九州の神社

長崎県・大村神社(大村市)

由緒

御祭神ごさいじん 大村直澄公おおむらなおずみこう大村氏おおむらし初代)、大村親澄公おおむらちかずみこう(同8代)、大村澄宗公おおむらすみむねこう(同9代)、大村澄遠公おおむらすみとおこう(同10代)、大村純興公おおむらすみおきこう(同11代)、大村純弘公おおむらすみひろこう(同12代)、大村純熈公おおむらすみひろこう(同30代・12代藩主はんしゅ)、藤原鎌足公ふじわらのかまたりこう藤原純友公ふじわらのすみともこうを始めその他の領主りょうしゅ藩主はんしゅ、合わせて56柱

由緒

玖島城くしまじょう大村城おおむらじょう)の跡地に鎮座ちんざする大村神社おおむらじんじゃは、文化ぶんか2年(1805)大村家おおむらけ第28代・大村藩おおむらはん第10代藩主はんしゅ大村純昌おおむらすみよしが、池田山いけだやまの山中に大村氏おおむらし遠祖えんそと云われる藤原純友公ふじわらのすみともこうとその親族の神霊しんれい御霊宮大明神ごりょうぐうだいみょうじんとしてまつったのが創祀そうしです。大村氏おおむらし初代の大村直澄公おおむらなおずみこうは、藤原鎌足公ふじわらのかまたりこうの孫と伝えられ、正暦しょうりゃく5年(994)四国から大村おおむら入部にゅうぶしたと伝えられています。殊に東西とうざい彼杵郡内そのぎぐんない1町14村の人々から深く崇敬すうけいを受けます。御霊宮大明神ごりょうぐうだいみょうじん御祭神ごさいじんの詳細は下記になります。

  1. 藤原鎌足公ふじわらのかまたりこう御祭神ごさいじんとして彫る御神体ごしんたい神鏡しんきょう一面。
  2. 12柱の神名が彫られた御神体ごしんたい神鏡しんきょう一面。
    右衛門佐純実(藤原純友公ふじわらのすみともこうの弟)、高熊左京大夫直純(同弟)、和泉五郎友興(同弟)、讃岐介春継室(同妹)、近江介千時室(同妹)、安芸左京大夫直純室(同妹)、伊勢刑部卿仲利室(同妹)、岩根守平室(同妹)、今宮二位法眼持室(同妹)、入野冠者景平室(同妹)、桑名斎宮介則定室(同妹)、倉山権大夫友平室(同妹)。
  3. 6柱の神名が彫られた御神体ごしんたい神鏡しんきょう一面。
    安芸介諸友(藤原純友公ふじわらのすみともこうの長男)、長門介諸純(同二男)、播磨介純安(同三男)、重田太麿取業(同四男)、阿古田国純(同五男)、刑部大輔純高室(同娘・姫麿)。
  4. 副祭神ふくさいじんとして御神体ごしんたい板札いたふだ
    文化ぶんか11年(1814)には大村純鎮公おおむらすみやすこう神霊しんれいを、天保てんぽう9年(1838)には大村純昌公おおむらすみよしこう神霊しんれい合祀ごうし

明治3年(1870)の廃藩置県はいはんちけんに際し多羅山宝円寺跡たらやまほうえんじあと遷座せんざし、常盤神社ときわじんじゃと改称。旧大村藩内おおむらはんない士民しみん崇敬すうけい特にあつく、明治7年(1874)村社そんしゃとなります。旧藩民はんみんは最後の大村藩主おおむらはんしゅとなった大村純熈おおむらすみひろと協議の上、大村家おおむらけ累代るいだい居城きょじょうであり、風光明媚な玖島城跡くしまじょうあとに旧大村藩おおむらはん総産土神そううぶすながみとして遷座せんざせんとします。なお、新しい社殿しゃでん竣工しゅんこうまでは、三城町さんじょうちょう富松神社とみまつじんじゃ仮遷座かりせんざします。明治15年(1882)に大村純熈おおむらすみひろが逝去するも、後を継いだ大村純雄おおむらすみおが遺志を継承。明治16年(1883)に旧大村藩内おおむらはんない崇敬すうけい者の御寄附と労力奉仕により、現在地に新たに社殿しゃでんが建てられました。

明治17年(1884)5月に遷座せんざされ、大村直澄公おおむらなおずみこう大村氏おおむらし初代)、大村親澄公おおむらちかずみこう(同8代)、大村澄宗公おおむらすみむねこう(同9代)、大村澄遠公おおむらすみとおこう(同10代)、大村純興公おおむらすみおきこう(同11代)、大村純弘公おおむらすみひろこう(同12代)を主祭神しゅさいじんとしてまつり、大村神社おおむらじんじゃと改称されました。明治18年(1885)2月19日には県社けんしゃに昇格。同年、最後の大村藩主おおむらはんしゅである。大村純熈公おおむらすみひろこう(同30代・12代藩主はんしゅ)を合祀ごうししました。明治24年(1891)更に一社いっしゃをその傍に建立こんりゅうし、累代るいだい御霊みたままつり、大正4年(1915年)にその全ての御霊みたま本殿ほんでん合祀ごうししました。拝殿はいでん掲額けいがくは陸軍大将・有栖川宮ありすがわのみや御熾仁親王たるひとしんのう揮毫きごうです。明治40年(1907)元三城城址さんじょうじょうし鎮座ちんざしていた稲荷神社いなりじんじゃ遷座せんざして玖島稲荷神社くしまいなりじんじゃ社殿しゃでんが建てられました。

昭和天皇の御即位大典ごそくいたいてんが挙行された時、旧藩民はんみんから薩摩さつま長州ちょうしゅう土佐とさ三藩主さんはんしゅと同様、明治維新の功により別格官弊社べっかくかんぺいしゃへの昇格が発議されます。しかし法規により高額な基金が必要なことと、社殿しゃでんの新築・改築を要することから、昇格するのは御大典ごたいてんの時に限ることではなく、諸々の準備ができてからの再起を期しました。昭和20年(1945)大東亜戦争終結以後は神社法規の変革に伴って宗教法人となります。昭和30年(1955)秋には御遷座ごせんざ70周年を期して大村家おおむらけから境内けいだい地の御寄進ごきしんがあり、又近くは旧大村藩領おおむらはんりょうを初め東京、京阪神地区の崇敬者すうけいしゃ各位の熱誠な御援助を受けて、御神輿おみこし及び御神宝器具類ごしんぽうきぐるいが新調され、記念の大祭たいさいを盛大に奉仕ほうし致されました。


境内社けいだいしゃなど】

玖島城くしまじょう大村城おおむらじょう)」

大村神社おおむらじんじゃ境内けいだい地は、大村藩おおむらはん2万7000石の居城きょじょうである玖島城くしまじょう本丸跡ほんまるあとです。玖島城くしまじょうは、慶長けいちょう4年(1599)大村氏おおむらし第19代・大村藩おおむらはん初代藩主はんしゅ大村喜前おおむらよしあきが、三方を海に囲まれた岬の地である玖島くしまに築いた城です。

慶長けいちょう19年(1614)第2代藩主はんしゅ大村純頼おおむらすみよりが、それまで北側にあった大手門おおてもんを南側に改修し、この時、虎口門こぐちもん台所門だいどころもん搦手門からめてもんの三つの入ロの形が定まったと伝えられています。本丸ほんまるの敷地の内、西半分にあたる大村神社おおむらじんじゃ本殿ほんでんのある一帯には大広間おおひろまなど侍詰所さむらいつめしょ政庁せいちょう)があり、東半分の玖島稲荷神社くしまいなりじんじゃのある一帯には藩主はんしゅ居館きょかんがありました。城に天守閤てんしゅかくはなく、平屋の御殿ごてんでした。本丸ほんまるを巡る石垣の上には塀を巡らし、矢狭間やざま鉄砲狭間てっぽうざま石火矢狭間いしびやざまが設けられ、護摩堂ごまどう多聞櫓たもんやぐらがあったと記録されています。

明治4年(1871)廃藩置県はいはんちけん大村県庁おおむらけんちょうが置かれましたが、すぐに長崎県に合併されたことにより不要となり、建物は取り壊されました。明治17年(1884)旧藩家臣はんかしんにより大村家おおむらけ歴代をまつ大村神社おおむらじんじゃ建立こんりゅうされ、現在に至っています。

玖島稲荷神社くしまいなりじんじゃ

玖島稲荷神社

御祭神ごさいじん宇迦之御魂神うかのみたまのかみ

玖島稲荷神社くしまいなりじんじゃは、文明ぶんめい2年(1480)大村氏おおむらし第16代・大村純伊おおむらすみさきが、全国の稲荷神社いなりじんじゃ総本社そうほんしゃ稲荷伏見大社ふしみいなりたいしゃより大村領おおむらりょう守護神しゅごしんとして分祀ぶんししてまつったのが創祀そうしです。稲荷神社信仰いなりじんじゃしんこうは歴代の領主りょうしゅに継承され、領民りょうみんにも広く信仰されるようになり、赤の鳥居とりいに狐の狛犬こまいぬ、2月の初午はつうまと誰もが連想するように民衆に溶け込んだ非常に親しみのある神社です。赤色は豊作を象徴する色、狐は神のお使いと信じられ初午祭はつうまささい稲荷信仰いなりしんこうの歴史と特色をあらわしています。稲荷いなりの神は元々農業の神でしたが広く殖産の神としてあがめられるようになり、商売繁盛の福の神として、諸産業の守護神しゅごしんとして広く信仰されています。大村市おおむらし内には勿論のこと、旧藩時代の繋がりもあって大村湾おおむらわんを隔てた対岸の西彼杵半島にしそのぎはんとうからの参拝さんぱいは現在まで継承されています。現在の社殿しゃでんは明治44年(1911)に建設されたものです。

玖島稲荷神社くしまいなりじんじゃは、大村氏おおむらしの窮地のたびに救った白郎左衛門殿しろうざえもんどの神通力じんつうりきが伝説として残されています。そのひとつが三城七騎籠さんじょうななきごもりにおける白郎左衛門殿しろうざえもんどのの活躍です。

大村純忠おおむらすみただ大村純前おおむらすみさきの長男・養子)は、永禄えいろく6年(1563)日本初のキリシタン大名となったことから、元々は跡継ぎとされるも武雄後藤氏たけおごとうしに養子に出された肥前後藤氏ひぜんごとうし第19代後藤貴明ごとうたかあきら大村純前おおむらすみさきの次男・実子)、及び後藤貴明ごとうたかあきらを支持する大村家おおむらけ家臣団かしんだんとしばしば対立します。その背景の中、元亀3年(1572)7月30日の黎明れいめい後藤貴明ごとうたかあきらは、諫早いさはや西郷純堯さいごうすみたか平戸ひらど松浦隆信まつらたかのぶと連合して約1500の大軍をもって大村純忠おおむらすみただの当時の居城きょじょうであった三城さんじょうを囲みます。ときに城内には大村純忠おおむらすみただを除いて今道純近いまみちすみちか大村純辰おおむらすみたつ朝長純盛ともながすみもり朝長純基ともながすみもと宮原純房みやはらふみひさ藤崎純久ふじさきすみひさ渡辺純綱わたなべすみつなの7騎と、その他に子・郎党ろうとうが45人、婦女子を入れても僅か72人がいるだけで、大半の家臣はそれぞれの知行地ちぎょうちに帰っていました。

西郷純堯さいごうすみたかの大将・大渡野軍兵衛おおわたのぐんべえ大手口おおてぐちに迫り、将に城内に攻め入ろうとした時、突如、数頭の白狐びゃっこが現れ、7騎の武将を助けて防ぎ戦いました。西郷純堯軍さいごうすみたかぐんは、鋭鋒えいほうを挫かれ、苦戦の最中、富永忠重とみながただしげ大渡野軍兵衛おおわたのぐんべえに疵を負わる殊勲をきっかけにいくさは急転。敵陣に動揺の色が見えるや、白狐びゃっこはただちに大手門おおてもんを開いて7騎の先頭に立って突貫し敵を蹴散らし、また神通力じんつうりきをもって附近の雑木を武士の姿に見せ、草原のかやすすきを槍・長刀なぎなたの光芒に似せ、敵兵をして益々慌てさせ混乱させ、後藤貴明ごとうたかあきらは無念ながら武雄たけおに引き還しました。

このいくさの危急を救ったのは、三城さんじょうに早くから住んでいた300~400歳にもなろうという古い白狐びゃっこ白郎左衛門殿しろうざえもんどのでした。白郎左衛門殿しろうざえもんどのは、幾十幾百という子孫や子分を持っていました。白郎左衛門殿しろうざえもんどのはこのいくさで片足に負傷してびっこになるも、人々の尊敬を受け、永く大村家おおむらけを守護したとされています。徳川時代になっても江戸参勤交代の折は、必ず殿様のお供をして忠義に励み、時には子分などを共につれ家老に擬して往来したと伝えられています。大村氏おおむらし居城きょじょうが、三城城さんじょうじょうから玖島城くしまじょうに移ると玖島城くしまじょう大楠おおくすの根元に居を移され、三城さんじょうくすの根元にはその一族が分家して残ることになったと伝えられています。

また、ある夜、大村おおむらの城下に大火事が起き、折からの風にあおられてたちまちの内に火の手は広がりました。そこに突然、白い刺子織さしこおりに身を固めた火消しが何百人と現われて水を一度にかけました。「有難い加勢が来たぞ!」と町の人たちは喜んで一緒になって火を消しました。当初は、多勢の白装束の火消したちは姿が見えず、誰であったのか判らなかったものの、その頭が左足に大きな火傷やけどをしてびっこしていたことから、白郎左衛門殿しろうざえもんどのとその一族であったことがわかったとされています。

玖島稲荷神社

やがて100余年程たって白郎左衛門殿しろうざえもんどのも亡くなり、子や孫の代になった明治40年のある日、樟脳しょうのうを採るため、くすのきをいよいよ明日は伐採するという晩、神社の神主かんぬしの夢に老白狐ろうびゃっこが現れて「私は白郎左衛門しろうざえもんという狐であるが、あのくすを切られると自分の孫たちが困るので何とか切らないで下さい」と昔からの事情を語り、その姿は消えました。

神主かんぬしは不思議に思い、根元に小さな穴が2つあって、中に子狐が5匹入っていたので、これこそ今まで先祖様をお助けした白郎左衛門殿しろうざえもんどのの孫狐に違いないと考え、村の人たちにもよく相談をしてくすのきを切ることを止めたのでした。信者は集って、明治44年(1911)立派な玖島稲荷神社くしまいなりじんじゃ神殿しんでんを建設しました。それが現在の玖島稲荷神社くしまいなりじんじゃです。この時のくすのきは、玖島稲荷神社くしまいなりじんじゃ北鳥居きたとりいから上る途中の左手にあります。

中祖ちゅうそ喜前公よしあきこう遺徳碑いとくひ

中祖喜前公遺徳碑

社殿しゃでん向かって左手奥。大村氏おおむらし、及び大村藩おおむらはんの初代藩主はんしゅ大村喜前公おおむらよしあきこう中祖ちゅうそとしてまつ遺徳碑いとくひです。

大村喜前公おおむらよしあきこうは、日本初のキリシタン大名である大村氏おおむらし第12代・大村純忠おおむらすみただ公の長男として生まれます。後にキリスト教を棄てて日蓮宗にちれんしゅうに改宗しますが、幼くして洗礼せんれいを受け、霊名れいめいをドン・サンチョと称しました。佐賀の龍造寺隆信りゅうぞうじたかのぶの下に送られ、人質として過ごします。天正てんしょう15年(1587)豊臣秀吉とよとみひでよしの九州征伐に際し、病床の父・大村純忠おおむらすみただに代わり豊臣秀吉とよとみひでよしの下に代参だいさん。同年5月18日、父の死により家督を相続して大村家おおむらけ第13代となります。その後、朝鮮出兵にも従軍して論功行賞を兼ね、戦功を立てました。慶長けいちょう3年(1598)の豊臣秀吉とよとみひでよしの死後、天下が乱れるのを恐れて玖島城くしまじょうの築城に着手。慶長けいちょう4年(1599年)三城城さんじょうじょうから玖島城くしまじょう居城きょじょうを移しました。

徳川幕府が開かれると、本領を安堵されて大村藩おおむらはん初代藩主はんしゅとなります。キリスト教の禁止が厳しくなることを察知し、キリスト教を棄てて日蓮宗にちれんしゅうに改宗。本経寺ほんきょうじなど多くの社寺しゃじ建立こんりゅうし、藩内の抵抗勢力を一掃する御一門払ごいちもんばらいという家臣団かしんだんの改革を行います。藩主はんしゅの権威を確率して家臣団かしんだんの結束を固くし、2回に渡って領内の総検地を行いました。藩政の基礎固めを進めるも、元和げんな2年(1616)48歳で急逝。本経寺ほんきょうじに葬られて「中興ちゅうこう」とあがめられています。境内けいだいの当碑は大正4年(1915)に建立こんりゅうされたものです。 ※看板参照

大村純熈公おおむらすみひろこう銅像」

大村純熈公銅像

社殿しゃでん向かって左手奥。大村神社おおむらじんじゃの創建に寄与し、御祭神ごさいじんとしてもまつられる大村純熈公おおむらすみひろこうの銅像が建てられています。大村純熈公おおむらすみひろこうは、文政13年(1831)11月21日に第10代大村藩主おおむらはんしゅ大村純昌おおむらすみよしの10男として玖島城くしまじょうで生まれます。弘化4年(1847)2月21日に第12代藩主はんしゅに就任。蘭学に通じ、洋式軍備を導入する一方で、剣豪としても知られ、嘉永4年(1851)には斎藤歓之助さいとうかんのすけを雇い、神道無念流しんとうむねんりゅうを藩の正式な剣術流派としました。明治維新に際しては、薩摩藩さつまはん長州藩ちょうしゅうはんらと共に倒幕の中枢藩として活躍。戊辰戦争でも大いに活躍しました。明治2年(1869)6月、薩摩藩さつまはん長州藩ちょうしゅうはん土佐藩とさはんに次ぐ、破格の賞典禄しょうてんろく3万石を与えられました。大村家おおむらけ累代るいだい居城きょじょうであり、風光明媚な玖島城跡くしまじょうあとに旧大村藩おおむらはん総産土神そううぶすながみとして遷座せんざせんと、旧藩民はんみんと協議して遷座せんざを進めますが、明治15年(1882)に逝去。明治18年(1885)大村神社おおむらじんじゃが、玖島城跡くしまじょうあとに旧大村藩おおむらはん総産土神そううぶすながみとして遷座せんざされる背景となった功績を称えて合祀ごうしされました。

「オオムラザクラ:国指定天然記念物」

オオムラザクラ:国指定天然記念物 社殿しゃでん前のオオムラザクラは、昭和42年(1967)3月31日に国の天然記念物に指定され、大村市おおむらしの市花となっでいます。

昭和16年(1941)大村おおむらにあった長崎県女子師範学校ながさきけんじょししはんがっこうの教官であった外山三郎とやまさぶろう(後の長崎大学名誉教授)によって学会に報告され、命名された大変珍しい品種で、八重桜やえざくらの一種です。明治17年(1884)に西大村にしおおむら旧藩士きゅうはんし坂本半次郎さかもとはんじろう献木けんぼくしたのがはじまりです。原木げんぼくは昭和37年(1962)に枯れましたが、昭和28年(1953)に接木つぎぎで増やされたものが現在の2代目となっています。

がくへん花弁かべん・おしべが非常に多く、花ごとに著しく変化し、全ての花が八重桜やえざくらを二つ重ねたような独特の二段咲にだんざきという特徴を持っています。下の花を外花がいか、上の花を内花ないかといい、外花がいかのがくへんは10枚(桜の基本は5枚)。ひとつの花の花弁かべんの数は、少ないもので60枚、多いものでは200枚にも達し、おしべの数とともに変化に富んでいます。開花は外花がいかから始まり、やがて内花ないかも開き、ソメイヨシノより少し遅れて直径4cmのピンクの花をつけます。学名の品種名はミラビリス(mirabilis)で、奇想天外、霊妙不可思議との意味です。

「クシマザクラ:県指定天然紀念物」

クシマザクラ:県指定天然紀念物 虎口門跡こぐちもんあとから上がり鳥居とりいの左手に植わるクシマザクラは、昭和42年(1967)2月3日、県指定天然紀念物に指定されています。

花のつくりの奇抜な点、また二段咲にだんざきになる花を混ずる点でオオムラザクラの姉妹品ともされています。これを発見した外山三郎とやまさぶろうは、オオムラザクラを研究しているうちに、この中にタイプの違った特異な品種を発見。これが学会に報告され、昭和22年(1947)にクシマザクラと命名されました。

名桜めいおうの誉れも高い普賢象ふげんぞうのように、花の中心にあるめしべが2枚の葉に変化します。二段咲にだんざきになる花は、このめしべの中に小さい不完全な内花ないかが入れ子となってひそんでいます。この内花ないかは、時に非常に不完全で、色々の変化があります。外花がいかのがくへんは5枚。花弁かべんは36枚~56枚で平均45枚とオオムラザクラよりやや少な目です。オオムラザクラより少し遅れて直径4.5cmのピンクの花をつけます。

貝吹石かいふきいし(通称ほらほら)」

貝吹石(通称ほら石)

手水舎てみずやを過ぎて参道さんどう右手にある、萱瀬村かやぜむらから寄附された円形の野石です。上に大小二つの穴があり、小さな方を吹くと法螺貝ほらがいの音を出すので名称されています。天正てんしょう5年(1577)龍造寺隆信りゅうぞうじたかのぶが、前年に家臣の鍋島氏なべしまし大村氏おおむらしに敗れたことから、8000人の大軍を率いて萱瀬村かやぜむらに攻め入ります。わずか300人ほどの同村の郷士等ごうしたちは、菅無田砦すがむた とりでに立籠り、この石の穴を吹いて合図の陣具じんぐに代用したと伝承されています。砦の人々は戦死したものの、龍造寺側りゅうぞうじがわも大きな被害を受け体勢を立て直しているところ、大村純忠おおむらすみただが急襲して終に敵を追い退けました。 ※看板参照

大村彦右衛門純勝碑おおむらひこえもんすみかつひ

大村彦右衛門純勝碑

手水舎てみずやの右手後方に建っています。大村彦右衛門純勝おおむらひこえもんすみかつは、大村純忠おおむらすみただから大村純信おおむらすみのぶまでの四人の当主に仕えました。玖島城くしまじょうの築城や御一門払ごいちもんばらいといった重要な政策に関わるなど、大村家おおむらけの発展に大きな役割を果たしました。その中でも有名なのが、三代藩主はんしゅ大村純信おおむらすみのぶの跡目相続の時の話です。

元和げんな5年(1619)、2代藩主はんしゅ大村純頼おおむらすみよりが急死しますが、大村藩おおむらはんは当時2歳の松千代まつちよ(後の純信すみのぶ)の誕生を幕府に届け出ておらず、大村藩おおむらはんは跡継ぎの断絶による取り潰しの危機に直面しました。そこで大村彦右衛門おおむらひこえもんは、松千代まつちよと共に江戸へ行き、半年にあたって幕府と交渉し、ついに跡目相続を認めてもらいました。

この碑は、そうした大村彦右衛門おおむらひこえもんの忠節を称え、明治40年(1907)に大村おおむら出身の人びとによって建立こんりゅうされました。裏の「顕忠碑けんちゅうひ」の文章は、幕末の志士ししとして活躍した渡邊昇わたなべのぼりによるものです。

平成24年(2012)2月 大村市おおむらし教育委員会

戊辰戦役記念碑ぼしんせんえききねんひ碑文ひぶん

戊辰戦役記念碑:碑文

虎口門こぐちもん前の石碑せきひ。明治2年(1869)6月わが大村藩おおむらはん「2万7千石」は戊辰戦役ぼしんせんえき勲功くんこうにより薩摩さつま長州ちょうしゅう土佐とさにつぎ「3万石」の賞典禄しょうてんろくを給せられ、且、優渥ゆうあくなる感状かんじょうを賜わる。これひとえに明治維新の大業成就のため藩主はんしゅ純熈公すみひろこう」を中心とし藩論を一定し上下一致、粉骨砕心以って勤王きんのうまことを捧げたる所以なり。この戦役に際し大村藩おおむらはんは京都に到りては禁裏きんりを守護し大津おおつに進む。その後東海道とうかいどう征討軍せいとうぐん先鋒せんぽうとして箱根はこねせきを越え江戸に進撃す。江戸に於ては上野彰義隊うえのしょうぎたいの討伐に参加する。慶応けいおう4年(1868)6月奥羽おううの賊軍追討の命下るや吾が東征軍総督、土屋善右衛門つちやぜんえもん以下118名は藩地よりの応援隊総司令、大村弥門おおむらやもん以下110名をあわせ一隊を編成し、薩摩さつま佐土原さどはらと共に進んで会津あいづの強敵を屠り大いに戦功を立つ。又北伐軍ほくばつぐん「吾往隊」は羽州うしゅう舟川港ふなかわこうに上陸以来、角館かくのだて刈和野かりわの神宮寺じんぐうじ等に転戦し殊勲を立つ。しかし悲しくもこの戦役に於いて少年鼓手こしゅ浜田勤吾はまだきんごを初め戦死22名、戦傷57名の犠牲者を出す。歳月は流れ明治維新の大業より120年余を経す。この秋往時を想い、ここに碑を建て勤王きんのうの志あつく名君なりし藩主はんしゅ大村純熈公おおむらすみひろこう」の御遺徳を敬慕しあわせて従軍将兵の勲功くんこうを称えんとする。

平成元年(1989)11月吉日 吾往会会長 中瀬正隆 ※看板参照

「少年鼓手こしゅ浜田勤吾はまだきんご

少年鼓手浜田勤吾

虎口門こぐちもん跡の手前の石像。明治維新への夜明け慶応けいおう4年(1868)戊辰ぼしんえきあり。 大村藩おおむらはん早くより勤王きんのうに尽し薩長土州さっちょうどしゅうに伍して東征北伐の軍を進む。秋田救援の北伐隊ほくばつたい325名様式装備し精強たり。2番小隊に鼓手こしゅ浜田勤吾はまだきんごあり。紅頬こうきょう15才の美少年にして常に先頭に軍鼓ぐんこを打ち、隊の士気を鼓舞すること勇敢なり。

9月15日刈和野かりわのに激戦し雨霰あめあられする飛弾に倒るる者多く勤吾きんご遂に2弾を浴び「お母さん」と絶叫し戦死す。鼓音こおん消えて秋風索莫しゅうふうさくばくたり。かばね角館かくのだて常光院じょうこういんに納む。内襟に母チカ女の一首あり。

 ふた葉より手くれ水くれ待つ花は
   君かためにそ咲けよこのとき

子を思い励ます門出かどでの歌に万人ばんにんみな涙せり。星霜せいせつ移りてここに118年。今や銅像故山に建つ。

あゝ浜田勤吾はまだきんご鼓手こしゅの姿よ永久えいきゅうかおれかし

昭和61年(1986)11月吉日 ※看板参照

佐藤嘉平次さとうかへいじの碑」

佐藤嘉平次の碑

二の丸跡に建つ石碑せきひ。第1次世界大戦日独戦争で、歩兵第四十六聯隊(大村)第四中隊長佐藤嘉平次さとうかへいじ大尉たいいは、大正3年(1914)9月28日未明、青島攻略ちんたおこうりゃくの命を受け、峻険嵯峨しゅんけんさがなる浮山ふざんの要害攻略を、大村聯隊おおむらそうたいの名誉を担って自ら決死隊長となり、50数人の隊員の先頭に立ち、月明かりを頼りに肉弾を持って攻めに攻めたが、無念にも敵弾を胸とさらに腹にも受け、男盛りの38歳を一世に浮山ふざんの朝霧と消えた人である。

この中隊長の壮烈な戦死を知った隊員たちは奮い立ち、一隊はほとんど全滅の悲運に遭遇しつつも屈せず、果敢なる突撃をくり返して大勝利を得たのである。

佐藤嘉平次さとうかへいじ大尉たいい偉丈夫いじょうふの人格者で、第四十六聯隊創始以来のすぐれた軍人であったといわれ、しかも神道無念流しんとうむねんりゅうの免許皆伝で、聯隊随一の剣道の達人でもあった。

千々石ちぢわ出身の橘中佐たちばなちゅうさ日田ひた出身の広瀬中佐ひろせちゅうさ大村おおむら出身の佐藤少佐さとうしょうさは、この時代の人々に、「軍神ぐんしん」とあがめられたのである。 ※看板参照

斉藤歓之助さいとうかんのすけの碑」

斉藤歓之助の碑

大手門跡おおてもんあとを過ぎて右手直ぐの石碑せきひ斉藤歓之助さいとうかんのすけは、幕末江戸の3剣客けんかくの一人、神道無念流しんとうむねんりゅう斉藤弥九郎さいとうやくろうの3男として、天保てんぽう3年(1832)江戸で生まれました。斉藤弥九郎さいとうやくろうの道場は練兵館れんぺいかんといい、江戸でも有名な道場でした。この門下生には、長州ちょうしゅう桂小五郎かつらこごろう大村藩おおむらはん渡邊昇わたなべのぼりもいました。

歓之助は嘉永7年(1854)大村藩主おおむらはんしゅ純熙すみひろに招かれて、俸禄ほうろく100石をたまわり、剣術師範役けんじゅつしはんやくとなりました(後に加増され150石)。歓之助かんのすけは、激しい稽古から「鬼歓おにかん」と仇名あだながあるほどで、得意の突きは天下無敵といわれました。

幕末において、大村藩おおむらはんでは一刀流いっとうりゅう新陰流しんかげりゅうなどが採用されていましたが、実戦に強い剣術を採用することとなり、神道無念流しんとうむねんりゅう歓之助かんのすけが招かれました。以後、藩内は神道無念流しんとうむねんりゅうへの入門が相次ぎ、歓之助かんのすけ門弟もんていは1000以上に達したといわれています。道場は上小路下りの屋敷の中にあり「微神堂びしんどう」と称しました。この道場で学んだものが戊辰ぼしんえきで活躍したといわれています。

歓之助かんのすけは、残念ながら若くして病気を患い、廃藩置県はいはんちけん後、東京に移住し、明治31年(1898)、66歳で亡くなりました。「微神堂びしんどう」は、道場に掲げられた扁額へんがくが弟子によって受け継がれ、現在の杭出津くいでつ微神堂びしんどうへつながっています。

この碑は、柴江運八郎しばえうんぱちろうらの門弟もんていが、師の功績を顕彰けんしょうして建立こんりゅうしたものです。 ※看板参照

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 二之鳥居
  • 三之鳥居
  • 三之鳥居
  • 大手門の鳥居
  • 大手門の鳥居
  • 大手門の鳥居
  • 大手門の鳥居
  • 斉藤歓之助の碑
  • 二ノ丸への参道
  • 虎口門
  • 虎口門から鳥居
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿とオオムラザクラ
  • 社殿とオオムラザクラ
  • 本殿
  • 社殿とオオムラザクラ
  • オオムラザクラ
  • クシマザクラ
  • クシマザクラ
  • 玖島稲荷神社
  • 玖島稲荷神社
  • 玖島稲荷神社
  • 玖島稲荷神社
  • 玖島稲荷神社
  • 中祖喜前公遺徳碑
  • 大村純熈公銅像
  • 貝吹石(通称ほら石)
  • 大村彦右衛門純勝碑
  • 歩兵第二十三旅団記念碑・少年鼓手浜田勤吾像・戊辰戦役記念碑
  • 戊辰戦役記念碑
  • 少年鼓手浜田勤吾像
  • 歩兵第二十三旅団記念碑
  • 佐藤嘉平次の碑

情報

住所〒856-0834
大村市おおむらし玖島くしま1丁目34
創始そうし文化ぶんか2年 (1805)
社格しゃかく県社けんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい4月7日~9日
神事しんじ秋季大祭しゅうきたいさい(10月吉日)
HP Wikipedia

地図・マップ