玖島城(大村城)の跡地に鎮座する大村神社は、文化2年(1805)大村家第28代・大村藩第10代藩主の大村純昌が、池田山の山中に大村氏の遠祖と云われる藤原純友公とその親族の神霊を御霊宮大明神として祀ったのが創祀です。大村氏初代の大村直澄公は、藤原鎌足公の孫と伝えられ、正暦5年(994)四国から大村へ入部したと伝えられています。殊に東西彼杵郡内1町14村の人々から深く崇敬を受けます。御霊宮大明神の御祭神の詳細は下記になります。
- 藤原鎌足公を御祭神として彫る御神体の神鏡一面。
- 12柱の神名が彫られた御神体の神鏡一面。
右衛門佐純実(藤原純友公の弟)、高熊左京大夫直純(同弟)、和泉五郎友興(同弟)、讃岐介春継室(同妹)、近江介千時室(同妹)、安芸左京大夫直純室(同妹)、伊勢刑部卿仲利室(同妹)、岩根守平室(同妹)、今宮二位法眼持室(同妹)、入野冠者景平室(同妹)、桑名斎宮介則定室(同妹)、倉山権大夫友平室(同妹)。
- 6柱の神名が彫られた御神体の神鏡一面。
安芸介諸友(藤原純友公の長男)、長門介諸純(同二男)、播磨介純安(同三男)、重田太麿取業(同四男)、阿古田国純(同五男)、刑部大輔純高室(同娘・姫麿)。
- 副祭神として御神体の板札。
文化11年(1814)には大村純鎮公の神霊を、天保9年(1838)には大村純昌公の神霊を合祀。
明治3年(1870)の廃藩置県に際し多羅山宝円寺跡に遷座し、常盤神社と改称。旧大村藩内士民の崇敬特に篤く、明治7年(1874)村社となります。旧藩民は最後の大村藩主となった大村純熈と協議の上、大村家累代の居城であり、風光明媚な玖島城跡に旧大村藩の総産土神として遷座せんとします。なお、新しい社殿の竣工までは、三城町の富松神社へ仮遷座します。明治15年(1882)に大村純熈が逝去するも、後を継いだ大村純雄が遺志を継承。明治16年(1883)に旧大村藩内崇敬者の御寄附と労力奉仕により、現在地に新たに社殿が建てられました。
明治17年(1884)5月に遷座され、大村直澄公(大村氏初代)、大村親澄公(同8代)、大村澄宗公(同9代)、大村澄遠公(同10代)、大村純興公(同11代)、大村純弘公(同12代)を主祭神として祀り、大村神社と改称されました。明治18年(1885)2月19日には県社に昇格。同年、最後の大村藩主である。大村純熈公(同30代・12代藩主)を合祀しました。明治24年(1891)更に一社をその傍に建立し、累代の御霊を祀り、大正4年(1915年)にその全ての御霊を本殿に合祀しました。拝殿の掲額は陸軍大将・有栖川宮御熾仁親王の揮毫です。明治40年(1907)元三城城址に鎮座していた稲荷神社を遷座して玖島稲荷神社の社殿が建てられました。
昭和天皇の御即位大典が挙行された時、旧藩民から薩摩、長州、土佐の三藩主と同様、明治維新の功により別格官弊社への昇格が発議されます。しかし法規により高額な基金が必要なことと、社殿の新築・改築を要することから、昇格するのは御大典の時に限ることではなく、諸々の準備ができてからの再起を期しました。昭和20年(1945)大東亜戦争終結以後は神社法規の変革に伴って宗教法人となります。昭和30年(1955)秋には御遷座70周年を期して大村家から境内地の御寄進があり、又近くは旧大村藩領を初め東京、京阪神地区の崇敬者各位の熱誠な御援助を受けて、御神輿及び御神宝器具類が新調され、記念の大祭を盛大に奉仕致されました。
【境内社など】
「玖島城(大村城)」
大村神社の境内地は、大村藩2万7000石の居城である玖島城の本丸跡です。玖島城は、慶長4年(1599)大村氏第19代・大村藩初代藩主の大村喜前が、三方を海に囲まれた岬の地である玖島に築いた城です。
慶長19年(1614)第2代藩主大村純頼が、それまで北側にあった大手門を南側に改修し、この時、虎口門、台所門、搦手門の三つの入ロの形が定まったと伝えられています。本丸の敷地の内、西半分にあたる大村神社本殿のある一帯には大広間など侍詰所(政庁)があり、東半分の玖島稲荷神社のある一帯には藩主の居館がありました。城に天守閤はなく、平屋の御殿でした。本丸を巡る石垣の上には塀を巡らし、矢狭間、鉄砲狭間、石火矢狭間が設けられ、護摩堂や多聞櫓があったと記録されています。
明治4年(1871)廃藩置県で大村県庁が置かれましたが、すぐに長崎県に合併されたことにより不要となり、建物は取り壊されました。明治17年(1884)旧藩家臣により大村家歴代を祀る大村神社が建立され、現在に至っています。
「玖島稲荷神社」
御祭神:宇迦之御魂神
玖島稲荷神社は、文明2年(1480)大村氏第16代・大村純伊が、全国の稲荷神社の総本社・稲荷伏見大社より大村領の守護神として分祀して祀ったのが創祀です。稲荷神社信仰は歴代の領主に継承され、領民にも広く信仰されるようになり、赤の鳥居に狐の狛犬、2月の初午と誰もが連想するように民衆に溶け込んだ非常に親しみのある神社です。赤色は豊作を象徴する色、狐は神のお使いと信じられ初午祭の稲荷信仰の歴史と特色をあらわしています。稲荷の神は元々農業の神でしたが広く殖産の神としてあがめられるようになり、商売繁盛の福の神として、諸産業の守護神として広く信仰されています。大村市内には勿論のこと、旧藩時代の繋がりもあって大村湾を隔てた対岸の西彼杵半島からの参拝は現在まで継承されています。現在の社殿は明治44年(1911)に建設されたものです。
玖島稲荷神社は、大村氏の窮地の度に救った白郎左衛門殿の神通力が伝説として残されています。そのひとつが三城七騎籠りにおける白郎左衛門殿の活躍です。
大村純忠(大村純前の長男・養子)は、永禄6年(1563)日本初のキリシタン大名となったことから、元々は跡継ぎとされるも武雄後藤氏に養子に出された肥前後藤氏第19代後藤貴明(大村純前の次男・実子)、及び後藤貴明を支持する大村家家臣団としばしば対立します。その背景の中、元亀3年(1572)7月30日の黎明、後藤貴明は、諫早の西郷純堯、平戸の松浦隆信と連合して約1500の大軍をもって大村純忠の当時の居城であった三城を囲みます。ときに城内には大村純忠を除いて今道純近、大村純辰、朝長純盛、朝長純基、宮原純房、藤崎純久、渡辺純綱の7騎と、その他に子・郎党が45人、婦女子を入れても僅か72人がいるだけで、大半の家臣はそれぞれの知行地に帰っていました。
西郷純堯の大将・大渡野軍兵衛が大手口に迫り、将に城内に攻め入ろうとした時、突如、数頭の白狐が現れ、7騎の武将を助けて防ぎ戦いました。西郷純堯軍は、鋭鋒を挫かれ、苦戦の最中、富永忠重が大渡野軍兵衛に疵を負わる殊勲をきっかけに戦は急転。敵陣に動揺の色が見えるや、白狐はただちに大手門を開いて7騎の先頭に立って突貫し敵を蹴散らし、また神通力をもって附近の雑木を武士の姿に見せ、草原の茅・薄を槍・長刀の光芒に似せ、敵兵をして益々慌てさせ混乱させ、後藤貴明は無念ながら武雄に引き還しました。
この戦の危急を救ったのは、三城に早くから住んでいた300~400歳にもなろうという古い白狐の白郎左衛門殿でした。白郎左衛門殿は、幾十幾百という子孫や子分を持っていました。白郎左衛門殿はこの戦で片足に負傷して跛になるも、人々の尊敬を受け、永く大村家を守護したとされています。徳川時代になっても江戸参勤交代の折は、必ず殿様のお供をして忠義に励み、時には子分などを共につれ家老に擬して往来したと伝えられています。大村氏の居城が、三城城から玖島城に移ると玖島城大楠の根元に居を移され、三城の楠の根元にはその一族が分家して残ることになったと伝えられています。
また、ある夜、大村の城下に大火事が起き、折からの風にあおられて忽ちの内に火の手は広がりました。そこに突然、白い刺子織に身を固めた火消しが何百人と現われて水を一度にかけました。「有難い加勢が来たぞ!」と町の人たちは喜んで一緒になって火を消しました。当初は、多勢の白装束の火消したちは姿が見えず、誰であったのか判らなかったものの、その頭が左足に大きな火傷をして跋していたことから、白郎左衛門殿とその一族であったことがわかったとされています。
やがて100余年程たって白郎左衛門殿も亡くなり、子や孫の代になった明治40年のある日、樟脳を採るため、楠をいよいよ明日は伐採するという晩、神社の神主の夢に老白狐が現れて「私は白郎左衛門という狐であるが、あの楠を切られると自分の孫たちが困るので何とか切らないで下さい」と昔からの事情を語り、その姿は消えました。
神主は不思議に思い、根元に小さな穴が2つあって、中に子狐が5匹入っていたので、これこそ今まで先祖様をお助けした白郎左衛門殿の孫狐に違いないと考え、村の人たちにもよく相談をして楠を切ることを止めたのでした。信者は集って、明治44年(1911)立派な玖島稲荷神社の神殿を建設しました。それが現在の玖島稲荷神社です。この時の楠は、玖島稲荷神社の北鳥居から上る途中の左手にあります。
「中祖喜前公遺徳碑」
社殿向かって左手奥。大村氏、及び大村藩の初代藩主の大村喜前公を中祖として祀る遺徳碑です。
大村喜前公は、日本初のキリシタン大名である大村氏第12代・大村純忠公の長男として生まれます。後にキリスト教を棄てて日蓮宗に改宗しますが、幼くして洗礼を受け、霊名をドン・サンチョと称しました。佐賀の龍造寺隆信の下に送られ、人質として過ごします。天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐に際し、病床の父・大村純忠に代わり豊臣秀吉の下に代参。同年5月18日、父の死により家督を相続して大村家第13代となります。その後、朝鮮出兵にも従軍して論功行賞を兼ね、戦功を立てました。慶長3年(1598)の豊臣秀吉の死後、天下が乱れるのを恐れて玖島城の築城に着手。慶長4年(1599年)三城城から玖島城へ居城を移しました。
徳川幕府が開かれると、本領を安堵されて大村藩初代藩主となります。キリスト教の禁止が厳しくなることを察知し、キリスト教を棄てて日蓮宗に改宗。本経寺など多くの社寺を建立し、藩内の抵抗勢力を一掃する御一門払いという家臣団の改革を行います。藩主の権威を確率して家臣団の結束を固くし、2回に渡って領内の総検地を行いました。藩政の基礎固めを進めるも、元和2年(1616)48歳で急逝。本経寺に葬られて「中興の租」と崇められています。境内の当碑は大正4年(1915)に建立されたものです。 ※看板参照
「大村純熈公銅像」
社殿向かって左手奥。大村神社の創建に寄与し、御祭神としても祀られる大村純熈公の銅像が建てられています。大村純熈公は、文政13年(1831)11月21日に第10代大村藩主・大村純昌の10男として玖島城で生まれます。弘化4年(1847)2月21日に第12代藩主に就任。蘭学に通じ、洋式軍備を導入する一方で、剣豪としても知られ、嘉永4年(1851)には斎藤歓之助を雇い、神道無念流を藩の正式な剣術流派としました。明治維新に際しては、薩摩藩・長州藩らと共に倒幕の中枢藩として活躍。戊辰戦争でも大いに活躍しました。明治2年(1869)6月、薩摩藩・長州藩・土佐藩に次ぐ、破格の賞典禄3万石を与えられました。大村家累代の居城であり、風光明媚な玖島城跡に旧大村藩の総産土神として遷座せんと、旧藩民と協議して遷座を進めますが、明治15年(1882)に逝去。明治18年(1885)大村神社が、玖島城跡に旧大村藩の総産土神として遷座される背景となった功績を称えて合祀されました。
「オオムラザクラ:国指定天然記念物」
社殿前のオオムラザクラは、昭和42年(1967)3月31日に国の天然記念物に指定され、
大村市の市花となっでいます。
昭和16年(1941)大村にあった長崎県女子師範学校の教官であった外山三郎(後の長崎大学名誉教授)によって学会に報告され、命名された大変珍しい品種で、八重桜の一種です。明治17年(1884)に西大村の旧藩士・坂本半次郎が献木したのがはじまりです。原木は昭和37年(1962)に枯れましたが、昭和28年(1953)に接木で増やされたものが現在の2代目となっています。
がく片・花弁・おしべが非常に多く、花ごとに著しく変化し、全ての花が八重桜を二つ重ねたような独特の二段咲きという特徴を持っています。下の花を外花、上の花を内花といい、外花のがく片は10枚(桜の基本は5枚)。ひとつの花の花弁の数は、少ないもので60枚、多いものでは200枚にも達し、おしべの数とともに変化に富んでいます。開花は外花から始まり、やがて内花も開き、ソメイヨシノより少し遅れて直径4cmのピンクの花をつけます。学名の品種名はミラビリス(mirabilis)で、奇想天外、霊妙不可思議との意味です。
「クシマザクラ:県指定天然紀念物」
虎口門跡から上がり
鳥居の左手に植わるクシマザクラは、昭和42年(1967)2月3日、県指定天然紀念物に指定されています。
花のつくりの奇抜な点、また二段咲きになる花を混ずる点でオオムラザクラの姉妹品ともされています。これを発見した外山三郎は、オオムラザクラを研究しているうちに、この中にタイプの違った特異な品種を発見。これが学会に報告され、昭和22年(1947)にクシマザクラと命名されました。
名桜の誉れも高い普賢象のように、花の中心にあるめしべが2枚の葉に変化します。二段咲きになる花は、このめしべの中に小さい不完全な内花が入れ子となってひそんでいます。この内花は、時に非常に不完全で、色々の変化があります。外花のがく片は5枚。花弁は36枚~56枚で平均45枚とオオムラザクラよりやや少な目です。オオムラザクラより少し遅れて直径4.5cmのピンクの花をつけます。
「貝吹石(通称ほら石)」
手水舎を過ぎて参道右手にある、萱瀬村から寄附された円形の野石です。上に大小二つの穴があり、小さな方を吹くと法螺貝の音を出すので名称されています。天正5年(1577)龍造寺隆信が、前年に家臣の鍋島氏が大村氏に敗れたことから、8000人の大軍を率いて萱瀬村に攻め入ります。わずか300人ほどの同村の郷士等は、菅無田砦に立籠り、この石の穴を吹いて合図の陣具に代用したと伝承されています。砦の人々は戦死したものの、龍造寺側も大きな被害を受け体勢を立て直しているところ、大村純忠が急襲して終に敵を追い退けました。 ※看板参照
「大村彦右衛門純勝碑」
手水舎の右手後方に建っています。大村彦右衛門純勝は、大村純忠から大村純信までの四人の当主に仕えました。玖島城の築城や御一門払いといった重要な政策に関わるなど、大村家の発展に大きな役割を果たしました。その中でも有名なのが、三代藩主大村純信の跡目相続の時の話です。
元和5年(1619)、2代藩主大村純頼が急死しますが、大村藩は当時2歳の松千代(後の純信)の誕生を幕府に届け出ておらず、大村藩は跡継ぎの断絶による取り潰しの危機に直面しました。そこで大村彦右衛門は、松千代と共に江戸へ行き、半年にあたって幕府と交渉し、ついに跡目相続を認めてもらいました。
この碑は、そうした大村彦右衛門の忠節を称え、明治40年(1907)に大村出身の人びとによって建立されました。裏の「顕忠碑」の文章は、幕末の志士として活躍した渡邊昇によるものです。
平成24年(2012)2月 大村市教育委員会
「戊辰戦役記念碑:碑文」
虎口門前の石碑。明治2年(1869)6月わが大村藩「2万7千石」は戊辰戦役の勲功により薩摩、長州、土佐につぎ「3万石」の賞典禄を給せられ、且、優渥なる感状を賜わる。これ偏に明治維新の大業成就のため藩主「純熈公」を中心とし藩論を一定し上下一致、粉骨砕心以って勤王の誠を捧げたる所以なり。この戦役に際し大村藩は京都に到りては禁裏を守護し大津に進む。その後東海道征討軍先鋒として箱根の関を越え江戸に進撃す。江戸に於ては上野彰義隊の討伐に参加する。慶応4年(1868)6月奥羽の賊軍追討の命下るや吾が東征軍総督、土屋善右衛門以下118名は藩地よりの応援隊総司令、大村弥門以下110名を併せ一隊を編成し、薩摩、佐土原と共に進んで会津の強敵を屠り大いに戦功を立つ。又北伐軍「吾往隊」は羽州舟川港に上陸以来、角館、刈和野、神宮寺等に転戦し殊勲を立つ。しかし悲しくもこの戦役に於いて少年鼓手、浜田勤吾を初め戦死22名、戦傷57名の犠牲者を出す。歳月は流れ明治維新の大業より120年余を経す。この秋往時を想い、ここに碑を建て勤王の志篤く名君なりし藩主「大村純熈公」の御遺徳を敬慕し併せて従軍将兵の勲功を称えんとする。
平成元年(1989)11月吉日 吾往会会長 中瀬正隆 ※看板参照
「少年鼓手浜田勤吾」
虎口門跡の手前の石像。明治維新への夜明け慶応4年(1868)戊辰の役あり。
大村藩早くより勤王に尽し薩長土州に伍して東征北伐の軍を進む。秋田救援の北伐隊325名様式装備し精強たり。2番小隊に鼓手浜田勤吾あり。紅頬15才の美少年にして常に先頭に軍鼓を打ち、隊の士気を鼓舞すること勇敢なり。
9月15日刈和野に激戦し雨霰する飛弾に倒るる者多く勤吾遂に2弾を浴び「お母さん」と絶叫し戦死す。鼓音消えて秋風索莫たり。屍を角館常光院に納む。内襟に母チカ女の一首あり。
ふた葉より手くれ水くれ待つ花は
君かためにそ咲けよこのとき
子を思い励ます門出の歌に万人みな涙せり。星霜移りてここに118年。今や銅像故山に建つ。
あゝ浜田勤吾鼓手の姿よ永久に香れかし
昭和61年(1986)11月吉日 ※看板参照
「佐藤嘉平次の碑」
二の丸跡に建つ石碑。第1次世界大戦日独戦争で、歩兵第四十六聯隊(大村)第四中隊長佐藤嘉平次大尉は、大正3年(1914)9月28日未明、青島攻略の命を受け、峻険嵯峨なる浮山の要害攻略を、大村聯隊の名誉を担って自ら決死隊長となり、50数人の隊員の先頭に立ち、月明かりを頼りに肉弾を持って攻めに攻めたが、無念にも敵弾を胸とさらに腹にも受け、男盛りの38歳を一世に浮山の朝霧と消えた人である。
この中隊長の壮烈な戦死を知った隊員たちは奮い立ち、一隊はほとんど全滅の悲運に遭遇しつつも屈せず、果敢なる突撃をくり返して大勝利を得たのである。
佐藤嘉平次大尉は偉丈夫の人格者で、第四十六聯隊創始以来のすぐれた軍人であったといわれ、しかも神道無念流の免許皆伝で、聯隊随一の剣道の達人でもあった。
千々石出身の橘中佐、日田出身の広瀬中佐、大村出身の佐藤少佐は、この時代の人々に、「軍神」と崇められたのである。 ※看板参照
「斉藤歓之助の碑」
大手門跡を過ぎて右手直ぐの石碑。斉藤歓之助は、幕末江戸の3剣客の一人、神道無念流斉藤弥九郎の3男として、天保3年(1832)江戸で生まれました。斉藤弥九郎の道場は練兵館といい、江戸でも有名な道場でした。この門下生には、長州の桂小五郎や大村藩の渡邊昇もいました。
歓之助は嘉永7年(1854)大村藩主純熙に招かれて、俸禄100石を賜り、剣術師範役となりました(後に加増され150石)。歓之助は、激しい稽古から「鬼歓」と仇名があるほどで、得意の突きは天下無敵といわれました。
幕末において、大村藩では一刀流、新陰流などが採用されていましたが、実戦に強い剣術を採用することとなり、神道無念流の歓之助が招かれました。以後、藩内は神道無念流への入門が相次ぎ、歓之助の門弟は1000以上に達したといわれています。道場は上小路下りの屋敷の中にあり「微神堂」と称しました。この道場で学んだものが戊辰の役で活躍したといわれています。
歓之助は、残念ながら若くして病気を患い、廃藩置県後、東京に移住し、明治31年(1898)、66歳で亡くなりました。「微神堂」は、道場に掲げられた扁額が弟子によって受け継がれ、現在の杭出津の微神堂へつながっています。
この碑は、柴江運八郎らの門弟が、師の功績を顕彰して建立したものです。 ※看板参照