穴森神社の岩窟と相通じていると伝えられ、穴森神社の神池に籾を投げ入れると、その12日後に宇田姫神社の泉に流れ出でるとされています。その伝承から宇田姫神社は、安産の神徳厚く、境内の萩を折って産祷の下に敷く風習が伝えられています。
【神事・祭事】
9月23日に秋祭り(例大祭)が健男霜凝日子神社と穴森神社と合同で斎行されます。白熊、獅子が神輿のお伴をし、神幸所(遙拝所)で盛大に祭典を行います。健男霜凝日子神社の御祭神(祖母山の神)が変化したのが、穴森神社の伝説で伝えられる大蛇であるとされているため、御神輿や獅子の順序は、健男霜凝日子神社が先となっています。昔は、23~24日の2日間の祭典で、御神体は、神幸所に一泊していました。5月2日には、「風祭り・祖母山祭り」が斎行されます。元は、旧暦7月4日に夏祭りとして行われていましたが、祖母山の山開きを兼ねて行われています。