【概要】
『延喜式神名帳』において、長崎県本土で唯一、式内社とされた志々伎神社は、海抜347mの志々伎山山頂の上宮(上津宮)、中腹の中宮(中津宮)、麓の地ノ宮(邊都宮・下宮)、湾内の沖ノ宮(沖都宮)の4社からなる古社です。
その創始は、景行天皇が行宮としたとの伝承、及び神功皇后の三韓出兵に同行した日本武尊の第六子(母は吉備穴戸武媛)で景行天皇の御孫の十城別王が、三韓出兵から凱旋の後、志々伎に駐留して亡くなり、祀られるようになったとされています。
中宮(中津宮)
志々伎山の中腹に鎮座。別当寺としての神光寺、円満寺の跡地で元は寺屋敷と呼ばれていました。昭和36年(1961)社地を移し、新築されました。泉水の跡と思われるものが社殿の側に残っています。約200m登った左側には、石垣で囲んだ40坪ほどの敷地があり、古材が放置され、十数基の石燈籠が残っています。永禄2年(1559)から昭和36年(1961)社地を移転するまで神社祭祀の中心地であった中宮の跡地です[01]。『神社旧記』の写本『注進並進上』に書かれた弘安7年(1284)11月18日の差出が、「奇師安倍人包、中宮之師澄温、下宮之師海、重、祝申海窓綱、大宮司源宗秀」となっていることから、少くとも13世紀には、上宮・中宮・下宮・沖ノ宮の組織ができ、中宮が別当寺を中心とする施設になっていおり、大宮司職も置かれていたと推察されています[02]。
上宮(上津宮)
海抜347mの志々伎山山頂には上宮とされる石祠があります。十城別王はこの地で眺望中に流れ矢によって薨去され、その御廟とされています。現在の石祠は宝暦5年(1755)9月25日、円満寺住職の随元が建立したとの記銘があり、晴れた日は山頂からの眺望は誠に雄大で、五島列島はおろか壱岐・対馬まで眺められます。海上監視にはまたとない絶好の地で、十城別王が異国警備の要衝として、この地を選ばれた真意が頷けます。戦前は女人禁制の地とされ、男子も「草履脱ぎ場」の標柱からは、裸足で登る風習がありました[03]。
地ノ宮(邊都宮・下宮)
『肥前国風土記』の伝える第12代景行天皇の行宮跡とされています。景行天皇は、当地で土蜘蛛を征したとされています。又、神功皇后の三韓出兵の後、護国のため当地に駐留した十城別王の武器庫跡ともされています。十城別王の薨去の後、その倉庫を社殿としてお祀りしました。明治元年(1868)に改築された現在の社殿も倉庫風に作られています。周辺の山林には古木が繁茂し、沖ノ宮の社叢とともに昭和49年(1974)4月9日に県指定天然記念物「志自岐神社地の宮・沖の宮社叢」に指定されています。尚、拝殿側には、神饌を調理したり、直来が行われる饌舎[膳屋]が建てられています[04]。
沖ノ宮(沖都宮)
宮ノ浦港に浮かぶ小島にあり「御嶋」とも言います。御祭神の十城別王は、日本武尊の第六子(母は吉備穴戸武媛)で、景行天皇の御孫です。以前は、地ノ宮の海岸から真っ直ぐに沖ノ宮の第一鳥居まで石の波止が築かれ、その真ん中には石燈籠が建てられていました。現在は防波堤が築かれ容易に島へ渡ることができるようになっています。十城別王の居住跡とされ、その後方の頂上は、十城別王の御陵墓と伝えられてます。大正年間、神主と神社総代が発掘調査を計画しますが、神威を畏れる宮ノ浦氏子の猛反対を受けて中止されました。その後日譚として昭和11年(1936)の『平戸藩史考』にて下記の様に記されています[05]。
『平戸藩史考』(平戸藩史考編纂会支部, 昭和11年)[06]
沖の島地の宮の前面程遠からぬ鏡面の如き海上に夢の如く浮かぶ周廻數丁の小島あり全島老松鬱蒼として繁茂し古びた社殿僅かに往昔の由緒深き歴史を偲ばせる十城別王薨去の後此の地に御靈を祭祀す社殿の後方の頂上の松林に御陵墓ありと傳へられ古來絕對神祕の境として若し此の地を侵かせば天變地異ありとして島民に恐れられ一歩の足跡をも許されなかつた聖地である、十數年前此の聖地を飾る數百年を經たる一大老松が風に倒され遂に枯死した氏子は相談の上恐る恐る此の神木を伐り五島の或る上人に賣渡したが波靜かなる日神木を滿載した本船は順風に帆を孕ませ矢の如く五島に向け滑るが如く走つたが志自伎沖を離れた所突如白衣の神様が形相恐ろしく舳に現はれたと見るや狂風怒波濤俄に其の船を中心として起りアツト云ふ間もなく船も人も海底深く姿を沒した、そは全くの瞬時に起きた出來亊で一帶の海上は依然として鏡の如く男波女波の囁きも和かなものであつたと云ふ不思議な珍事は之れのみに止まらなかつた依て全村民は神罰の恐ろしさに怯へ切つて謝罪の神事を執行し神意を慰め奉つたと云ふ夫れより今日迄一人として一草木の一片たりとも手にする者なく一歩をも神域に踏み入れぬ様になつた、殊に婦人は往昔より島に渡るを禁じて對岸より參拜し男子も鳥居内は履物を禁じ敬虔其のものの如く神前に額つき航海の安全を祈願している。
社殿向かって左手には、薩摩塔、右手前に宋風獅子があります。共に浙江省産石材によるもので、13世紀前半に中国(南宋)で作られて平戸にもたらされたものと考えられています。当時の大陸と平戸の交流を示す貴重な文化財として、平成30年(2018)5月2日に平戸市指定有形文化財に指定されました。薩摩塔は、最大高200cm、最大幅140cm。宋風獅子は、最大高110cm、最大幅50cm。薩摩塔は鹿児島県、福岡県、佐賀県、長崎県でしか確認されない特異な石造物です。沖ノ宮の薩摩塔は、六角を基調とする六角基調型で、屋根(笠)・仏龕・須弥壇(須弥座)を一石で造る一石造り型。仏龕の中を刳り抜き本尊の仏像を別造りとする本尊別造り型です。蓮弁意匠を持つ点などが中国浙江省麗水市の霊鷲寺石塔(南宋期)等と共通しています[07]。
創祀年は不詳ですが、『肥前国風土記』にて景行天皇が巡幸した志式島と記され、福岡県糸島市の志々伎神社が白鳳元年(674)当社から勧請されていることから、それ以前には広く知られた神社であったと考えられています。
『延喜式神名帳』において、長崎県本土で唯一、式内社とされた志々伎神社は、志々伎山山頂の上宮(上津宮)、中腹の中宮(中津宮)、麓の地ノ宮(邊都宮・下宮)、宮ノ浦の沖ノ宮(沖都宮)の4社からなる古社です。
その創始として、景行天皇が行宮としたとの伝承と、神功皇后の三韓出兵の後、十城別王が志々伎に駐留して亡くなり、祀られるようになったとの伝承が残されています。
配祀神である七郎氏廣公と鴨一隼戸命は、共に十城別王に仕えた武将です。三韓出兵の後、十城別王に付き随ったとされ、七郎氏廣公は平戸七郎宮(現在は亀岡神社に合祀)に、鴨一隼戸命は小値賀の神嶋神社に祀られています。また、亀岡神社が所蔵する国指定重要文化財「鐶頭太刀無銘拵付一口」は七郎氏廣公が佩刀していたものと伝えられています。尚、志々伎神社の鐶頭太刀は、明治42年(1909)盗難にあい、神嶋神社のものは終戦時米軍に没収され、亀岡神社の鐶頭太刀だけが現存しています[08]。
天平4年~12年(732-740)の間に編纂された『肥前国風土記』では、景行天皇は、筑紫国を巡幸されたとき「志式島」を行宮としたと記されています。景行天皇は、大近(小値賀)の土蜘蛛の大耳、小近(子値賀)の土蜘蛛の垂耳を征します。その当地が「志々伎宮ノ浦」の行宮とされることから、古くからの創祀の社であったと考えられています。
志々伎山の鋭く尖った山頂は、対馬・五島列島と本土・平戸島との航海時の標識であること、旧志々伎村の宮ノ浦地方をはじめとして、多くの弥生式土器などが出土していることから、弥生時代末期には既に祭りが行われていたのではないかと推察されています[09]。また、福岡県糸島市の志々伎神社が白鳳元年(674)当社から勧請されていることから、少なくともそれ以前には広く知られた神社であったと考えられています。
『肥前国風土記』編纂:天平4年~12年(732-740)
昔者、纒向日代宮御宇天皇(景行天皇)、巡幸之時、在志式嶋之行宮、御覧西海、海中有嶋。烟氣多覆。陪從阿曇連百足遣令察之。爰有八十餘。就中二嶋、嶋別有人。第一嶋名小近、土蜘蛛大耳居之、第二嶋名大近、土蜘蛛垂耳居之。自餘之嶋、竝人不在。於茲、百足、獲大耳等奏聞。天皇勅、且令誅殺。時大耳等、叩頭陳開曰、「大耳等之罪、實當極刑。萬被戮殺、不足塞罪。若降恩情得再生者、奉造御贄、恆貢御膳」卽取木皮、作長蚫韃蚫短蚫陰蚫羽割蚫等之様、獻於御所。天皇垂恩赦放。更勅云、「此嶋雖遠、猶見如近、可謂近嶋」因曰値嘉。
昔者、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)、巡り幸しし時、志式島の行宮に在して、西の海を御覧すに、海の中に島あり。煙気多に覆へりき。陪従、阿曇連百足に遣せて察しめたまこき。爰に、八十余あり。就中の二つの島には、島別に人あり。第一の島は名は小近、土蜘蛛大耳居み、第二の島は名は大近、土蜘蛛垂耳居めり。自余の島は、並に人あらざりき。ここに、百足、大耳等を獲りて奏聞しき。天皇勅して、誅ひ殺さしめむとしたまひき。時に、大耳等、叩頭て陳開ししく「大耳等が罪は、実に極刑に当れり。万たび戮殺さるとも、罪を塞ぐに足らじ。若し、恩情を降したまひて、再生くることを得ば、御贄を造り奉りて、恒に御膳に貢らむ」とまをして、即て木皮を取りて、長蚫・韃蚫・短蚫・陰蚫・羽割蚫等の様を作りて、御所に献りき。ここに天皇、恩を垂れて赦し放りたまひき。更、勅したまひしく、「此の島は遠けど、猶、近きが如く見ゆ。近島と謂ふべし」とのりたまひき。因りて値嘉といふ。
次いで、社伝によれば、神功皇后の三韓出兵に同行した日本武尊の第六子(母は吉備穴戸武媛)、及び景行天皇の御孫である十城別王が、三韓出兵から凱旋の後、三韓に対する警備に当るため志々伎に駐留。その薨去の後、祀られるようになったとされています。
十城別王を御祭神とする由緒は、弘長4年(1264)幕府より出された『延喜式神名帳』に所載の神社で現存するものは注進せしむべしとの院宣、それに答申した『神社旧記』とされる『大宮司源家秀等注進状』に因ります。志々伎神社は、文明15年(1483)の頃には、兵火により社寺の宝物・祭器・古記など一切を焼失していることから原本は残されていませんが、写本として弘安7年(1284)11月18日の『志自岐神社縁起』、『七郎宮一隼宮両社縁起』、『注進並進上』が残されています。その中の『注進並進上』にて下記の記載が残されています。また、十城別王を御祭神とする『神社旧記』の記述は、八幡神(応神天皇)との繋がりを強く示していることから、『八幡愚童訓』や『八幡宇佐宮御託宣集』などの影響が指摘されています[02][10]。
『大宮司源家秀等注進狀』
肥前國松浦郡志自岐宮、制進院宣國宣等一卷
一御垂垂之事
右當宮志自岐神社者、仲哀天皇御弟應神天皇天皇御伯父也、神功皇后三韓征伐之時、爲供奉之將、專誅罸異類之上、爲日夲護國之本誓ト、聖跡於志自岐山嶽靈廟基於此峯、自爾以降所迄千餘廻之星霜也矣。
※写本:『注進並進上』弘安7年(1284)11月20日
右の当宮、志自岐神社は、仲哀天皇の御弟にして、応神天皇天皇の御伯父なり。神功皇后の三韓征伐の時、供奉の将と為り、専ら異類を誅罰の上、日本護国の本誓いと為し、聖跡を志自岐山嶽に霊廟を此峰に基む。爾より以降、この所まで千余廻の星霜なり。
明和8年(1771)に記された『志自岐家系図』では、十城別王が志々伎山に渡御した際、志自岐家が供奉し、十城別王が薨去の後、志々伎山頂上の上宮に祀って奉祭したと伝えていますが[11]、十城別王の志々伎駐留については諸説あります[12]。
- 弘長4年(1264)が原本とされる『注進並進上』では、三韓出兵後も熊襲が新羅と呼応して謀叛する恐れがあったので、護国の大任を果たすため、西海に駐箚する必要を認め、自ら志式島宮ノ浦に本拠を構えた。武将の七郎氏廣公を平戸に遺して、平戸海峡を守るとともに、中央との連絡を保ち、他の一隊、鴨一隼戸命を小値賀に派して志々伎水道を扼した。さらに前津吉に万祢吉、古田に神隼を配して背面の防御に任じた。
- 弘安7年(1284)11月18日に記された『志自岐神社縁起』によると、武内宿禰に対する不満もあり、中央では立身の見込みなしと考え、再び三韓に渡ってその王座に就こうと、新たな行動を起こそうと計画していた。しかし神功皇后の慰留を受け、景行天皇の行宮があった、志式島宮ノ浦において、将来の雄飛を策したが、遂にその地に没した。
- 伝承として、十城別王が三韓出兵から凱旋の途中、宮ノ浦の沖ノ島に上陸して、睡魔に襲われ程なく目覚めると、兵船は既に船出した後で、やむなく宮ノ浦に居住した。或る日、十城別王が志々伎山頂上に立って遥か東方を望見していると、突如白羽の矢に胸を貫かれ落命した。
呼称としては、古代には「志式神社」と呼んでいたものが、弘仁2年(811)嵯峨天皇より御神体が安置された時に「志々伎神社」と改められたと考えられており、『肥前国風土記』では「志式島」。平安時代は「志々伎」。中世は「志自岐」。江戸期中期以降、『神社帖』(1700)や『太宰管内志』(1841)以降は「志々伎」の表記されるようになります[13]。
弘安7年(1284)11月18日の記載を見る『志自岐神社縁起』では、天平年間(729-748)には勅願寺としての神光寺が建立され、20間内外の建物が6棟も立ち並び、御祭神を「志々伎大菩薩」と称したとされています。僧侶として最高位の大僧正・大僧都らが派遣され、神社の祭祀と共に、日夜、敵国降伏退散の祈祷が行われたと伝えています。
弘仁2年(811)10月朔日には、御神体が安置されます。この御神体は木像で、髪は角髪に結ってあると伝えられています。御神体を見たとされる民俗学者の宮本常一は、「沖ノ宮の木像の御神体は、衣冠を付けた上半身で、大きさは二尺ほどあろう。白木の彫刻で丸ノミを荒く使っているが、そこに出ている線は流麗でのびのびしているところから見ると、平安時代のものではないか」(昭和29年)と記しています[14]。
国史に神階を見るのは、『日本三代実録』貞観2年(860)2月8日が初見で、従五位下から従五位上へ。『日本三代実録』貞観15年(873)9月16日にて従五位上から正五位下へ。『日本三代実録』貞観18年(876)6月8日にて改めて従五位上から正五位下へ昇叙しました。但し、貞観18年(876)の正五位下は誤記で、最終的には正五位上へ昇叙したとも考えられています。
『日本三代實録』卷第四
貞観二年(820)二月八日己丑。進肥前國從四位下田嶋神階加從四位上。授從五位上荒穗天神正五位下。從五位下豫等比咩天神。久治國神。天山神。志々岐神。温泉神並從五位上。正六位上金立神從五位下。
『日本三代實録』卷二十四
貞観十五年(873)九月十六日戊寅。授肥前國從四位上田嶋神正四位下。從五位上志々岐神。豫等比神並正五位下。從五位下宗形神從五位上。正六位上白角折神。葛木一言主神。温知神並從五位下。
『日本三代實録』卷二十九
貞觀十八年(876)六月八日癸丑。-(略)-。肥前國從四位上田嶋神正四位下。從五位上志々岐神正五位下。正六位上神嶋神。鳴神。銀山神並從五位下。
写本『志自岐神社縁起』では、元慶元年(877)9月25日、勅使参向の儀が執り行われたことが記されています。その後、毎年2月4日に祈年祭が斎行され、遠国のためその国の長官が、神祇の例になぞらえて、3日間の斎戒をして祭祀したとしています[15]。同じく写本『注進並進上』では、差出が「奇師安倍人包、中宮之師澄温、下宮之師海、重、祝申海窓綱、大宮司源宗秀」と記されていることから、少くとも13世紀には、上宮・中宮・下宮・沖ノ宮の組織ができ、中宮が別当寺を中心とする施設になっており、大宮司職も置かれていたと見られています[16]。
延長5年(927)編纂の『延喜式神名帳』では小一座となっており、松浦郡では田嶋坐神社(田島神社)に次ぐ神社でした。尚、文亀3年(1503)吉田兼俱による『延喜式神名帳頭註』では、田嶋神社を上松浦明神、志々伎神社を下松浦明神と称したとされています。
『延喜式』巻十 神祇下 ※通称『延喜式神名帳』
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
肥前國四座[大一座・小三座]。松浦郡二座[大一座・小一座]、田島座神社[名神大]、志志伎神社。基肄郡[小]、荒穂神社。佐嘉郡一座[小]、與止日女神社。
『延喜式神名帳頭註』第二十三巻
肥前松浦郡。
田嶋、仲哀帝弟稚武王也。號上松浦明神也。志々伎、稚武王弟十城別王也。號下松浦明神也。
弘長4年(1264)の『神社旧記』とされる『大宮司源家秀等注進状』、弘安7年(1284)の『志自岐神社縁起』が書かれた弘安年間(1278-1288)の頃には、両部社となっていたと、明治8年(1875)5月に長崎県知事に提出された『神社明細書』では記しています。両部神道とは、修験道と真言宗の金剛界・胎蔵界の両部の教理をもって神道を説明しようとする説です。本地垂迹説の根底をなす神仏調和の神道で、行基・最澄・空海らの所説にその萌芽を見、神祇に菩薩や権現の名称するに至ったとされています[17]。
乱世以降は、祭祀も勅使参向の儀も絶え、文明15年(1483)の頃には、兵火により神光寺を焼失。社寺の宝物・祭器・古記など一切を焼失し、堂宇もなく敵国降伏退散の祈祷も中絶しました[18]。
永禄2年(1559)法印頼弁の尽力により平戸藩主等の寄進を受けて社殿が再建されます。寛延11年(1634)神光寺の跡地である現在の中宮の地に別当寺の真言宗円満寺が建立され、神社の祭祀と共に平戸藩主歴代の祈願所となります。船越以南150石を永代神領地として祭祀と行政の資とし、祭米75俵と田平山王田15石も知行されました。寛文2年(1662)には流鏑馬をはじめ、御法楽として、じゃんがら・杖・狂言・すこ踊などが行われ、年間少なくとも60日が祭祀に当てられていたとされています[19]。
神職の勢力は衰え、別当寺が支配していたと考えられており、寛政11年(1799)9月に志自岐山中興第6世法印光重の誌した『当山旧記』によると、志自岐山は、上宮・中宮・下宮からなり、「下宮分宮司神光寺」となっています。そのことから、全山別当寺支配が強かったと推察されています[16]。
明治7年(1874)郷社に、明治14年(1881)県社に列せられます。しかし県社には2種類あり、拝殿の他に社務所・手水舎などの施設が完備したものは、指定県社として県知事が参向し、県より幣帛料が出ました。対して、施設不完備のものは無指定県社とされました。そこで神主や神社役員の尽力、生月島の富豪の富永能雄氏より寄進を受け、昭和13年(1938)に社務所を円満寺の跡地に造営し、指定県社となりました[20]。昭和36年(1961)円満寺の跡地に社地を移し、中宮が建立されました[16]。