九州の神社

長崎県・志々伎神社[地ノ宮](平戸市)

由緒

御祭神ごさいじん 十城別王とおきわけのみこと
配祀神はいししん 鴨一隼戸命かもいちはやのみこと七郎氏廣公しちろううじひろこう

由緒

【概要】

延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』において、長崎県本土で唯一、式内社しきないしゃとされた志々伎神社しじきじんじゃは、海抜347mの志々伎山しじきさん山頂の上宮じょうぐう上津宮うわつみや)、中腹の中宮ちゅうぐう中津宮なかつみや)、麓の地ノ宮ぢのみや邊都宮へつみや下宮げくう)、湾内の沖ノ宮おきのみや沖都宮おきつみや)の4社からなる古社です。

その創始は、景行天皇けいこうてんのう行宮あんぐうとしたとの伝承、及び神功皇后じんぐうこうごう三韓出兵さんかんしゅっぺいに同行した日本武尊やまとたけるのみことの第六子(母は吉備穴戸武媛きびの あなとのたけひめ)で景行天皇けいこうてんのうの御孫の十城別王とおきわけのみことが、三韓出兵さんかんしゅっぺいから凱旋の後、志々伎しじきに駐留して亡くなり、まつられるようになったとされています。

地ノ宮ぢのみや邊都宮へつみや下宮げくう

肥前国風土記ひぜんのくにふどき』の伝える第12代景行天皇けいこうてんのう行宮跡あんぐうあととされています。景行天皇けいこうてんのうは、当地で土蜘蛛つちぐもせいしたとされています。又、神功皇后じんぐうこうごう三韓出兵さんかんしゅっぺいの後、護国ごこくのため当地に駐留した十城別王とおきわけのみことの武器庫跡ともされています。十城別王とおきわけのみこと薨去こうきょの後、その倉庫を社殿しゃでんとしておまつりしました。明治元年(1868)に改築された現在の社殿しゃでんも倉庫風に作られています。周辺の山林には古木が繁茂し、沖ノ宮おきのみや社叢しゃそうとともに昭和49年(1974)4月9日に県指定天然記念物「志自岐神社しじきじんじゃみやおきみや社叢しゃそう」に指定されています。尚、拝殿はいでん側には、神饌しんせんを調理したり、直来なおらいが行われる饌舎めしや[膳屋かしわでや]が建てられています[01]

上宮じょうぐう上津宮うわつみや

海抜347mの志々伎山しじきさん山頂には上宮じょうぐうとされる石祠いしほこらがあります。十城別王とおきわけのみことはこの地で眺望中に流れ矢によって薨去こうきょされ、その御廟ごびょうとされています。現在の石祠いしほこらは宝暦5年(1755)9月25日、円満寺住職えんまんじじゅうしょく随元ずいげん建立こんりゅうしたとの記銘きめいがあり、晴れた日は山頂からの眺望は誠に雄大で、五島列島ごとうれっとうはおろか壱岐いき対馬つしままで眺められます。海上監視にはまたとない絶好の地で、十城別王とおきわけのみことが異国警備の要衝として、この地を選ばれた真意が頷けます。戦前は女人禁制にょにんきんせいの地とされ、男子も「草履ぞうり脱ぎ場」の標柱からは、裸足で登る風習がありました[02]

中宮ちゅうぐう中津宮なかつみや

志々伎山しじきさんの中腹に鎮座ちんざ別当寺べっとうじとしての神光寺しんこうじ円満寺えんまんじの跡地で元は寺屋敷てらやしきと呼ばれていました。昭和36年(1961)社地しゃちを移し、新築されました。泉水せんすいの跡と思われるものが社殿しゃでんの側に残っています。約200m登った左側には、石垣で囲んだ40坪ほどの敷地があり、古材が放置され、十数基の石燈籠いしとうろうが残っています。永禄えいろく2年(1559)から昭和36年(1961)社地しゃちを移転するまで神社祭祀じんじゃさいしの中心地であった中宮ちゅうぐうの跡地です[03]。『神社旧記じんじゃきゅうき』の写本しゃほん注進並進上ちゅうしんならびにしんじょう』に書かれた弘安こうあん7年(1284)11月18日の差出さしでが、「奇師安倍人包、中宮之師澄温、下宮之師海、重、祝申海窓綱、大宮司源宗秀」となっていることから、少くとも13世紀には、上宮じょうぐう中宮ちゅうくう下宮げくう沖ノ宮おきのみやの組織ができ、中宮ちゅうぐう別当寺べっとうじを中心とする施設になっていおり、大宮司職だいぐうじしょくも置かれていたと推察されています[04]

沖ノ宮おきのみや沖都宮おきつみや

宮ノ浦みやのうら港に浮かぶ小島にあり「御嶋みしま」とも言います。御祭神ごさいじん十城別王とおきわけのみことは、日本武尊やまとたけるのみことの第六子(母は吉備穴戸武媛きびの あなとのたけひめ)で、景行天皇けいこうてんのうの御孫です。以前は、地ノ宮ぢのみやの海岸から真っ直ぐに沖ノ宮おきのみやの第一鳥居まで石の波止はとが築かれ、その真ん中には石燈籠いしとうろうが建てられていました。現在は防波堤が築かれ容易に島へ渡ることができるようになっています。十城別王とおきわけのみことの居住跡とされ、その後方の頂上は、十城別王とおきわけのみこと御陵墓ごりょうぼと伝えられてます。大正年間、神主かんぬし神社総代じんじゃそうだいが発掘調査を計画しますが、神威しんいおそれる宮ノ浦氏子みやのうらうじこの猛反対を受けて中止されました。その後日譚ごじつたんとして昭和11年(1936)の『平戸藩史考ひらどはんしこう』にて下記の様に記されています[05]

『平戸藩史考』(平戸藩史考編纂会支部, 昭和11年)[06]

沖の島地の宮の前面程遠からぬ鏡面の如き海上に夢の如く浮かぶ周廻數丁の小島あり全島老松鬱蒼として繁茂し古びた社殿僅かに往昔の由緒深き歴史を偲ばせる十城別王薨去の後此の地に御靈を祭祀す社殿の後方の頂上の松林に御陵墓ありと傳へられ古來絕對神祕の境として若し此の地を侵かせば天變地異ありとして島民に恐れられ一歩の足跡をも許されなかつた聖地である、十數年前此の聖地を飾る數百年を經たる一大老松が風に倒され遂に枯死した氏子は相談の上恐る恐る此の神木を伐り五島の或る上人に賣渡したが波靜かなる日神木を滿載した本船は順風に帆を孕ませ矢の如く五島に向け滑るが如く走つたが志自伎沖を離れた所突如白衣の神様が形相恐ろしく舳に現はれたと見るや狂風怒波濤俄に其の船を中心として起りアツト云ふ間もなく船も人も海底深く姿を沒した、そは全くの瞬時に起きた出來亊で一帶の海上は依然として鏡の如く男波女波の囁きも和かなものであつたと云ふ不思議な珍事は之れのみに止まらなかつた依て全村民は神罰の恐ろしさに怯へ切つて謝罪の神事を執行し神意を慰め奉つたと云ふ夫れより今日迄一人として一草木の一片たりとも手にする者なく一歩をも神域に踏み入れぬ様になつた、殊に婦人は往昔より島に渡るを禁じて對岸より參拜し男子も鳥居内は履物を禁じ敬虔其のものの如く神前に額つき航海の安全を祈願している。

社殿しゃでん向かって左手には、薩摩塔さつまとう、右手前に宋風獅子そうふうじしがあります。共に浙江省産石材によるもので、13世紀前半に中国(南宋なんそう)で作られて平戸ひらどにもたらされたものと考えられています。当時の大陸と平戸ひらどの交流を示す貴重な文化財として、平成30年(2018)5月2日に平戸市指定有形文化財に指定されました。薩摩塔さつまとうは、最大高200cm、最大幅140cm。宋風獅子そうふうじしは、最大高110cm、最大幅50cm。薩摩塔さつまとうは鹿児島県、福岡県、佐賀県、長崎県でしか確認されない特異な石造物です。沖ノ宮おきのみや薩摩塔さつまとうは、六角を基調とする六角基調型で、屋根(笠)・仏龕ぶつがん須弥壇しゅみだん須弥座しゅみざ)を一石で造る一石造り型。仏龕ぶつがんの中を刳り抜き本尊ほんぞんの仏像を別造りとする本尊別造ほんぞんべつづくり型です。蓮弁意匠れんべいいしょうを持つ点などが中国浙江省ちゅうごくせっこうしょう麗水市れいすいしの霊鷲寺石塔(南宋期なんそうき)等と共通しています[07]

創祀そうし年は不詳ですが、『肥前国風土記ひぜんのくにふどき』にて景行天皇けいこうてんのう巡幸じゅんこうした志式島ししきのしまと記され、福岡県糸島市いとしまし志々伎神社しじきじんじゃ白鳳はくほう元年(674)当社から勧請かんじょうされていることから、それ以前には広く知られた神社であったと考えられています。


【由緒:詳細】

延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』において、長崎県本土で唯一、式内社しきないしゃとされた志々伎神社しじきじんじゃは、志々伎山しじきさん山頂の上宮じょうぐう上津宮うわつみや)、中腹の中宮ちゅうぐう中津宮なかつみや)、麓の地ノ宮ぢのみや邊都宮へつみや下宮げくう)、宮ノ浦みやのうら沖ノ宮おきのみや沖都宮おきつみや)の4社からなる古社です。

その創始として、景行天皇けいこうてんのう行宮あんぐうとしたとの伝承と、神功皇后じんぐうこうごう三韓出兵さんかんしゅっぺいの後、十城別王とおきわけのみこと志々伎しじきに駐留して亡くなり、まつられるようになったとの伝承が残されています。

配祀神はいししんである七郎氏廣公しちろううじひろこう鴨一隼戸命かもいちはやのみことは、共に十城別王とおきわけのみことに仕えた武将です。三韓出兵さんかんしゅっぺいの後、十城別王とおきわけのみことに付き随ったとされ、七郎氏廣公しちろううじひろこう平戸七郎宮ひらどしちろうぐう(現在は亀岡神社かめおかじんじゃ合祀ごうし)に、鴨一隼戸命かもいちはやのみこと小値賀おぢか神嶋神社こうじまじんじゃまつられています。また、亀岡神社かめおかじんじゃが所蔵する国指定重要文化財「鐶頭太刀無銘拵付一口かんとうのたちむめいこしらつきひとくち」は七郎氏廣公しちろううじひろこう佩刀はいとうしていたものと伝えられています。尚、志々伎神社しじきじんじゃ鐶頭太刀かんとうのたちは、明治42年(1909)盗難にあい、神嶋神社こうじまじんじゃのものは終戦時米軍に没収され、亀岡神社かめおかじんじゃ鐶頭太刀かんとうのたちだけが現存しています[08]

天平てんぴょう4年~12年(732-740)の間に編纂へんさんされた『肥前国風土記ひぜんのくにふどき』では、景行天皇けいこうてんのうは、筑紫国つくしのくに巡幸じゅんこうされたとき「志式島ししきのしま」を行宮あんぐうとしたと記されています。景行天皇けいこうてんのうは、大近おぢか小値賀おぢか)の土蜘蛛つちぐも大耳おほみみ小近こぢか子値賀こぢか)の土蜘蛛つちぐも垂耳たりみみを征します。その当地が「志々伎宮ノ浦しじきみやのうら」の行宮あんぐうとされることから、古くからの創祀そうしやしろであったと考えられています。

志々伎山しじきさんの鋭く尖った山頂は、対馬つしま五島列島ごとうれっとうと本土・平戸島ひらどじまとの航海時の標識であること、旧志々伎村しじきそん宮ノ浦みやのうら地方をはじめとして、多くの弥生式土器などが出土していることから、弥生時代末期には既に祭りが行われていたのではないかと推察されています[09]。また、福岡県糸島市いとしまし志々伎神社しじきじんじゃ白鳳はくほう元年(674)当社から勧請かんじょうされていることから、少なくともそれ以前には広く知られた神社であったと考えられています。

『肥前国風土記』編纂:天平4年~12年(732-740)

昔者、纒向日代宮御宇天皇(景行天皇)、巡幸之時、在志式嶋之行宮、御覧西海、海中有嶋。烟氣多覆。陪從阿曇連百足遣令察之。爰有八十餘。就中二嶋、嶋別有人。第一嶋名小近、土蜘蛛大耳居之、第二嶋名大近、土蜘蛛垂耳居之。自餘之嶋、竝人不在。於茲、百足、獲大耳等奏聞。天皇勅、且令誅殺。時大耳等、叩頭陳開曰、「大耳等之罪、實當極刑。萬被戮殺、不足塞罪。若降恩情得再生者、奉造御贄、恆貢御膳」卽取木皮、作長蚫韃蚫短蚫陰蚫羽割蚫等之様、獻於御所。天皇垂恩赦放。更勅云、「此嶋雖遠、猶見如近、可謂近嶋」因曰値嘉。


昔者、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)、巡り幸しし時、志式島の行宮に在して、西の海を御覧すに、海の中に島あり。煙気多に覆へりき。陪従、阿曇連百足に遣せて察しめたまこき。爰に、八十余あり。就中の二つの島には、島別に人あり。第一の島は名は小近、土蜘蛛大耳居み、第二の島は名は大近、土蜘蛛垂耳居めり。自余の島は、並に人あらざりき。ここに、百足、大耳等を獲りて奏聞しき。天皇勅して、誅ひ殺さしめむとしたまひき。時に、大耳等、叩頭て陳開ししく「大耳等が罪は、実に極刑に当れり。万たび戮殺さるとも、罪を塞ぐに足らじ。若し、恩情を降したまひて、再生くることを得ば、御贄を造り奉りて、恒に御膳に貢らむ」とまをして、即て木皮を取りて、長蚫・韃蚫・短蚫・陰蚫・羽割蚫等の様を作りて、御所に献りき。ここに天皇、恩を垂れて赦し放りたまひき。更、勅したまひしく、「此の島は遠けど、猶、近きが如く見ゆ。近島と謂ふべし」とのりたまひき。因りて値嘉といふ。

次いで、社伝しゃでんによれば、神功皇后じんぐうこうごう三韓出兵さんかんしゅっぺいに同行した日本武尊やまとたけるのみことの第六子(母は吉備穴戸武媛きびの あなとのたけひめ)、及び景行天皇けいこうてんのうの御孫である十城別王とおきわけのみことが、三韓出兵さんかんしゅっぺいから凱旋の後、三韓さんかんに対する警備に当るため志々伎しじきに駐留。その薨去こうきょの後、まつられるようになったとされています。

十城別王とおきわけのみこと御祭神ごさいじんとする由緒は、弘長こうちょう4年(1264)幕府より出された『延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』に所載の神社で現存するものは注進ちゅうしんせしむべしとの院宣いんぜん、それに答申した『神社旧記じんじゃきゅうき』とされる『大宮司源家秀等注進状だいぐうじみなもとのいえひでなどちゅうしんじょう』に因ります。志々伎神社しじきじんじゃは、文明ぶんめい15年(1483)の頃には、兵火へいかにより社寺しゃじ宝物ほうもつ祭器さいき古記こきなど一切を焼失していることから原本は残されていませんが、写本しゃほんとして弘安こうあん7年(1284)11月18日の『志自岐神社縁起しじきじんじゃえんぎ』、『七郎宮しちろうぐう一隼宮いちはやぐう両社縁起りょうしゃえんぎ』、『注進並進上ちゅうしんならびにしんじょう』が残されています。その中の『注進並進上ちゅうしんならびにしんじょう』にて下記の記載が残されています。また、十城別王とおきわけのみこと御祭神ごさいじんとする『神社旧記じんじゃきゅうき』の記述は、八幡神はちまんしん応神天皇おうじんてんのう)との繋がりを強く示していることから、『八幡愚童訓はちまんぐどうくん』や『八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう』などの影響が指摘されています[04][10]

『大宮司源家秀等注進狀』

肥前國松浦郡志自岐宮、制進院宣國宣等一卷 一御垂垂之事 右當宮志自岐神社者、仲哀天皇御弟應神天皇天皇御伯父也、神功皇后三韓征伐之時、爲供奉之將、專誅罸異類之上、爲日夲護國之本誓ト、聖跡於志自岐山嶽靈廟基於此峯、自爾以降所迄千餘廻之星霜也矣。  ※写本:『注進並進上』弘安7年(1284)11月20日


右の当宮、志自岐神社は、仲哀天皇の御弟にして、応神天皇天皇の御伯父なり。神功皇后の三韓征伐の時、供奉の将と為り、専ら異類を誅罰の上、日本護国の本誓いと為し、聖跡を志自岐山嶽に霊廟を此峰に基む。爾より以降、この所まで千余廻の星霜なり。

明和めいわ8年(1771)に記された『志自岐家系図しじきけけいず』では、十城別王とおきわけのみこと志々伎山しじきさん渡御とぎょした際、志自岐家しじきけ供奉ぐぶし、十城別王とおきわけのみこと薨去こうきょの後、志々伎山しじきさん頂上の上宮じょうぐうまつって奉祭ほうさいしたと伝えていますが[11]十城別王とおきわけのみこと志々伎駐留しじきちゅうりゅうについては諸説あります[12]

  1. 弘長こうちょう4年(1264)が原本とされる『注進並進上ちゅうしんならびにしんじょう』では、三韓出兵さんかんしゅっぺい後も熊襲くまそ新羅しらぎと呼応して謀叛むほんする恐れがあったので、護国ごこくの大任を果たすため、西海さいかい駐箚ちゅうさつする必要を認め、自ら志式島ししきのしま宮ノ浦みやのうらに本拠を構えた。武将の七郎氏廣公しちろううじひろこう平戸ひらどに遺して、平戸海峡ひらどかいきょうを守るとともに、中央との連絡を保ち、他の一隊、鴨一隼戸命かもいちはやのみこと小値賀おぢかに派して志々伎水道しじきすいどうやくした。さらに前津吉まえつよし万祢吉まねよし古田こた神隼かしわを配して背面の防御に任じた。
  2. 弘安こうあん7年(1284)11月18日に記された『志自岐神社縁起しじきじんじゃえんぎ』によると、武内宿禰たけしうちのすくねに対する不満もあり、中央では立身の見込みなしと考え、再び三韓さんかんに渡ってその王座に就こうと、新たな行動を起こそうと計画していた。しかし神功皇后じんぐうこうごうの慰留を受け、景行天皇けいこうてんのう行宮あんぐうがあった、志式島ししきのしま宮ノ浦みやのうらにおいて、将来の雄飛を策したが、遂にその地に没した。
  3. 伝承として、十城別王とおきわけのみこと三韓出兵さんかんしゅっぺいから凱旋の途中、宮ノ浦みやのうら沖ノ島おきのしまに上陸して、睡魔に襲われ程なく目覚めると、兵船は既に船出した後で、やむなく宮ノ浦みやのうらに居住した。或る日、十城別王とおきわけのみこと志々伎山しじきさん頂上に立って遥か東方を望見していると、突如白羽の矢に胸を貫かれ落命した。

呼称としては、古代には「志式神社ししきじんじゃ」と呼んでいたものが、弘仁こうにん2年(811)嵯峨天皇さがてんのうより御神体ごしんたいが安置された時に「志々伎神社しじきじんじゃ」と改められたと考えられており、『肥前国風土記ひぜんのくにふどき』では「志式島ししきのしま」。平安時代は「志々伎しじき」。中世は「志自岐しじき」。江戸期中期以降、『神社帖じんじゃちょう』(1700)や『太宰管内志だざいかんないし』(1841)以降は「志々伎しじき」の表記されるようになります[13]

弘安こうあん7年(1284)11月18日の記載を見る『志自岐神社縁起しじきじんじゃえんぎ』では、天平てんぴょう年間(729-748)には勅願寺ちょくがんじとしての神光寺しんこうじ建立こんりゅうされ、20間内外の建物が6棟も立ち並び、御祭神ごさいじんを「志々伎大菩薩しじきだいぼさつ」と称したとされています。僧侶として最高位の大僧正だいそうじょう大僧都だいそうずらが派遣され、神社の祭祀さいしと共に、日夜、敵国降伏退散てきこくこうふくたいさん祈祷きとうが行われたと伝えています。

弘仁こうにん2年(811)10月朔日には、御神体ごしんたいが安置されます。この御神体ごしんたいは木像で、髪は角髪みずらに結ってあると伝えられています。御神体ごしんたいを見たとされる民俗学者の宮本常一みやもとつねいちは、「沖ノ宮おきのみやの木像の御神体ごしんたいは、衣冠いかんを付けた上半身で、大きさは二尺ほどあろう。白木しらきの彫刻で丸ノミを荒く使っているが、そこに出ている線は流麗でのびのびしているところから見ると、平安時代のものではないか」(昭和29年)と記しています[14]

国史こくし神階しんかいを見るのは、『日本三代実録にほんさんだいじつろく貞観じょうがん2年(860)2月8日が初見で、従五位下じゅごいげから従五位上じゅごいじょうへ。『日本三代実録にほんさんだいじつろく貞観じょうがん15年(873)9月16日にて従五位上じゅごいじょうから正五位下しょうごいげへ。『日本三代実録にほんさんだいじつろく貞観じょうがん18年(876)6月8日にて改めて従五位上じゅごいじょうから正五位下しょうごいげ昇叙しょうじょしました。但し、貞観じょうがん18年(876)の正五位下しょうごいげは誤記で、最終的には正五位上しょうごいげじょう昇叙しょうじょしたとも考えられています。

『日本三代實録』卷第四

貞観二年(820)二月八日己丑。進肥前國從四位下田嶋神階加從四位上。授從五位上荒穗天神正五位下。從五位下豫等比咩天神。久治國神。天山神。志々岐神。温泉神並從五位上。正六位上金立神從五位下。


『日本三代實録』卷二十四

貞観十五年(873)九月十六日戊寅。授肥前國從四位上田嶋神正四位下。從五位上志々岐神。豫等比神並正五位下。從五位下宗形神從五位上。正六位上白角折神。葛木一言主神。温知神並從五位下。


『日本三代實録』卷二十九

貞觀十八年(876)六月八日癸丑。-(略)-。肥前國從四位上田嶋神正四位下。從五位上志々岐神正五位下。正六位上神嶋神。鳴神。銀山神並從五位下。

写本しゃほん志自岐神社縁起しじきじんじゃえんぎ』では、元慶がんぎょう元年(877)9月25日、勅使ちょくし参向さんこうり行われたことが記されています。その後、毎年2月4日に祈年祭きねんさい斎行さいこうされ、遠国のためその国の長官が、神祇じんぎの例になぞらえて、3日間の斎戒さいかいをして祭祀さいししたとしています[15]。同じく写本しゃほん注進並進上ちゅうしんならびにしんじょう』では、差出が「奇師安倍人包、中宮之師澄温、下宮之師海、重、祝申海窓綱、大宮司源宗秀」と記されていることから、少くとも13世紀には、上宮じょうぐう中宮ちゅうくう下宮げくう沖ノ宮おきのみやの組織ができ、中宮ちゅうぐう別当寺べっとうじを中心とする施設になっており、大宮司職だいぐうじしょくも置かれていたと見られています[16]

延長えんちょう5年(927)編纂へんさんの『延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』では小一座しょういちざとなっており、松浦郡まつらぐんでは田嶋坐神社たじまにゐますかみのやしろ田島神社たじまじんじゃに次ぐ神社でした。尚、文亀ぶんき3年(1503)吉田兼俱よしだかねともによる『延喜式神名帳頭註えんぎしきじんみょうちょうとうちゅう』では、田嶋神社たじまじんじゃ上松浦明神かみまつらみょうじん志々伎神社しじきじんじゃ下松浦明神しもまつらみょうじんと称したとされています。

『延喜式』巻十 神祇下 ※通称『延喜式神名帳』

西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
肥前國四座[大一座・小三座]。松浦郡二座[大一座・小一座]、田島座神社[名神大]、志志伎神社。基肄郡[小]、荒穂神社。佐嘉郡一座[小]、與止日女神社。


『延喜式神名帳頭註』第二十三巻

肥前松浦郡。
田嶋、仲哀帝弟稚武王也。號上松浦明神也。志々伎、稚武王弟十城別王也。號下松浦明神也。

弘長こうちょう4年(1264)の『神社旧記じんじゃきゅうき』とされる『大宮司源家秀等注進状だいぐうじみなもとのいえひでなどちゅうしんじょう』、弘安こうあん7年(1284)の『志自岐神社縁起しじきじんじゃえんぎ』が書かれた弘安こうあん年間(1278-1288)の頃には、両部社りょうぶしゃとなっていたと、明治8年(1875)5月に長崎県知事に提出された『神社明細書じんじゃめいさいしょ』では記しています。両部神道りょうぶしんとうとは、修験道しゅげんどう真言宗しんごんしゅう金剛界こんごうかい胎蔵界たいぞうかい両部りょうぶ教理きょうりをもって神道しんとうを説明しようとする説です。本地垂迹説ほんじすいじゃくせつの根底をなす神仏調和しんぶつちょうわ神道しんとうで、行基ぎょうき最澄さいちょう空海くうかいらの所説にその萌芽を見、神祇じんぎ菩薩ぼさつ権現ごんげんの名称するに至ったとされています[17]

乱世以降は、祭祀さいし勅使ちょくし参向さんこうも絶え、文明ぶんめい15年(1483)の頃には、兵火へいかにより神光寺しんこうじを焼失。社寺しゃじ宝物ほうもつ祭器さいき古記こきなど一切を焼失し、堂宇どううもなく敵国降伏退散てきこくこうふくたいさん祈祷きとうも中絶しました[18]

永禄えいろく2年(1559)法印頼弁ほういんらいべんの尽力により平戸藩主ひらどはんしゅ等の寄進きしんを受けて社殿しゃでんが再建されます。寛延かんえん11年(1634)神光寺しんこうじの跡地である現在の中宮ちゅうぐうの地に別当寺べっとうじ真言宗しんごんしゅう円満寺えんまんじ建立こんりゅうされ、神社の祭祀さいしと共に平戸藩主ひらどはんしゅ歴代の祈願所きがんしょとなります。船越ふなこし以南150石を永代神領地えいたいしんりょうちとして祭祀さいしと行政の資とし、祭米75俵と田平山王田たびらさんのうでん15石も知行ちぎょうされました。寛文かんぶん2年(1662)には流鏑馬やぶさめをはじめ、御法楽ごほうらくとして、じゃんがら・杖・狂言・すこおどりなどが行われ、年間少なくとも60日が祭祀さいしに当てられていたとされています[19]

神職しんしょくの勢力は衰え、別当寺べっとうじが支配していたと考えられており、寛政かんせい11年(1799)9月に志自岐山しじきさん中興ちゅうこう第6世法印光重ほういんみつしげの誌した『当山旧記とうざんきゅうき』によると、志自岐山しじきさんは、上宮じょうぐう中宮ちゅうぐう下宮げくうからなり、「下宮分げくうぶん宮司ぐうじ神光寺しんこうじ」となっています。そのことから、全山ぜんざん別当寺べっとうじ支配が強かったと推察されています[16]

明治7年(1874)郷社ごうしゃに、明治14年(1881)県社けんしゃに列せられます。しかし県社けんしゃには2種類あり、拝殿はいでんの他に社務所しゃむしょ手水舎てみずやなどの施設が完備したものは、指定県社していけんしゃとして県知事が参向さんこうし、県より幣帛料へいはくりょうが出ました。対して、施設不完備のものは無指定県社むしていけんしゃとされました。そこで神主かんぬしや神社役しゃやく員の尽力、生月島いきつきしまの富豪の富永能雄とみながよしお氏より寄進きしんを受け、昭和13年(1938)に社務所しゃむしょ円満寺えんまんじの跡地に造営ぞうえいし、指定県社していけんしゃとなりました[20]。昭和36年(1961)円満寺えんまんじの跡地に社地しゃちを移し、中宮ちゅうぐう建立こんりゅうされました[16]


神事しんじ祭事さいじ

代参講だいさんこう

2月6日に斎行さいこうされる代参講だいさんこうは、元慶がんぎょう元年(877)9月25日に勅使ちょくし参向さんこうり行われたのに諸を見る祭祀さいしです。後に勅使ちょくしに代わり、領主りょうしゅ代参だいさんとなった遺風いふうを継いでいるとされています。野子のこ福良ふくら地区で斎行さいこうされています。

その年の宿元やどもととなった各地区の主人は、当日の朝8時頃に御神酒おみきを持って上宮じょうぐう参詣さんけいし、頂上にあるシマモクセイ(ナタオレノキ)の小枝を「おまもり」に採り、次に中宮ちゅうぐう参詣さんけいします。中宮ちゅうぐう祭祀さいし斎行さいこうされ直会の後、宿元やどもとの主人は「おまもり」を戴いて下山します。そして各地区の宿元やどもとの家に集まった地域の方々の代表が、宿元やどもとの主人に対し「このたびは長らく御清浄ごせいじょうなされ御不自由でございましたろう、どうか御下向ごげこうなさいまして、お世話になります」と口上を述べます。宿元やどもとにて豪勢な直会なおらいが行われ、シマモクセイ(ナタオレノキ)の小枝1本を受け取り散会し、各家々に戻り戴いた小枝を自宅でまつります[21]

「ヤマド祭・古代神相撲こだいかみずもう

毎年11月7日・8日に斎行さいこうされる例大祭れいたいさい宮ノ浦みやのうらおくんち」の8日に沖ノ宮おきのみや沖都宮おきつみや)で斎行さいこうされる古代神相撲こだいかみずもうは、現在の相撲の原形とも言われています。

7日の夕刻に沖ノ宮おきのみや例大祭れいたいさい斎行さいこうされ、沖ノ宮おきのみやから地ノ宮ぢのみや邊都宮へつみや下宮げくう)へ御神幸ごじんこうが行われ一泊します。8日の午前にヤマド祭りが行われます。社役しゃやく2人が紋付袴もんつきはかまの姿で縄鉢巻なわはちまきを締め、縄鉢巻なわはちまき真拆まさきかずらとヒイラギを刺してかぶととし、腰に2本の木刀ぼくとうを差して地ノ宮ぢのみやの約200m程山奥のほこらに進みます。ほこら御神酒おみき御供ごくを供えて戻ります。その往復の間、言葉は禁じられ、戻った後、神殿しんでん脇の自然石にかぶと木刀ぼくとうを納めます。この神事しんじには、神官しんかんは一切関与せず、世襲の社役しゃやくである柴山家しばやまけ2家の戸主こしゅにより斎行さいこうされます。

その後沖ノ宮おきのみや還幸かんこうし、沖ノ宮おきのみや宮巡みやめぐりと古代神相撲こだいかみずもう神事しんじが行われます。

宮巡みやめぐりは宮司ぐうじが先導、神職しんしょく参列者さんれつしゃが続き社殿しゃでんの周りを回り、1じゅんするごと社殿しゃでん拝礼はいれいし、3じゅんする儀式です。古代神相撲こだいかみずもうは、ヤマド祭りと同様、社役しゃやくである柴山家しばやまけ2家の戸主こしゅによって行われます。2人は紋付袴もんつきはかまの正装で社殿しゃでん前の斎場さいじょうに降りて神殿しんでん一拝いっぱい。次いで着物の片袖を脱ぎ双方向かい合い「エイッ」「オーッ」の掛け声で互いに相手の上腕を握って取り組み、「ヤーッ」の掛け声で互いの手を離し、向かい合って膝をつく。この所作しょさを三度繰り返し、最後に神殿しんでんに一拝して神相撲 かみずもうは終了します[22]


【参考文献】


【出典】

  1. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.1-3・50-51
  2. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.47-49
  3. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.49-50
  4. 『式内社調査報告書・第二十四巻:志々伎神社』皇學館大學出版部, P.154-155
  5. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.1-3・51-53・69
  6. 『平戸藩史考』平戸藩史考編纂会支部, P.80
  7. 『薩摩塔と碇石 : 浙江石材と東アジア海域交流』国際日本文化研究センター, P217
  8. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.66
  9. 『式内社調査報告書・第二十四巻:志々伎神社』皇學館大學出版部, P.154
  10. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.28・65・76
  11. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.31-32
  12. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.15・32-34
  13. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.1-3・15-16
  14. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.1-3・29
  15. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.30・43
  16. 『式内社調査報告書・第二十四巻:志々伎神社』皇學館大學出版部, P.155
  17. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.43・46
  18. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.1-3・65・76
  19. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.1-3・65
  20. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.54
  21. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.84-85
  22. 『式内社・明神社志々伎神社 肥前歴史叢書8』芸文堂, P.86-89

Photo・写真

  • 参道
  • 参道と石鳥居
  • 石鳥居
  • 鳥居過ぎから社殿
  • 鳥居過ぎから社殿
  • 鳥居過ぎから社殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 本殿
  • 本殿

情報

住所上宮じょうぐう平戸市野子町ひらどしのこちょう志々伎山しじきさん山頂
中宮ちゅうぐう平戸市野子町ひらどしのこちょう251
地ノ宮ぢのみや平戸市野子町ひらどしのこちょう
沖ノ宮おきのみや平戸市野子町ひらどしのこちょう沖ノ島おきのしま
創始そうし不詳、少なくとも白鳳はくほう元年(674)以前。
社格しゃかく式内小社しきないしょうしゃ、旧県社けんしゃ
例祭れいさい11月7日・8日
神事しんじ代参講だいさんこう(2月6日)
ヤマド祭・古代神相撲こだいかみずもう(11月8日)
HP Wikipedia

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